伊佐子のPetit Diary

何についても何の素養もない伊佐子の手前勝手な言いたい放題

シネフィル時代2 

2016年07月30日 | 映画
つづき

あのころ映画は学生割引で300円から350円くらい、
3番館だと250円くらいで3本見られた。

割引券を大量に手に入れ、
(学校へ行く道すがらで映画館の人が配っていた)
映画館でも次の映画の割引券が置いてあり、
それを利用して見に行く、というのが
我々のスタンダードな映画の見方だった。

なにしろ、お金のない学生だから。



ヴィスコンティの映画に出会って
自分の好みというものが分かったが、
そして彼の映画はもう日本で公開されなくなっていたが、
それでも映画は見続けた。

ロベール・アンリコは好きだったし、
「ポセイドン・アドベンチャー」や「パピヨン」などの
アクションも大好きだった。

「エマニエル夫人」だって見ているぜ。

そのほか
(時計じかけのオレンジ」「キャバレー」
「ブラザーサン・シスタームーン」
ジーザス・クライスト・スーパースター」「悪魔のはらわた」(笑)
「ザッツ・エンタテイメント」「オリエント急行の殺人」
結構アトランダムに見ていた。


日本映画は「青春の蹉跌」「妹」
男に誘われて見た。
ただ一度潜り込んだ京一会館で。

「竜馬暗殺」は原田芳雄の好きな年の離れた(と強調)姉と。

日本映画もすごかったな。あのころ。


「エクソシスト」これも見たが、これは駄目だった。
フリードキンは結構好きだったんだけどな。
「フレンチコネクション」エキサイトしたなー。
「クルージング」も見た。

「スティング」は評判良かった映画だが、さっぱり覚えていない。
これだけはその良さが未だに分からない。


好みの映画だけ、と思っていた割には見ている。
でもやっぱりアメリカ映画は、あまり性に合わなかったようだ。


ケン・ラッセルは「恋する女たち」「恋人たちの曲・悲愴」
など最初から見て、「マーラー」、
そしてあとからビデオ時代にほとんどフォローした。
「ボーイフレンド」「トミー」「リストマニア」「アルタードステーツ」
「肉体の悪魔」!
まで、すごい熱心に見た。
あんなにヘンタイ監督だったのに、何が良かったんだろう。
謎だ…


「愛の嵐」「ソドムの市」えぐい系も見てる。

「ソドムの市」は途中で立ち上がる人がいた。
私は、しょせん作り物だからと最後まで見た。




76年のヴィスコンティの死で、一応私のシネフィル時代は終わった。

前にも言ったが、ヴィスコンティの喪に服し、
いっさいの映画を見なくなった。
で、あとになって後悔することになる。
そのころ「ロッキー」が公開されたんだが、見ずじまいだから。



1977年、映画界に革命がおこる。
「スターウォーズ」の登場。
これで低迷していたハリウッド映画が一気に浮上する。

(いや、良質の映画は沢山あった。
だけど、まだ低迷を引きずっていたのだ)

映画がテレビとは違う、
映画としてのアイデンティティを再び取り戻した、
映画の再生。
「スターウォーズ」は映画の救世主だった。

まあでも、私は喪に服していたので、見ていない。
見たのはスターウォーズの2作目からだ。(1作目はあとになって見た)



