伊佐子のPetit Diary

何についても何の素養もない伊佐子の手前勝手な言いたい放題

鷹山復興なるか

2016年06月11日 | 祇園祭
祇園祭、
休み山だった鷹山の復興が検討されているという
ニュースが入って来た。

http://www.kyoto-np.co.jp/sightseeing/article/20160607000141

祇園祭の山鉾は現在33基、
2年ほど前に大船鉾が再建されたので、その数になった。

休み山というのは、様々な理由で山の骨格が失われ、
巡行には参加できないが、
懸想品や、少しの資料などは残されている。
それを宵山期間中、
会所飾りとして公開している山(山車)のことで、
大船鉾を含めて以前は3つあったが、
現在は布袋山と鷹山の二つ。

それぞれ宵山期間中に、三条室町(鷹山)、
蛸薬師新町(布袋山)の会所で、
御神体人形などが公開されていた。

私は三条室町の鷹山の会所には
残念ながら行ったことがないのだけれど、
3体残っている御神体人形は有名で、
山の名前になっている
鷹にちなんだ鷹匠の人形なんかが残っていたのだと思う。

この鷹山が復興に向けて動き出した。
鷹山は後祭の曳山で、
人を乗せた大型の山だったというような説明を聞いたことがある。

記事ではどの時代のどの形のものを復元するか
検討するということだが、長い歴史の中で、
山自体がその時代でいろいろ形態を変えて存続して来たからだろう。
鷹山は1826年の大雨で被害に遭い、
以降巡行に参加していないという。

戦後復興した山鉾は、
大概、禁門の変の時に被災して、
その時にだいぶ数が減ったが、
戦後、徐々に復興されていった。

菊水鉾なども戦後の鉾だ。

鷹山はそれ以前に消失していたようで、
随分長い間再興されなかったが、
それでも会所飾りで参加していたのは、
御神体人形が残っていたからだろう。

山鉾が現在のような形になったのは、多分室町時代。
狩野永徳の「洛中洛外図屏風」に、
今とほとんど変わらない山鉾の姿が描かれているから、
描かれたとされている1574年(うろ覚え)には、
すでに現在の形になっていたといえる。

その最盛期には55基くらいの山鉾が参加していたという話だから、
ものすごい数の山鉾がかつては京の町を練り歩いていたことになる。
だけど、それでも今でも33基が現役で動いている、
のはすごいことじゃないだろうか。


鷹山復興で、特に私が感慨深いのが、皆川月華の存在だ。
彼は京都の染色作家であった。
祇園祭にもとても貢献し、
彼の作品の見送りなどは現在も使われている。
菊水鉾や月鉾の見送りなどがそうだ。
皆川月華の名前は、
祇園祭には切っても切り離せない名前となっている。

http://www.tobunken.go.jp/materials/bukko/9809.html


以前、祇園祭関係の展示を博物館などに見に行った時、
その皆川月華が、鷹山の復興を願って見送りを作り、
寄贈した作品というのを見たような気がする。
気がするだけで、見なかったかもしれない。

でも、ただ皆川月華が鷹山の復興を願い、
自分の作品を寄贈した、
というエピソードは強烈に覚えていて、
せっかく立派な見送りがあるのだから、
いつかこの作品が日の目を見て、鷹山が復興され、
その山の後ろに月華の見送りが飾られる日がくればいいのに、
と切に願ったのは確かだ。

今回、鷹山復興の検討を聞き、
真っ先に思ったのが、この月華の見送りだった。
何十年も前に制作された、その月華の作品が、
もしかしたら本当に、それを飾った山が、
京都の町を練り歩く日が、来るかもしれない。
そんな日が、もしかしたら来るのかもしれない。
そう思うだけで、胸がいっぱいになった。


祇園祭の発展を願い、多大な貢献をされ、
そして鷹山に見送りを贈られた月華氏。
その思いが、何十年を経た今、現実になるかもしれない。

あのころ、この見送りがありながらそれが生かされない、
その切歯扼腕した思いが、何とも残念な思いが、
絶対に鷹山なんか、復興しないだろうと思っていたので、
…今回のニュースは、涙が出た。




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