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石井孝 『近代史を視る眼』1996 吉川弘文館 田中彰『明治維新の敗者と勝者』1980 NHKブックスほか 1-4

2016年10月25日 | 幕末・明治維新

            ▲石井孝 『近代史を視る眼』1996 吉川弘文館 定価2700円+税

 

石井 孝 『近代史を視る眼』1996 吉川弘文館 田中 彰『明治維新の敗者と勝者』1980 NHKブックスほか 1-4 

今回は、石井 孝の「孝明天皇病死説批判」中心に

 

石井孝 『近代史を視る眼』1996 吉川弘文館 田中彰『明治維新の敗者と勝者』1980 NHKブックスほか 1-4 今回は、石井孝の、「孝明天皇病死説批判」中心に

 

▲ 石井孝の「孝明天皇病死説批判」は、この本の177ー186頁に掲載されている。

前々回、および前回の2回、原口清の「孝明天皇は毒殺されたのか」を読み、その抄録と、私のメモをブログで記してきたのだが、原口清と石井孝はかつて歴史学研究会の月報上で、論争をしてきた。その後、石井孝は、1996年に亡くなり。この本が、遺著となっているようだ。

原口清の著作は、『原口清著作集』が、岩田書院から21世紀になって刊行されているので、論争のうちの原口清側の論文は著作集が刊行されて日が浅いので現在読めるのだが、石井孝の論文は、絶版となった本から、探し出してくるしかない。

『歴史学研究』誌の本文上での論争ではなく、月報上であったので、会員以外には配布されていないようだ。この論争は、幕末・維新の研究者には、知られていたようだが、一般の概説書には書かれていないと思われる。

山川出版社『日本史広辞典』1999年、『新版 日本史小辞典』2001年5月、では、痘瘡による死亡としている。

また、山川出版社では、『日本史広辞典』から、人物項目を抜き出し、若干の新規項目を追加し記述内容を補筆したとまえがきに記している『日本史人物辞典』 2000年5月 があるのだが、前述の辞典を踏襲していて、変更はない。


また、日本史の辞典では一番規模の大きい吉川弘文館『国史大辞典』では、執筆者名が入った記述となっている。式部敏夫が書いているのだが、孝明天皇は「たまたま痘瘡に罹って癒えず、国事に心労重ねた一生を終えた。」と、痘瘡死亡説をとっている。

角川書店『新版日本史辞典』 1996年 では、「1866 痘瘡で死去したとされているが、毒殺説もある。」と記している。

岩波書店『岩波日本史辞典』1999年 では、孝明天皇の死について「急死は疱瘡、毒殺の両説ある」と記述している。

以上、我が家にある日本史関係の辞典

山川出版社 3冊、吉川弘文館 1冊、岩波書店 1冊、角川書店 1冊 合計6冊のうち、歴史関係が主体の山川出版社、吉川弘文館 の4冊が、全部痘瘡死亡説をとり、角川書店、岩波書店の2社の辞典が痘瘡死亡、毒殺説の二説を記していることがわかった。

歴史関係専門とも一般的には理解されている山川出版社、吉川弘文館の二社が、揃って、痘瘡による死亡を記してしているのは、驚きであり、また興味深い。小型の辞典は、項目執筆者名を記していないので、誰が書いたのかわからないのだが、今回、論争にからむので、孝明天皇について、各社の記述内容を調べてみたところ、以上のような内容だった。

我が家にある日本史辞典は、三分の二が、痘瘡死亡説で、三分の一が、両説併記だったのである。

幕末・維新期の研究者は、かなりの数にのぼると思われるのだが、意外に、孝明天皇の崩御に関する研究が少ないのは、なぜなのだろうと、不思議に思うのは私だけなのだろうか・・・・・・・

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さて、話が、横道にそれたようなので、今回のブログ記事の話題に戻り、前回紹介した、原口清の論考に対する石井孝による反論のことを以下に抄録してみたい。

「孝明天皇病死説批判」 

この論は大きく3つのパートに分かれ、それに追記があるので、1-4に分けて抄録する。

1 原口清氏による病死説の難点

2 急性砒素中毒の症状

3 孝明天皇急死の背景

4 追記

 

1 原口清氏による病死説の難点

石井孝は、まず、孝明天皇について、その政治的姿勢を極簡単に略述し、これまでの論の動きを整理して、次のように記している。

「孝明天皇は、対外的には鎖国復帰、国内的には佐幕という、徹底的な保守主義を堅持した。しかもその保守的信念の強固なことにおいて、井伊直弼にも比すべきである。その天皇が、王政復古にさきだつ約一年の慶応2年12月25日(1867・1・30)、突如、疑惑に包まれた最後をとげた。天皇の死因について、戦前にこれを論ずることはタブーであったが、戦後の1954年、ねずまさし氏は、信憑すべき史料にもとづき天皇の死因が「毒殺」であることを論証した。それ以来、学界では毒殺説が有力となってきたが、、最近原口氏は執拗に病死説を蒸し返した。」 (177頁)

このように、石井孝は、この論の冒頭に、孝明天皇は毒殺説が、戦後は有力になってきたことを、記している。

これが、1989年ー1990年にかけ、原田清の2本の論文で、「もはや孝明天皇の死因に関しては終止符がうたれてもよい」 という強い断言に接し、石井孝は、反論を始めたようだ。