私が映画に復帰したのは、前にも書いたとおり79年の「ディアハンター」から。

それからちょっとずつ、見るようになっていって、84年。

当時の知人に、無理やりジャッキー・チェンの「プロジェクトA」に
連れて行かれた。
香港映画なんてどうせカンフーだろ、と馬鹿にしていて全然見る気はなかった。


だが、映画はすごく面白かった。

ジャッキー・チェンはハリウッドのアクション映画をよく研究していて、
ユーモアを交えた緩急を心得た脚本、アクションの見せ場のうまさに唸った。

これで、つくづく食わず嫌いはいかんな、と思った。

どこに面白い映画が落ちているか分からんぜ、何を好きになるか分からんよ、
せいぜい嗅覚を働かせて、見るものは見ておくべきだよ、
なんて自分に言い聞かせた。





そして1985年から86年ころ、ビデオが勃興して来た。

レンタルビデオ店が出来て、今まで見ることの出来なかった映画が
気軽に見ることが出来るようになった。
今まで京都では全然公開されなかった映画も、見られる。


これまで、自分の見たい映画を、見たい時に、見たいだけ見る、
という文化はなかった。

映画は公開を待つもの。
時間の都合をつけて、足を運んで映画館へ行き、
その映画が公開されるまでじっと待つ。


レンタルビデオは、そういう映画の習慣を根底から覆した。
レンタル店に行けば、これまで見逃していた映画、見たかった映画、
どマイナーな映画もずらーと揃っている。

もう、片っ端から見狂った。

これが、私のシネフィル第2章の始まりなのだった。




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シネフィル時代 70s

2016年07月28日 | 映画
突然ですが、昔話、するよ。
高齢者は思い出話が多くなるのさ。



まあこれまでもいろいろ昔のことを書いているので、
かなり高齢だということはバレていると思うので、
この際全部バラしてしまおう。


最初に自分で見た映画は「ロミオとジュリエット」
(フランコ・ゼフィレッリ)。
2番館、3番館まで追って5、6回見た。
サントラも買った。

学校で「ギブミー、ギブミー」という
ジュリエットのセリフが流行り、
ジュリエットのヘアスタイルをまねて、
三つ編みの上にリボンで巻いて来る子もいた。


その頃映画は斜陽で、映画の最盛期は確か1950年代。

60年代に入るとテレビの普及もあり、映画は衰退していった。


アメリカはベトナム戦争に突入し、反戦運動がはやり、
ヒッピーが台頭し、ビートルズなどの若者文化が生まれた。

映画はそういう文化に対応できず、
当時のアカデミー賞は古い旧態依然の、
まあ流行おくれの映画ばかりが選ばれていた。


70年代は、映画がどん底状態の時だった。

映画館はガラガラで、映画文化に危機感が生まれていた。
そんな時に、私は映画を見始めた。

どんな時でも、
思春期とか、青春時代の子供は映画や文学に目覚めるものだ。
私は年の離れた姉の(とここを強調)影響もあり、
いきなり映画をどんどん見始めた。


ヨーロッパ映画が好きだった。

日本ヘラルドという会社があり(今もあるのかもしれないが)、
そこは良質のヨーロッパ映画をたくさん輸入していて、
ヘラルドのマークがあると喜んで見た。


フランス映画が随分輸入されていて、
フランス映画の恋愛ものをたくさん見た。大好きだった。

「個人教授」「ふたりだけの夜明け」「恋人たちの場所」
「約束」「若草の萌えるころ」「女鹿」
「雨の訪問者」「さらば夏の日」
もう誰も知らないだろう。


ゴダールとトリュフォーはカリスマ扱いで、
トリュフォーは好きだった。
「夜霧の恋人たち」「アメリカの夜」「野生の少年」
「恋のエチュード」などのころだ。

ゴダールは政治の方?へ行き、学生のカリスマになり、
不思議な映画を作り学生に受けていた。
「東風」なんかは大学の学生会館で上映され、
何か知らんけど私も見た。

ゴダールの「気狂いピエロ」は私の映画前期の映画なので見てなくて
(のちの特別上映などで見た)
私の時代は「ウイークエンド」あたりだった。



アメリカ映画は、先に行ったように斜陽で、
そのころはアメリカン・ニューシネマばかりだった。

「イージーライダー」「明日に向かって撃て」
「真夜中のカーボーイ」「去年の夏」
「ファイブ・イージー・ピーセス」「いちご白書」
「アリスのレストラン」「夕日に向かって走れ」
そんなの。


イタリア映画はマカロニ・ウエスタンが急速にすたれ、
忘れ去られていて、監督中心だった。

パゾリーニ、フェリーニ、ヴィスコンティ、アントニオーニ、
そしてデ・シーカなどもまだ活躍していた。

その頃最ももてはやされていたのがパゾリーニで、
パゾリーニ自体も絶好調で、
「アポロンの地獄」「テオレマ」「豚小屋」「王女メディア」
とにかくパゾリーニ最高、と持ち上げておくのが風潮だった。
けど京都では1週間で打ち切り、が普通だったけど。


