第3回目は昭和51年から昭和63年までの秋季中国大会の振り返りです。昭和の晩期と言いますか、それまでの強豪、古豪と呼ばれた学校に取って代わろうとする新興勢力の台頭が見え始めた時期と言えます。この傾向は、岡山県や中国地区にとどまらず全国的な広がりとなっていったように感じます。
【第47回】※1976年
▽1回戦
岡山南 1-0 八頭
米子東 2-1 下関商
▽準々決勝
広島商 3-0 宇部工
瀬戸内 5-2 浜田
岡山南 3-2 出雲
米子東 1-1 水島工
米子東 1-0 水島工(再試合)
▽準決勝
岡山南 6-3 広島商
瀬戸内 2-0 米子東
▽決勝
岡山南
000 013 000│4
000 100 100│2
瀬戸内
(南)上原-小倉
(瀬)芳賀・福本・芳賀-伊藤
◇選抜出場校
*岡山南,瀬戸内,米子東
【第49回】※1977年
▽1回戦
崇徳 6-1 倉吉産
岡山東商 8-1 江津工
▽準々決勝
南陽工 2-0 益田
崇徳 4-0 岡山南
広陵 4-0 米子商
岡山東商 7-0 柳井商
▽準決勝
南陽工 3-0 崇徳
岡山東商 7-3 広陵
▽決勝
南 陽 工
200 000 000│2
000 200 01X│3
岡山東商
(南)津田-国本
(東)藪井-綾野
◇選抜出場校
*岡山東商,南陽工,崇徳,益田
【第51回】※1978年
▽1回戦
岡山南 3-2 境
倉吉北 7-1 浜田
▽準々決勝
下関商 1-0 益田
府中東 7-1 山口鴻城
崇徳 3-2 岡山南
倉吉北 2-0 玉野
▽準決勝
下関商 6-1 崇徳
府中東 4-3 倉吉北
▽決勝
府中東
000 000 001│1
001 120 00X│4
下関商
(府)片岡―浅野
(下)山本―楠
◇選抜出場校
*下関商,府中東,倉吉北
【第53回】※1979年
▽1回戦
三次 4-1 山口鴻城
倉吉北 6-1 邇摩
▽準々決勝
松江商 8-6 鳥取商
広陵 4-1 関西
岡山理大附 6-5 三次
倉吉北 4-4 岩国商
倉吉北 2-0 岩国商(再試合)
▽準決勝
松江商 7-1 岡山理大附
広陵 5-2 倉吉北
▽決勝
松江商
000 000 000│0
001 003 00X│4
広 陵
(松)若林・永原-屋敷・汐入
(広)渡辺-原
◇選抜出場校
*広陵,松江商,岡山理大附,倉吉北
【第55回】※1980年
▽1回戦
岡山理大附 4-3 広島工
倉吉東 3-2 宇部商
▽準々決勝
倉吉北 9-0 江津工
尾道商 12-4 松江農林
岡山理大附 7-2 下関工
作陽 3-1 倉吉東
▽準決勝
岡山理大附 6-1 倉吉北
尾道商 2-1 作陽
▽決勝
岡山理大附
000 000 100│1
110 000 00X│2
尾 道 商
(理)楢崎-大曽根
(尾)川上-乗越
◇選抜出場校
*尾道商,岡山理大附,倉吉北
【第57回】※1981年
▽1回戦
大社 9-3 津山
▽準々決勝
尾道商 1-0 宇部商
浜田 2-1 岩国
岡山南 4-1 広陵
鳥取城北 3-0 大社
▽準決勝
尾道商 5-3 鳥取城北
岡山南 3-2 浜田
▽決勝
岡山南
020 000 101│4
000 100 000│1
尾道商
(南)川相-直松
(尾)川上-児玉
◇選抜出場校
*岡山南,尾道商,浜田
【第59回】※1982年
▽1回戦
江津 8-7 由良育英
宇部商 5-0 広陵
▽準々決勝
広島商 10-0 岩国工
大社 7-0 岡山南
倉敷工 11-10 江津
宇部商 8-2 米子東
▽準決勝
広島商 13-1 倉敷工
宇部商 3-0 大社
▽決勝
広島商
100 000 020│3
000 000 000│0
宇部商
(広)池元-中村
(宇)秋村-中富
◇選抜出場校
*広島商,宇部商,大社
【第61回】※1983年
▽1回戦
多々良学園 4-3 玉野
岡山南 5-4 平田
▽準々決勝
広陵 5-4 大社
近大福山 6-5 鳥取城北
多々良学園 4-3 境
宇部商 6-5 岡山南
▽準決勝
多々良学園 3-2 広陵
近大福山 2-0 宇部商
▽決勝
多々良学園
000 510 001│7
000 000 020│2
近大福山
(多)湊-古谷
(福)神田・森-吹抜
◇選抜出場校
*多々良学園,近大福山,広陵
【第63回】※1984年
▽1回戦
倉敷商 3-1 広島工
関西 13-6 浜田
▽準々決勝
大田 9-2 倉吉西
広島商 8-1 南陽工
宇部商 2-0 倉敷商
関西 1-0 境
▽準決勝
宇部商 8-2 大田
広島商 5-1 関西
