台湾に渡った日本の神々---今なお残る神社の遺構と遺物

日本統治時代に数多くの神社が建立されました。これらの神社を探索し神社遺跡を紹介するものです
by 金子展也

鎮南山臨済護国禅寺(中)~台北新四国八十八ヶ所霊場と石仏

2019-03-17 10:39:25 | 台湾協会

今月号の台湾協会報では前回の「鎮南山臨済護国禅寺(上)~児玉源太郎と髪塔」に続いて、「鎮南山臨済護国禅寺(中)~台北新四国八十八ヶ所霊場と石仏」を 掲載しております。来月号は「鎮南山臨済護国禅寺(下)」として非常に注目に値する記事を掲載しますのでご期待ください。

ー本文ー 

前月号で紹介した鎮南山臨済護国禅寺裏手の萬霊塔前の広場に、9体の石仏が並んでいる。これらの一部は大正14年(1925)4月14日(旧暦3月21日)の弘法大師の忌日に、台北市在住の真言宗高野山弘法寺(現在の西門町にある天后宮)の信徒である鎌野芳松、平尾伊三郎、大神久吉、二宮實太郎及び尾崎彌三郎の五人の発起により、四国にある弘法大師ゆかりの88ヶ所の寺院巡礼に真似て、台北市を中心とした「台北新四国八十八ヶ所霊場」が新設されたことに由来する。この88ヶ所巡礼場の発願文には、「冀クハ大師ノ慰霊長ヘニ此霊場ニ影向(注①)シ、我等同胞ノ幸福ト新領土ノ隆昌ヲ護持シ給ハンコトヲ」云々とある。

88ヶ所巡礼場が新設された大正14年は台湾始政30周年記念の年に当たる。この2年前には関東大震災が発生していることから、悲惨から立直り、希望と繁栄を仏に求める気持ちがあったのであろう。 

この日、第1番札所となった弘法寺で、新霊場に奉安する88体の仏像開眼供養が行われた。新設された霊場は次のとおりである。

 

《台北新四国八十八ヶ所霊場》

第1番 弘法寺

第2番 天台宗台北布教所

第3番 艋舺(豊川)稲荷

第4~5番 新富町不動尊

第6番 曹洞宗台北別院

第7番 大正街公園

第8~10番 三板橋墓地

第11~14番 臨済護国禅寺

第15~18番 浄土宗布教所

第19~35番 芝山巖

第36~44番 士林より草山までの道路道筋

第45~61番 草山より竹子湖までの道路道筋

第62~71番 草山より北投までの道路道筋

第72~80番 北投星の湯佐野の山付近 

第81~87番 北投より大師山 

第88番 北投鉄道院

 

この台北新四国八十八ヶ所霊場で、第11~14番霊場は鎮南山臨済護国禅寺となり、4体の石仏(11番 藤井寺 薬師如来、12番 燒山寺 虚空蔵菩薩、13番 大日寺 十一面観世音菩薩、14番 常楽寺 弥勒菩薩)は護国禅寺に隣接した圓山公園(現在の花博公園)の陸軍墓地(注②)から護国禅寺にいたる道端に安置されていたようである。従って、護国禅寺(本尊は釈迦牟尼仏)から陸軍墓地までは短い巡礼の行程の一部であり、戦後、これらの石仏は萬霊塔前の広場に移設されたのであろう。

しかし、萬霊塔前の石仏を観察すると、14番常楽寺の弥勒菩薩がない。一方で、浄土宗布教所(注③)にあった16番(観音寺 千手観世音菩薩)と18番(恩山寺 薬師如来) 、北投星の湯佐野の山付近にあった75番(善通寺 薬師如来)、 78番(郷照寺 阿弥陀如来) 、79番(高照院天皇寺 十一面観世音菩薩)と80番(國分寺 十一面千手観世音菩薩)の6体の石仏を見ることが出来る。これらは戦後、まとめてこの地に集約されたのであろう。

 この台北新四国八十八ヶ所霊場とは別に、1997年5月に岐阜県の臨済宗妙心寺派永昌寺住職であった東海亮道和尚の発起によって、「台湾三十三観音霊場」が開創された。これらは台湾西部(台北市、新北市、基隆市、新竹市、台中市、南投県、台南市、高雄市、屏東県)に点在する観音霊場で、33ヶ所をめぐる巡礼行の札所である。日本統治時代の大正4年(1915)から敗戦で台湾を引揚げるまで臨済宗の布教につとめ、台湾各地に寺院を創建した東海宜誠和尚と縁のあった寺が選ばれた。

2001年4月、台湾三十三観音霊場の結願霊場となった高雄市阿蓮区の光徳寺で37体の開眼法要が行われ、札所となった寺には彫刻家亀谷政代司(注④)による小さなブロンズの観音像「孝養観音」が安置された。なお、この台湾三十三観音霊場での第1番札所は鎮南山臨済護国禅寺であった。

一般の旅行ガイドブックには、「台北新四国八十八ヶ所」に安置された石仏と「台湾三十三観音霊場」に安置されたブロンズの観音像とが区別されずに紹介されていることもあるので注意していただきたい。

 

《注》

①影向とは、仏が仮の姿をとって現れること。

②明治28年(1895)の台湾割譲で、北白川宮能久親王率いる近衛師団が台湾平定に当たったが、多くの戦病死者を出すこととなり、その遺骸は台湾各地に埋葬された。第4代台湾総督児玉源太郎の発案で、これらを圓山公園に集め、明治34年(1901)11月に竣工したのが陸軍合葬墓地である。戦後、納骨堂や合葬墓標は取り壊されて、現在はその痕跡を残すものはない。

③布教所は初め北門街に設けられたが、明治40年(1907)に陸軍墓地北側の忠魂堂内に移転。建物の老朽化のため、さらに昭和4年(1929)に樺山町(現在の中正区)に移転。戦後は善導寺と改称され、現在に至っている。

④瀬戸市名誉市民だった長江録彌に弟子入りし、その縁で瀬戸にアトリエを構える。1981年に日彫展で日彫賞を受賞、1985年に日展で特選を受賞、若い頃からその作品は高い評価を得る。その後、日展や日彫展の審査員を務め、愛知県芸術文化選奨を受賞するなど、日本を代表する彫刻家。

第13番 大日寺 十一面観世音菩薩

 

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2 コメント

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驚き (二宮実太郎のひ孫)
2019-05-13 17:52:34
話には聞いていたが、本当だったとは・・・
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Unknown (金子展也)
2019-05-14 08:22:13
コメントありがとうございます。台湾日日新報で検索しましたら、「甲組城崎洋服店寄贈金メタル戰と金會倶樂部に於て四囘勝五囘目先矢武德藏氏 平手二宮實太郎氏」と掲載されていました。同じ二宮様であれば将棋が得意のようでした。
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