京都で、二つのダリ展が開かれている。
http://www2.city.kyoto.lg.jp/bunshi/kmma/exhibition/2016_3_fiscal_Dali.html
京都市美術館の9月4日までのダリ展
先に京都で、次に東京で開かれるらしい…
http://salvador-dali.jp/
http://www.bunpaku.or.jp/
それと、京都文化博物館でのダリ版画展
http://www.bunpaku.or.jp/exhi_special/now/
これも、9月4日までだ。
なぜ、今ダリ?
前のマグリットもそうだったけれど、
もう終わった画家とばかり思ってたら、
時々こうしていきなり浮上してくる。
絵画にも流行があると思っていたけど、
それでも一度名声を得た画家は忘れられていないということか。
私も、今、ダリと聞いて、今さらと思っても、
やっぱりちょっとは心が動くから。
私が初めてダリの絵を見たのは小学生の時。
(と、ここから思い出話が始まるよ)
家に置いてあった、近代絵画全集とかいう、
その中の一冊が、ダリだった。
展覧会で実際のダリの絵を見たことはあっただろうか。
シュルレアリスム特集の展覧会のようなところで
見たような記憶があったりもするけど、なかったかもしれない。
どうなのかあやふやだ。
でも、小学生の時、その絵画全集で、一番好きだったのがダリ。
そのほかの画家は、例によってゴッホとかゴーギャン、セザンヌ、
ルノワールなど、印象派と後期印象派を中心とした画家たち。
そのほかにはユトリロとかマティスとか。
そういう画家の絵は、良さが分からなかった。
この構図がのっぴきならない、とか、
りんごとテーブルクロスがまるでひっぱりあっているような…
とか、説明がついているんだけれど、
その構図云々はさっぱり私には理解できなかった。
(小学生だからね、なにしろ)
そのほかで比較的好きかもと思えたのは、
シャガールとクレー。
シャガールは結構好きだった。
ちょっと凝った時期があった。
ルネサンスや象徴派を知るまではね。
クレーは今でも好きだけど。
その時は、絵画全集と書いてあるので、
その全集に出ている画家が、
西洋画家の全員だとばかり思い込んでいた。
その全集にはスーラがなかったし、
あとでこんな画家がいたのかとびっくりしていた。
あの絵画全集の画家以外にも、画家はいるということが
小学生の頭にはどうしても理解できなかったのだ。
それと、その全集におさめられていた絵だけが、
その画家の絵のすべてだと思っていたので、
ダリのほかの画集を見た時、
ダリはあの画集のほかにも絵を描いていたのか、
とびっくりした記憶がある。
小学生の時の思い込みというか、すり込みは恐ろしい。
ダリは、ただ単純に面白かった。
小学生にも分かりやすかったし、楽しい絵だった。
一番好きだったのは、やっぱり「記憶の固執」。
今回の展覧会には出ていない。
小学生でも面白かったもん。
大人になってからも、結構ダリは気に入っていたし、
気になる画家だった。
ダリに関して、こんな文章がある。
「ダリのスキャンダルと自己中心の神話に対する偏愛は、
その冗談とも真面目ともつかない大言壮語癖とともに、
しばしば謹厳ぶった人たちをとまどいさせてきたが、
-----しかし、少なくとも私たちには、
そのような道化芝居の仮面の奥に、
一貫して変わらぬ彼の素顔を
透視することもできたはずである。
(中略)
その一風変わった幼児性欲的な
ナルシシズムやエキジビショニズムを
心ゆくまで満足させながら、
わが身は狷介な反時代の夢想に
どっぷり浸っていた。
ここらあたりに、ダリの芸術家としての狡智、
あるいはまた、
天成の倫理的潔癖さを見る。」
ダリという奇怪な人物像をふまえたうえで、
いやそこに焦点をあてつつ、
芸術家としてのダリも冷静に見据えるという、
的確な筆運び、
ここまでダリ(という人物)に関して真面目に
正面からきっちりと捉えた文はあまりないのではないか。
これは、澁澤龍彦の文章なのだけれど、
ダリのスキャンダラスな面もさらっと、
そしてちゃんと了解し把握していて、見事だ。
ダリに倫理的潔癖さがあったのかどうかは
判断できかねるが、
ダリ論としては最上級のものではないか。
いま、これだけの真摯な画家論を書く人が
果たしているのだろうか。
(しかも澁澤は美術評論家ですらなくフランス文学者だ)
でもまああれでもダリは一途に奥さんを愛していたし、
ただ目立つのが好きだったんだろうな。
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京都市美術館の9月4日までのダリ展
先に京都で、次に東京で開かれるらしい…
http://salvador-dali.jp/
http://www.bunpaku.or.jp/
それと、京都文化博物館でのダリ版画展
http://www.bunpaku.or.jp/exhi_special/now/
これも、9月4日までだ。
なぜ、今ダリ?
