「宮崎正弘の国際情勢解題」
令和2年(2020)9月25日(金曜日)
通巻第6651号 <前日発行>
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雅びの日本文化を破壊する懼れがあるが。。。
『大阪都』構想再批判
****************************************
吉村大阪知事は23日に記者会見を開き、10月11日に住民投票で「大阪都」構想の賛否を問うとした。松井市長も、賛同を得られなければ辞任すると宣言した。
行政改革の一環としての二重構造の解消、行政の効率化が目的としていることは賛成である。
問題は「都」という名称なのだ。「都」とは「みやび」(雅び、宮び)に由来する、天皇の御座所ではなく、皇居がある所である。だから、「大阪都」となれば、必然的に「遷都」を意味することになる。そうした歴史認識が欠如していることが最大の問題なのである。
ただし吉村知事はすこしニュアンスを変えて「副首都」を目指すとも発言している。
七世紀から八世紀にかけて、大阪の谷町から森ノ宮にかけて、宏大な難波宮があった。しかも戦後に発掘してみれば、難波宮跡地は日本最大規模の皇居だった事実が浮かんだ。
遷都が頻繁に行われた七世紀から八世紀の飛鳥、奈良時代を一覧すると次のようになる。
667 近江大津京(天智天皇)
672 浄御原宮 (天武天皇)
694 藤原京 (持統天皇)
710 平城京 (元明天皇)
784 長岡京 (桓武天皇)
794 平安京 (桓武天皇)
大津に都があったことをすっぽり忘れている向きも多いと思われる。現在の歴史学では近江大津京と呼んでいる。
近江大津京は天智天皇が即位した場所だが、わずか五年間の首都だった。遷都理由は白村江の戦い(663年)に敗れたため、天智天皇は、国防上の理由から遷都を決断された。交通至便で優位な地形の近江大津の地が選ばれた。この遷都は大化の改新から十八年後のことで、天智天皇六年(667)に、ここで即位されている。
しかし近江大津京は短命に終わった。
最大の理由は九州各地に防御陣地や山城の構築したこと。とくに太宰府には水城を造営したが、これらの造営費用が膨大だったため首都移転は難儀を極めた。最初から臨時の皇居という印象だった。
そのうえ守旧派(飛鳥派)が反対、妨害があった。天智天皇崩御のあと、後継の弘文天皇は壬申の乱で、大海皇子(後の天武天皇)に敗れた。
▼近江神宮に祀られる天智天皇
ところで、近江神宮は天智天皇が祭神である。
京阪電鉄の近江神宮駅から七、八分ほど歩くとこんもりとして森があり、その突き当たりの、いくつかの階段を上る。昭和十五年、近江神宮は皇紀二千六百年に創祀された。
小倉百人一首の第一首は天智天皇、いまでは近江大津宮のことより、カルタ競技の祭壇となった。日本で最初に時計を取り入れたのも天智天皇だった。その「遅刻」(水時計)が境内にある。近年、若い人が参詣にくるのは、漫画「ちはやふる」2500万部の影響だろう。
ちなみに小倉百人一首の第一番、天地天応の御製は、
あきのたの かりほのいほの
とまをあらみ わがころもでは つゆにぬれつつ
(秋の田の仮小屋に泊まると、屋根の苫(とま)の目が荒く、冷たい夜露が、着物の袖を濡らしてしまった)
壬申の乱で勝利した大海皇子(天武天皇)は飛鳥に戻り、浄御原宮を造営した。近江京の宮殿の主柱や仏殿、内裏正殿などを移設したため近江大津京は廃都となってしまった。
天武天皇と持統天皇は夫婦である。この天武天皇と持統天皇の18年間が浄御原宮。天武天皇の崩御後、持統天皇は飛鳥の近くに藤原京を造営、またも遷都した。
さて難波宮のことである。
歴史教科書には難波京のことを載せていないのである。長らく「まぼろしの都」と言われたのも、『日本書紀』は難波宮「焼失」と記載しただけだからだ。
▼難波宮はまぼろしの都ではなかった。実在したのだが。。。
「なんば」は難波であり、船場(せんば)、水の都。堂島、中之島という地名は海上交通のアクセスは至便である。つまり、大阪は首都というより商都である。
水運の発達は当然だが、当該地区を治める豪族の顔役がいる。縄文の大規模集落はまだ発見されないが、神武東征のおり大阪湾からの突入に失敗、熊野路へ迂回した経緯は古事記にも日本書紀にもでてくる。
周囲は縄文時代から開けていたことは確実であり、森ノ宮から縄文時代の土器が見つかっている。石山本願寺、大阪城の敷地は難波宮の一部ではないか?
