『冷血』下には、歯科医師夫婦一家四人強盗殺人事件の犯人で、利根川上流の埼玉県本庄で育ったAに対して、主役のひとりである刑事Cが自分が読み終えた『利根川圖志』(以下新字)を差し入れるくだり (37P) が出てきます。また、取調べ室で調べ中のAを訪れたCに、Aが「ああーー『利根川図志』の人」という一言が発せられる (189P)、とあるなど、数箇所にこの書物が出てくるのですが、全編が旧字、旧かな遣いのこの書物を捜査畑の刑事が愛読していたり、強盗殺人犯人がこれを読みふけるといった設定には、かなり違和感を抱きました。書き手の教養が多分に反映されているに違いありませんが、どんなもんでしょうかねえ、ぴんときません。
それはさておき、利根川というのは小学校の教科書にも出てくる全国的に知られた大きな川ですね。群馬、埼玉、茨城、千葉を流下するわが国屈指の大河で“坂東太郎”と称され、広大な流域面積を持っています。そして、いまここで取り上げた『利根川図志』というのは、江戸末期の利根川流域の地誌であり、地誌とは、ある地域の自然、社会、文化などのいわゆる地理的現象を記した書物のことです。
もはや50年近く前のことになるのですが、若き日のおらは『埼玉大百科事典』という郷土百科事典の編集に携わっており、そのころ著者から上がってくる原稿の疑問点をつぶすために、この本(岩波版文庫版)を参照することがありました。それで、この度『冷血』の記述に利根川図志の名を発見した時はとても懐かしい思いがしました。
岩波版第1刷の奥付刊行日は1938年11月15日で、下に掲げる柳田御大の解題が巻頭を飾っています。
「利根川図志」の著者赤松宗旦翁の一家と、此書の中心となつて居る下総の布川といふ町を、
私は少年の日からよく知つて居る。此書が世に公けにせられた安政五年 (西暦1858) から、
ちやうど三十年目の明治二十年 (1887) の初秋に、私は遠い播州 (播磨国=兵庫県南部) の生れ在所
から出て来て、此地で医者をはじめた兄の家に三年ばかり世話になつた。さうして大いなる
好奇心を以て、最初に読んだ本がこの「利根川図志」であつた。それから又五十年、其間に
利根の風景も一変した。 後略
昭和十三年 (1938) 七月四日 柳田國男 原文旧字。( ) 内はizukun註
この画像、いずれ右回転させますが、いまはどうしても回転させられないのです。首をひねってご覧ください。図志、と題しているだけに図版が豊富です。利根川の河口なので、巻末のほうに出てくる千葉県銚子の海鹿島 (あしかじま) 海岸には、明治の中頃まではアシカが群生していたらしいです。今でも、「海鹿島町」「海鹿島駅」「海鹿島海岸」などの地名があります。何もしないのに回転していました、どうも! 10/feb/2022
こちらは右回転しました。
なんとなく、尻切れっぽいのですが、『利根川図志』の紹介はここまでです。