伊佐子のPetit Diary

何についても何の素養もない伊佐子の手前勝手な言いたい放題

南座の玉三郎「阿古屋」

2024年06月27日 | 演劇・ミュージカル
南座で6月に特別公演があった坂東玉三郎の「阿古屋」を見て来た。
半月に及んだ公演はもう終わってしまったが(>_<)。
が、発表された時から見たい公演だったので、チケットが取れてうれしかった。





ただチケット代をケチって2等席にしたら3階だった。
南座に3階なんてあったのか、と思うくらい南座で初めての3階席だった。

南座はそれほど広い小屋ではないので席数がそれほど多くはなく、
傾斜があるので3階もあるのだった。
席数は全部で1022席。
見づらい席には空席があり、満席ではなかった。
半月の公演だからすべてを満席には出来ないのだと思った。


席にはすべてエアウィーヴのクッションが敷かれていた。
さすが・・
玉三郎はエアウィーヴの宣伝をしているからその関係で
玉三郎が南座の全席にクッションを配備したのだろう…


南座へ行くのは少し難しい。
京阪が一番の最寄り駅で四条京阪の駅からすぐだが、
家からは最寄りの京阪五条駅までは鴨川を渡り、歩かなければならない。
タクシーも考えたが、頑張って京阪の駅まで歩くことにした。




四条京阪に着くと出雲阿国の銅像があった。
歌舞伎の創始者として顕彰されているのだ。



南座は四条通に面しているので車の通りが激しくて
ちゃんと撮れなかったが記念に撮影。





入り口では解説付きのパンフレットを客に配ってくれていた。
なんと親切な…。
顔見世の時のように解説の冊子を買おうと思っていたのだが、
買わずに済んだ。
これもきっと玉三郎さんの配慮だろうなと思う。




-----------------


玉三郎さんの「阿古屋」は20数年前、
同じ南座の顔見世興行で見たことがある。


その時は父親がいつ死ぬか分からない状態の時で、
母の分と2枚チケットを予約していたが、母は行かないと言い
(当然だ)、一人で行って来た。
そして玉三郎の阿古屋を見て来たのだった。
その数日後、父は亡くなった。
なんて親不孝者と今でも思ってるが、
玉三郎が南座の顔見世に来ることは滅多にないのでどうしても見たかったのだ。


南座の顔見世興行は沢山の演目があり、
その時も「阿古屋」はいくつかある演目の一つだったが、
今回は「阿古屋」だけの演目で、口上と解説が本編の前につく。

女形の最高峰と言われ、難役とも言われる「阿古屋」を
20数年前から今に至るまで演じ続けている玉三郎もすごいが、
以前見た時よりいっそう美しく見えたのもすごい。




席は舞台から見て右寄りの上方で舞台は遠かった。
顔の表情は見えない。


まず幕が開くと中央に玉三郎が座っていて、口上が始まる。
今回の舞台は「阿古屋」一演目に絞っているので、
口上と解説がつくのだ。

観客の拍手が南座じゅうに驚くほど大きく響く。
玉三郎の口上も大きく聞こえる。
マイクはないはずだが、はっきり聞こえた。

玉三郎さんはこれまで自身が演じて来たこの作品の思い出や、
南座や京都との思い出も語っていた。




そして次に「阿古屋」で詮議役の岩永を演じる片岡千次郎が
「阿古屋」の解説をする。

阿古屋は女形の芸(琴、三味線、胡弓)を見せる演目だが、
物語のバックグラウンドはある。
それを分かりやすく解説するのだ。


阿古屋は傾城という最高位の遊女で、
源平合戦のあと敗れた平家一門の景清という武将の愛人であった。

源氏方が行方をくらました景清の行方を問いただすため、
阿古屋をお白州(問注所)に引き出す。
問注所には二人の源氏の代官がいる。

阿古屋は(景清の)行方は知らぬと言うが、
代官のひとり、岩永は拷問して白状させようとする。
が、もう一人の秩父重忠は阿古屋に琴、三味線、胡弓を弾かせて
その音色で阿古屋の心中をはかろうとする。
阿古屋が嘘を言っているなら楽器の調べに乱れがあるはず、と。
そこで阿古屋は三つの楽器を順番に弾いてゆく。


