つづき
あのころ映画は学生割引で300円から350円くらい、
3番館だと250円くらいで3本見られた。
割引券を大量に手に入れ、
(学校へ行く道すがらで映画館の人が配っていた)
映画館でも次の映画の割引券が置いてあり、
それを利用して見に行く、というのが
我々のスタンダードな映画の見方だった。
なにしろ、お金のない学生だから。
ヴィスコンティの映画に出会って
自分の好みというものが分かったが、
そして彼の映画はもう日本で公開されなくなっていたが、
それでも映画は見続けた。
ロベール・アンリコは好きだったし、
「ポセイドン・アドベンチャー」や「パピヨン」などの
アクションも大好きだった。
「エマニエル夫人」だって見ているぜ。
そのほか
(時計じかけのオレンジ」「キャバレー」
「ブラザーサン・シスタームーン」
「ジーザス・クライスト・スーパースター」「悪魔のはらわた」(笑)
「ザッツ・エンタテイメント」「オリエント急行の殺人」
結構アトランダムに見ていた。
日本映画は「青春の蹉跌」「妹」
男に誘われて見た。
ただ一度潜り込んだ京一会館で。
「竜馬暗殺」は原田芳雄の好きな年の離れた(と強調)姉と。
日本映画もすごかったな。あのころ。
「エクソシスト」これも見たが、これは駄目だった。
フリードキンは結構好きだったんだけどな。
「フレンチコネクション」エキサイトしたなー。
「クルージング」も見た。
「スティング」は評判良かった映画だが、さっぱり覚えていない。
これだけはその良さが未だに分からない。
好みの映画だけ、と思っていた割には見ている。
でもやっぱりアメリカ映画は、あまり性に合わなかったようだ。
ケン・ラッセルは「恋する女たち」「恋人たちの曲・悲愴」
など最初から見て、「マーラー」、
そしてあとからビデオ時代にほとんどフォローした。
「ボーイフレンド」「トミー」「リストマニア」「アルタードステーツ」
「肉体の悪魔」!
まで、すごい熱心に見た。
あんなにヘンタイ監督だったのに、何が良かったんだろう。
謎だ…
「愛の嵐」「ソドムの市」えぐい系も見てる。
「ソドムの市」は途中で立ち上がる人がいた。
私は、しょせん作り物だからと最後まで見た。
76年のヴィスコンティの死で、一応私のシネフィル時代は終わった。
前にも言ったが、ヴィスコンティの喪に服し、
いっさいの映画を見なくなった。
で、あとになって後悔することになる。
そのころ「ロッキー」が公開されたんだが、見ずじまいだから。
1977年、映画界に革命がおこる。
「スターウォーズ」の登場。
これで低迷していたハリウッド映画が一気に浮上する。
(いや、良質の映画は沢山あった。
だけど、まだ低迷を引きずっていたのだ)
映画がテレビとは違う、
映画としてのアイデンティティを再び取り戻した、
映画の再生。
「スターウォーズ」は映画の救世主だった。
まあでも、私は喪に服していたので、見ていない。
見たのはスターウォーズの2作目からだ。(1作目はあとになって見た)
私が映画に復帰したのは、前にも書いたとおり79年の「ディアハンター」から。
それからちょっとずつ、見るようになっていって、84年。
当時の知人に、無理やりジャッキー・チェンの「プロジェクトA」に
連れて行かれた。
香港映画なんてどうせカンフーだろ、と馬鹿にしていて全然見る気はなかった。
だが、映画はすごく面白かった。
ジャッキー・チェンはハリウッドのアクション映画をよく研究していて、
ユーモアを交えた緩急を心得た脚本、アクションの見せ場のうまさに唸った。
これで、つくづく食わず嫌いはいかんな、と思った。
どこに面白い映画が落ちているか分からんぜ、何を好きになるか分からんよ、
せいぜい嗅覚を働かせて、見るものは見ておくべきだよ、
なんて自分に言い聞かせた。
そして1985年から86年ころ、ビデオが勃興して来た。
レンタルビデオ店が出来て、今まで見ることの出来なかった映画が
気軽に見ることが出来るようになった。
今まで京都では全然公開されなかった映画も、見られる。
これまで、自分の見たい映画を、見たい時に、見たいだけ見る、
という文化はなかった。
映画は公開を待つもの。
時間の都合をつけて、足を運んで映画館へ行き、
その映画が公開されるまでじっと待つ。
レンタルビデオは、そういう映画の習慣を根底から覆した。
レンタル店に行けば、これまで見逃していた映画、見たかった映画、
どマイナーな映画もずらーと揃っている。
もう、片っ端から見狂った。
これが、私のシネフィル第2章の始まりなのだった。