そうやって片っ端から硬軟入り交じり洋画を見まくっていて、
そのうち映画雑誌「スクリーン」なんかを買い始めて、
それで映画の情報を得るようになる。

すると、雑誌には紹介されているのに、
京都では公開されない映画が沢山あるのが分かった。


京都はなんて田舎なんだ、なんて映画後進国なんだ。
大阪では上映しているみたいなのに…。
と、京都を呪った。


でも、その頃学生運動の余波がまだ生々しいころ、
京都の映画館、2番館あたりでは、
ずばり「ベトナム」というタイトルの映画が上映されていたり、
あとATG系の日本映画
「エロス+虐殺」「少年」「薔薇の葬列」「無常」とか、
「心中天の網島」もあったか、
完全に学生向けの映画にシフトして上映していたのだった。

今思えばある意味で、京都は学生文化の発信地だったのだと思う。
吉田喜重の映画なんかは見ておくべきだったかなと今でも思う。
(18禁だったから無理だったけど)


日本映画には興味がなかった。
当時日本の映画会社は5社あり、5社協定というものがあり…、
というのはまたいずれ別の機会に。


そういう、映画を見狂っているうちに
ヴィスコンティの映画にも出会った。

はじめに見た「地獄に堕ちた勇者ども」は
友達を無理やり連れて行って見た。
客席はガラガラで、大丈夫かこれと思った。
見終わって、友達に申し訳ないと思った。
こんな映画は友達連れで見に来るもんじゃなかった。
後悔した。


だけど、自分の中ではすごくショックで、二律背反が起きていた。

この映画を好きと言っていいのだろうか。
いけないと思う。だってナチの映画なんだもの。
でも、どうしても惹かれるものがある。
この気持ちはどうしたらいいんだろう。


「ベニスに死す」を見て答えが出た。
ああそうか、私はこっちの人だったんだ。

いろいろ映画を見てきたが、自分の好みというものが分かった。
こういうのが好きなんだなと。


で、考えた。
もういろいろ別に好きでもない映画は(話題作でも)見ない。
お金も限られている中、なるべく自分の好みに合う映画、
好きそうな映画だけ見よう。

自分の思い込みの激しさ、
すごく偏った嗜好、
ひとりよがり、
全部この頃から顕著になってしまった。
我ながらいかんな。

全部ヴィスコンティのせいだ、どうしてくれる。
とは冗談。





つけくわえ

70年代、映画が衰退していた時期だからこそ、
実験的な映画も、意欲的な映画も作られたと思う。

監督はがんばり、映画人もがんばった。
みな、衰退していく映画芸術、あるいは娯楽、
それを憂えて必死になって、模索していた時期。

だからすごい映画があの時期集中した。
と思っている。


それと、ロードショーではガラガラでも、
2番館、3番館はいつも満員だった。
お金のない学生は、そっちの方でわんさと
見ていたのだ。


ちなみに、「地獄に堕ちた勇者ども」は
2番館にも、母を連れて見に行った。
やっぱり、一人ではまだ行けなかったころだし
誰かと一緒でないとこわかったし。
すごく満員で、立ち見も出ていた。

母も迷惑だったろうな、あんな映画を見せられて…
ヘルムート・バーガーのことは、
アラン・ドロンだとばかり思っていたと言っていた。



つづく


追記

シネフィルという言葉を使っているが、
私はそんなたいそうな肩書の者でもないのだけれど、
ちょっと映画狂いしていた時期があるので
おしゃれっぽく使ってみたのです。ご容赦を。


COMMENT:
AUTHOR: Steinberger
DATE: 07/29/2016 00:22:06
伊佐子さん、こんばんは。

ご無沙汰しております。
でもブログはずっと読ませて頂いてましたよ。

「地獄に堕ちた勇者ども」をロードショーでリアルタイムでご覧になったのですね~。
その後の「雨のエトランゼ」公開当時、
あの作品がどのように観客に受け止められていたのか、
すごく気になります。
僕は1979年2月のテレビの深夜放映で初めて見てハマった後追いですので…。

続き、楽しみにしております。

COMMENT:
AUTHOR: 伊佐子
DATE: 07/29/2016 10:44:38
読んでいただいていたんですか~。とても嬉しいです!