玉三郎は口上で、この阿古屋の演じ方には二つの方法があると語っていた。
一つは阿古屋は景清の居場所を知っているが知らないと言い張っている、
もう一つは本当に居場所は知らないでいる、
玉三郎自身は本当に知らないでいるという演じ方をしていると言っていた。


幕が開くと舞台の右端に並んでいる三人の三味線弾きの三味線の音色が
会場じゅうに大きく鳴り響き、
浄瑠璃の長唄がこれも大きく聞こえて来て、その迫力には驚くばかりだ。



南座はそれほど広くはないが3階席からだと花道の一番奥は見えない。
幕が開く音と、観客の拍手だけで花道に玉三郎が登場したと分かるのみだ。
でも大丈夫、
花道を進んで舞台近くまで来るとそこで止まり、
阿古屋に扮した玉三郎はその場で観客へ向けてゆっくりと振り返り、
その姿をじっくり眺められるようにポーズを取ってくれる。
観客大拍手。

花道から登場した玉三郎は艶やかというも美しさが輝くばかり。
登場しただけで場を圧倒していた。
衣装も豪華だが(重そう)、その存在感に言葉を失うくらいだった。


(パンフレット、チラシの写真撮影は篠山紀信)



阿古屋が奏でる琴、三味線、胡弓は厳密にはソロではなく、
琴は舞台の右側にいる三味線の人とのデュエット、二重奏である。
20年前に見た「阿古屋」もソロではなかったので
やはり阿古屋はソロでは弾かないのだろう。

ただ、二重奏は二重奏で息を合わせて弾くのは難しそうだ。
伴奏者がいても難易度は変わらない。
難役と言われる所以だ。
(着ている衣装が重いのに加えて帯を前に結んでいるので元来、
楽器を弾くこと自体が困難なはず)


そして最後の胡弓になった時、
ここから玉三郎の超絶技巧が始まった。
胡弓を弾き始めてから後半になると、正真正銘のソロになるのだ。

まるでアドリブのように胡弓を操り、弾きまくる。
ロックバンドのギターソロのリフも顔負けの胡弓のソロにびっくりだ。
当然客席からは大拍手が沸き起こる。
(大向こうからは掛け声も、ここ、というタイミングで何度もあった)


詮議役の秩父重忠は、その阿古屋の演奏を聞いた後、
もし心に偽りがあれば音色が乱れるはず、
だが先の演奏には一糸の乱れもなかった、と言い、
阿古屋を無罪放免して劇は終わる。

・・・という筋ではあるが、
自分的には演奏があまりにも素晴らしかったので、
それに感動してお咎めなし、ということになったかのようだった。
それほど玉三郎の芸には感嘆した。

筋書きがどうこう言うより、
やはりこれは弦楽器のテクを堪能する芝居だと思った。


久しぶりに南座へ行き、久しぶりに歌舞伎を見たが、やはり良いものだ。
とくに玉三郎は何度でも見たい。
彼が現役でいる間は何度でも見ておきたい。
また南座にも是非来てほしい。来てくださいm(__)m





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劇団四季・ジーザスクライスト・スーパースター

2024年04月25日 | 演劇・ミュージカル
4月20日から6月2日まで、
JR京都駅ビル内の「京都劇場」で上演されている劇団四季の
「ジーザス・クライスト=スーパースター」を見て来た。

エルサレム・バージョンでの上演だ。
以前から見たかったミュージカルだ。


劇団四季のジーザス・クライストはエルサレム・バージョンと、
ジャポネスク・バージョンがあるが、見たかったのはエルサレム・バージョン。
京都劇場で上演されるのを知り、
うれしくてうれしくて何としても見たいと思い、
チケットもわりと簡単に取れ、念願かなって見ることが出来た。

京都劇場は劇団四季のミュージカルをよく上演している。
ほかに演歌歌手のコンサートなども行っているが、
「美女と野獣」も「オペラ座の怪人」も、ここで見た。

京都駅構内(駅ビル内)にあって、家から歩いて行けるので、
こんなに近くでジーザス・クライストが見られるのがうれしい。

京都劇場の総席数は941席と大きくはないが、
客席は満員で女性が多いが品の良い?男性も多い。
京都の上流階級の人という感じ?
年代はさまざまだった。


*感想がとても長くなってしまった・・・
思い入れの強い作品なので…
(盛大なネタバレもあり)



