いせ九条の会

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永井荷風の慧眼/山崎孝

2008-11-22 | ご投稿
NHKの教育テレビ番組で8月から9月に放送し、11月に再放送された「私のこだわり人物伝」に、永井荷風を取り上げました。その中で半藤一利氏は、1917年から書き始めた日記「断腸亭日乗」の1941年6月15日の日記を紹介しています。永井荷風は、

《日支今回の戦争は日本軍の張作需暗殺及び満洲侵略に始まる。日本軍は暴支贋懲と称して支那の領土を侵略し始めしが、長期戦争に窮し果て俄に名目を変じて聖戦と称する無意味の語を用い出したり。欧洲戦乱以後英軍振わざるに乗じ、日本政府は独伊の旗下に随従し南洋進出を企図するに至れるなり。然れどもこれは無智の軍人等及猛悪なる壮士等の企るところにして一般人民のよろこぶところに非らず。国民一般の政府の命令に服従して南京米を喰いて不正を言わざるは恐怖の結果なり。麻布聯隊反乱の状を見て恐怖せし結果なり(以下略)》

永井荷風が日記を書いていた時代は、内務省は「昭和六年九月十八日の皇軍の行動を目して自衛行動に非ずとなすもの」「日本帝国の侵略行為なりとなすもの」などの主張にも目を光らせ、「之を抑制」した(国会図書館態政資料室所蔵資料「日支事変以来ノ検閲係勤務概況」)という状況でした。

新聞が、《満州事変以降、社説が振るわないのはなぜか。時事新報の編集局長などを務めた伊藤正徳は「読者大衆の感情を察し、なるべく之を損しない範囲内」で立論する「筆法」を理由に挙げ、「大衆の欲求する方向に社説を妥協」させたと自戒を込めて述べている(『昭和九年新聞総覧』)。排外的ナショナリズムが高揚するなか、愛国心を疑われたくない、大衆に嫌われたくない、という新聞の心理》が働いていました。

そして次のような全国の新聞の状況もありました。国際連盟が《リットン報告を審議していた1932年12月、東京朝日、大阪朝日を含む全国の新聞、通信社が共同宣言を発表した。「満洲国の厳然たる存立を」危うくするような解決案は「断じて受託すべき」でないと、132社が「日本言論機関の名に於いて……明確に声明した」》(以上新聞などの情報は2007年8月に朝日新聞に連載された「新聞と戦争」より)

このような新聞などの状況にもかかわらず、永井荷風は時流に流されず確固とした「個」を確立していました。これは米国やフランスに住んでいた影響もあると思います。永井荷風は世界を良く観察しており、現在の自由主義史観のように世界に通用しない歴史観を述べる一国民族主義(井の中の蛙)の観点とは無縁でした。

改憲派には経団連も旗を振っています。その経団連前会長で現在名誉会長の奥田碩氏の次のような発言の報道がありました。

トヨタ自動車の奥田碩相談役は11月12日、首相官邸で開かれた政府の有識者会議「厚生労働行政の在り方に関する懇談会」で、年金記録問題などで厚労省に対する批判的な報道が相次いでいることについて、「朝から晩まで厚労省を批判している。あれだけ厚労省がたたかれるのはちょっと異常。何か報復でもしてやろうか。例えばスポンサーにならないとかね」とメディアへの不満をあらわにした。

 奥田氏は同懇談会の座長を務めているが、会合の最後になって突然「個人的な意見だが、本当に腹が立っている」と厚労省に関する報道への不満を切り出し、こうした番組などからのスポンサー離れが「現実に起こっている」と述べた。(以下略)

以上を考えれば国のあり方の基本を決める改憲にマスコミが批判的な立場を取れば、経団連が動き、新聞・テレビにスポンサー離れが起こりかねず、圧力に強いとは言えず、自主規制の得意なマスコミは、改憲に批判的な論調を控えるとか改憲に批判的なコメンテーターを出演させなくなる恐れがあります。

私たちはこのようなことも予想して国民投票に備えて、永井荷風のようにマスコミの日和見や時流に流されないように宣伝していかなければと思います。

前記の本の中で坪内祐三氏(文芸評論家)は、1940年2月に還暦を過ぎた永井荷風は、医者から尿の淡白と血圧の高さを指摘され、野菜を取るように勧められたことを述べた後、「断腸亭日乗」に書かれた次の箇所を紹介しています。

《余窃(ひそかに)に思うところあり。余齢既に六十を越えたり。希望ある世の中ならば摂生節慾して残生を倫むも又あしきにあらぎるべし。されビ今日の如き兵乱の世にありては長寿を保つほど悲惨なるはなし。平生好むところのものを良して天命を終るも何の侮(くゆ)るところかあらん》

私は永井荷風が生きた時代を思えばこの心情は良くわかります。しかし、今は国民主権で憲法で戦争はしないと決めた時代です。希望を持って生きなければと思います。