台湾に渡った日本の神々---今なお残る神社の遺構と遺物

日本統治時代に数多くの神社が建立されました。これらの神社を探索し神社遺跡を紹介するものです
by 金子展也

嘉義農林「KANO」と花蓮港農業補習学校「NOKO」

2015-01-06 08:31:16 | 台湾協会

新年明けましておめでとう御座います。今年も宜しくお願いいたします。 

今年春には、「台湾 旧神社故地への旅案内」というタイトルで出版されます。是非ご期待下さい。

さて、今年の最初のブログは、1/24から公開される「KANO」です。この内容は、昨年の「な~るほど・ザ・台湾」に掲載された内容の一部を加筆したものです。「KANO」の原点は「NOKA」です。この辺の事情も知って映画を鑑賞すると面白いと思います。

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2008年8月、朝日新聞に「77年前、甲子園準優勝の台湾チーム 後輩ら監督を墓参」の見出しで掲載された。この時、77年前の夏、海を越えて甲子園に出場し、準優勝した台湾の嘉義農林(現嘉義大学)のOBら42名が、「KANO」と胸にあしらったユニフォームで監督の近藤兵太郎のお墓参りに松山市を訪問したとの内容である。この時、それまで行方が分からなかった記念盾の復刻盾が墓前に報告された。

 花蓮港に誕生した「能高団」

 タロコ討伐が終わり、花蓮港の治安が一段落した大正9(1920)年9月、台湾総督府警視から警務局理蕃課長を経て、花蓮港庁長になった江口良三郎がいる。理蕃政策、港湾建設の推進など花蓮港のインフラ整備に努める。今なお、同氏の功績を讃えて建立された頌徳碑が花蓮港の江口公園にある。

 武力で鎮圧した理蕃政策の結果、原住民のエネルギッシュな感情や鬱憤の捌け口として、野球を推奨したのが江口庁長であった。原住民の大部分を占めるアミ族の運動神経が天才的に優れていることを見抜き、大正12(1923)年9月、アミ族少年達で編成されていた原住民野球チーム全員を花蓮港農業補習学校に入学させ、「能高団」と称する野球チームを設立させた。「能高団」とは花蓮港市街に聳え立つ能高山(3262㍍)に由来する。選手の育成と訓練に当たったのは東台湾新報の梅野清太と門場経佑監督。実戦の感覚を養い、訓練の成果を試すために台湾の各地へ試合に出かける。全島遠征を好成績で終えた「能高団」に対して、江口庁長は内地遠征を門場監督に打診する。「これなら十分自信があります」との門場監督の発言に、江口庁長は早速内地遠征を決断する。

「NOKO」の4文字を胸にあしらったユニフォームを身に付けた「能高団」。大正14(1925)年7月11日~25日まで8試合を行う。初戦は名門早稲田中学で、引分に終わる。最終な成績は3勝4負1引分の大健闘をなす。確実に野球を通じて内地に「台湾、原住民」を知らしめた。

 嘉義農林との結びつき

 「能高団」の凱旋後、これまでの内地の野球センスを遥かに卓越した能力を持つ「能高団」に対して内地の平安中学からスカウトがかかってきた。4人の有望な選手を失うと共に、大正15(1926)年、「能高団」生みの親である江口庁長が亡くなり、「能高団」も自然消滅となった。

 一方、「能高団」で実力が認められたことにより、東台湾には「馬武窟団」、「加路蘭団」などの原住民による少年野球チームが出来ていた。残念ながら、東台湾には中学校がなかったので、ひと山越えた嘉義農林に集まり、そこで開花したのである。

 近藤兵太郎との出会い

大正8(1919)年、開校した嘉義農林学校。生徒に対して武道とスポーツを通して、強靭な身体と精神を鍛えることを求め、多くのスポーツ部が創部され、大正17(1928)年4月に野球部が出来る。創部されたメンバーはアミ族とピューマ族の原住民、漢民族そして日本人よりなる混成チームであった。台中商業との初戦では13対0で大敗するが、当時の校長樋口孝はこの混成チームに無限の可能性を見出していた。そして樋口校長は嘉義商工専修学校に勤務する近藤兵太郎を非常勤の野球部コーチとして招聘する。

コーチとして就任した近藤は東台湾から野球に憧れて入学した勇猛で俊敏な原住民を積極的にスカウトする。松山商業時代、第一高等学(旧制一高)野球部の名サード杉浦忠雄から「日本最高レベルだった一高式の『武士道精神野球』」をたたき込まれた近藤は、人種の差別なく、松商を野球有名校まで育て上げたと同じように精神面および技術面での徹底した訓練を行った。

日ごとに練習の成果が現れ、逞しくなった嘉農。昭和3~5年までの嘉義地方大会や全島中学校野球大会で好成績を残す。そして、そして甲子園出場の夢を賭けた昭和6(1931)年7月、第9回全島中学校野球大会で優勝する。そして、その年の大阪朝日新聞主催の全国中等学校野球大会に台湾代表とし出場。決勝戦で惜しくも0対4で敗れる。

「実際は熱と力のみで戦ったのだ。試合振りは全く私の目的通りでコーチ以上に戦ってくれた。私としては一点の批評を加える余地もない。私はただ大きく大きく育てる方針でやって来たのが全国的に驚異の目で見られた移植を帯びる原因となったのである」と試合を振り返り、コメントする。

その後も「KANO」は甲子園に4度出場し、甲子園の顔となるまで大きく成長する。その陰には「コンピョウさん」と慕われた近藤兵太郎がいた。「なせばなる、なさねばならぬ何事も、ならぬは人のなさぬなりけり」と、上杉鷹山(ようざん)の歌を言い聞かせて「精神野球」を教え込んだと云う。(注4)

戦局の悪化により、野球部は解散し、近藤も嘉農を去る。戦後、松山に引き揚げ、私立女子高校の会計主任として勤務する一方、新田高校野球部のコーチ・監督を務める。昭和35(1960)年に愛媛大学を指導したのが最後である。昭和41(1966)年5月19日、77歳の人生に終止符を打つ。辞世の歌は「球を逐(お)ひつ 球に逐はれつ たまの世を 終りて永久(とわ)に 霊石(たまいし)の下」。戒名は自らしたためた「球道院兵明自覚居士」。人生全てを野球に生きた近藤兵太郎であった。

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