「雨のエトランゼ」、
わりとロードショー館で長く公開されていたと思います。
1971年公開で、「ペニスに死す」なんかと
ほとんど同時期だったと思う…。
私は何度か見たと思います。
観客の入りはまあまあ…だったかな。
一般にはラブサスペンス、という感じのとらえられ方かな。

「スクリーン」では、
ヘルムートのファッションが特集されてたから、
男性ファッション映画という感じだったかも。

でもロードショーで公開された時のは、
パーティーシーンがごっそりカットされたバージョンでした。
いつか、詳しく書こうと思ってたんですが…。

COMMENT:
AUTHOR: 伊佐子
あ、あと「エトランゼ」もヘラルド映画でした!

COMMENT:
AUTHOR: Steinberger
DATE: 07/29/2016 23:32:50
伊佐子さん、ありがとうございます。

雑誌「スクリーン」の紹介文では「雨のエトランゼ」は105分ですが、
後に発売されたビデオでは125分ぐらいありましたね。
主題歌も結構ヒットしたんですよね、
中古シングル盤が出回っているところから推測すると…。
ぜひ、いつか詳しく書いてください。楽しみにしていま~す。

COMMENT:
AUTHOR: 伊佐子
DATE: 07/30/2016 10:00:40
え、ロングバージョンのビデオ、出ていたんですか!
知らなかった…
サントラのLP、買いました。「ステイ」、好きでした。
流行ったというほどではなかったと思うけど、
あれを見た人はみんな、「ステイ」が忘れられなくなったと思います。

まあでも、映画としては当時それほどすごい評判にはなってなかったような。
それほどけなされるでもなく、話題になるでもなく、みたいな。
「ガラスの部屋」の方が大々的に宣伝されてたかな、
という感じでしたかね。



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後祭2016 

2016年07月24日 | 祇園祭
今年も、後祭の巡行が無事終わり、
ひとまず祇園祭が一段落した。


前祭、後祭と分かれて、祭が続く、という環境は
なかなか悪くはないもんだ。

前祭が終わっても、
前みたいに急にむなしい気持ちにならず、
まだ後祭があるから…て感じで、わくわく感がつづく。


後祭には鯉山が出、大船鉾が出るが、
宵山も、巡行も行かずじまい。


鯉山の本物の方の見送り。フラッシュをたかないのでぶれた。


全10基だから、午前中には済んでしまうだろう。

後祭の巡行は前祭(さきまつり)と逆のルートで進むから、
いろいろ計算がややこしい。


何時にこの山がここを通るとか、
前祭ではわりと頭に入っているが、
だから新町では何時に行けばここからは見られる、
と見当がつけられるが、
(と新町で見ることが前提となってる自分)
後祭はまだ最近復活したばかりなのでむつかしい。



それに後祭は烏丸四条で解散らしいので、新町まで行くのか。
いや、大船鉾、北観音山、南観音山は、
新町通りに面しているので、
新町四条での最後の辻回しはあるだろう。

これからはここがポイントだな。

と、思っていたら、新聞に、最初の橋弁慶山が
烏丸四条を通過するのが11時20分ころ、と書いてあった。

…無理だな。
ご飯支度しないといけない時間だ。
とうてい抜け出せない。

これで後祭はもう無理だな。仕方ない。


後祭では、鉾は出ない。

大船鉾は出るが、あれは形が違うので、例外だ。

それで思うのだが、
北観音、南観音が曳山(ひきやま)になったのには、後祭に鉾が出ない、
ということもあっただろうということだ。




今までいっきに巡行していたので、そこまで意識が及ばなかったが、
確かに、後祭で鉾が出なくて、舁き山(かきやま)ばかりだと
地味だし、前祭に比べてとても見劣りがしてしまう。


だから、本来舁き山であったものを、どんどん大きくして、
鉾と見まごうばかりに飾り立て、囃子を付けて人を乗せ、
そうして、大きくなったから、曳き手も必要になり、
大勢の人で曳くようになり、
鉾と全く見分けがつかないような曳山にした。


これなら、後祭でも前祭に見劣りがしない
立派な巡行に見えるだろう。


そういうことだったのではないか。
と推測したりする。



曳山というのは、山の上に大人数の人がお囃子を奏でるために乗り、
何トンもあるから、人の手で、曳き手で綱を引くタイプの山のこと。


普通の山は舁き山と言って、
担ぐタイプで上にご神体人形が乗っている。
1~2トンくらい。
昔は実際に担いでいたが、今は下に車輪がついて押して巡行している。



巡行のテレビ中継で、
しつこいほど鉾と曳き山の違いをいつも説明しているが、
以前は一気巡行だったから、北観音山・南観音山も巡行する。
その時鉾と混同されないようにとの配慮だったのだろう。

