「台湾の声」【黄文雄】 コロナの被害を食い止めた台湾の衛生観念は日本人がつくった
◆春節期間の防疫ホテルに予約殺到
台湾におけるコロナの現状は今どうなっているのかについて、読者の皆さんは日々ニュースなどでご覧になってい
らっしゃると思います。
11月14日の報道によれば、台北の中央感染症指揮センターは国内感染、死者ともゼロであり、新規感染者は9日連続
ゼロとなったと発表しました。
海外からの入境者の感染例は毎日数人ありますが、水際でしっかりと防がれています。
国内の警戒レベルは「第2級」が維持されていますが、山や海辺などで安全な距離を保つことができる場所なら着用
しなくてもいいと、マスク着用が一部緩和されています。
11月16日からは、接待を伴う飲食店やバーなどについて、条件付きで営業を認めることが発表されました。以下、
報道を一部引用します。
<新たに営業が認められる場所では、従業員が新型コロナワクチンを少なくとも1度接種してから14日経過しているこ
と、初出勤前3日以内の簡易検査またはPCR検査の陰性証明を提出することなどが条件となる。
営業再開後は従業員が2度目の接種を済ませていない、あるいは2度目の接種から14日経過していない場合、週に1回、
簡易検査またはPCR検査を受ける必要がある。また入店客もワクチンを少なくとも1度接種してから14日経過した証明
を提出する必要がある。
これらの場所では原則として入店客への連絡先登録(実聯)制の実施、検温、従業員の体調管理、消毒の徹底など
が求められる。>
ワクチンの接種率も国民全体の70%以上となりました。
8月からは台湾国内産のワクチンも推奨されており、蔡英文総統が国内産ワクチンを接種する様子がマスコミで拡散
され、安全性をアピールしました。
最近ではビオンテック製ワクチンを接種後に、心筋炎を発症した青少年の事例がいくつか確認されたことから、青
少年へのビオンテック製ワクチンの2回目の接種は見合わせることになったとのことです。
そして、来年2月1日の春節に向けての準備も始まっています。冒頭でご紹介したニュースの通り、春節の期間に台
湾への帰国を希望する人は、8日目から条件付きで在宅検疫が可能となります。以下、報道を一部引用します。
<春節期間に適用されるルールで入国後8日目から自宅または知人宅で検疫を受けられるようになるのは、入国者が
(1)2回のワクチン接種を完了し、2回目接種から満14日間が経過(2)1人1室で在宅検疫が可能(3)同居者なし、
または同居者が2回の接種を完了かつ2回目接種から満14日間が経過─の3つの条件を全て満たす場合。
入国後7日目までは検疫用ホテルか集中検疫所に滞在する必要がある。
在宅検疫期間中の8日目から14日目までの期間には、入国者は簡易検査(10日目)とPCR検査(13日目)を各1回、
同居者は簡易検査を2回(10日目と14日目)実施することが求められる。
「2回のワクチン接種を完了し、2回目接種から満14日間が経過」の条件を満たしていない入国者の場合、「1人1室
で在宅検疫が可能」と「同居者なし、または同居者が2回の接種を完了かつ2回目接種から満14日間が経過」の2つの
条件を満たせば、入国後11日目から在宅検疫が可能。13日目にはPCR検査を受ける必要がある。
1人1室での在宅検疫ができない場合は、現行と同様、自宅での検疫は認められず、検疫用ホテルか集中検疫所での
検疫が必須となる。
いずれの場合も、入国後15日目から21日目までの期間は自主健康管理が必要。公共の場への出入り自粛などが求め
られる。>
ということで、春節期間の集中検疫所の宿泊施設(防疫ホテル)の予約が17日から始まりました。が、予約が殺到
し、人気アーティストのコンサートチケット並みに予約が取れないと、さっそく話題になっています。政府は宿泊施
設のさらなる確保を強いられているようです。
◆日本人がもたらした台湾人の衛生観念
台湾は、急拡大したコロナを、再度急速に収束させたのです。その成果の根底には、台湾人の衛生観念があります。
そもそも台湾人は日本人と同じくらいキレイ好きです。手洗いや消毒などは、コロナが流行する前から日常の中に存
在していました。そして、台湾人のこの衛生観念は日本時代に日本人がもたらしたものです。