戦後、本格的な発掘が始まり、 昭和32年に回廊を発見、天皇宮室と判明した。いま「難波宮史跡公園」として整備されているが、大極殿基盤と八角殿のレプリカがある。難波宮跡の北側はNHKや大阪市歴史博物館があって、これらは明らかに難波宮の敷地内であった。
それゆえ難波宮は「まぼろしの首都」ではなかった。実質として難波宮は大化の改新ののちに孝徳天皇が遷都(652年)している。
この時から元号は「大化」となり、大化の改新の刷新政治は、難波宮が舞台だった。ただし何回も火災に遭遇して、そのたびに仮御所が建てられ、ついに天武天皇は683年(天武天皇十二年)に副都制の詔をだされた。
すなわち難波宮は副都だったのだ。だから正式な首都ではなく、教科書は採用しないようだ。
副都は世界史で珍しくなく、清朝では紫禁城に加え、清朝皇帝は夏、承徳に移った。エカテリーナ女帝はサンクトペテルブルグ郊外に「冬の宮殿」を建設した。
いずれにしても、現在の行革の一環として提言されている「大阪都」構造にも、知事の言う「福首都」という発想にも、このような歴史的考察が一片もないのである。
令和2年(2020)9月25日(金曜日)
通巻第6651号 <前日発行>
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雅びの日本文化を破壊する懼れがあるが。。。
『大阪都』構想再批判
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吉村大阪知事は23日に記者会見を開き、10月11日に住民投票で「大阪都」構想の賛否を問うとした。松井市長も、賛同を得られなければ辞任すると宣言した。
行政改革の一環としての二重構造の解消、行政の効率化が目的としていることは賛成である。
問題は「都」という名称なのだ。「都」とは「みやび」(雅び、宮び)に由来する、天皇の御座所ではなく、皇居がある所である。だから、「大阪都」となれば、必然的に「遷都」を意味することになる。そうした歴史認識が欠如していることが最大の問題なのである。
ただし吉村知事はすこしニュアンスを変えて「副首都」を目指すとも発言している。
七世紀から八世紀にかけて、大阪の谷町から森ノ宮にかけて、宏大な難波宮があった。しかも戦後に発掘してみれば、難波宮跡地は日本最大規模の皇居だった事実が浮かんだ。
遷都が頻繁に行われた七世紀から八世紀の飛鳥、奈良時代を一覧すると次のようになる。
667 近江大津京(天智天皇)
672 浄御原宮 (天武天皇)
694 藤原京 (持統天皇)
710 平城京 (元明天皇)
784 長岡京 (桓武天皇)
794 平安京 (桓武天皇)
大津に都があったことをすっぽり忘れている向きも多いと思われる。現在の歴史学では近江大津京と呼んでいる。
近江大津京は天智天皇が即位した場所だが、わずか五年間の首都だった。遷都理由は白村江の戦い(663年)に敗れたため、天智天皇は、国防上の理由から遷都を決断された。交通至便で優位な地形の近江大津の地が選ばれた。この遷都は大化の改新から十八年後のことで、天智天皇六年(667)に、ここで即位されている。
しかし近江大津京は短命に終わった。
最大の理由は九州各地に防御陣地や山城の構築したこと。とくに太宰府には水城を造営したが、これらの造営費用が膨大だったため首都移転は難儀を極めた。最初から臨時の皇居という印象だった。