劇団四季創立70周年記念公演
『ジーザス・クライスト=スーパースター』[エルサレム・バージョン]
https://www.shiki.jp/applause/jesus/


劇団四季:ジーザス・クライスト=スーパースター[エルサレム・バージョン]
:プロモーションVTR
shikichannel
https://youtu.be/dT8WYJy3GKA?si=_IXYGen5xAQFNOkd





若かりし頃、
映画で「ジーザス・クライスト=スーパースター」を見て感動し、
忘れられない映画作品の一つになった。
もともとはブロードウェイとロンドンで上演されたミュージカルで
(その大元のオリジナルはレコード制作だった)、
映画化はノーマン・ジュイソンが監督して、
イエスが活動したイスラエルそのものでロケした。
砂漠の荒涼とした感じと相反するかのような熱気がすごかった。

始めに映画で見ていたが、
劇団四季が上演しているのは古くから知っていた。
一度は劇場で見たいと思っていた。
ミュージカルはあまり見ないが、「ジーザス」が見たかったのだ。
今回、何十年も経て💦とうとうその夢が叶う時が来たのだ。

イスラエルは今、難しい時だが…
(第二次大戦時は被害者だったのが、
終戦後にアメリカの肝いりで建国したことで加害者になってしまっている)
昨今の国際情勢とは切り離して考えた方がよいだろう。
ユダヤの物語ではあるが、
同時に若者たちの愛と苦悩の物語でもある。

それ以上に俳優たちの熱演、歌唱力の素晴らしさ、
迫力に圧倒されっぱなしの2時間足らずだった。
(休憩なし)
生歌の迫力を肌でじんじんと感じた。




彼らの名前は誰一人知らなくて、
劇団四季に何の予備知識も持たないまま見に行ったから、
俳優たちは(自分にとっては)無名の人たちだ。
そのような無名の俳優なのにものすごい歌唱力、
まずそれに驚かされた。
マイクはいらないのではないかと思ったほどだ。

イスカリオテのユダ、マグダラのマリア、イエス(ジーザス)、
プロなのだから上手いのは当たり前だが、みんな上手い。
それぞれが圧倒的な歌唱力。
感情表現がダイレクトに伝わって来る。
イエス役の人は声質が良く、ハスキーな声に哀愁があり、
ハイトーンも楽々出していて感激した。

パリサイ人の大祭司・カヤパのバリトンもすごかった。
ものすごい低い声が出ていて、掠れることも聞き取りにくいこともない。
劇場じゅうに響くような低音なのだった。


日本語で歌うからオリジナルの英語の半分くらいしか訳されていない。
それが少し残念だった。
ただ意味は通じていたけれど。
日本語を原曲のメロディーに合わせて当てはめていくのは
とても苦労しただろうし。
ただ、日本語で歌うから原曲のメロディーが少し変わってしまっていた。
アンドリュー・ロイド・ウェバーの美しいメロディーが
少しだけ分かりにくくなっていたかな。





舞台上には荒野のセットが組まれていて、
奥に行くにしたがって傾斜がある。
奥に行くには坂を登る感じだ。
セットはそれだけで終始する。
暗転した時にセットの上に簡単な装置が置かれることがあり、
場面転換がある時もあるが、
基本的にはひとつのセットのみでストーリーが展開してゆく。

始めに映画の方を見ているからどんなふうに?とか
どうやって?と思っていたが、
場面転換がほとんどないから話がサクサク進む。

サクサク早く進むから素晴らしい歌唱でも
余韻に浸っている暇があまりないが…


---------

「ジーザス・クライスト・スーパースター」は
イエスが十字架にかけられるまでのイエスの最後の7日間を描く。

約2000年前、ユダヤはローマ帝国の支配下にあった。
ユダヤの民はローマへの税、ユダヤへの税、神への貢物、と
二重・三重の重税、圧政、形骸化した厳しい神の戒律に苦しんでいた。
そこへ新しい神の教えを説くイエスが現れ、
民衆は彼を受け入れ熱狂的に支持してゆく。

