TAPギャラリーでの個展会場で4/6に行なわれたギャラリートーク『写真とは何か?とは何か?』を終えて書いたtwitterをまとめた記事。
途中での対談相手の山方伸さんから「自分が言ったこととちょっと違う」というようなご指摘tweetがありましたが、長い記事を訂正しながら書き直すのは大変だし、まぁ大意は同じだろうと判断して、そのまま掲載することにしました。
といっても長いので2分割します。
4/6に行なわれたTAPギャラリーでの対談で、ゲストの山方伸さんと「現実と写真のズレ」の話になった。
写真は文字通り捉えると、真実を写し取ったものだ。
しかし実際は現実と、その場を写した写真との間には、必ず何らかのズレがある。
山方さんが言うには、現実として見て「面白い」と思える風景が、必ずしも写真として見て「面白い」と思える風景」であるとは限らない。
だから現実として見た面白さに惑わされると、写真として見た面白さを見誤ってしまう。
現実として見た風景は、目で見るだけでなく、風や香りを感じ、またその場を歩き回るなどして、五感を総動員ながらその「面白さ」を感知する。
しかし写真には風か吹かず香りもなく立体でもない。
写真の「面白さ」は平面上の視覚情報に圧縮もしくは還元される。
山方さんはそこを意識して写真を撮る。
山方伸さんは、現実として「面白い」と思える風景は、写真には撮らない、と言う。
なぜならその風景の面白さは、写真として見た面白さとは別物だからだ。
だからあくまで写真として表現した時の効果を考慮して、撮影すべき風景をセレクトしてると言うのだ。
一方ぼくも「現実と写真のズレ」は当然ながら意識している。
ぼくは大学卒業後、改めて写真を始めようとした時、現実として見て「良い」と思った風景が、写真にはちっとも写らない事に絶望した。
そこで写真をより現実に近づけるべく、視点移動を再現した「ツギラマ」や、立体の「フォトモ」を編み出した。
しかしもちろん写真がツギラマやフォトモになろうとも「現実そのもの」になるわけではなく、ズレが生じることには変わりない。
そしてぼくは自分が「良い」と思った現実のうち、ツギラマの表現に適した「良さ」をピックアップして撮影し、フォトモの表現に適した「良さ」をピックアップして撮影する。
そして『反ー反写真』では、自分が「良い」と思った現実のうち、「写真表現」に適した「良さ」をピックアップして撮影している。
ぼくは最初に体験した「写真の写らなさ」を改めて受け入れる事で、「自分には普通の意味での良い写真は撮れない」という思い込みを克服したのだ。
しかし、山方さんが考える「現実と写真のズレ」と、ぼくが考える「現実と写真のズレ」は、同じようでいて実のところ根本的にズレがある。
これは何がきっかけなのかは思い出せないのだが、対談してるうちに「あっ、そうだったのか!」と突然気づいたのだ。
山方さんとぼくとで共通しているのは「写真はバーチャルリアリティだ」と言う認識だ。
しかし山方さんは、現実についてはそれがバーチャルリアリティだと認識していない。
もちろん仮想現実としての写真に対し、文字通りに現実がある、と思うのは常識的感覚だ。
そこから「現実 : 写真」の対立思考が生じる。
ぼくは、実は現実もバーチャルリアリティだと思っている。
言葉の定義としてはおかしいが、改めて考えると、人間にとって現実は「五感」を通して認識される。
だから人間にとっての「現実」とは、五感が生み出したバーチャルリアリティに過ぎない。
そして「五感の外」にある「本当の現実」を認識できない。
人間が認識する現実は「五感」を通したバーチャルリアリティに過ぎず、だから「本当の現実」は認識できず、これがラカンの言う《現実界》だ。
しかし「五感」がそのまま人間の現実認識になるかと言えば、そうではない。
例えば、人間の目に映る像は、物理的現象として見れば「光の濃淡のシミ」でしかなく、それは写真像も同じだ。
目に映る像が何であるか?
写真に何が写っているのか?
それを認識するには、実のところ「それが何であるか」をあらかじめ知識として知っている必要がある。
例えば自分が目の前の「家」を認識できるのは、「家とはどんなものか」の知識が自分に備わっているからだ。
「お金とはどんなものか」の知識のない人は、道に落ちた一万円札に気づかず通り過ぎてしまう。
だから子供は知識を養い、認識力を高める。
認識力は視力の問題ではなく、知識力がものを言う。
認識に必要なそれぞれの知識は、相互に関係し合って「知識の網の目」を形成する。
例えば「家」を知る為には「柱」「屋根」「壁」「土地」「道路」「街」など連鎖的に関係する知識を知る必要がある。
さらに知識の連鎖は「国家」「宇宙」「人間」「細胞」などどこまでも続き広大な「知識の網の目」になる。
認識に必要な「知識」とは「言葉」であり、「知識の網の目」のは「言葉の網の目」なのである。
「家」という言葉は「屋根」「部屋」「家族」「住む」「建てる」「産まれる」「死」など、あらゆる言葉と連鎖し「言葉の網の目」の構成要素となる。
そしてこれがラカンの言う《象徴界》なのである。
人間の目に映る像は、物理現象としては「光の濃淡のシミ」でしかなく、認識以前の《現実界》だ。
そこに「言葉の網の目」である《象徴界》を被せて見ると、バーチャルリアリティとしての《想像界》が認識されるようになる。
人間が素朴に「現実だ」と思っているのは、実はバーチャルリアリティとしての《想像界》でしかない。
《想像界》は、「言葉の網の目」である《象徴界》の作用によって、「認識以前の世界」である《現実界》のいわば影として、人間の認識世界に映し出される。
人間が認識する現実は「言語」の作用によるバーチャルリアリティでしかない。
この認識は「言語論的転回」と言われる現代思想の基礎である。
しかしこの理論は『般若心経』の「色即是空」「空即是色」の教えが先取りしている。
さらに最古の仏典『ブッダの言葉』は「一切のものは虚妄である」と説いている。
人間が認識する現実が虚妄にすぎないことは、古代文明時代から人類に知られていた。
しかしそのカラクリを知らない者は、素朴に「現実がある」と認識する。
また認識のカラクリを理屈として理解できても、「現実は虚妄だ」と心の底から実感できない人は、やはり感覚的には「素朴な現実」を信じている。
しかしぼくはどう言う訳か、「目の前の現実」がバーチャルリアリティであり、虚妄であるという、強い実感がある。
ぼくにとって「目の前の現実」は、あると思えば無いし、無いと思えばあるし、まさに「色即是空」「空即是色」として実感できる。
だからぼくにとって「目の前の現実」も、「現実を撮った写真」も、バーチャルリアリティという本質は同じなのだ。
そしてぼくはバーチャルリアリティのバリエーション展開として、ツギラマやフォトモやデジワイドなどの手法を思い付き、表現に取り入れる。
ぼくの写真作品は、もちろんどれもバーチャルリアリティに過ぎないが、自分のつもりとしては認識不可能な《現実界》を指し示す「矢印」の機能を持たせている。
それは実際に街を歩く時も同じで、ぼくは目に見えるバーチャルリアリティとしての《想像界》を見ながら、さらにその向こう側の《現実界》を常に意識している。
それが《非人称芸術》のコンセプトであり、それは今回の個展の『反ー反写真』にも通底している。
(以下に続く)