沖縄・台湾友の会

《台湾に興味のある方》《台湾を愛する方》《不治の病・台湾病を患ってしまった方》皆んなで色々語り合いたいものです。

【世界は偉大な方を失いました】李登輝さん、さようなら!

2020-07-31 21:36:05 | 日記
【世界は偉大な方を失いました】李登輝さん、さようなら!

              S.A

ほんの少し前、ニュース速報が入り、李登輝閣下の御逝去を知りました。
新聞等で閣下のご容態が悪化していることは存じていましたが、これまでも幾度も命のやり取りを越えてきていらしているだけに、今回も強運のもとに死神を追いやるのではないかと、内心祈るような気持ちでいたのですが・・・

いつか、こんな日が来るであろうことは、もう十年以上も前から覚悟していたように思いますが、いざその場になると愕然と膝が崩れてしまう感じで、頭の中の整理がつかず、ただ偉大な喪失感と虚無だけが渦をまいています。

思えば李登輝閣下とは、李登輝友の会、淡水のセンターで、初訪日の際の日比谷で、そして福島県郡山市にある総合南東北病院での院内視察(最先端治療)への同行と、何回かご尊顔を拝し、笑顔に触れ、そして手のぬくもりを感じさせていただきました。お会いするたびに、閣下の各種学問の造詣の深さにおどろかされたり、その発する一言一言に人生の哲学が散りばめられていて、感服すると同時に尊敬の念を深くしてきました。

ひとり台湾だけでなく、世界は偉大な方を失いました。本当に失いました。
そしてひとつのエポックが確実に終わりを告げたのです。

けれど偉大な李登輝閣下の輝かしい功績は、世界史に残り、台湾人の血の中にこれからも代々脈々と受け継がれていくであろうことは確かです。
李登輝さん、台湾のために有難う、アジアのために有難う、日本のために有難うございました。

台湾の国父たる李登輝元総統閣下に、一日本人より謹んで哀悼の意を申し上げ奉ります。

今夜は皆さんと一緒にただ泣きましょう。
そしてまた明日から明るく幸せな未来に向け、まっすぐ顔を上げて、共に歩んで参りましょう。

李登輝さん、さようなら。 台湾、加油!!

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台湾の声

【胸に溢れる尊敬と感謝】李登輝元総統の訃報に接して

2020-07-31 21:33:12 | 日記
「台湾の声」【胸に溢れる尊敬と感謝】李登輝元総統の訃報に接して


台湾独立建国聯盟日本本部委員長
                          王 明理

李登輝先生が旅立たれてしまった……。こんな日が来ることは分かっていたはずなのに、いざその時が来てみると、喪失感の大きさにたじろいでいる。

今の台湾があるのは李登輝先生のお蔭であり、今日の民主的な社会は李登輝先生の手腕無くしては有り得なかった。
小さな政策ではなく、大きな哲学に貫かれた国造り。正義感に裏打ちされた政治力。まさに世界史上に残る政治家であり、哲学者であり、いえ、どんな形容も当てはまらないような世界に一人だけの特別な存在であった。

日本に亡命した私の父(王育徳)と、台湾に残る道を選んだ李登輝先生とは、離れ離れに生きていたが、今から約60年前に無理を押して密かに会って、一つの同じ理想を持ち、お互いがそれに邁進していくことを確かめ合った。

台湾に民主的な理想郷を作る、台湾人の立派な国を作る。人生を賭けるに惜しくない大きな目標。なんという大きなやり甲斐のある仕事であっただろう。李登輝先生は見事にその使命を果たされた。血を流さずに、一党独裁体制を民主主義に変革したことは燦然と世界史に刻まれるべきことであった。

人は育ち、民主国家台湾は今や世界中から称賛されるまでになった。
きっと、安心して旅立たれたことだろう。国内には優秀な人材がひしめき、頼りがいのある若者が大勢いる。そして、国際的にも台湾の存在感はどんどん高まっている。きっとそれを肌で感じ取られて、幸せを感じながら立派な一生の幕を閉じられたことだろう。

今、胸に溢れる尊敬と感謝の気持ちはどんな言葉でも表すことができない。
李登輝先生が御自身の全てを注いで下さったことが無にならないように、私たちは怠らず力を合わせて努力していかなければ……。天国からいつでも、また慈愛に満ちた笑顔で見守っていて下さることを信じて。
李登輝先生、長い間お疲れ様でした。本当に有難うございました。