前祭でも、岩戸山が曳山で、
これが前祭の唯一の曳山であるのだが。


鉾と曳山の大きな違いの一つで、
解説ではいっさい言わないが、
ひとめでわかるのは、山にはお稚児さん人形が乗ってない、
ということだ。

これさえ言っておけば分かりやすいのにと、
いつも思っていたけれど、
こんなことは当たり前のことで、言う必要もない、
という判断だったのだろうか。



南観音山の水引、加山又造の原画


それから、よくこれもテレビ解説で、
鉾は5個と決まっていたから、
それ以上鉾は増やせないので、
山を豪勢にして鉾にそっくりに近づけた、
と言われていたけれど、

なんで鉾は5基と決まっていたのか。
誰が決めたのか。
なんでそれ以上増やすことが出来なかったのか。

それが私にとって謎である。


民衆の単なる祭りであるのだから、
いくらでも鉾を出したいと思えば
出せたのではないのか。

これ以上増やしてはいかんと、
誰か偉い人が言ったりしたのか。
それは誰だったのか。

謎である。



思い出。


ともあれ、もし鷹山が復興ということになるのなら、
ぜひ曳き山の形で復興してもらいたい。

いっそう後祭が豪華になるから。

鷹山委員会(?)ではこれが復興の最後のチャンス、
と意気込んでいるという。

期待してもいいかしらん。



巡行はテレビで見た。

なんかもうどうでもいいようなぐだぐだな放送だった。

市役所の建物が映ったのだけは嬉しかった。
あまり御池河原町で巡行、という発想がなかったので。


BSフジでも放送しているのだ、時間が短いけど。
あれは全国放送だ。
でも、9時からの放送分、ぐだぐだだったから、
見られなくても全然オッケーだった。




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京都ぎらい

2016年07月22日 | 京都

京都迎賓館がきのうから通年公開されることになった。
お金を取るので人出はパラパラだったらしい。
(横の御所が無料だから、よけい割高感が。)

年に一回使うか使わないかなのに、
無駄にお金をかけてあんな建物を建てたのだから、
公開して活用した方がいい。


御所もこれから通年公開される。
今までは春と秋の特別公開で
それ以外は予約制だったが、
予約なしの先着順、
こちらは宮内庁管轄なので無料で見られる。

そして桂離宮、修学院離宮も、予約なしで先着順で見られる。
こちらも宮内庁なので無料だ。

良かったんじゃないだろうか。



さて本題。

ちょっと前から「京都ぎらい」という本が、
京都の本屋でベストセラーを続けていて、話題になっていた。

もっと早くに取り上げたかったけれど、
今頃になってしまった。

京都ぎらい [ 井上章一 ]
価格:820円(税込、送料無料)




不思議なことに、京都でのみベストセラーで、
ほかの地域(東京)では売れてない。
毎週、新聞に載る読書欄にベストセラー10位が表記されていて、
京都でだけ一位を続けている。

京都がきらいだと言っているのに、京都で売れている、
という不思議。
でもこれが京都。
どんな話題でも、京都とあれば気になるのが京都の人。
ということなんだろう。

話題になり、売れ始めてすぐのころに私も気になり、
本屋で少しだけぺらぺらとめくって立ち読みしたことがある。


大文字を、子供のころから大文字焼きと呼んでいた、
と書かれていた。

これで、駄目だこの本は、と思った。


私は子供のころから大文字を
大文字焼きなどと呼んだことは一切ない。

大文字は大文字だ。
どこかの食べ物みたいな呼び方をしたことなど、一度もない。
この人は何を言っているのだ?
ほんとに京都に住んでいるのか?
全然ダメじゃん。

と思い、買う価値はなしと判断した。


だが、新聞ではずっとベストセラーを続けている。

もう一度本屋へ行く機会があり、また立ち読みしてみた。

今度は、町家に関する文章の部分。


町屋と書いてあった。
どの欄を読んでも町屋という表記だ。

駄目だこれは。
とまた思った。

町屋とは言わない。町家だ。

それともわざと町屋という表記をしているのか?
あえて推敲せずに。
それは京都人にケンカを売っている、つもりなのか?