弟子のひとりユダは、その民衆の熱狂に不安を感じていた。
ユダヤの支配層に目をつけられるのではないか、
民衆はイエスの教えを信じるというより、
ただローマから解放してくれるのではないか、
病気を治してくれるのではないかという現世利益を求めているだけではないか。
ユダはイエスとの間に溝が深まってゆくのを感じていた・・・



(画像は劇団四季のHPより)


------------

劇が始まると、当たり前だが説明は一切ないから、
これは(新約)聖書を熟知している人でないと分からないと思った。

自分は中・高とプロテスタント系キリスト教校に通っていたので、
毎日の朝礼(礼拝)の時に毎日賛美歌を歌い、
聖書の一節を開き、その一節に基づいた先生のお説教を聞く。
だからイエスと弟子たちの行状は親しいもので、良く知っていたし、
だからこそ「ジーザス」を見たいと思ったのだ。


が突然大祭司のカヤパとアンナスが登場して来ると、
それが誰だか理解できないのでは?と思ったり、
前半にローマ総督ピラトが夢を見たという独唱をするが、
それが誰か、お話を知らなければ誰だか分からないだろう、とも。

またホサナ、と群衆が合唱する場面は
新約におけるエルサレム入場の場面だが、
場面転換をしないので、やっとエルサレムにたどり着いた、とか、
ここがエルサレムであるという説明がないため、
なぜ群衆がイエスを称えているのか分からないのでは?
とも思った。


まあ劇場にジーザス…を見に来るくらいの人ならば、
物語のあらすじは分かっているのかもしれない。


始めの場面で沢山のイエスの弟子たちが登場するが、
その弟子たちがある場面ではユダヤの民になったり、
エルサレムで物売りの集団になったり、群衆になったりするのは
とても効果的だった。

あれほどイエスを慕っていた弟子たちや民衆が
最後はイエスを罵り、死刑にせよ、と囃し立てるのである。
その残酷さがよく表現されていた。


・・・ゲッセマネの場面(イエスの独唱)に来ると、
来た!、と心の中で叫んだ。

ただそれまでイエス役の人がハイトーンで美声を聞かせていたため、
独唱そのものが少し意外性がなかったかも。
映画では前半、イエスはそれほど聞かせどころがなかったはずで、
だからこそ、ゲッセマネでの血を吐くような神への問いかけが
心を打ったのだったが。。

ただ、曲の間奏部分、5拍子の変拍子に変わる部分で、
映画では古今の西洋絵画が描くイエスの磔刑場面が
フラッシュバックのように挟まれていくが、
そこを舞台ではイエスがロングトーンで長々とひと息で歌うのが圧巻だった。

イエス役は役柄上、やせ細っている設定なのに、
あの肺活量はすごいと思った。



イエスの鞭打ちの場面は目を覆いたくなるような残酷さで、
そのリアルさに震え上がった。

舞台上を引きずりまわされながら、鞭で打たれ続ける。
もちろん実際に鞭が当たってはいないが、
舞台を端から端まで引きずりまわされ無抵抗のまま、
されるがままにぼろ雑巾のように鞭打たれ続けるのである…

そして磔(はりつけ)の場面がやって来る。
この場面もあまりのリアルさに目を背けたくなるほどだった。
いや、釘付けになり、目が離せなくなった。
今、この場所でまさに磔刑そのものを見ている気になってしまった。


十字架にイエスを横たわらせ、イエスの手のひらに釘を打つ。
その時、釘を打つ音が劇場じゅうに響きわたる。
その残酷さ。
釘が打たれるたび、イエスの手のひらが痙攣するのである。

私の席は1階のかなり奥だったが、
イエスの手のひらが震えるのがしっかり見えた。
まるで実際に釘打たれているかのようだった…。

舞台の上に、イエスを張り付けた十字架が建ち上げられた時、
まるであの時代の磔刑の現場に居合わせている気持ちになった…


しかも映画では十字架を建てた時、
体が重みで十字架から垂れ下がるのを防ぐため、
両手首に縄を巻いていたが、この舞台では縄も見当たらない。
それでいて体が十字架に張り付けられたままでいる。
どうやってずり下がることなく
十字架に張付けられたままでいられるのか分からない。
実際に釘で打たれて、本当に磔刑にされているとしか思えないのだ。
あまりのことに驚きだった。