難点

ねずまさし論文を曲解しているという。

「ねずまさしは、『歴史学研究』 173号で、「天皇の痘瘡が順調な経過をたどり、ほとんど回復に近づいていたことを、『孝明天皇紀』と『中山忠能日記』を対照させながら、忠実・綿密に検証している。その前提にたって、ねず氏は毒殺論を展開する」 

これに対して、原口氏は、「はじめに悪性痘瘡ありき」という態度である。」という。

原口氏は、専門医学者の著書や論文から「もっとも悪性な紫斑性痘瘡または出血性膿疱性痘瘡を抽出して、天皇の症状をきわめて強引に当てはめようとする。」

といっている。

実際は、日記の記録では、12月15日に、痘瘡の先駆期を脱し、発疹・潅膿という順調な経過をたどり、これに応じて食欲も増進していることが、記されている。という。 (178頁ー180頁)

 

『孝明天皇紀』と『中山忠能日記』の分析によって、「ねずまさし氏が「全快へ向かう症状」としたのは正しい。」(179頁)

「原口氏は、、順調な経過を示す症状を完全に無視し、たとえば食欲の増加を「健康状況を知る一つの材料ではあるが、痘瘡の状況の決定的な証拠にはなり得ない」などと、実に苦しい解釈をしている。つまり、氏には孝明天皇の悪性痘瘡死という予断が」あって、史料を極度に歪曲し、予断に合致させるという空しい努力を重ねていることになるわけである。」  (179ー180頁)

 

 2 急性砒素中毒の症状

急性砒素中毒には麻痺型と胃腸型二種がある。」

胃腸型急性砒素中毒の特徴

「コレラに類似する激しい嘔吐・下痢」

これに対して、痘瘡は、前駆期には、便秘という症状がある。痘瘡と急性砒素中毒の違い。

「天皇の病状急変を示す慶子来状には「御大便度々御通し、御様態不御宜、御えつき強」

とあり、病状急変が激しい下痢・嘔吐で始まったことを示している。」 (180頁ー190頁)

法医学書によれば、砒素は粘膜を腐食する作用をするので、胃腸その他の粘膜より出血する。また

「御脈微細、四肢御微冷」に至っては、、激しい嘔吐・下痢が脱水症状を起こし、急速に血圧・体温の下降、脈拍の微弱不整をもたらすことをさしている。だからこれも、胃腸型砒素中毒を示す症状としてあげるのは、少しもさし支えない。」 (181頁)

「天皇の痘瘡がほとんど回復に近づいた段階で突如発生した症状は、悪性痘瘡に特有のものではなく、まさに胃腸型急性砒素中毒にこそ特有のものである。」 (181頁ー182頁)

 

3 孝明天皇急死の背景

「天皇の死を急性砒素中毒(毒殺)とする著者にとって、毒殺の黒幕、下手人を論ずることは避けて通れない。」  (183頁)

「天皇毒殺が慶応2年8月30日(1866・10・8)の列参と同一線上にあり、しかも列参の企画者が、岩倉であるとすれば、、毒殺の黒幕にも彼が存在したとみられても仕方がない。」 (183頁)

 実際の下手人については、すでに、戦前に、1940年、大阪で開催された日本医史学会関西支部例会で、医史学者佐伯理一郎氏が、「岩倉具視が、女官に出ている姪(?)をして、天皇に一服、毒を盛らした」と断言したという。」 この?のついた人物は、誰なのか、これについては、石井孝は『近代史を視る眼』に具体的書いていますが、また著者も断定は避けている。このことについては、現在それを確証する史料もないので将来の重要テーマとして記憶しておきたい。興味ある方は、ぜひ、上記『近代史を視る眼』 1996年、吉川弘文館を入手して、著者の果たせなかった確証を得るべく、歴史の奥深く探索してもらいたい。

4 追記

「孝明天皇病死説批判」 の生まれた論争の経緯を振り返り、原口清説との論争の論点の違いを指摘している。

原口氏は痘瘡専門医の研究に依拠して、孝明天皇の症状を悪性痘瘡に極限していること。

それに対して、著者・石井孝は、孝明天皇の症状の変化を『孝明天皇紀』、『諸家記録』から読み取り、

孝徳天皇 痘瘡発症→ 危機→ 回復期→ 食欲回復 → → → → 急激な変化 →→→ 死

                                   ↑(毒物 (砒素か)↑

 

痘瘡(これは、どこで感染したかは、まだ分からない) + (胃腸型)急性砒素中毒という、孝明天皇の症状の時間的変化と歴史史料の解釈の理解妥当性をどうするのか。

判断するのは、権力や、利益集団の都合ではなく、我々自身の中にある「真実を求める透視眼力のこと」だろう。

あらためて、石井 孝の本のタイトルに思わず納得した。「視る眼」と書いてあった。

石井 孝は、1996年の5月に亡くなっているので、『近代史を視る眼』は、論集などに再録されたものを除けば、単行書では、石井孝の 生前最後の著作だったのではないだろうか。この本が出て、すでに20年、孝明天皇崩御に関する、優れた論文が出ているのだろうか。

 

つづく

 



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