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『 歴史を射つ 言語論的転回 文化史 パブリックヒストリー ナショナルヒストリー』 2015 その1-1

2017年03月21日 | 批評・歴史・フィクシ...

       ▲『歴史を射つ 言語論的転回 文化史 パブリックヒストリー ナショナルヒストリー』2015 御茶の水書房

 

『歴史を射つ 言語論的転回 文化史 パブリックヒストリー ナショナルヒストリー』2015 御茶の水書房 定価5500円+税 言語論的転回以後の歴史理論、また日本での展開を振り返る、総勢17人による気鋭論考の集成。値段はちょっと張るのだが、刺激性のある鋭角な論点があり、お買い得感あり。この本は刊行後、版元のお茶の水書房でも品切れとなっていた。好感度が高い書評が多く出て、読みたいと探していたのだが、ようやく、京都の梁山泊という古書店に出た。早速入手。

題名が歴史書にしては不思議なタイトルなのだが、もしかすると、G・オーウェルの「象を撃つ」と関係するのでは?とふと思ったのだったが、やはり・・・・・・・・そうだったか!ここ10年では、一番刺激的な歴史理論に関する論文集ではないだろうか。今日は、『歴史を射つ』をざっと頁をめくった後、この本を脇に置いてオーウェルの「象を撃つ」を再読してみた。予想もしない脱領域の世界といおうか、文学や歴史意識や、国境を越える思考のみずみずしさといおうか、G・オーウェルの確かさと腕前を味わうことになった。遠い昔若い頃に読んだ記憶があるのだが、その表現力を味わうには若すぎたのだと、今になって思い知らされた。
ほんとうに、歴史は事実で、文学はフィクションなのだろうか?全く予想に反して不思議で親しい関係があるのではないだろうか・・・・・・・・

 

『歴史を射つ 言語論的転回 文化史 パブリックヒストリー ナショナルヒストリー』 1-1

2015 御茶の水書房

 

 ▲岡本充弘・鹿島徹・長谷川貴彦・渡辺賢一郎 編 『歴史を射つ』 御茶の水書房 2015年9月

定価5500円+税

 ▲『歴史を射つ』 目次1

 ▲『歴史を射つ』 目次2

 

結論を先取りするのはよくないが、また買う・買わないは読者の自由だが、以下のようなことばが、421ー422頁にあった。

このことばに触れるなら、異論・反論あろうとも、この本を読まずにはいられなくなるだろう。

 

「言語論的転回は、アカデミックな場においても、パブリックな場においても、空気のようにその存在を自明のものとされていた歴史に対して、基本的な疑問を提示した。」

「歴史は、それがとる表象の形式や、それを生み出す枠組みにしたがって、構築されたものであるということである。とりわけ近代以降より学問的な体裁をとることになった歴史も、その多くは物語というかたちを借りた、その語りを構成する基本的な要素である言語にある制約によって、その内容を制約されたものであるということである。」

「そうした制約を自覚することなく近代以降の歴史学は、事実の客観的実証を旗印に、アカデミックな場に置いて自らを権威づけた。しかし、そこには矛盾があった。」

「それは普遍性・科学性を志向するものでありながら、その庇護者であった近代国家によって内容を大きく枠づけられ、そうであるがゆえに、近代国家が構築したナショナルな場と深いかかわりがあったからである。その読者層がもっぱらナショナルな場に置かれていたことに、そのことは端的に示されている。」

「パブリックな場に置かれた歴史がナショナリステックな要素をさらに強めていることは看過できないのではないだろうか。そしてこのことは、歴史学自体が、歴史家による「特権的」な研究や叙述が、近代国家が構築したナショナルな場に過剰なまでに身を置いていたこと、そのことの自覚の欠如が生み出したことではないかとする批判は誤っているだろうか。」

「自らを置いている位置、伝統的にとってきた表象手段に対する自省ををともなわずに、いくら精妙な「論」や「事実」を組み立てても、それは文字通り「モダニティ」と「ナショナリティ」という「堅固な砂上」に構築された楼閣でしかない。」

「グローバリエリティ」という外見的にはより普遍的なものに身を委ねようとしても、そのそもそもの出発点が、伝統的な「モダニティ」と「ナショナリティ」に置かれているのなら、それは決して有効な解決策とは成り得ない。それに代わる試みはどのようなかたちで試みられるべきなのだろうか。」 岡本充弘 「転回する歴史のなかで」本書421-422頁

 

つづく

 

 

 



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