そのうえ守旧派(飛鳥派)が反対、妨害があった。天智天皇崩御のあと、後継の弘文天皇は壬申の乱で、大海皇子(後の天武天皇)に敗れた。
▼近江神宮に祀られる天智天皇
ところで、近江神宮は天智天皇が祭神である。
京阪電鉄の近江神宮駅から七、八分ほど歩くとこんもりとして森があり、その突き当たりの、いくつかの階段を上る。昭和十五年、近江神宮は皇紀二千六百年に創祀された。
小倉百人一首の第一首は天智天皇、いまでは近江大津宮のことより、カルタ競技の祭壇となった。日本で最初に時計を取り入れたのも天智天皇だった。その「遅刻」(水時計)が境内にある。近年、若い人が参詣にくるのは、漫画「ちはやふる」2500万部の影響だろう。
ちなみに小倉百人一首の第一番、天地天応の御製は、
あきのたの かりほのいほの
とまをあらみ わがころもでは つゆにぬれつつ
(秋の田の仮小屋に泊まると、屋根の苫(とま)の目が荒く、冷たい夜露が、着物の袖を濡らしてしまった)
壬申の乱で勝利した大海皇子(天武天皇)は飛鳥に戻り、浄御原宮を造営した。近江京の宮殿の主柱や仏殿、内裏正殿などを移設したため近江大津京は廃都となってしまった。
天武天皇と持統天皇は夫婦である。この天武天皇と持統天皇の18年間が浄御原宮。天武天皇の崩御後、持統天皇は飛鳥の近くに藤原京を造営、またも遷都した。
さて難波宮のことである。
歴史教科書には難波京のことを載せていないのである。長らく「まぼろしの都」と言われたのも、『日本書紀』は難波宮「焼失」と記載しただけだからだ。
▼難波宮はまぼろしの都ではなかった。実在したのだが。。。
「なんば」は難波であり、船場(せんば)、水の都。堂島、中之島という地名は海上交通のアクセスは至便である。つまり、大阪は首都というより商都である。
水運の発達は当然だが、当該地区を治める豪族の顔役がいる。縄文の大規模集落はまだ発見されないが、神武東征のおり大阪湾からの突入に失敗、熊野路へ迂回した経緯は古事記にも日本書紀にもでてくる。
周囲は縄文時代から開けていたことは確実であり、森ノ宮から縄文時代の土器が見つかっている。石山本願寺、大阪城の敷地は難波宮の一部ではないか?
戦後、本格的な発掘が始まり、 昭和32年に回廊を発見、天皇宮室と判明した。いま「難波宮史跡公園」として整備されているが、大極殿基盤と八角殿のレプリカがある。難波宮跡の北側はNHKや大阪市歴史博物館があって、これらは明らかに難波宮の敷地内であった。
それゆえ難波宮は「まぼろしの首都」ではなかった。実質として難波宮は大化の改新ののちに孝徳天皇が遷都(652年)している。
この時から元号は「大化」となり、大化の改新の刷新政治は、難波宮が舞台だった。ただし何回も火災に遭遇して、そのたびに仮御所が建てられ、ついに天武天皇は683年(天武天皇十二年)に副都制の詔をだされた。
すなわち難波宮は副都だったのだ。だから正式な首都ではなく、教科書は採用しないようだ。
副都は世界史で珍しくなく、清朝では紫禁城に加え、清朝皇帝は夏、承徳に移った。エカテリーナ女帝はサンクトペテルブルグ郊外に「冬の宮殿」を建設した。
いずれにしても、現在の行革の一環として提言されている「大阪都」構造にも、知事の言う「福首都」という発想にも、このような歴史的考察が一片もないのである。