糸崎公朗ブログ1・路上ネイチャー協会

写真家・糸崎公朗のブログです。『子供の科学』と『デジカメWatch』で連載をしています。

4月号のお知らせ

2012年04月30日 | 告知


「Fraction Magazine Japan」というウェブ上の写真雑誌に、未発表の新作『ニッポン・マイクロシーベルト』がアップされました。



■『リコー「GXR MOUNT A12」にチノンの“AFレンズユニット”を装着
デジカメ情報サイト「デジカメWatch」に連載の「切り貼りデジカメ実験室」更新しました。



■『子供の科学 2012年5月号
連載中の「カメラで見つけた!よりみち自然観察」の今月は「本に止まった小さなハチ」です。



■『日本カメラ 2012年4月号
モノクログラビアページに『反-反写真』が掲載されてます。



*終了しました
糸崎公朗写真展『反-反写真』
会期:2012年4月3日(火)~15日(日)。会場:TAP Galleryhttp://tapgallery.jp
■ギャラリートーク「写真とは何か?とは何か?」
4月6日(金)18:30~ ゲスト / 山方伸(写真家)



*終了しました
八重洲ブックセンター特別講演会『FUKUSHIMA ART は可能か?』

八重洲ブックセンターで開催されるトークイベントに、ゲスト出演します。また会場では『彦坂尚嘉・糸崎公朗 FUKUSHIMA ART 二人展』も同時開催します。日時:201年4月20日(金)午後6時30分~午後8時00分。場所:八重洲ブックセンター本店 8階ギャラリー

《象徴界》の言語と《想像界》の言語

2012年04月29日 | 芸術・哲学・宗教・科学

2012/4/3~4/15にTAP Galleryで開催した個展『反ー反写真』を観た友人が、後日ぼくのことを心配してくださって、メールを送ってくれました。
その後、長めのメールのやりとりになり、ぼくとしてはずいぶん考えが進んだので、自分が返信したぶんだけ掲載してみます。
が、記事としては長くなり過ぎましたので、本文は「Read More」で表示されるよう設定しました。
リンク先は旧「反省芸術ブログ3」ですが、こういう使い分けの仕方を試してみます。
ちなみに、gooブログは「続きを読む」の設定ができないのです。
きわどい内容が含まれるため、名前は伏せ字にした他、内容も一部改変しました。

Read More

小乗仏教と個人主義

2012年04月28日 | 芸術・哲学・宗教・科学
◆仏教の「大乗」に対し「小乗」というのは本来は蔑称なのだが、それでも尚ぼくは「小乗仏教」の呼び名が好きである。
というのは初期仏教は徹底した「個人主義」で、ぼくもまた個人主義だから。
最古の仏典『ブッダのことば』には、徹底して厳しく「自分」に向き合う法が説かれている。
「個人主義」と「自分勝手」は異なる。
個人主義は、徹底して「個人」にこだわり、ゆえに個人の成分が数多の「他人」で出来ていることを見極める。
個人主義を気取りながら「個人の中の他人」を自覚できない者は、無自覚に他人に頼って迷惑をかけるので、周囲から「自分勝手」と言われる。

◆生きた人間が息を吸ったり吐いたり呼吸するように、人間が生命を吸ってこの世に生まれ、生命を吐き出して老いて死に、再び生命を吸って生まれ変わる、というサイクルがとてつもなく苦痛で、二度と生命を吸って生き返らず、二度とこの世の空気を吸わないようにする方法を考えたのが、仏教だと言える。
つまり充実して目覚めた人は、眠ったり起きたりというサイクルを否定した「永遠の目覚め」を望み、更にそれを超えて充実して目覚めた人は、死んだり生まれ変わったりというサイクルを否定した「永遠の目覚め」を望む。
充実して目覚めた人は、眠らなくてはいけないことを惜しいと考える。しかし眠ってしまえば楽しい夢を見て、そのまま目覚めないことを願う。だが再び目覚めて充実した現実に触れると、何の実態のない夢の世界はくだらないと考える。

◆《象徴界》の精神の持ち主は「あるがまま」を見ようとする。
なぜなら「あるがまま」は《象徴界》との対比によって《想像界》として対象化されるから。
《想像界》だけの精神の持ち主は、《象徴界》を持たないが故に《想像界》を対象化できず、「あるがまま」を見ることもできない。
判断に迷った時、《象徴界》の精神に従えば、決して間違うことがない。
なぜならあらゆる事柄を「喩え話」と捉える限り、どのような判断であっても「間違い」と言うことにはならないからである。
《想像界》の精神の中で「救われたい!」と望んでいる人に対し、《象徴界》的に介入し、救いの手を差し伸べることは、徒労であるが故に倫理に反する。

◆喩え話が理解できない人に、喩え話の必要性を理解してもらうことは出来ない。

◆バカを恨むと消耗するだけだが、バカを分析することは自分の糧になる。
よって、バカは恨みの対象ではなく、感謝の対象としなければならない。

◆世間の人の多くはTwitterの自動投稿BOTと同じで、決まった内容の投稿をランダムに繰り返し、こちらが話しかけてもまともな返答は返ってこない。

◆大人の言う事を間に受けて「ガリ勉」だった子供は、大人になっても「喩え」が理解できず、世間的価値観を間に受けて、学校の成績を上げる感覚で出世して偉くなり、地位や名誉や利権を「点数」と見なしてしがみ付く。
子供の頃優等生だった人は、その価値観に縛られて、社会人になってからも、《世界》そのものを「学校のようなもの」として捉える。学校は基本的に不測の事態が起こり得ない閉鎖空間であり、そのような感覚で《世界》を捉えるエリートは、「想定外」の事態に対応できない。

◆《想像界》だけの精神の持ち主は、銭や権力や愛情や真心や真実など、何でも「実体」と思い込みそれらに振り回される。《象徴界》の精神の持ち主は、銭や権力や愛情や真心や真実など、何でも「喩え」と捉えその裏の真実を見ようとする。

◆「喩え話が通じない人」といかにして通じるか?
最古の仏典『ブッダのことば』には「そのような人間との交わりは絶つべきである」と説かれてるが、実際にはそのようなわけにいかない場合も多く、この教え自体を「喩え」と捉え、その真意を見極めなければならない。

喩え話としての『ブッダのことば』を理解するには、それだけを読んでもダメで、大乗経典が良い副読本になる。
例えば『法華経』によると、喩え話が通じない人に「本当の事」を教えても絶望的に理解され得ないので、一切の真実を伝える必要はない、と説いている。

「喩え話が通じない人」は、こちらが謙遜すればそれを文字通りに受け取って蔑み、ありのままを伝えてもそれを文字通りに受け取って蔑む。
そして、嘘と虚飾とで騙る人を尊敬する。

「喩え話が通じない人」は「この世の真理は喩えである」という真理が理解できず、だからこそ彼らの素朴な感覚に合わせ、「実態としての真理」がいかに素晴らしいかを大袈裟すぎるくらいの嘘で塗り固めて説明すると、ちょうどいい塩梅に尊敬され感謝され、それが『法華経』という経典なのである。

◆動物はどの種類もみな純粋無垢で可愛らしく、人間の子供も動物と同じく純粋無垢で可愛らしい。
だが子供はどこかで道を外して「世間の人」となり、道を外さなかった者が「世間から外れた人」となり、世間から後ろ指を指されるようになる。