再び買う値打ちなし、と判断し、買わなかった。

それでもベストセラーを続けている。

気になる。

三度立ち読み。



今度は最初の方から読んでみた。

筆者の生い立ち。

左京区のどこかの寺の近くに生まれ、
すぐに嵯峨の清凉寺の近くに引っ越し、
そこで幼年時代を過ごしたと。

ふむ、清凉寺の近くならいいとこじゃん、と思う。
嵯峨なら観光地だし。

それから宇治へ行き、現在もそこで暮らしていると。

で、そこからさまざまな京都人のイケズに遭遇して来たという、
悲惨な体験談。


筆者がどういう職業であったのか知らないが、
嵯峨から出て来て、京都人と接触する機会があったという。


杉本家の当主。

嵯峨出身だというと、

「あのあたりのお百姓がよううちへ肥を汲(く)みに来てくれたんや」
と言われたという。

これはちょっと強烈だったね。
筆者の精神が捻じ曲がるわけだ。



杉本家と言えば、現在、
確か重要文化財指定を受けている町家のはず。

そこの当主ともなれば、京都人中の京都人、
生粋の京都人。

その人に強烈なイケズを食らわされたか。
可哀想に。
心から同情申し上げる。



近所の町家。

ここで、京都人について、説明しておこう。
自分のサイトでも、いろいろ言ったことがある。

http://isabeau.d.dooo.jp/fkyoto2/kyotoj.htm


筆者の井上章一は上京・中京・下京が京都で、
そこに住む人が京都人であり、
それ以外は京都人ではないという認識のようだ。


私はこれに3代以上(あるいは5代以上)住み続けて
始めて京都人、と思っている。

上京・中京・下京でも、住所表記がいわゆる「通り名表記」
でないところは京都ではない。

何々通りどこそこ上ル、とか東入ル、という表記。
そこに住んでいないと京都人ではない。


私自身は、下京区に住んでいて、通り名表記の住所だが、
五条よりも南に住んでいる。

だから京都人ではない。
五条より南は京都に入れてもらえないのだ。

私は、自分のことを、だから京都市民と呼ぶようにしている。
これは、間違いではないと思うからだ。


だから私の京都に関する感情も、かなりねじくれている。

賛美したい気持ちと、けなしたい気持ちが両方あり、
そこに京都人なのか何なのか定かでない、
中途半端な位置にあることが、
京都に対して素直になれない理由の一つだ。



京都という町は、江戸時代まで、非常に狭い範囲だった。

左京区、右京区などは、天皇や時の権力者などの別荘地であり、
そこは、京の都からすれば、田舎であった。
遠く離れたところだから、そこを別荘にしたのだ。


江戸時代、
京都と言えば、上京と下京、それだけだった。

いつごろか知らないが、多分明治頃かも、と思うが、
上京、中京、下京に分離され、
それから昔、都周辺の村だった地域が
だんだん京都市に編入されるようになって、
今の京都市が出来上がって来た。


京都人は、昔の江戸時代の感覚のままで、京都を語る。

何しろ、江戸時代から(もしかしたらもっと前から)
何百年もそこに住み続けて来た、その子孫たちである。

京の都といえば、その時代の、天皇が住まわれていた
在りし日の、その時代の感覚のままなのだ。


だから嵯峨は田舎であり、下鴨も田舎なのである。

同じ京都市ではあっても、山科区、伏見区、北区、西京区
などは論外である。
京都とはとても言えない。

宇治も論外である。
だって宇治市であって、京都市ですらない。


京都人は、とても狭い感覚で、
狭い範囲でしか暮らしてないから、
その範囲外であれば、すべて田舎で済ましてしまうのだ。


京都人には、確かに強烈な「京都中華思想」があり、
京都が日本の中心だという意識を未だに猛烈に持っている。

それはもうすごいもので、そこに自己の全誇りをかけていて、
その意識に凝り固まっているから、
そのゆえのイケズだってはんぱない。
京都人、ほんとこわい。

(でも観光客に対しては、ものすごく超優しいので、ご安心を。)