磔刑(はりつけの刑)とは十字架に釘で打ち付けられ、
十字架を丘に建てられて終わりではない。
磔刑に処せられた人物はまだ生きている。
十字架上にそのまま何日もさらされたまま、やがて飢えて
飢え死にするのを待つのである。
そういう残酷な刑であった。
目の当たりに磔刑を目にして言葉もなかった・・・。



--------------



(画像は劇団四季のHPより)


ジーザスの舞台はライティングが神で、
イエスが弟子たちといる時、イエスにだけライトが当たり、
イエスだけが光る。
まるでレンブラントの絵画のようだった。

磔刑の場面も舞台の真ん中に十字架がそびえたち、
回りを悲しむ人が取り囲む。
その場面は西洋絵画でよく見たイエスの受難の場面そのものだった。


芝居が終わり、カーテンコール(カーテンはないが)
はあるのかな?と思っていた、
こんなシリアスなストーリーにはカーテンコールは合わないなとも。
でもやっぱりカーテンコールはあった。
しかも何度も何度も。
舞台袖に引っ込んでは再び舞台に出て来て観客に挨拶する。
観客に手を振ったりもして。
もちろん場内は総スタオベで手を振り返したりした。
俳優の熱演に応えたい、感謝を表したい、
という観客の気持ちの表れのお手振りだった。



売店にはグッズまであった・・・


・・・長々と語ってしまった…
興奮が覚めやらないので…。

京都劇場のジーザスは6月頭まで上演しているので、
また見たくなった。。
何しろ徒歩で行ける距離なので(トイレが我慢できる距離)、
交通費が要らない。
気軽に行けるので出来ればもう一度、見てみたい・・




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シネマ歌舞伎・桜姫東文章下の巻

2022年05月07日 | 演劇・ミュージカル
シネマ歌舞伎、「桜姫東文章」の下の巻を見に行った。

京都・新京極三条下ルのMOVIX京都で上映していた。


片岡仁左衛門と坂東玉三郎の共演で話題を呼んだ舞台なので、
映画館でいいからぜひとも見たかったのだ。
前半(上の巻)を見たので、今回の後半の下の巻も見に行った。
(5月12日まで)



MOVIX京都
https://www.smt-cinema.com/site/kyoto/movie/detail/?cinemaid=T0026980&mo=35892&type=0




連休中に行ったからか、前半(上の巻)の時より空いていた。

上の巻が4月に公開されていたので、
今回の下の巻では上の巻のあらすじも最初に紹介していた。
(そうだろうと思っていた)

そして映画館でのみ、2回とも片岡仁左衛門と坂東玉三郎の解説がつく。
解説というか、インタビュー。
冒頭に二人のインタビューが流されるのだ。
映画館のみの贅沢な試み。


仁左衛門がこの戯曲は玉三郎のために書かれたもののように思う、
と嬉しい言葉を言っていた。

玉三郎は自分は(舞台の間)休む時間があるが、
仁左衛門さんは清玄と権助の二役なので出ずっぱりで
大変だと思うと言っていた。


僧・清玄は稚児の白菊丸と道ならぬ恋に落ち、心中を図る。
しかし清玄は死にきれず、生き残ってしまった。

17年ののち、高僧となった清玄の前に現れた吉田屋の桜姫。
桜姫は色々な理由から出家しようとしていた。
清玄は彼女が白菊丸の生まれ変わりと知る。

清玄は美しい桜姫に執着し、落ちぶれてしまう。
さらに心無い者に殺されてしまう。


一方、桜姫はかつて自分を犯し、子供まで作らせた相手、
ならず者の権助が忘れられない。
偶然、再会して権助に身を任す姫…。


権助は桜姫を女郎に売り飛ばすが、桜姫は図太かった。
権助との底辺の生活にもいつの間にか馴染んでいるのだ。


この桜姫の特異なキャラクター…、
よく考えると性悪なキャラかもしれないのだが、
玉三郎が演じると、嫌味より可憐さや美しさが際立っていて、
女郎に身を落としてからも何となく背伸び感があるというか、
憎めないというか、どこかに上品さが残っている。
玉三郎の類い稀な美しさがそう感じさせるのだ。