▽決勝
宇部商
000 002 013│6
010 000 200│3
広島商
(宇)古谷・田上-田処
(広)小林・伊藤-秋本
◇選抜出場校
*宇部商,広島商,倉敷商
【第65回】※1985年
▽1回戦
平田 3-2 米子北
防府商 8-2 倉吉北
▽準々決勝
尾道商 3-2 岡山南
広島工 3-0 関西
多々良学園 5-2 平田
防府商 12-2 邇摩
▽準決勝
尾道商 3-1 多々良学園
防府商 3-1 広島工
▽決勝
防府商
000 010 010 010│3
200 000 000 011x│4
尾道商 (延長12回)
(防)梅田-金本
(尾)木村・真治-松原・小田
◇選抜出場校
*尾道商,防府商,広島工,岡山南
【第67回】※1986年
▽1回戦
岡山南 2-0 桜ケ丘
米子 2-1 岡山大安寺
▽準々決勝
大田 1-0 八頭
広島商 4-1 多々良学園
岡山南 8-0 呉工
米子 7-6 江津工
▽準決勝
岡山南 1-0 大田
広島商 2-1 米子
▽決勝
岡山南
200 000 000│2
000 100 000│1
広島商
(南)東森-深田
(広)大田-吉川克
◇選抜出場校
*岡山南,広島商,大田
【第69回】※1987年
▽1回戦
倉吉東 6-2 岡山東商
西条農 4-0 岡山南
▽準々決勝
広島工 4-3 松江商
江の川 4-3 鳥取西
倉吉東 6-3 南陽工
西条農 3-1 宇部商
▽準決勝
広島工 11-1 倉吉東
西条農 3-2 江の川
▽決勝
広島工
010 100 020│4
000 001 000│1
西条農
(広)才野・折出-小笠原
(西)竹広・小早川・石本-重舎
◇選抜出場校
*広島工,西条農,倉吉東,宇部商
【第71回】※1988年
▽1回戦
松江商 2-0 岡山大安寺
作陽 4-2 桜ケ丘
▽準々決勝
広島工 10-1 下松工
倉吉東 2-1 松江東
境 8-1 松江商
山陽 4-2 作陽
▽準決勝
広島工 11-3 境
倉吉東 7-5 山陽
▽決勝
倉吉東
000 011 000│2
003 101 21X│8
広島工
(倉)米沢-山本
(広)才野-小笠原
◇選抜出場校
*広島工,倉吉東,松江東
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issanの大学生から社会人になり、結婚し子供も生まれた頃の10年余りの昭和晩期です。
この時期に新興勢力として台頭してきたのが、岡山南と倉吉北でした。倉吉北は当時とすれば全国的にも珍しかった野球留学の先駆的存在でした。参加校が20校そこそこだった当時の鳥取県なら甲子園も近いだろうという考えもあって、私立の新興勢力の筆頭として昭和50年代を席巻しました。
岡山南は硬式野球未経験の臼井監督の元で、打って打って打ちまくる自由な野球で新風を巻き起こしました。その後、連続して甲子園に出るようになってからはかなり洗練された野球に変貌しました。
倉吉北は不祥事などで甲子園から遠ざかり、岡山南は臼井監督が退陣された後に低迷の歴史を辿ることとなりました。
昭和50年代の後半から60年代初頭に関しては、不可解な選抜が繰り返された時期でした。中国大会未勝利で選抜されたのも複数ありました。その中の1校だった岡山南は昭和61年の選抜で4強に勝ち上がり、批判を跳ね返しました。その原動力は加百と坊西のバッテリーです。
不可解な選抜で甲子園に行けなかった代表格は谷繁がいた時の江の川でしょうか? 島根県出身の選手がいない多国籍軍でしたが、高野連に嫌われましたね。昭和55年の作陽、昭和59年の関西、昭和60年の多々良学園、昭和63年の山陽も理不尽な落選を食らいました。
当時は「地域性」という魔物が幅を利かせていた頃ですね。
さて、次回からは平成の時代に突入します。段々と今も活躍している学校が登場し始める頃です。同時に公立校の比率が高かった中国地区にも私学の台頭が顕著になり始めます。
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よろしくお願いします。
ご存じのように小豆島の話で、主人公(原作者がモデルとか)の大石先生と12人の教え子たちの師弟関係に涙したのは、言うまでもなかったですが、😂同時に、野球⚾️ファンとしては、やはり昭和52年センバツ準優勝の、高知県の中村高校を少し、想起しました(笑)
エースの山沖さんは、専修大学からプロにも進まれたのですよね?
高校時代やプロの印象は、issanさんに残っていますか?