ただこれは、京都人が、洛中を誇りにしているとか、
プライドが高いとか、鼻にかけてるとか、
そういうことよりも、ただの「井の中の蛙」、

広い世界を知らないだけの「おぼこ」なのだという気がする。

ただのもの知らずなだけなんだと。

確かに洛中に暮らしてる純京都人は、
えらそうにしているかもしれないが、
ただの世間知らずなだけなのではないかと思ったりもするのだ。



ちなみに本は買ってない。




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山鉾巡行2016 その2

2016年07月19日 | 祇園祭
梅雨が明けたようだ。


前の山鉾巡行記事につけたしを少し。


巡行は9時から始まり、
先頭の長刀鉾が御池新町に到着するのは11時ころ、

3年前まで32基が一気に巡行していたころは、
1時過ぎてから新町四条へ行っても、
長刀はもう通った後だったが、かなりの鉾が見られた。

その代わり、
たいていの山は御池から自分の会所へ向かうから、
新町では山はあまり見られなかった。


新町でも人はいっぱいだ。

もう巡行の最後で、
ヨロヨロになってる曳き手の人たちを
頑張れと言って励ましたり、拍手をして
最後の頑張りを促すのが我々の役目だった。…



私の好きな放下鉾。
稚児人形が乗っているし、本巡行のようだ…


テレビ中継で、くまモンデザイナーが、
道がアスファルトになる前の辻回しはどうだったのか
と質問していて、鋭いなと思った。

巡行をいつも見ていると、
竹を使っているのが当たり前に思うようになり、
疑問を抱かなってしまう。

でも京都の歴史からしてみたら、
道がアスファルトになったのはつい最近のことで、
それまで何百年もずっと道は土の道だったのだから、
土の上での辻回しだったはずで、
その時は辻回しも今とは違った方法だったのは
ちょっと考えたら分かることだ。


だけど京都市民(私だけ?)はもう慣れてしまって、
そこら辺のことはあんまり考えなくなっていた。

そういえば土の道だったな、と思い始めたのはつい最近。

昔は竹でなく木を使っていたのだ。




それともうひとつくまモンデザイナー(すまん、名を忘れたので)が
巡行の、車輪のそばにいる人が何をしているのかを
聞いていたように思ったが、これも鋭いと思った。

鉾にはカジというものがないので、
2メートルある木製の車輪をまっすぐ前に、
横にいがまないように動かすためには、
ただ音頭取りさんと曳き手の人たちだけの力では不十分だ。


車輪を微調整し、
横にずれないようにまっすぐ進むようにするために
「車方」という人がいて、車輪の横で、
車輪をコントロールしている人がいる。

この人たち「車方」の人は、巡行中ずっと車輪の横に付き添って歩いて、
鉾をまっすぐに進める役割をする。
決して目立つことはないが、鉾の円滑な巡行には欠かせない人たちである。

こういう裏方さんたちのひそかな尽力の上に巡行が成り立っている。


車方さん。

初めて巡行を見る人のこういう素朴な疑問は、ありがたい。

巡行をちゃんと見ている証拠だし、的を射た質問だった。
そして、裏方さんたちが多くいて、それによって
巡行が支えられている、という説明を引き出すことが出来た。



そしてまた、くまモンデザイナーは、
懸想品が、外国からの輸入品が多いのが、
どこから仕入れて来たかみたいなことも聞いていたが、
これも鋭かった。

鯉山のベルギーのは、確か支倉常長が関係していると聞いた。
いろんなルートをたどって、京の豪商に辿り着いたようだ。



思い出。



それから、蟷螂山。

去年は台風の暴風雨の中での巡行で、
蟷螂山のかんじんのかまきりが外に出せず、
とうとうカマキリなしで巡行した。

せっかく去年も玉屋庄兵衛さんが
京都にわざわざ来てくれていたのに、
出番がなかったのが、残念だった。


今年蟷螂山は懸想品こそビニールで覆われていたが、
カマキリは外に出し、元気に動いていた。

山の中の狭い場所で、人目に一切触れることもなく
操演するのは大変な作業だろう。

暑い時期の京都に、名古屋からやって来て、
毎年カマキリを動かしてくれる。


新町でも動いてくれていた。
我々は、大拍手でもって
最後のカマキリの大見得を感謝して見ていたのだった。


本当に玉屋庄兵衛さんには感謝感謝だ。

http://isabea.web.fc2.com/exhi/other2/karakuri.htm




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