そもそも台湾は、瘴癘の島でした。日本からすれば「鬼ヶ島」だったのです。その島を人々が住める島にしたのは、
日本からの「文明開化、殖産興業」の波でした。戦後、蒋介石がいくら台湾で反日教育を行っても、台湾人は「反日」
に同調しませんでした。
台湾が中華の国々以上に反日教育を受けながら、中華の国々に同調しなかった根本は、日本統治時代にありました。
そのことについては、私はこれまでいろいろな著書でご紹介してきました。今回は、台湾の衛生観念をガラリと変
えた事例のひとつ、台湾の下水道を整備した技師、浜野弥四郎の偉業をご紹介しましょう。以下、私の著書から一部
を引用します。
<日本の領台当初、台湾の生活環境は極端に劣悪にして不衛生であった。首府の台北を例にしても、上下水道はまっ
たくなかったのだ。井出季和太の『南進台湾史攷』(誠美書閣、1943年刊)には当時の台北についてこう書き記され
ている。
「台北市内の如きは、家屋の周囲または庭内には不潔な汚水が流出し、または各処に瀦留した沼があり、或いは人
民犬豚と雑居し、或いは往々共同便所を排散し、独り市中の日本との鑿井に係わるという噴水には鉄管を以って飲用
水を供するも、その桶器は極めて不潔で……>
当時の台南についても、「又台南府にあっても雑多の廃棄物はもちろん、糞尿は各処に排散、堆積し、街の両側に
在る排水溝は汚水を渋滞し其の派生する悪臭と相和し、鼻を衝き城外より頓かに城内に至るときに臭官刺激され、殆
ど嘔心を催す」と記している。
これが、台湾二大都市の衛生状況であった。もちろんそれは「化外の地」の台湾だからではない。当時の日本を除
くアジアの多くは同様であった。北京も朝鮮の京城も不衛生きわまりない都市として悪評が高かった。そのことは、
当時の女性旅行家であるイザベラ・バードの『朝鮮紀行』や細井肇の『漢城の風雲と名士』(『政治史』第77巻)な
どにも詳しく描かれている。それは数千年の中華文化の産物で「文」をいくら語っても、「衛生」(ケガレを忌避す
る)の観念がないことによる。>
<台湾のインフラ整備においてもっとも重要だったのは上下水道の整備であった。日本領台前の台湾では、人間と家
畜が一緒に暮らしているような状態であった。首府の台北でさえ、上下水道などなく、井戸も淡水河の水も不衛生極
まりなかった。少しでも清潔な井戸は、豪族が独占してしまい、民衆は雨水か河川の水にたよるしかなかった。
街道にはゴミが堆積し汚水が溢れていたため、いざ洪水や台風、豪雨などになると水が街道に溢れて汚水や汚物ま
で一緒に流れてくる。すると、当然ながら伝染病が蔓延するため、当時の平均寿命は30歳前後だった。>
<浜野弥四郎が台湾へ渡ったのは、1896年のことである。このとき、台湾総督府は勅令第271号を公布し土木部官制
を設立した。部長は民政局長が兼任し、部内は41人の技師と83人の技師助手、その他合計180人といった大組織であ
った。その首席技師が浜野弥四郎である。>
<1919年までの20年間、「在台湾」としては23年間をかけ、浜野弥四郎は台北、台中、台南など台湾主要都市の上下
水道をほとんど完成させた。>
<台湾の中学2年生の教科書では、浜野らの行った上下水道敷設について、次のように教えている。「(総督府は)
日本統治のはじめ、水道を敷設して、都市住民にきれいな飲料水を供給し、都市の地下排水工事を行った」
現在、台湾台南県山上郷には、浜野弥四郎の胸像が設けられている。戦時中に胸像は供出され、長い間その代わ
りに『飲水思源』と彫られた石柱が載せられていたが、2005年、台湾人によって復元された>
(以上、黄文雄著『世界から絶賛される日本人』徳間書店より。抜粋した文章中の事柄はすべて該当本の刊行当時
の情報です)
これはほんの一例であり、日本が台湾に遺した「負」ではなく「正」の遺産は数えきれないほどあります。そし
て、これらが日本と台湾の絆の起源です。
日本統治時代の台湾では、霧社事件など多くの人が命を落とす事件もありましたが、疫病による死者はそれの比
ではありません。日本は、その疫病を台湾から追い出したのです。そして今、その延長で台湾は現代の疫病である
コロナを追い出すことができたのです。