前のマグリットもそうだったけれど、
もう終わった画家とばかり思ってたら、
時々こうしていきなり浮上してくる。
絵画にも流行があると思っていたけど、
それでも一度名声を得た画家は忘れられていないということか。
私も、今、ダリと聞いて、今さらと思っても、
やっぱりちょっとは心が動くから。
私が初めてダリの絵を見たのは小学生の時。
(と、ここから思い出話が始まるよ)
家に置いてあった、近代絵画全集とかいう、
その中の一冊が、ダリだった。
展覧会で実際のダリの絵を見たことはあっただろうか。
シュルレアリスム特集の展覧会のようなところで
見たような記憶があったりもするけど、なかったかもしれない。
どうなのかあやふやだ。
でも、小学生の時、その絵画全集で、一番好きだったのがダリ。
そのほかの画家は、例によってゴッホとかゴーギャン、セザンヌ、
ルノワールなど、印象派と後期印象派を中心とした画家たち。
そのほかにはユトリロとかマティスとか。
そういう画家の絵は、良さが分からなかった。
この構図がのっぴきならない、とか、
りんごとテーブルクロスがまるでひっぱりあっているような…
とか、説明がついているんだけれど、
その構図云々はさっぱり私には理解できなかった。
(小学生だからね、なにしろ)
そのほかで比較的好きかもと思えたのは、
シャガールとクレー。
シャガールは結構好きだった。
ちょっと凝った時期があった。
ルネサンスや象徴派を知るまではね。
クレーは今でも好きだけど。
その時は、絵画全集と書いてあるので、
その全集に出ている画家が、
西洋画家の全員だとばかり思い込んでいた。
その全集にはスーラがなかったし、
あとでこんな画家がいたのかとびっくりしていた。
あの絵画全集の画家以外にも、画家はいるということが
小学生の頭にはどうしても理解できなかったのだ。
それと、その全集におさめられていた絵だけが、
その画家の絵のすべてだと思っていたので、
ダリのほかの画集を見た時、
ダリはあの画集のほかにも絵を描いていたのか、
とびっくりした記憶がある。
小学生の時の思い込みというか、すり込みは恐ろしい。
ダリは、ただ単純に面白かった。
小学生にも分かりやすかったし、楽しい絵だった。
一番好きだったのは、やっぱり「記憶の固執」。
今回の展覧会には出ていない。
小学生でも面白かったもん。
大人になってからも、結構ダリは気に入っていたし、
気になる画家だった。
ダリに関して、こんな文章がある。
「ダリのスキャンダルと自己中心の神話に対する偏愛は、
その冗談とも真面目ともつかない大言壮語癖とともに、
しばしば謹厳ぶった人たちをとまどいさせてきたが、
-----しかし、少なくとも私たちには、
そのような道化芝居の仮面の奥に、
一貫して変わらぬ彼の素顔を
透視することもできたはずである。
(中略)
その一風変わった幼児性欲的な
ナルシシズムやエキジビショニズムを
心ゆくまで満足させながら、
わが身は狷介な反時代の夢想に
どっぷり浸っていた。
ここらあたりに、ダリの芸術家としての狡智、
あるいはまた、
天成の倫理的潔癖さを見る。」
ダリという奇怪な人物像をふまえたうえで、
いやそこに焦点をあてつつ、
芸術家としてのダリも冷静に見据えるという、
的確な筆運び、
ここまでダリ(という人物)に関して真面目に
正面からきっちりと捉えた文はあまりないのではないか。
これは、澁澤龍彦の文章なのだけれど、
ダリのスキャンダラスな面もさらっと、
そしてちゃんと了解し把握していて、見事だ。
ダリに倫理的潔癖さがあったのかどうかは
判断できかねるが、
ダリ論としては最上級のものではないか。
いま、これだけの真摯な画家論を書く人が
果たしているのだろうか。
(しかも澁澤は美術評論家ですらなくフランス文学者だ)
でもまああれでもダリは一途に奥さんを愛していたし、
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