虫の写真とはぜんぜん関係ないのですが、今日は写真展のDMの作成に掛かりきりでした。
いや実は先週からやってたのですが、慣れない作業なのでずいぶん時間が掛かってしまいました。
ぼくはイラストレーターというソフトがどうも苦手で敬遠してきたのですが、そうも言っていられないので、デザイナーの友人に集中講義を受けて、なんとかやり方の基本を覚えたのです。
で、自分のDMのデザインを初めて自分でやって、データを制作したのです。
それで昼間業者にデータを送ったのですが、「データ不備」と言うことでやり直しの指示があり、先ほど最入稿したのでした。
不備というのは、文字のアウトライン化がしてないとか、トンボがなかったりとか、モノクロ写真がカラーデータだったりとか、基本がぜんぜんなってませんでしたw
それにしても、ぼくがなぜモノクロ写真を撮るようになって、しかも個展まで開いてしまうのか?
と言うのは実のところ自分でもよく分かってませんw
そもそも自分に分からないものを、理解するために撮り始めたのがこの「反ー反写真」のシリーズなのです。
「分からない」とは実は婉曲な表現で、直接的には「嫌い」ということです。
ですからぼくは自分が嫌いなモノクロ写真の良さを理解したくて、自分でモノクロ写真を撮ることにしたのです。
ではその結果、どれだけモノクロ写真が好きになったのか?と言えば、まだよく分からないというのが、正直なところです。
よく分からないものを探求するのは哲学の領分ですが、ぼくの写真は哲学的と言えるかも知れませんw
いや有り体に言うと、普通は「自分の好きなもの」を追求するのがアーティストだと思われています。
しかし自分にも思い当たることはあるのですが、「自分の好きなもの」を追求していると、どうしてもそのうち行き詰まってしまうのです。
つまり「好きなもの」とは「良さが理解できるもの」でもあり、理解できるのだから探求心も要らないわけで、探求のない表現はけっきょくマンネリになってしまうわけです。
しかし、古代ギリシアの哲学者プラトンの本を読むと、プラトンの師であるソクラテスは、「自分の好きなもの」を横に置いてでも、ともかく「自分の分からないもの」を追求してるのです。
例えばソクラテスの好きな美少年(古代ギリシアはホモ文化でもありますw)が一緒の布団に入ってきても、「自分の分からないもの」の追求のためにそっぽを向いて指一本触れないのです。
また、最後は自分の命をも惜しむことなく、「自分の分からないもの」の追求のため、不当な死刑判決を甘んじて受け入れたのです。
それを考えると、アーティストも「アートを追求する人」であるわけで、だったら「自分の好きなもの」だけではなく、むしろ「自分の分からないもの」を追求すべき、と言うことができます。
もっとも、ぼくがモノクロ写真を撮ろうと思い立った当初は、そんなことまで考えてませんでしたが、いろいろ本など読んでから考えると、そう言うことではないかと思うのです。
そもそもぼくは虫好きを自称しており「嫌いな虫はいない」と公言する博愛主義者でもあるのですがwしかしことアートに関しては「自分の好み」にこだわって、あれが嫌いだのこれが嫌いだのとえり好みをしていて、「モノクロ写真」もその一つだったのでした。
と言うわけで、ここまで書いてふと気付いたのですが、内容が「ブログ3」みたいな長い文章になってしまいましたw
まぁ、ともかく博愛主義は世界を救うと言うことで、なんでも好き嫌いせずに食べたほうが、体も心も健全ではないかと思うわけです。