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台湾の声

 「アジアの巨星」。邪悪に挑戦した「台湾のモーゼ」=李登輝元総統   「わたしは日本人だった」。「台湾人にうまれた悲哀」と歴史的な名言残して

2020-07-31 19:04:00 | 日記
「宮崎正弘の国際情勢解題」
令和2年(2020)7月31日(金曜日)参
       通巻第6606号
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 「アジアの巨星」。邪悪に挑戦した「台湾のモーゼ」=李登輝元総統
  「わたしは日本人だった」。「台湾人にうまれた悲哀」と歴史的な名言残して
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 何回もお目にかかった。その情景が様々な感慨とともに瞼に浮かんでくる。
 1996年に台湾初の直接選挙による総統選挙が行われ、中国がミサイルを撃って脅迫を続けていた。筆者は台北にいて、総統選挙を取材していた。

巷は騒然としていた。李登輝は「国民党は外来政権」と比喩したが、蒋介石に付いてきた外省人の一部は急ぎ財産を売り払って米国へ逃げた。
町の声は「逃げたい奴はとっと失せろ」だった。

 李登輝は96年ミサイル危機を目の前にしてこう言った。
「何も心配は要らない。わたしには十八の戦略がある」。
この剛胆とも言える総統の発言に本省人の多くは頼もしさを見出し、安堵感を得た。アメリカは親中派のクリントン政権だったが、空母を当該海域に派遣し、中国はすごすごと引き揚げていった。

 96年の総統選には民進党から「台湾独立運動のカリスマ」を言われた膨明敏が出馬していた。
多くの本省人は膨明敏支持だった。しかし同時に心情的には李登輝を応援した。結果は李登輝が55%。膨は25%。残りは林洋港(旧国民党強硬派。参謀総長、首相を歴任した赫白村が副総統候補)と陳履安(無所属)が出ていたが、旧勢力は惨敗だった。

 この選挙戦で、筆者は初めて李登輝氏の輝きを見た。この人の行くところ、後光が射しているかの如きで、じつは他の候補は霞んでいた。民進党は善戦したと言える。

 前後して日本側が中嶋嶺雄教授と住友電光の亀井正夫氏の呼びかけで毎年一回、台湾と日本を交互に「アジアオープンフォーラム」が開催されていた。私は台中会議から呼ばれるようになり、取材陣に加わった。毎回、李登輝閣下は出席して基調演説をこなし、懇親会にも顔をだされることがあった。
日本側の参加者を総統府に招かれ、ひとりひとりと握手された。筆者は初めて李登輝氏と握手を交わした。手に暖かみがあった。

 李登輝はキリスト教を信仰していたが、台湾のキリスト教は一神教の風情がまったくなく、台湾の風土と道教的な馬祖信仰の伝統に被さった、独特のキリスト教である。
なかでも長老会派の勢力が強いが、戒厳令の時代、教会が、じつは台湾独立派の集まる秘密集会の場所でもあった。


 ▼守旧派と千日の静かなる闘いに李登輝は勝利した

 李登輝の使命感は「台湾のモーゼ」。邪なものに挑戦し、正義を回復する。良いものは良いと評価し、一歩一歩、確実に改革に邁進するという政治信条をもち、蒋経国急死のあと、副総統から昇格したのち、守旧派と千日にわたる凄絶な戦いを続け、ついに戒厳令を撤廃し、蒋介石時代からの終身立法委員を廃止し、総統を民意で選ぶ民選にまでもっていく。
独裁政権だった国民党は大きく動揺し、李登輝を敵視する守旧派はあらゆる場面で李登輝を妨害した。

 李登輝は怯まなかった。
さずがに「台湾のモーゼ」を自称し、武士道を日本精神の中核とする信念は無私無欲、そして日本との繋がりを重視し、継続発展させるには、新幹線を日本に強引に発注する決断をなした。その後のメインテナンスで、日本との関係は継続され、深化するという独特の読みがあった。
 日台の民間交流はますます活発になった。

 1999年だった。筆者は竹村健一氏を誘って、李登輝総統への独占インタビューに出かけた。印象深かったのは、同席した「お目付役」の国民党幹部らの渋面である。同席の通訳が早業のように翻訳した紙切れを廻すと「え、こんなことを言っている」「なんとまぁ、こんなことを発言しているゾ」というあきれ顔、渋面、苦渋を浮かべる国民党幹部の顔色と、悠然と自由な会話を愉しむ李登輝総統の対比的な光景を観察しているだけでも愉しかった。

 当時、李登輝のまわりを囲んだブレーンの一人が蔡英文(現総統)だった。彼女が「中国と台湾は別個のくに」という二国論を起草した。
ドイツのラジオ局とのインタビューという形で出した「二国論」に中国は猛烈に反発したが、李登輝は自信を持って対応した。筆者は直後に『諸君!』に「猿でもわかる二国論」と題した文章を寄稿した。

