伊佐子のPetit Diary

何についても何の素養もない伊佐子の手前勝手な言いたい放題

漱石と歩く京都

2016年06月08日 | 夏目漱石
今年は漱石没後100年とかいうのを聞いた。

京都新聞に、時々(月に二回ほど)
「漱石と歩く京都」という文章が連載されている。

直近の記事には14回目とあるから、
かなり長く連載されている。
この文章(エッセイ)を、
漱石好きとして読んでいたのだが、とにかく難しくて、
やたらに長いのでどうしても目が滑ってしまう。
京都新聞のサイトにも行ってみたが、
こういうのは掲載されていない。
切り抜きとして残してもいないので、
直近の「北野天満宮」編をたよりにのみ書いてみる。


著者は小川後楽という人で、
ウィキで調べたら煎茶人とあり、
京都造形芸術大学の教授でもあるということだった。
副題に「-煎茶との出会い」とあるから、
やはり煎茶の視点から漱石の京都滞在を描いているようだ。

グーグルで調べたら、漱石は京都に4回訪ねているという。
そのうち2回目に来た時の様子をもとに「虞美人草」を書いた。
「虞美人草」・・・読んだけど、全部忘れている…。

随筆「京に着ける夕」はこの2回目の入洛時の時のもので、
京都に初めて来た時は子規と一緒だった、
その子規は死んだ、干からびて死んだ、云々と、
相変わらずツンデレ文で子規のことをそっけなく書いているが、
十何年経ってもその死んだ子規のことを忘れられなくて、
一緒に京都に来た時のことを思い出す。
素っ気なく見えても漱石にとって、
子規はよほど大切な存在だったんだなとかえって考えさせる文章だ。


「京に着ける夕」は本当に短い文章で、
布団で寝ていても寒い寒いとかそんなことばかり書いてある。
京都のこういうところを訪ね歩いた、
というようなことは一切書いてない。
だから、漱石にとって京都はどんなところだったのだろう、
とは思ったものの、大したところではなかったんだろう、
と思ったりしていた。


だけども、小川氏の新聞の連載には、
例えば漱石が北野天神を訪ねる時に、売茶翁の名を出し、
漱石はその売茶翁の何とかという本を精読していたと書いている。

漱石は、京都を訪れる時、何も物見遊山ばかりでなくて、
彼の持っている深い教養をもとに、
京都に残っている日本文化に出来る限り近づき、
触れようとしていた…
というようなことが小川氏の連載の趣旨なのかなと思った。


検索をかけてみると、
「漱石の京都」という本も発表されていることが分かった。

漱石の京都 [ 水川隆夫 ]
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売り切れてるけど…

漱石にとって、京都はかなり重要な土地であったことが、
何とはなく分かって来た。

ただ、小川氏の連載で感じたのは、
漱石の学問と教養の驚くべき深さだ。

否やっぱり漱石の本を読めば、
漢文崩れの美文などが随所に出て来るし、
漢学などの素養は大変あった人だというのは、
何となく分かってはいた。
明治の人だから、当時の本屋で売っている本などは、
今と違ってまだ明治維新の記憶も新しく、
江戸時代の教養本などが主流であっただろう。


漱石は丸善に通い、
つけで沢山の本を毎月買い漁っていたらしいし、
また学生にものを教える教授の立場であったから、
教養は自分の仕事として
身につけておかなければならない仕事道具であっただろう。
そう考えれば漱石が漢学に精通していたり、
売茶翁に精通していたりするのも不思議なことでは少しもない。

同時に同時代の人たちの小説も読んでいただろうし、
弟子たちの拙い小説もどきも読んでやり、
熱心にアドバイスなどもしていた。

大量の手紙を書き、手紙で友人や弟子たちと交流していた。
自分の小説を書きながら
こういうこともこなすんだから忙しかっただろう、
そら神経症(胃痛?)にもなるわな、と。

漱石については私は全然詳しくもなんともなかったんだなと、
ちょっとがっくり来た。




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