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帆立貝式前方後円墳・帆立貝形古墳・造り出し付円墳

2012年05月19日 | 初期国家・古代遊記

 帆立貝式前方後円墳・帆立貝形古墳・造り出し付円墳 についての簡易な文献表

1 小林行雄 「古墳」「帆立貝式古墳」『図解考古学辞典』創元社 1959

2 小林行雄・近藤義郎「古墳の変遷」『世界考古学大系』3日本Ⅲ 1959

3 小野山節 「五世紀における古墳の規制」『考古学研究』16-3、1970

4 今井堯・近藤義郎 「群集墳の盛行」『古代の日本』4 角川書店 1970

5 大和久震平・塙静夫  『栃木県の考古学』吉川弘文館     1972

6 小野山節 「古墳と王朝の歩み」『古代史発掘』6 講談社   1975

7 甘粕健 「古墳の形成と技術の発達」『岩波講座日本歴史』1  1975

8 石部正志・田中英夫・宮川徒・堀田啓一「帆立貝形古墳の築造企画『考古学研究』
  27-2、1980

9 石部正志 『大阪の古墳』                  1980

10 原島礼二・石部正志・今井孝・川口勝康「『巨大古墳と倭の五王』青木書店 1982

11 大塚初重・小林三郎編 『古墳辞典』 東京堂         1982

12 遊佐和敏 『所謂「帆立貝式古墳地名表』 東邦考古学研究会   1982

13 櫃本誠一 「帆立貝式古墳について」 『考古学雑誌』 69-3 1984

14 田中和宏 「古市古墳群における小古墳の検討」 『考古学研究』 32-4 1986  

15 遊佐和俊 『帆立貝式古墳』  同成社            1988

16 秋元陽光 「栃木県における帆立貝形古墳」『栃木県考古学会誌』第11集 1989

17 木下 亘 「帆立貝式古墳」 『季刊考古学』 40号 1992年 8月 雄山閣


18 世田谷区立郷土資料館 『野毛大塚古墳の時代 畿内王権と古代の東国』 2000

19 一瀬和夫 「倭国の古墳と王権」『日本の時代史2 倭国と東アジア』2002

20 かみつけの里博物館 『帆立貝形古墳を考える』        2003


21 沼澤豊  『前方後円墳と帆立貝古墳』  2006  雄山閣

22 寺田良喜 「野毛大塚古墳・御岳山古墳」 2007 『季刊考古学別冊15 武蔵と相模の古墳』 雄山閣

23  高橋克壽 「5世紀後半の倭王権と帆立貝式古墳   2009   『花園大学考古学研究論叢 Ⅱ』 花園大学考古学研究室30周年記念論集刊行会
  


 小野山節 の論文によって、「古墳の2度の規制」が提唱されて以降、帆立貝形古墳は古墳時代政治史を分析する上で大きな視点をもたらした。その重要性は今もかわらないが、当時の古墳編年基準のまま、その後の古墳調査の結果を無理に2回規制説にあてはめて、その不備を指摘してもあまり生産的ではないだろう。

むしろ倭国の王権の5世紀を通じての政治・軍事・社会制度の構造的変換・進展のプロセスのランドマーク・情報として、帆立貝形古墳を再考すると面白い世界が展望できるのではないか。 
 一瀬和夫「倭国の古墳と王権」で、5世紀代の大型古墳相対位置図を図化して掲げてある。津堂城山段階では、まだ帆立貝式古墳は出現せず次の段階、仲津姫陵古墳、履中天皇陵古墳段階で帆立貝形古墳が出現し、その後5世紀代は帆立貝古墳が王陵周囲に築造されているのが明瞭である。
 高句麗広開土王と倭の戦いが397年、その後5世紀前半から中頃にかけ王墓の巨大化と平行して、王墓周辺に帆立貝古墳の出現することである。
 5世紀の王墓に近接した長原遺跡などにみられる中期群集墳の盛行などの現象を加えるとどう読み解けるか。
 高句麗広開土王との戦いの中、倭国は王権内の政治・軍事・行政体制変革の必要に迫られ、このことが、前方後円墳・帆立貝形古墳・造り出し付き古墳・方墳・円墳などの多様な中にも明瞭な階層制度を前代とは違った形で創出したのかもしれない。

(続く)
野毛大塚など、報告書類はのちに追加 予定



 
 



 



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