蔡英文女史はその後、立法委員に当選し、いつしか党の重鎮となり、2016年総統選で国民党候補を破った。

 李総統が『台湾の主張』を出版されたときは、論壇の多くに呼びかけて発起人を引き受けて貰い、オークラに1500名が集まった李登輝出版記念会。大盛況だった。


 ▼李登輝氏とはその後も何回かインタビューに出向いた

 その後、台湾へ出かける度に、李登輝氏の台北の自宅、大渓の別荘、李登輝氏主宰のシンクタンクは淡水にあったが、そこにも三回か、四回は訪問している。

自宅を訪ねたときは花田紀凱、堤堯、中村彰彦氏が一緒だった。別荘に伺った時はたしか高山正之、花岡信昭氏が一緒だった記憶がある。
別荘の地下が書庫となっていて、その大半が日本語の書籍。哲学、思想関係のほかに日高義樹氏の著作もあった。最新の日本事情に詳しい背景がわかった。

シンクタンクへの訪問は最初、ラジオ番組収録のために、ミッキー安川と一緒だったが、このときは急遽入院されたので叶わず、後年、息子のマット安川との特別番組のインタビューの時は会えた。別の機会には、井尻千男、片岡鉄哉、藤井厳喜氏らが一緒だったこともあった。いずれも筆者が台湾側と交渉し、ツアーを組んだ企画だった。

 東京に来られたときも六本木の国際文化会館で開催された後藤新平賞授賞式では楽屋に訪ねた。日本李登輝友の会の懇親会では拙著への質問があり、氏の隣に呼ばれた。

 李登輝総統との幾つかの会話で、筆者は多くを発見した。
 第一に『武士道解題』をかかれた李登輝氏の武士道理解は『死ぬことと見つけたり』の山本常朝の武士道という悲壮な世界観に立脚するのではなく、新渡戸稲造的なキリスト教的コモンセンスの世界解釈だったこと。
 第二に、三島由紀夫に関しては、おそらく情報不足からか、一度も発言がなかった。
 第三は、李登輝世代は恋文も哲学も日本語でなしたので、大正から昭和初期にかけての日本的情緒、その奥ゆかしさを体現でき、思考の基礎を日本語で組み立てることだった。それも正調日本語である。

 或る時は駐日大使(台北経済文化代表処長)のお招きで芝のレスオランに筆者夫妻、阿川弘之夫妻、竹村健一夫妻が招かれ、懇談した。席上、阿川弘之氏が李登輝総統に会いに行くことになった。そのとき阿川氏は「断じて自費で伺います」と元日本海軍将校の基本姿勢を言われたのも印象深い。

 かくして日本李登輝友の会は初代会長を阿川弘之、二代目が小田村四郎、そして現在は渡邊利夫(拓殖大学学術顧問)となって地道な活動を続けてきた。
これからも李登輝総統閣下をカリスマとして、日台友好発展のための中核的組織として継続される。毎年7月30日の命日には追悼行事が組まれることになるだろう。

【最新号】武漢コロナはやっぱり兵器説が濃厚? 人民解放軍の会社「カンシノ」は、なぜ2019年8月からワクチンを作っていたのか?

2020-07-31 19:03:04 | 日記

「台湾の声」【最新号】武漢コロナはやっぱり兵器説が濃厚? 人民解放軍の会社「カンシノ」は、なぜ2019年8月からワクチンを作っていたのか?


藤井厳喜氏が武漢コロナについて最新情報を解説しています。
ぜひご覧ください。

藤井厳喜の『ワールド・フォーキャスト』
【最新号】武漢コロナはやっぱり兵器説が濃厚?
人民解放軍の会社「カンシノ」は、なぜ2019年8月からワクチンを作っていたのか?
http://taiwannokoe.com/ml/lists/lt.php?tid=QkL72nCTIumJuk7fWyAvYwAmFHfaEVyfj4Y7kvdCZTCtoPZ0nJUZa674vTtHYffk

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台湾の声

【台湾侵略防止法案】3条件で米は中国に武力行使する

2020-07-31 19:02:06 | 日記
「台湾の声」【台湾侵略防止法案】3条件で米は中国に武力行使する


アメリカン・エンタープライズ公共政策研究所(AEI)研究員のMichael
Mazzaは7月29日、共和党のテッド・ヨーホー議員が議会に提出した「台湾侵略防止法案」(the
Taiwan Invasion Prevention
Act)について投稿し、同法案ではアメリカが中国に武力行使を行う3つの条件について指摘した。そのAuthorization
for Use of Military
Force(AUMF)は以下のとおりだと指摘した。

(1)中国軍が台湾軍に対して直接武装攻撃を行ったとき
(2)中国軍が台湾の有効な管轄範囲内において領土を占領したとき
(3)台湾の有効な管轄範囲内において台湾軍や一般市民が殺害されたとき、または死亡する危険が押し迫っているとき


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台湾の声