エノキワタカイガラムシ 2007年12月24日 | カメムシ目 エノキの葉の裏にいるエノキワタカイガラムシ。 もうすぐ落葉するはずだが、どうやって越冬するのだろうか? 傍らに生えていた粒々は、ウドンコ病の子実体のようだ。 国分寺市エックス山 1枚目:GRDⅡ 2-3枚目:E-410 14-45mmリバース改造 « スジクロシロチョウ | トップ | ヒラタアブの一種 »
4 コメント コメント日が 古い順 | 新しい順 黒豆 (新開 孝) 2007-12-25 08:50:18 エノキワタアブラムシは秋おそくから初冬にかけて両性世代が現れ,エノキの細枝の分岐部などにびっしりと卵を産みつけ,卵越冬です。 産卵当初の卵はヤマブキ色ですが,しだいに真っ黒になってしまいそうなるとわかりにくくなります。 形や色はクリオオアブラムシの卵に似ていますが,もっと小さいです。 クリオオアブラムシの卵も最初は飴色でそれがしだいに黒色になるんじゃなかったでしょうか。アブラムシ類の越冬卵には黒色が多いのですが,これって何か意味があるのかどうか? 鳥の食欲を誘う色ってのはある程度決まっているのかどうか? 返信する Unknown (糸崎) 2007-12-25 11:13:22 エノキワタカイガラムシの卵、探してみます。鳥は食べられる果実を色で判断していると考えて良さそうですが、虫を食べる場合はまた別の判断基準を使っているのではないでしょうか。緑の果実は食べなくても、緑の虫は食べるでしょうから・・・ともかく、毒を持たない虫が鳥から身を守るためには、目立たずじっとしてるしか方法がないのでしょう。今思いつきましたが、そんな風に隠れた虫を探し出すこと自体を「鳥の創造力」と言えるかも知れません。昆虫の餌を探す方法は、「遺伝的プログラム」でかなり具体的に決まっています。しかし鳥の遺伝的プログラムは緩やかで、だからこそある程度の創造性を発揮しながらでないと餌が探せないのではないかと・・・以前、カラスか何かにほじくられたオオカマキリの卵のうを見つけましたが、「これが餌だと気づいたことが鳥の創造性なのかも」とふと思いました。ムクドリやスズメドリはしきりに空き地の草むらをついばんで、何を食べてるのか分からないのですが、あれも何か創造力を発揮してるのかもしれません。そして、近代以前の人間はそうした動物たちの創造性に多くを学んでいたのかもしれななどと、「日本人はなぜキツネにだまされなくなったのか」という本を読んで思ったりしてます。http://www.uthp.net/tyosyopage.html 返信する 餌さがし (新開 孝) 2007-12-25 14:41:19 鳥の『創造力』というのはおもしろい考えですね。だとすると冬場のような時期こそその創造力がもっとも発揮されるのでしょうね。鳥は動くものを察知する視覚的能力はたいへん優れていますが,それがピタリと動きを止めてしまえばたちまち姿を見失ってしまいます。虫もそれを承知の上なのかピクリとも動かない術を身につけていますし,それもできるだけ効果を高めるための紋様や体型,姿勢にまで気を配ってきたわけです。 しかしそうはいっても虫は動物ですからいつかは動いて移動する必要があり,そのタイミングが鳥の探索行動と重なってしまえばあっけなく食べられてしまいます。そのとき鳥は「ああ,そうかこういう場所ではこんな獲物が手に入るんだった」という餌さがしの認識パターンを手に入れるのではないでしょうか。だからこのあたりで探せばという当たりをつけて餌を探す様子をときどき観察できます。ただ餌探しの認識パターンはさまざまにあって,それらが時間を経るごとにモザイク状に別のものに置き換えられたりしながら,自然界の多様さをうまく利用しているように見受けます。 そういった一度は動いてくれた虫の場合には簡単に学習を積むことができるわけですが,卵やどこかに隠れて潜んでいる虫を探し出す能力にはやはり創造力も必要なのかもしれません。 鳥は動かないものや隠れている餌を探し出す行動パターンは生得的にもっていて,落ち葉をはぐってみる,ウロの中を覗き込んでみる,でっぱたものを突いてみるといった細かい行動プログラムはおそらく鳥には備わっているのではないでしょうか。そんな内容のことを生物行動学あたりで読んだような気もしますが。 行動パターンを発揮して動き回った結果,そこでたまたま見つけた餌の情報はおそらく遺伝していかない。