▲『概観維新史』 文部省版 1940年
『概観維新史』 文部省版 1940年 (昭和15)
『概観維新史』 文部省版 1940年 (昭和15)
▲ 文部省推薦図書 『概観維新史』 1940年 昭和15年3月25日発行 明治書院 昭和17年10月 15版
紀元二千六百年記念出版特価 金三円八拾銭 とある。昭和19年版も古書店で見たことがあるので、戦時中も継続して、発行していたようである。
このところ石井孝の 『幕末 悲運の人びと』などを読み、孝明天皇の死について様々な見解があり、戦後の自由闊達な意見に接していた。
それでは、戦前はどうだったのか、やはり、政府が出版していた、文部省版の維新史では孝明天皇の死について、どう記述されているか気になるところである。
アーネスト・サトウの戦前に刊行されていた本では孝明天皇の死に関わる噂話ですら削除されていたので、ましてや、文部省版の維新史に、暗殺説が掲載されているとは思わなかったのだが、どのように記述されていたのか手にとって確かめてみたかったのである。
▲文部省推薦図書 『概観維新史』 698頁~699頁
第六章 王政復古 二 孝明天皇崩御と明治天皇践祚 という部分に該当する記述はあった。
孝明天皇が12月、体調悪いのに無理をして臨時神楽に出御。それから、熱がでて、12月17日には、痘瘡と判断された。侍医・典薬が必死に平癒のため尽くし、七社七寺の祈祷も行ったが、病状はどんどん悪くなり、12月25日午後11頃に亡くなったと記している。痘瘡による死亡と 『概観 維新史』では記述しているのである。
宮廷の典医たちの記録には、痘瘡が症状が進むも、12月19日以降は、瘡蓋もとれ、食欲も出てきて、快方へ向かう様子もうかがえ、典医たちも安心している様子もあるのだが、このあたりの疱瘡からの回復への記述は、『概観 維新史』の中には、全く欠けている。
大部な、6巻本の維新史には、典医の日録の一部は、収録してあるのだろうが、国民が入手しやすい『概観 維新史』からでは、痘瘡で重篤となり、崩御されたとしかわからない。
つづく