そうでなくば原作者の意図通りにならないだろう。


布団を敷いて権助とじゃれあう場面は名場面である。

二人の名優がぴったりの息で演じていて、見ていて快感すら感じる。







女郎に身を落とした桜姫だが、
彼女の周りに不気味な火の玉のようなものが現れると噂になり、
権助のもとに返される。


不慮の死を遂げた清玄が、幽霊となってまでも桜姫に憑りついていたのだ。

清玄から権助の正体を聞かされた桜姫は、
権助に酒を勧めて酔い潰し、真相を探ろうとする。



仁左衛門の、だんだんに酔い潰れてゆくだらしのない演技が
あまりにもリアルで、本当に酔っているのでは?とすら思ったくらいだ。

歌舞伎という様式的な芝居であるのに、
セリフも歌舞伎独特の言い回しであるのに、
二人の演技にはリアリティがあり、思わず引き込まれてしまう。

今まさにここでドラマが繰り広げられているかのような生々しさがある。


仁左衛門と玉三郎という、
二人の人間国宝同士の至芸というに相応しい見事な演技だった。



権助は実は桜姫の家の吉田屋の家宝を奪い、
当主を殺した桜姫の家の仇であることが発覚する。

桜姫が酔い潰れた権助から証拠を見つけたのである。


あれほど権助を恋い慕っていた桜姫ではあったが、
やはり桜姫は一筋縄ではいかない姫だった。

お家の仇、と権助をその手にかけるのである。


桜姫の強かさが際立ち、鶴屋南北らしい退廃的な戯曲でもあった。



それにしても話があらぬ方向へとどんどん転がってゆく脚本もさることながら、
それを二人芝居で見せてゆく仁左衛門・玉三郎のコンビの演技に、
あらためて見とれるばかりのシネマ歌舞伎だった。


この仁左・玉コンビをリアルタイムで見られることはこれこそ眼福で、
現代の贅沢であり、幸せなのだとつくづく感じ入ったことである。




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シネマ歌舞伎・桜姫東文章

2022年04月21日 | 演劇・ミュージカル
京都新聞に2021年だったか、歌舞伎座で公演があり、
チケットが即日完売したという、
片岡仁左衛門・坂東玉三郎共演の「桜姫東文章」のシネマ歌舞伎が
上映されているという記事が掲載された。


「桜姫東文章」は36年前、仁左衛門さんが片岡孝夫時代に演じられ、
玉三郎とともに人気を決定づけた演目だ。


玉三郎さんは長大な通し狂言で体力がいるから、もう演じることはないだろう、
というようなことを語っておられたような気がするので、
36年ぶりに「桜姫」が演じられると知り、
驚いたと同時に大いにうれしかった。

東京の歌舞伎座での公演は大評判だったようで、噂は関西にも届いていた。
仁左衛門と玉三郎の共演とあれば(仁左・玉コンビだし)、評判にもなるはず。
ぜひとも京都の南座でも演じてほしいと思っていたが、
叶わない夢だった。



ところが今回、シネマ歌舞伎として映画館で上・下に分けて公開されるという。
これはぜひとも見なければと思い、新京極の映画館へ出かけた。


「桜姫東文章」はずいぶん昔、ビデオの時代にテレビで放映され、
それを録画して持っている。


濡れ場がひどく官能的で、何度も見たい魔力があった。
これぞ歌舞伎という、美しいながらも何とも言えない退廃美が漂い、
衝撃を受けた。
孝・玉時代のコンビの代名詞的な演目だ。

もう二度と見られないと思っていたのに、
それが今や二人とも人間国宝になった今、再び演じてくれるとは。
評判にならないわけがない。


上・下に分けての上映なので、今回見たのは前半の2時間ほど。




桜姫東文章 上の巻 (本編:124分)