遺伝するのは行動パターンだけのような気がします。そういうことも何処かで読んだ気もします。するとこのような体験的な情報を個々の鳥が有効に活かしていくには創造力のようなもので補っていく必要もあるかとそんな気がしました。学習の繰り返しだけではいかにも効率が悪過ぎます。鳥なんて短い人生でしょうから,あまり呑気なことややたら無駄骨を繰り返してラッキーを追いかていくだけではお腹を満たしていくことができないかもしれません。 人のなかでも虫屋という方々は(私もですが)特定の虫探しをする場合にある程度以上の感を使います。それは情報として記述できない能力です。 自然界にある餌である鳥にとって何が餌となりうるのかだいたいは決まっていると思います。しかし食べられるメニューがきわめて限られた種類はともかく,さまざまなメニューをこなせる鳥の場合,その一生のあいだにいろんなメニューにありつけた方が生きて行き易いと思います。人の場合はメニューが広がることを楽しいと感じるわけです(そうではない人もたくさんいますけど)。できるだけ豊富なメニューにたどりつくには創造力というものがあったほうがいいのかもしれません。 内山節さんという方の『森にかよう道』という本はずっと以前に読んだことあるのですが,今自分が小さな林を手入れしていくにあたって,もう一度その本を読み直しているところでした。 この本は森と人との関係の根源を語っているのですが,人の営みのたしかさが森を守る,健全に存続させる,といった視点に注目しています。 この機会に他の著書も読んでみることにしました。 返信する Unknown (糸崎) 2007-12-26 09:48:02 人間の「遺伝的プログラム」はほかの動物に比べて格段に緩やかですが、それを補うために創造力を発揮して「文化的プログラム」を作り出し環境に適応します。しかしいったん文化的プログラムが出来上がってしまうと、もう創造力を発揮する必要もなくなり、既成の文化的プログラムに従うだけの「動物的」な存在になります。この「動物的」というのは現代思想の用語で、特に現代の高度情報化社会の「前提」を疑わず、ただそれに妄信するような人々を指した言葉です。現代人がどれだけ動物的なのかは人によって違うでしょうし、ぼく自身の中にも「動物的」」な要素は多分に含まれているはずです。ともかく、人間には「既成の文化的プログラムを創造力で改変する人間的側面」と、「規制の文化的プログラムを妄信する動物的側面」の二面性があると言えます。だったら、主に「遺伝的プログラム」に規定されて行動する動物にも、そのプログラムの不足を補うような「創造力」があると考えてもいいかも?と、ふと思ったのです。しかし動物には「言葉」がありませんから、その創造力は世代を超えて伝達し発達することはなく、すなわち文化にはなり得ません(一部例外はあるようですが)。ただ、人間と動物の違いは言葉のあるなしで、「創造力」自体は案外共通したものなのかもしれません。これは真理の追究というより、ものの見方の模索です。科学というもの自体、「真理の追究」より「ものの見方の提案」として考えたほうが、自分にはしっくりします。内山節さんの本はまだ一冊しか読んでませんが、かなり面白そうな方です。哲学者でありながら頭で考えるだけでなく、山村で暮らしながらいわば身体を含めて考えることを実践されている方で、非常に刺激になります。 返信する 規約違反等の連絡 コメントを投稿 goo blogにログインしてコメントを投稿すると、コメントに対する返信があった場合に通知が届きます。 ※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます 名前 タイトル URL ※名前とURLを記憶する コメント コメント利用規約に同意の上コメント投稿を行ってください。 コメント利用規約に同意する 数字4桁を入力し、投稿ボタンを押してください。 コメントを投稿する
産卵当初の卵はヤマブキ色ですが,しだいに真っ黒になってしまいそうなるとわかりにくくなります。
形や色はクリオオアブラムシの卵に似ていますが,もっと小さいです。
クリオオアブラムシの卵も最初は飴色でそれがしだいに黒色になるんじゃなかったでしょうか。アブラムシ類の越冬卵には黒色が多いのですが,これって何か意味があるのかどうか?
鳥の食欲を誘う色ってのはある程度決まっているのかどうか?