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台湾の声
台湾におけるコロナの現状は今どうなっているのかについて、読者の皆さんは日々ニュースなどでご覧になってい
らっしゃると思います。
11月14日の報道によれば、台北の中央感染症指揮センターは国内感染、死者ともゼロであり、新規感染者は9日連続
ゼロとなったと発表しました。
海外からの入境者の感染例は毎日数人ありますが、水際でしっかりと防がれています。
国内の警戒レベルは「第2級」が維持されていますが、山や海辺などで安全な距離を保つことができる場所なら着用
しなくてもいいと、マスク着用が一部緩和されています。
11月16日からは、接待を伴う飲食店やバーなどについて、条件付きで営業を認めることが発表されました。以下、
報道を一部引用します。
<新たに営業が認められる場所では、従業員が新型コロナワクチンを少なくとも1度接種してから14日経過しているこ
と、初出勤前3日以内の簡易検査またはPCR検査の陰性証明を提出することなどが条件となる。
営業再開後は従業員が2度目の接種を済ませていない、あるいは2度目の接種から14日経過していない場合、週に1回、
簡易検査またはPCR検査を受ける必要がある。また入店客もワクチンを少なくとも1度接種してから14日経過した証明
を提出する必要がある。
これらの場所では原則として入店客への連絡先登録(実聯)制の実施、検温、従業員の体調管理、消毒の徹底など
が求められる。>
ワクチンの接種率も国民全体の70%以上となりました。
8月からは台湾国内産のワクチンも推奨されており、蔡英文総統が国内産ワクチンを接種する様子がマスコミで拡散
され、安全性をアピールしました。
最近ではビオンテック製ワクチンを接種後に、心筋炎を発症した青少年の事例がいくつか確認されたことから、青
少年へのビオンテック製ワクチンの2回目の接種は見合わせることになったとのことです。
そして、来年2月1日の春節に向けての準備も始まっています。冒頭でご紹介したニュースの通り、春節の期間に台
湾への帰国を希望する人は、8日目から条件付きで在宅検疫が可能となります。以下、報道を一部引用します。
<春節期間に適用されるルールで入国後8日目から自宅または知人宅で検疫を受けられるようになるのは、入国者が
(1)2回のワクチン接種を完了し、2回目接種から満14日間が経過(2)1人1室で在宅検疫が可能(3)同居者なし、
または同居者が2回の接種を完了かつ2回目接種から満14日間が経過─の3つの条件を全て満たす場合。
入国後7日目までは検疫用ホテルか集中検疫所に滞在する必要がある。
在宅検疫期間中の8日目から14日目までの期間には、入国者は簡易検査(10日目)とPCR検査(13日目)を各1回、
同居者は簡易検査を2回(10日目と14日目)実施することが求められる。
「2回のワクチン接種を完了し、2回目接種から満14日間が経過」の条件を満たしていない入国者の場合、「1人1室
で在宅検疫が可能」と「同居者なし、または同居者が2回の接種を完了かつ2回目接種から満14日間が経過」の2つの
条件を満たせば、入国後11日目から在宅検疫が可能。13日目にはPCR検査を受ける必要がある。
1人1室での在宅検疫ができない場合は、現行と同様、自宅での検疫は認められず、検疫用ホテルか集中検疫所での
検疫が必須となる。
いずれの場合も、入国後15日目から21日目までの期間は自主健康管理が必要。公共の場への出入り自粛などが求め
られる。>
ということで、春節期間の集中検疫所の宿泊施設(防疫ホテル)の予約が17日から始まりました。が、予約が殺到
し、人気アーティストのコンサートチケット並みに予約が取れないと、さっそく話題になっています。政府は宿泊施
設のさらなる確保を強いられているようです。
◆日本人がもたらした台湾人の衛生観念
台湾は、急拡大したコロナを、再度急速に収束させたのです。その成果の根底には、台湾人の衛生観念があります。
そもそも台湾人は日本人と同じくらいキレイ好きです。手洗いや消毒などは、コロナが流行する前から日常の中に存
在していました。そして、台湾人のこの衛生観念は日本時代に日本人がもたらしたものです。