鶴屋南北作の退廃的な美の世界を描いた物語を、
片岡仁左衛門と坂東玉三郎が36年ぶりに同じ配役で演じた歌舞伎公演を映像化。

キャスト
片岡仁左衛門、中村鴈治郎、中村錦之助、中村福之助、
片岡千之助、片岡松之助、上村吉弥、中村歌六、坂東玉三郎



70歳を超えた玉三郎が稚児の白菊丸を演じるのはどうかと思ったが、
シネマ歌舞伎でアップになっても違和感はなかった。
さすが当代の美貌の役者だけある。


「四谷怪談」で有名な鶴屋南北の原作は江戸後期の退廃的な雰囲気があり、
話がどんどん悲惨な方向に転がり堕ちてゆく。

が、それが避けられない悲劇の展開として戯曲の魅力になっている。

話はとても複雑で長大だが、二人の演技が目を見張るばかりで、
瞬きするのも惜しいくらいだ。


仁左衛門の高僧・清玄の品のある身のこなしと、
二役で演じるならず者の権助のやさぐれた感じの演じ分けはさすがに見もので、
権助のふるまい(こなし)に目が釘付けになってしまう。

玉三郎も、しぐさや身のこなし、仁左衛門との息の合った演技に
贅沢なため息が出てくる。

特に権助との、かつて自分を犯したならず者に身を任せる濡れ場の場面は
36年前と変わらず衝撃的で、官能的で、見入ってしまった。

これぞ、仁左・玉コンビの最大の見せ場。
人間国宝同士の、今、日本で見られる最高峰の場面だと思う。




後半ではならず者の権助に従う桜姫が女郎に身を落としてゆく
波乱万丈の展開になってゆくが、
今回上映された上の巻では、
清玄と桜姫の夜の歯がゆいすれ違いの場面で終わっていた。


29日から下の巻が公開される。
それも、ぜひ見に行きたいと思う。




それにしても、歌舞伎は今、初音ミクと共演したり、
鬼滅の刃を題材にしたり、スーパー歌舞伎はもとより、
様々な試みを試して新たな客層を掘り起こそうとしているが、
この仁左衛門・玉三郎を見ていると、
彼らが場に出るだけで醸し出される何とも言えない華があるのは
疑いもなく、否応なしに目が吸い寄せられるのである。

それがスター性であり、華であり、役者としての存在感だろう。




映画のスクリーンで見ているとよく分からないが、
実際の舞台で玉三郎なり、仁左衛門が登場して来るだけで、
その場がさっと華やぎ、彼らに目が自然と釘付けになってしまう。
出て来るだけで、その場にいるだけで絵になるというか。


その時代に合った新しい試みも必要かもしれないが、
今の歌舞伎に観客が本当に求めているのは、このような、
一目で観客をとりこにする、存在感のある役者なのではないか、
そんなことを考えたのである。




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紅テントと京都書院の頃

2021年03月20日 | 演劇・ミュージカル
NHK BSの「アナザーストーリーズ」でだいぶ前になるが、
唐十郎の紅テント・状況劇場を特集していた。

2021年2月16日「越境する紅テント ~唐十郎の大冒険~」



80歳を超え、脳挫傷という病を得ても今も活動を続けているのを知り、
感慨深かった。ずっと活動していたことに。
京都では演劇に関して、情報はあまり入って来ないのだ。



唐十郎の紅テント「状況劇場」はあの時代、1960年代後半、
70年安保に向け学生運動が盛んになって来た時と切り離せないと思う。



若者たちのアングラ文化が台頭して来た時期である。

当時の学生運動も、若者たちが社会や政治に関して自分の意見を持ち、
自己主張を始めたからであった。

時を同じくして、
音楽や美術などで新しい動きが始まり、
若者たちが新しいことに挑戦し始めたのは、偶然ではないと思う。



映画は「心中天網島」「エロス+虐殺」、

音楽では岡林信康や高石ともや、フォーククルセダーズ、
ロックでは村八分、頭脳警察など、
過激な主張やパフォーマンスをするバンドがあのころ急増したのは、
お仕着せの、与えられた歌だけ歌うのではなく、
自分が作り、歌い、主張する、その土壌が醸成されて来たからだろう。

