糸崎公朗ブログ1・路上ネイチャー協会

写真家・糸崎公朗のブログです。『子供の科学』と『デジカメWatch』で連載をしています。

右往左往から中庸へ(ブログの方針について)

2011年04月03日 | 告知


あらためてこの「ブログ1」の方針についてです。

当面は、ぼくが収集した地震・原発事故に関する情報を、記事として掲載することにします。
その際、自分の解釈や感想はあまり書かずに、シンプルに情報を掲載していこうと思います。
これは基本的には自分用のメモなのですが、整理も兼ねてブログで公開することにしたわけです。
本来の「路上ネイチャー」の写真も、これまでと同様マイペースでアップしていきます。
まぁ、「路上ネイチャー」のコンセプト上、環境を考える意味で特に原発事故に触れないわけにいかないわけで、自分としては整合性があるつもりでいます。
一方の「ブログ3」には単なる情報ではなく、いろいろ理屈っぽいことを書くつもりでいますが、そうやって「ブログ1」と差別化しようと思ってます(この記事だけは理屈長めにを書きますが)。

自然観察系のブログをいろいろ見てますと、震災後も方針を変えることなく、淡々と自然観察の記事をアップされている方も多いようで、これも立派な態度だとぼくは思います。
被災を免れた写真家にできることは「通常業務をこなすこと」であり、それは多くの人に勇気と安心感をもたらすのではないかと思います(少なくともぼくにとってはそうです)。
また、地震の日を跨いだ日々の記録は、貴重な資料になるだろうと思います。

一方ぼく自身は地震後は何だか右往左往していて、長野の実家に帰省してまた戻ったりして、ブログの更新も途絶え気味だったりしてダメな感じです(笑)。
実際にも「糸崎さんはオタオタして見苦しい」というような批判も、ある方からいただきました。
しかし言い訳みたいに聞こえるかも知れませんが、ぼくは今回の原発事故については、半ば意識的にオタオタと右往左往しているのです。

というのも、ぼく自身は原発の危険性について予備知識がほとんど無く、そんな自分の「無知」を意識して正面から向き合うことにしたのです。
無知である自分は、ともかくネット上で情報収集するしかありません。
そして無知であるがゆえに、さまざまな情報に踊らされて振り回されて、右往左往するしかないのです。
しかし、そうやって徐々に情報が蓄積されれば、右往左往の振幅は収まり「中庸」に落ち着くのではないかと思っているのです。

実は最近のぼくは古代ギリシアや古代中国の古典(プラトンとか論語など)を読んでるのですが、それらに共通して「極端に偏らない中庸(中道)を目指すこと」というように書いてあります。
「極端」とは何かといえば、「情報に偏りがある」ということで、これは「無知」を表しています。
「無知」というのは「情報が少ない」状態であり、だから「情報に偏りがある」わけです。
しかし自分の無知を自覚して、さまざまに極端な情報をできるだけ多く仕入れれば、そのうち自分なりの「中庸」が編集されるのではないかと思います。

ぼくはここで「編集」という言葉を使いましたが、さまざまに極端な情報を編集することで「中庸」というバランスが生じるのではないかと思うのです。
「中庸」には「唯一の客観的正解」というものはなく、各自が自分なりに情報を収集し、それらを編集し、それぞれの「中庸」を見出すしかありません。

今回の原発事故によって日本各地が「安全のグレーゾーン」になってしまいましたが、それに対して「いち早く疎開する」のか「落ちついいて住み続ける」のか、どの判断が「中庸」なのかは客観的に判断できず、各自の「編集」によるのだと思います。
しかしいずれにしろ、より確実性の高い「中庸」を見出すためには、より多くの情報が必要です。
というわけでぼくの情報収集力は大したことはないのですが、自分の「訓練」のためにも地震・原発関連の情報はアップしていこうと思っています。

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2 コメント

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Unknown (schlegel)
2011-04-03 17:31:09
中庸の庸は凡庸の庸(笑)
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Unknown (糸崎)
2011-04-03 23:20:42
>中庸の庸は凡庸の庸(笑)

いや、なかなか的確な指摘ですが、実は「中庸」と「凡庸」は似て非なるものなのです。
ソクラテスや孔子が語ることによると、凡庸というのは実のところ極端で偏っているのです。
凡庸というのは「世間体」とか「一般常識」と同じような意味ですが、これは時代や地域ごとによって変わります。
これに対し「中庸」は、時代や地域の違いを超えた「普遍」を目指します(到達できるかはともかく目指すわけです)。

今の問題に置き換えると、3月11日以前の日本では「原発は安全」というのが世間の常識であって凡庸な考えでした。
しかし今では、これがいかに極端に偏った考えであったかが誰の目にも明らかになりつつあります。
一方「原発は危険」は、3月11日以前は非常識で極端な考えだと世間ではされていましたが、いろんなデータを照合すると、やっぱり原発は危険と考えるのが「中庸」であって、それを事故の前から指摘している少数の人たちがいたのです。
で、ぼくは考えることをサボって、原発に関しては「凡庸」を採用していたのですが、遅ればせながらその態度を反省してるのです。
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