鳥は食べられる果実を色で判断していると考えて良さそうですが、虫を食べる場合はまた別の判断基準を使っているのではないでしょうか。
緑の果実は食べなくても、緑の虫は食べるでしょうから・・・
ともかく、毒を持たない虫が鳥から身を守るためには、目立たずじっとしてるしか方法がないのでしょう。
今思いつきましたが、そんな風に隠れた虫を探し出すこと自体を「鳥の創造力」と言えるかも知れません。
昆虫の餌を探す方法は、「遺伝的プログラム」でかなり具体的に決まっています。
しかし鳥の遺伝的プログラムは緩やかで、だからこそある程度の創造性を発揮しながらでないと餌が探せないのではないかと・・・以前、カラスか何かにほじくられたオオカマキリの卵のうを見つけましたが、「これが餌だと気づいたことが鳥の創造性なのかも」とふと思いました。
ムクドリやスズメドリはしきりに空き地の草むらをついばんで、何を食べてるのか分からないのですが、あれも何か創造力を発揮してるのかもしれません。
そして、近代以前の人間はそうした動物たちの創造性に多くを学んでいたのかもしれななどと、「日本人はなぜキツネにだまされなくなったのか」という本を読んで思ったりしてます。
http://www.uthp.net/tyosyopage.html
だとすると冬場のような時期こそその創造力がもっとも発揮されるのでしょうね。
鳥は動くものを察知する視覚的能力はたいへん優れていますが,それがピタリと動きを止めてしまえばたちまち姿を見失ってしまいます。虫もそれを承知の上なのかピクリとも動かない術を身につけていますし,それもできるだけ効果を高めるための紋様や体型,姿勢にまで気を配ってきたわけです。
しかしそうはいっても虫は動物ですからいつかは動いて移動する必要があり,そのタイミングが鳥の探索行動と重なってしまえばあっけなく食べられてしまいます。そのとき鳥は「ああ,そうかこういう場所ではこんな獲物が手に入るんだった」という餌さがしの認識パターンを手に入れるのではないでしょうか。だからこのあたりで探せばという当たりをつけて餌を探す様子をときどき観察できます。ただ餌探しの認識パターンはさまざまにあって,それらが時間を経るごとにモザイク状に別のものに置き換えられたりしながら,自然界の多様さをうまく利用しているように見受けます。
そういった一度は動いてくれた虫の場合には簡単に学習を積むことができるわけですが,卵やどこかに隠れて潜んでいる虫を探し出す能力にはやはり創造力も必要なのかもしれません。
鳥は動かないものや隠れている餌を探し出す行動パターンは生得的にもっていて,落ち葉をはぐってみる,ウロの中を覗き込んでみる,でっぱたものを突いてみるといった細かい行動プログラムはおそらく鳥には備わっているのではないでしょうか。そんな内容のことを生物行動学あたりで読んだような気もしますが。
行動パターンを発揮して動き回った結果,そこでたまたま見つけた餌の情報はおそらく遺伝していかない。遺伝するのは行動パターンだけのような気がします。そういうことも何処かで読んだ気もします。するとこのような体験的な情報を個々の鳥が有効に活かしていくには創造力のようなもので補っていく必要もあるかとそんな気がしました。学習の繰り返しだけではいかにも効率が悪過ぎます。鳥なんて短い人生でしょうから,あまり呑気なことややたら無駄骨を繰り返してラッキーを追いかていくだけではお腹を満たしていくことができないかもしれません。
人のなかでも虫屋という方々は(私もですが)特定の虫探しをする場合にある程度以上の感を使います。それは情報として記述できない能力です。
自然界にある餌である鳥にとって何が餌となりうるのかだいたいは決まっていると思います。しかし食べられるメニューがきわめて限られた種類はともかく,さまざまなメニューをこなせる鳥の場合,その一生のあいだにいろんなメニューにありつけた方が生きて行き易いと思います。人の場合はメニューが広がることを楽しいと感じるわけです(そうではない人もたくさんいますけど)。できるだけ豊富なメニューにたどりつくには創造力というものがあったほうがいいのかもしれません。
内山節さんという方の『森にかよう道』という本はずっと以前に読んだことあるのですが,今自分が小さな林を手入れしていくにあたって,もう一度その本を読み直しているところでした。
この本は森と人との関係の根源を語っているのですが,人の営みのたしかさが森を守る,健全に存続させる,といった視点に注目しています。
この機会に他の著書も読んでみることにしました。
しかしいったん文化的プログラムが出来上がってしまうと、もう創造力を発揮する必要もなくなり、既成の文化的プログラムに従うだけの「動物的」な存在になります。
この「動物的」というのは現代思想の用語で、特に現代の高度情報化社会の「前提」を疑わず、ただそれに妄信するような人々を指した言葉です。
現代人がどれだけ動物的なのかは人によって違うでしょうし、ぼく自身の中にも「動物的」」な要素は多分に含まれているはずです。
ともかく、人間には「既成の文化的プログラムを創造力で改変する人間的側面」と、「規制の文化的プログラムを妄信する動物的側面」の二面性があると言えます。
だったら、主に「遺伝的プログラム」に規定されて行動する動物にも、そのプログラムの不足を補うような「創造力」があると考えてもいいかも?と、ふと思ったのです。
しかし動物には「言葉」がありませんから、その創造力は世代を超えて伝達し発達することはなく、すなわち文化にはなり得ません(一部例外はあるようですが)。
ただ、人間と動物の違いは言葉のあるなしで、「創造力」自体は案外共通したものなのかもしれません。
これは真理の追究というより、ものの見方の模索です。
科学というもの自体、「真理の追究」より「ものの見方の提案」として考えたほうが、自分にはしっくりします。
内山節さんの本はまだ一冊しか読んでませんが、かなり面白そうな方です。
哲学者でありながら頭で考えるだけでなく、山村で暮らしながらいわば身体を含めて考えることを実践されている方で、非常に刺激になります。