学生運動の学生たちがそうであったように、
若者たちが自分の言葉を持ち始めたのだ。





それは演劇でも同様だった。

それまでの、新派や翻訳劇などのトラディショナルで、
出来上がったものではなく、
自分たちで考え、作り、自分たちの価値観で劇を一から作り上げる。

そのようなムーブメントが文化全般から押し寄せていた時代だった。


あの時代は若者文化という、一つの文化が出来上がった時代だった。

既存の価値観にとらわれない、
新しい表現のあり方を誰もが模索し形にしようとした。
それを文化にまで押し広げた、そういう時代だった。



唐十郎自身は丸顔で、気の良さそうな、普通の人だったので、
彼が過激な内容のアングラ劇を創出した人とはとても思えない。

紅テントの彼らが警官と乱闘騒ぎを起こしたりしたのも、
彼らは時代が要求していた存在だったのだと思う。





京都では紅テントはいつも、下鴨神社の境内で行われていた。



ある時から、私は四条河原町の京都書院という書店に入り浸っていた。

三条河原町にあった駸々堂とともにこの二つの書店が私の聖地だった。



京都書院は駸々堂に比べればあまり大きくない。
1階にはわりと普通の本を置いていた。

が、階段を上がって2階へ行くと、そこは異世界というか、
魔窟というか、まるで桃源郷のような世界が広がっていた。


澁澤龍彦、種村季弘、埴谷雄高、塚本邦雄、はもとより
マニアックな美術書がずらりと棚に並んでいた。


グスタフ・ルネ・ホッケの「迷宮としての世界」、
ヴァザーリの「画人伝」、マニエリスムに関する本たち…、

子供の私には高くてとても手が出ない美術書が欲しくて欲しくてたまらず、
京都書院へ行くたび、棚から引き出しては立ち読みしていた。


今でもルネ・ホッケの3000円以上した「迷宮としての世界」を
買えなかったことが心残りのまま…。

それでも京都書院の2階で「澁澤龍彦集成」を何冊も買い集めた。




その京都書院の2階へ行く階段の脇の壁に、
アングラ映画などのポスターが貼られていた。

そこに下鴨神社で行われる紅テントのポスターもあった。

京都書院の2階へ行く階段の脇の壁、それは魔界への入り口のようだった。




まだ子供だったあの頃、下鴨神社の紅テント・状況劇場のポスターに、
ただならぬ異世界的雰囲気を感じて、
これはどんなものなんだろう、
と想像しながらいつも2階への階段を上がっていた。




京都書院も今思えば、先鋭な京都文化を発信していたんだと思う。

京都はその頃(も今も)学生が多い、学生の町だったから、
学生向けの最先端カルチャーの町だったのだ。

円山音楽堂や京大西部講堂など…
京都でも独自の学生文化が華開いていた。

それだから、紅テントの状況劇場も受け入れる土壌が出来ていたのだろう。



まだ子供の私はとても紅テントに潜る勇気はない。
どんなものだろうと想像をめぐらすばかりだった。

あの時代、
安保闘争やアングラ文化からは遅れて来た世代だったので、
何事かの新しい波が押し寄せていたことは分かっていても、
自分の中に把握することは出来ず、それを見上げるだけだったのだ。



当時、唐十郎の戯曲は角川文庫からたくさん発売されていた。
それを買い漁って読んだりもしていた。
あまり理解は出来ていなかったと思うが…。




それからだいぶ経ち、大人になって就職してから、
また下鴨神社に紅テントが来るのを知った。

一度はどうしても見ておきたいと思い、
このチャンスにと知人を誘って見に行った。

その時の状況劇場は根津甚八がスターだったころだ。



紅テントの中に入ると通常の席はなく、
シートの上に地べたに坐る、それに驚いた。

そして一緒に行った知人が後ろの人の足が自分のお尻に触ると言い、
もう出ようというので、仕方なく途中で劇を見るのを止め、
テントを出ることになった。

そのため、たった一度見に行った状況劇場の劇を、
最後まで見ることが出来なかった、という顛末に、
後々まで知人を恨んだ。

劇の内容もまったく覚えていない。




私の紅テント体験はお粗末なものだったが、
「アナザーストーリーズ」で紹介されていた、
状況劇場がパレスチナへ行って上演したことは知っていた。


唐十郎の困難なこともどこまでも実現させてしまうエネルギーに
驚嘆した。
パレスチナという象徴的な場所で芝居をする、という
事実が必要だったのだろう。

あの時代の渦巻くエネルギーがそうさせたのかもしれない。



時代を駆け抜けた風雲児、という表現がぴったりのような気がする。

根津甚八は俳優を辞め、京都書院はとうになくなった。



角川文庫の唐十郎にしか出会えなかった私には、
懐かしさともどかしさが入り混じった思い出…。








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