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あのころ映画は学生割引で300円から350円くらい、
3番館だと250円くらいで3本見られた。
割引券を大量に手に入れ、
(学校へ行く道すがらで映画館の人が配っていた)
映画館でも次の映画の割引券が置いてあり、
それを利用して見に行く、というのが
我々のスタンダードな映画の見方だった。
なにしろ、お金のない学生だから。
ヴィスコンティの映画に出会って
自分の好みというものが分かったが、
そして彼の映画はもう日本で公開されなくなっていたが、
それでも映画は見続けた。
ロベール・アンリコは好きだったし、
「ポセイドン・アドベンチャー」や「パピヨン」などの
アクションも大好きだった。
「エマニエル夫人」だって見ているぜ。
そのほか
(時計じかけのオレンジ」「キャバレー」
「ブラザーサン・シスタームーン」
「ジーザス・クライスト・スーパースター」「悪魔のはらわた」(笑)
「ザッツ・エンタテイメント」「オリエント急行の殺人」
結構アトランダムに見ていた。
日本映画は「青春の蹉跌」「妹」
男に誘われて見た。
ただ一度潜り込んだ京一会館で。
「竜馬暗殺」は原田芳雄の好きな年の離れた(と強調)姉と。
日本映画もすごかったな。あのころ。
「エクソシスト」これも見たが、これは駄目だった。
フリードキンは結構好きだったんだけどな。
「フレンチコネクション」エキサイトしたなー。
「クルージング」も見た。
「スティング」は評判良かった映画だが、さっぱり覚えていない。
これだけはその良さが未だに分からない。
好みの映画だけ、と思っていた割には見ている。
でもやっぱりアメリカ映画は、あまり性に合わなかったようだ。
ケン・ラッセルは「恋する女たち」「恋人たちの曲・悲愴」
など最初から見て、「マーラー」、
そしてあとからビデオ時代にほとんどフォローした。
「ボーイフレンド」「トミー」「リストマニア」「アルタードステーツ」
「肉体の悪魔」!
まで、すごい熱心に見た。
あんなにヘンタイ監督だったのに、何が良かったんだろう。
謎だ…
「愛の嵐」「ソドムの市」えぐい系も見てる。
「ソドムの市」は途中で立ち上がる人がいた。
私は、しょせん作り物だからと最後まで見た。
76年のヴィスコンティの死で、一応私のシネフィル時代は終わった。
前にも言ったが、ヴィスコンティの喪に服し、
いっさいの映画を見なくなった。
で、あとになって後悔することになる。
そのころ「ロッキー」が公開されたんだが、見ずじまいだから。
1977年、映画界に革命がおこる。
「スターウォーズ」の登場。
これで低迷していたハリウッド映画が一気に浮上する。
(いや、良質の映画は沢山あった。
だけど、まだ低迷を引きずっていたのだ)
映画がテレビとは違う、
映画としてのアイデンティティを再び取り戻した、
映画の再生。
「スターウォーズ」は映画の救世主だった。
まあでも、私は喪に服していたので、見ていない。
見たのはスターウォーズの2作目からだ。(1作目はあとになって見た)
私が映画に復帰したのは、前にも書いたとおり79年の「ディアハンター」から。
それからちょっとずつ、見るようになっていって、84年。
当時の知人に、無理やりジャッキー・チェンの「プロジェクトA」に
連れて行かれた。
香港映画なんてどうせカンフーだろ、と馬鹿にしていて全然見る気はなかった。
だが、映画はすごく面白かった。
ジャッキー・チェンはハリウッドのアクション映画をよく研究していて、
ユーモアを交えた緩急を心得た脚本、アクションの見せ場のうまさに唸った。
これで、つくづく食わず嫌いはいかんな、と思った。
どこに面白い映画が落ちているか分からんぜ、何を好きになるか分からんよ、
せいぜい嗅覚を働かせて、見るものは見ておくべきだよ、
なんて自分に言い聞かせた。
そして1985年から86年ころ、ビデオが勃興して来た。
レンタルビデオ店が出来て、今まで見ることの出来なかった映画が
気軽に見ることが出来るようになった。
今まで京都では全然公開されなかった映画も、見られる。
これまで、自分の見たい映画を、見たい時に、見たいだけ見る、
という文化はなかった。
映画は公開を待つもの。
時間の都合をつけて、足を運んで映画館へ行き、
その映画が公開されるまでじっと待つ。
レンタルビデオは、そういう映画の習慣を根底から覆した。
レンタル店に行けば、これまで見逃していた映画、見たかった映画、
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