そもそも台湾は、瘴癘の島でした。日本からすれば「鬼ヶ島」だったのです。その島を人々が住める島にしたのは、
日本からの「文明開化、殖産興業」の波でした。戦後、蒋介石がいくら台湾で反日教育を行っても、台湾人は「反日」
に同調しませんでした。
台湾が中華の国々以上に反日教育を受けながら、中華の国々に同調しなかった根本は、日本統治時代にありました。
そのことについては、私はこれまでいろいろな著書でご紹介してきました。今回は、台湾の衛生観念をガラリと変
えた事例のひとつ、台湾の下水道を整備した技師、浜野弥四郎の偉業をご紹介しましょう。以下、私の著書から一部
を引用します。
<日本の領台当初、台湾の生活環境は極端に劣悪にして不衛生であった。首府の台北を例にしても、上下水道はまっ
たくなかったのだ。井出季和太の『南進台湾史攷』(誠美書閣、1943年刊)には当時の台北についてこう書き記され
ている。
「台北市内の如きは、家屋の周囲または庭内には不潔な汚水が流出し、または各処に瀦留した沼があり、或いは人
民犬豚と雑居し、或いは往々共同便所を排散し、独り市中の日本との鑿井に係わるという噴水には鉄管を以って飲用
水を供するも、その桶器は極めて不潔で……>
当時の台南についても、「又台南府にあっても雑多の廃棄物はもちろん、糞尿は各処に排散、堆積し、街の両側に
在る排水溝は汚水を渋滞し其の派生する悪臭と相和し、鼻を衝き城外より頓かに城内に至るときに臭官刺激され、殆
ど嘔心を催す」と記している。
これが、台湾二大都市の衛生状況であった。もちろんそれは「化外の地」の台湾だからではない。当時の日本を除
くアジアの多くは同様であった。北京も朝鮮の京城も不衛生きわまりない都市として悪評が高かった。そのことは、
当時の女性旅行家であるイザベラ・バードの『朝鮮紀行』や細井肇の『漢城の風雲と名士』(『政治史』第77巻)な
どにも詳しく描かれている。それは数千年の中華文化の産物で「文」をいくら語っても、「衛生」(ケガレを忌避す
る)の観念がないことによる。>
<台湾のインフラ整備においてもっとも重要だったのは上下水道の整備であった。日本領台前の台湾では、人間と家
畜が一緒に暮らしているような状態であった。首府の台北でさえ、上下水道などなく、井戸も淡水河の水も不衛生極
まりなかった。少しでも清潔な井戸は、豪族が独占してしまい、民衆は雨水か河川の水にたよるしかなかった。
街道にはゴミが堆積し汚水が溢れていたため、いざ洪水や台風、豪雨などになると水が街道に溢れて汚水や汚物ま
で一緒に流れてくる。すると、当然ながら伝染病が蔓延するため、当時の平均寿命は30歳前後だった。>
<浜野弥四郎が台湾へ渡ったのは、1896年のことである。このとき、台湾総督府は勅令第271号を公布し土木部官制
を設立した。部長は民政局長が兼任し、部内は41人の技師と83人の技師助手、その他合計180人といった大組織であ
った。その首席技師が浜野弥四郎である。>
<1919年までの20年間、「在台湾」としては23年間をかけ、浜野弥四郎は台北、台中、台南など台湾主要都市の上下
水道をほとんど完成させた。>
<台湾の中学2年生の教科書では、浜野らの行った上下水道敷設について、次のように教えている。「(総督府は)
日本統治のはじめ、水道を敷設して、都市住民にきれいな飲料水を供給し、都市の地下排水工事を行った」
現在、台湾台南県山上郷には、浜野弥四郎の胸像が設けられている。戦時中に胸像は供出され、長い間その代わ
りに『飲水思源』と彫られた石柱が載せられていたが、2005年、台湾人によって復元された>
(以上、黄文雄著『世界から絶賛される日本人』徳間書店より。抜粋した文章中の事柄はすべて該当本の刊行当時
の情報です)
これはほんの一例であり、日本が台湾に遺した「負」ではなく「正」の遺産は数えきれないほどあります。そし
て、これらが日本と台湾の絆の起源です。
日本統治時代の台湾では、霧社事件など多くの人が命を落とす事件もありましたが、疫病による死者はそれの比
ではありません。日本は、その疫病を台湾から追い出したのです。そして今、その延長で台湾は現代の疫病である
コロナを追い出すことができたのです。
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台湾の声