本当に地方のそねまた地方の、部員も少ない高校が決勝進出とか、昭和は、たびたびあったのですよね。
しかし、昭和52年という時代、まだまだ、文学青年でなくとも、普通に、名作のタイトルをわかっている時代だったから、「ニ十四の瞳」というキャッチフレーズが、野球ファンにもしっくりきたのでしょうが、今の時代は・・・
「部員12人の快進撃❗️」
それだけ、でしょうね😅
昭和49年選抜の池田高校は「さわやかイレブン」と呼ばれ部員11人で奮闘し、その時も準優勝しました。中村高校は部員12人ということで「二十四の瞳」と形容されました。
両校に共通するのは「エースと四番がしっかりしている」ことでしたが、何よりまとまりが良かったですね。丁度、私の高校から大学にかけての年代でしたから、ほぼ一部始終視ています。それと、岡山県代表がいずれも対戦しているという共通点があるので、より鮮明に覚えています。
池田と準々決勝で対戦した倉敷工は土壇場で追いつき延長の末に敗れましたが、レフトに入っていた兼光の軌跡のバックホームと同点に追いついた併殺崩れは執念と言えました。彼は、その夏からエースとなり、翌春の中京、東海大相模との死闘に繋がっていきます。
お互いに初出場で準決勝で中村と対戦した岡山南は、キャプテンの三崎が最初の打席でセイフティバントを試みた時、右手の人差し指を骨折しました。それをひた隠しにして試合に出づけた彼は、外野フライをシングルキャッチしているさまを解説者から「基本を無視した雑なプレー」と酷評されましたが、最後まで事実を明かすことはありませんでした。トップバッターの彼が出塁できなくて得点力の下がった岡山南は敗れましたが、昭和の頃は「死んでも舞台を降りない」根性が賞賛された時代でした。
それらを思い起こしても、山沖投手は凄かったと記憶しています。監督から「三振を取るな。三球で終わらせろ」と指示されていたのですが、バットに当たらないという投手でした。大学、阪急での活躍はご存知の通りです。
「9人いれば野球はできる」と言われた時代だからこそ起こり得た快進撃だと思います。
地域性と言えば、春の甲子園でよく言われることですね。友人や2009年に亡くなった母と話題になったのですが、個人的意見を申し上げれば同一県の複数校出場は賛成です。元々春の甲子園は「地域に関係なく強い学校を選抜する」がコンセプトだからです。だから、1988年の大阪三校(上宮・近大付・北陽)や2001年の茨城三校(常総学院・水戸商・藤代)のように当確の成績を残せば文句はありません。又、1995年の兵庫三校(神港学園・兵庫育英・報徳学園)も、煽りを食らった(と当時言われた)智弁和歌山・高嶋監督は納得していたようです(むしろ『三本線』こと市岡の選出に疑問を持っていました)。もちろん、『SONTAC西岡』発動による三年前の滋賀三校は完全に暴挙ですが………(そもそも、2002年以降一般枠の同一県三校選出を禁止しながら『愚行枠』を含めば可能というのが理解不能ですね)。
なお、我が関東地区(山梨含む。東西東京は除く)の1983年以降の春複数校出場回数をまとめてみました。
茨城:二回(1984・2001。いずれも木内監督絡みです)
栃木:一回(2000)
群馬:三回(2009・2012・昨年。すべて高崎の学校絡みです)
埼玉:二回(2003・2013。いずれも浦和学院&花咲徳栄)
千葉:二回(2007・2008。ただし2008年は『愚行枠』込み)
神奈川:十三回(1983・1989・1992・1994・1995・1998・2003・2005・2006・2008・2011・2018・一昨年)
山梨:二回(1987・1991。いずれも東海大甲府絡みです)
栃木:二回(2000・2014)
群馬:四回(2009・2012・2017・昨年。いずれも高崎の学校絡みです)
埼玉:三回(1985・2003・2013。直近二回は浦和学院&花咲徳栄)
記憶だけを頼りにして書き込んだのが間違いでした。今後は注意します(反省)。
私も時々記憶のみで書き込んでしまうのでお気にされないように。
私も同一県の複数出場は選抜の特徴の一つであり、むしろ推したい部分ですから、何の問題もないと思います。同一県から3校出場に関しても地方大会の運営上実現しない地域があるにせよ、実績通りの選出が望まれるのであればあって然るべきと考えます。岡山県から2校出場というのは多くはないのですが、倉敷工と岡山東商の2校が出た昭和49年を除けば、2校とも決勝進出しているので何ら問題ないと思っています。
むしろ、長いことまかり通っていた「同一県から3校が4強に進まないように」勝ち上がると必ず準々決勝で同一県対決をさせるような組み合わせを続けていたことが問題だったと思います。今はそれを撤廃したので、開催県からなら4校がベスト4ということも可能性ができましたので、むしろ以前より面白くなったと言えますし、そうなったからといって4校が揃ったこともないので、今が正常な姿なのだと思います。