2016/12/17 蒲生氏郷の築城、豪商の繁栄と宣長をはぐくんだ松阪を散策する。
〇清光寺(せいこうじ)浄土宗
天平二十一年(749)に行基が前身の神光寺を町平尾清光寺裏に創建した。その後天正16年(1588)日野町に移り、元禄3年(1690)の厄災により翌年現在地に移った。本尊、木造阿弥陀如来坐像(国重文)及び脇侍、観音菩薩跪坐像、勢至菩薩跪坐像(市文財)は京都からもたらした。
標柱石碑 山門 本堂 本堂前の松
〇継松寺(けいしょうじ)真言宗
石津町付近にあったものを、蒲生氏郷の松阪城築城に伴い、天正年間(1573~92)に現在地へ移った、本尊の如意輪観音は厄除けの霊験が高く「岡寺さん」としたしまれている。
山門 参道 本堂
〇旧長谷川邸(建造物、国重文H28.7.25)
江戸店持ち伊勢商人の中でも、いち早く江戸に進出して成功をおさめた代表する商家である。公開日は毎週日曜日、祝日(年末年始は除く)
入口 全景 黒い土蔵
〇本居宣長旧宅跡(春庭旧宅)
国学者の本居宣長(1730~1801)の先祖は代々伊勢国司北畠氏の家臣であり、11歳から72歳で生涯を閉じるまでの六十年間を過ごした場所である。宣長はここで「医者」を開業する傍ら、『古事記伝』等の著述し、多くの門人を指導した。宣長の居宅は、松阪公園へ移築され、宣長の書斎名「鈴屋」の名称で保存されている。
入口と石碑 旧宅 土蔵
〇松阪商人の館(旧小津家住宅)県文化財
小津家は、伊勢国司北畠氏の一族の小造家に仕えた、三代目長弘は、ここに小津屋(紙店)を開業した。その後伊勢屋(木綿店)、向店(紙店)を開業した。松坂においては、数多い江戸店持ちの豪商の筆頭格である。
入口 全景 大蔵跡
庭 手水鉢
〇三井家発祥地
松阪商人を代表する三井家邸宅です。三井高俊の4男としてこの地に生まれた高利は、延宝元年(1673)京都に呉服仕入店を開き、翌年には江戸橋に、越後屋呉服店を開いた。高利は「現金掛け値なし」という新商法で呉服の価格を下げ、店は繁盛した。
入口の門 高利産湯の井戸
〇旧同心町
標柱 同心町の生垣塀道路
〇原田二郎旧宅
原田二郎は、嘉永二年(1849)松阪市殿町で同心(清一郎)の長男として生れた。21才のとき松阪出身の勤王志士 世古延世 (せこのぶつぐ)に随行して京都に上り、23才のとき維新後間のない東京に遊学して英語と医術を学んだ
のち大蔵省に勤め、31才で横浜の第74国立銀行(現在の横浜銀行)の頭取となり手腕を発揮するが、事情があって職を辞し松阪に戻った。
その後、井上馨の依頼を受け、家運の傾きかけた大阪の鴻池家とその経営する鴻池銀行(後の三和銀行)の整理、再建に当った。
入口 屋敷
松阪城の堀跡 屋敷
〇新城番屋敷(国重文)
文久三年(1863)に建てられた武家屋敷で城の警護をまかされた紀州藩士が住んでいた長屋形式の建築物である。
城よりの番屋敷 宣長旧宅庭よりの番屋敷 公開の武家屋敷
〇南龍神社
祭神は紀州藩祖徳川頼宣(南龍公)。松阪城内の本丸跡に建てられていたが、現在地に移したものと云われる。
入口鳥居
〇土蔵(県文化財)
松阪城内の隠居丸に建てられていた米蔵を現在地に移したものと云われる。
土蔵
〇松坂城跡(県史跡)
四五百森とよばれる独立丘陵上に築かれた城で、天正十六年(1588)に蒲生氏郷により築かれた。その後、氏郷は天正十八年(1590)会津黒川(若松)城へ移封される。
松坂城跡の入口
石垣 枡形階段
枡形階段 敵見櫓跡
天守閣跡 本丸跡 太鼓櫓
〇本居宣長旧宅(鈴屋)国特別史跡
本居宣長旧宅(魚町)がここの2階に宣長の書斎(鈴屋)として移築された。宣長が五十三歳のときに『古事記伝』が完成した部屋「鈴屋」の床の間には「縣居大人之霊位(あがたいのうしのれいい)」の軸が掛けてある。また、勉強に疲れたら、「柱掛鈴」の鈴の音を聞いてリフレッシュしたそうで「鈴屋」という部屋名の由来と云われる。
入口史跡本居宣長石碑 本居宣長旧宅 部屋「鈴屋」
埋門跡ノ石碑 隠居丸 跡の石碑
〇本居宣長の宮
祭神は本居宣長大人、相殿は平田篤胤(あつたね)大人
参道の鳥居 本殿 駅鈴モニュメント
〇松阪神社
主祭神は誉田別命(八幡さま)、宇迦御魂神(お稲荷さま)
延喜年間(901)以前と云われ、天正十六年(1588)蒲生氏郷が松阪城を築いて以来、城の鎮守神として代々城主が信仰してきた。
参道 鳥居 本殿遥拝所
〇樹敬寺(じゅきょうじ)浄土宗、本尊は木造地蔵菩薩立像(県文)、本居宣長奥墓(国史跡)
天正十六年(1588)蒲生氏郷の松阪城下建築に伴い、松ヶ島城下より現在地に移った。
山門 本居宣長奥墓 明治天皇御晝餐所石碑
本堂 原田二郎翁歌碑
(ますらをの眞心こめて一筋に 思ひいる矢の とをらざらめや 嘉朝)
本居宣長奥墓 原田二郎翁墓所
〇道標 南角に「左さんぐう道 右わかやま道」参宮街道と和歌山へ向かう紀州街道の起点である
道標
〇新上屋敷跡の石碑(市史跡)
宝暦十三年(1763)五月二十五日、宣長(三十五歳)がここに宿泊した賀茂真淵(六十七歳)に面会し、国学の指導を受けた宿屋である。
この歌は宣長が還暦の時に詠んだ。(しき嶋のやまとこゝろを人とはゝ 朝日にゝほふ山さくら花 宣長)
石碑 標柱 旧旅籠跡
〇駅鈴(えきれい)は、日本の古代律令時代に、官吏の「公務出張」の時、朝廷より支給された鈴である。
大化二年(646)孝徳天皇によって発せられた改新の詔による、駅馬・伝馬の制度の設置に伴って造られたと考えられて云われる。
JR松阪駅前 駅鈴モニュメント
以上