黄昏叔父さんの独り言

 アマチュア無線と何でも有りのブログ

 データー損失と 其の後 (2012/11/21)

2012年11月21日 21時54分48秒 | アマチュア無線
 昨日、HAM LOGデーターを飛ばした全容がなんとなく見えてきた。昨日の午前中は、JARLからのリターンのカードで処理出来ないカードが有ったので確認を取ったら、新しく変更されたQTHで有ったので(マスターコードが無かった)処理しているパソコンのターボ・ハムログのバージョンの関係で受付無かった事が解かり、ハム ログのバージョン・アップの動作中に車の引取りの連絡が入り 急いで出掛けた状態でパソコンはバージョン・アップは終了した感じ 以前のバージョンは1年以上前のバージョンで有ったが、此れには其れ也の理由が有った。


 私は固定で運用する時のログ管理と移動運用する時のログ管理は(ノート・パソコン)別々で、其々のデーターの結合はカードの印刷時に、問題を起こしたパソコンで行っていた。いつの頃からハムログのデーター取込がQSOデーターのリストアに代わり、そのバージョンから新規のデーターを従来の様に取込むと新規のデーターのみに書き換えられて不便で有ったので印刷用に使用していた現在のパソコンは わざと古いバージョンで残しデーターの書替えは新しい交信データーを追加して行く方法を取っていた。当然、移動時と固定局用のパソコンは絶えず新しいバージョンに書き換えていたので、ログ管理の上では問題は無かった。


 それと此のパソコンは本来、マスター的な存在で、以前の勤務先は情報が外部に漏れる事に大変厳しかったので(個人的な事務用だった)データー漏洩とウィルス対応の為、インター・ネットとにも接続していない我家では唯一のパソコンで有った。今回、固定局用のパソコンが調子がおかしく成り、臨時的な対応の中で、全体的な配慮に欠けていた様に思う。


 昨日はショックで余り眠れなかった。本日、時間を掛けて「復旧ソフト」を使用してあの手この手と遣って見たが、手応えが無かった。まだ完全に諦めてはいないが、多分復旧は難しと考えている。先日、QSLのリターン・マークを入れた時に最終交信数をメモしていたので最終バック・アップの(現存)交信局数との差は先程、計算すると985局程の数字に成る。途中CQ WW コンテスト (610交信)とJA IN コンテスト(251交信)での交信を差し引くと残り124局分が通常の交信分、海外のコンテストはカード交換の約束はしていないし相手の局がカードを必要とする場合は送って来るので対応出来るのだが(リポートも59以外は送っていないのでカードを出す事は出来る)通常の交信スタイルの交信局の方もカリブとアフリカ、珍しい場所との交信データー61局分はブログに掲載していたので助かった。結果的に実質の影響は63局との交信データーと成る。流石にショックは大きく本日の復旧作業中も無線機は動いていたが お空に出る元気は最後まで無かった。

自宅が完成 30歳で現在の場所に転居 (1978年 秋)

2012年11月21日 00時56分02秒 | 日記
 1977年の11月12日に29歳で結婚したと同時に実家を出て独立、徳島市内の安アパートで新しい生活が始まったが、人口密集地のためHF帯での無線活動は出来なかったが其れでもアンテナの接続されていない無線機は狭い部屋に確りと鎮座していた。当時、家内は半官半民の金融関係に勤務していたので給料も私より遥かに高額で有ったので彼女の勤務を優先する形で徳島市内に住んだが私の方は直ぐに阿南市に有る営業所に転勤命令が出て、その後は毎日、実家より南の街まで通勤する事と成った。


営業所勤務は技術関係は私一人、「親分無しの子分無し」で仕事的にはクレームは精神的に大変で有ったが実務面では上司が居ないので自由に出来たし、当時は修理もテレビ、冷蔵庫、洗濯機の修理依頼位で1日に3件程度の出張修理依頼が有るくらいで「販売店様の自店修理率」が高かったので楽勝で有った。


 唯、何時までもアパート住居だと好きな無線が出来ないので家内と相談し、家を建てる事にした。結婚した時は、貯金など全く無く、結婚式前に新婚旅行に行ける50万円が貯まっただけ、独身時代は年末とゴールデン・ウィークは長野に入浸りボーナスなどは右から左の状態でスキーを楽しんでいた。


アパート生活を丸1年した段階で300万を貯め、其れを頭金にして家を建てる事にして親父に相談、実家は農家なので土地は頂ける話は暗黙の了解事項で有ったので具体的な話に成ったが固い親父は「先祖伝来の土地は代々、長男が継いで行く物、だから屋敷周りの土地はやる訳にはいかない、阿南の大野町に有る畑なら自分の代で購入した土地なので自由にして良い」との事「又、新宅が近くに有るのは其の代は(自身兄弟なので)良いが何代か続く家の差が出来て歪み合い、他人より不仲に成る事が多く、新宅は一町村離れる位が良いと」諭された。


 当初は実家近くの四角の土地で四隅にタワーを建てて無線をやる夢を持っていた私としては少し期待外れでは有ったが、当時は土地を購入する元気は無かったので納得した。でも今思うと此の判断は正しかったと思われる。無線キチの兄弟が至近距離で御互いがフル・パワーで無線を遣ればその結果は「火を見るよりも明らか」まさか親父は其処まで読んでは居なかったと思うが適切な裁きで有ったと思う。


 現在の家の有る場所は、子供の頃、サツマイモ畑として使用しており、何度か訪れた事が有ったが非常に寂しい場所で風は強いし荒地で余り良い印象は持って居なかったが、土地が無ければ家が建たないし「何時かは出来る自分の子供は自分と同じ様な環境の中で育てたかったので自宅は必要」と考え家内に説明し現地に案内する事と成った。


 1978年の夏前の頃で有ったと記憶しているが当時は何も農作物を作って居なかったので土地は荒れ放題、私の背丈を越す葭葦が鬱蒼と茂り大変な状態に成っていた。(此の葭葦を完全に退治するのに20年を要した)其れを見た家内は「此処で住むの?」と不安そうに目に涙を浮かべていた。(確かにそんな時代も有ったのだが・・・・)反対に現地を見た私は面積が120坪強、三角定規の二等辺三角形でない方の形をした土地と、周り50m以内に家が無く柱上トランスは玄関先、何よりも日本列島に沿った(指向性として)3.5MHzのアンテナが張れる方向に細長い土地は形は悪いながらも私には魅力が有り無線を遣るには条件が良いと判断した。


 唯、一番の難点は交通の便が悪く子供が高校に行く時、非常に交通の便が悪い事で選択肢が狭まる事で有ったが全ての条件を満たす場所等、有り得ないし有ったとしても其れ也の出費が必要、私達には無理な願い事で有った。夏が終わる頃、家は完成に向かい時々、家内を連れて見に来たが我家を持てる喜びと徳島市内の実家の様に他所の家の軒先と自宅の軒先が当たる様な生活環境に比べると広々として日当たりも良く段々と其れ等を実感して喜んで居る様子で有った。そして其の年の晩秋から此の地での二人での新しい生活が始まった。