静かの海

この海は水もなく風も吹かない。あるのは静謐。だが太陽から借りた光で輝き、文字が躍る。

ラテン語・日常語・方言

2010-06-07 21:06:36 | 日記
 けふのことば
 「あれほど熱望されるあの名声というものは、しばしば、すぐれた才能がもつような数々の強みを持たないことを慰めるために凡庸な人々に与えられるものにすぎない」
                     (ダランベール「百科全書序論」橋本訳)


 ダランベールがいうには、古代人たちの諸著作のうち、知る必要のあることはすべて学んでしまったので、これ以上学ぶのは無駄だと思っている人たちがいる。だがこれは偏見で、このような偏見が生じたのは、すべて日常の生活用語で書くという今日の習慣のせいである。この習慣はおそらくこの偏見よりももっと有害であると。

 ダランベールによると、当時はフランス語が全ヨーロッパに普及していたという。だからフランス語をラテン語の代わりにするべきときが来たとフランス人たちは考えた。もともとラテン語はルネサンス以来フランスの学者たちの言語だったのだが・・・。
 しかし彼は、哲学者がラテン語ではなくてフランス語で書くことも認めよう、それが知識の光をより一般化するのに貢献し、国民の精神能力を本当に広げることができるということならば、という。

 しかし予見しなければいけなかったはずの不都合が生じたとダランベールは言う。つまり、フランス以外の学者たちは、フランス語よりも自国語でのほうが旨く書けると思うようになった。これは当然のなりゆきだろう。
 イギリス人がフランス人の真似をしてラテン語を使わなくなり、ドイツ人も使わなくなり、やがてスウェーデン人、デンマーク人、ロシア人もそれに続くだろう。共通語を使わなくなるので、一八世紀の終わりを待たないで、諸知識を徹底的に学ぼうとする哲学者たちは、七つから八つの違った言語を習得しなければならなくなる。生涯の最良の貴重な時間をそれらの言語の学習に使い果たした後、学問を始める前に死ぬはめになるだろう。

 ダランベールは言う。哲学の著作はその明晰さと正確さでその価値がはかられるべきで、そのためには伝統的なただ一つの世界語つまりラテン語しか必要ではない。
 だが、自国語使用の悪習は虚栄心と怠惰のために好都合であり、哲学者たちは読まれること、とりわけ自国民に読まれることを願う。あまり親しみのない言語、つまりラテン語を使うと、自分を褒め称えてくれる口を減らすことになる。称賛者が少ないほどよい批判者を得るだろうが、そんなことで彼ら気持ちを変えさせることはほとんどできない。
 名声はそれを授与する人々の価値よりもその数にもとづくものだから。

以上はダランベールの文章の要約である。ベイコンの時代にはラテン語の使用は当然であり、また教養のための必修語でもあった。ルイ十四世が皇太子のために古典を編集して発行させた『皇太子文集』ももちろんラテン語であった。しかしダランベールの頃にはラテン語の地位は脅かされていた。だが時の流れに逆らうことはできない。
 フランス語が全ヨーロッパに普及したとダランベールが言っていることは印象的だ。

 今日では英語だ。全世界に普及している。わが国では小学校で英語教育が始まる。だがこれは新参者の言語で、古典の勉強には役立たない。『夜明け前』の青山半蔵はわが国古来の「やまとことば」の復活を願ったが、それは不可能だった。モリエール、ラシーヌ、シェークスピア、シラー、ゲーテ、プーシュキン・・・これらの人々はその民族の言語の発展に貢献した人たちだ。日本では誰か・・・ちょっとわからない。井上ひさしが明治のはじめ頃活躍していれば・・・あるいは。

 明治政府の首都が京都に置かれたら、京都弁がわが国の標準語になったのか? すると『夜明け前』も京都弁で書かれたかもしれない。日本国憲法も京都弁で。

 日本国憲法を方言で書いてみという試みがあちこちにあると聞く。そのうちの幾つかを読んでみた。だが、まったく感心しない。お遊びの域を脱していない。こんなことをいうと叱られだろうが。
 なんといっても憲法は法律である。まさに正確さと明晰さが要求される。あいまいな表現は許されない。古代ローマは法の国でもあった。そのラテン語はとても精確・厳密に出来上がっているといわれる・・・私にはよく分からないが。ラテン語は日常語としては死語になっているが、今日でもヨーロッパの言語を豊富にし発展させることにに大きく貢献している。その意味では今日も生命を保っている言語である。 

 世界で少数民族の言語がどんどん消滅しているという。日本でもアイヌ語がその運命を辿るのではないかと心配されている。方言の消滅も恐れられている。以前、宇野重吉がある地方演劇の上演を観たあと座談会で劇評するのを聞いた。いろいろ言ったが今でも印象に残っているのがある。共通語で書かれた劇を演ずるとき、方言のアクセントやイントネーションが出ないようにせよということであった。宇野は自分の方言の癖を直すのにずいぶん苦労したのだろうと思う。彼は方言をなくせよなどとは言っていない。だが私は今でも気になっている。

一九九二年、フランス憲法第二条第一項に「共和国の言語はフランス語である」が加わった。ちなみに第二項は国旗の三色旗、三項は国歌、四項は国歌の標語、五項は共和国の原理が規定してある。フランス共和国には一つの共通言語だけが必要という考えである。

 ダランベールは、学問・科学の共通言語としてラテン語の必要性を考えた。だがそれが不可能なら当時ヨーロッパに普及しているフランス語でもよいとした。だがそれも望めないことは分かっていた。現在のフランス憲法の要求するのはもちろん一般的な日常語としてのフランス語である。そこでは、共同体を形成する市民たちが討議に参加するには共通の言語が必要だという考えがある。ダランベールの意図とは違う。しかし、なんとか共通語をという点では共通しているように思う。このフランスの言語政策はアメリカ合衆国などとは対照的である。

 だがこれはフランスという共同体の中における共通語である。EUは政治的・経済的にも社会的にも共同体を目指しているのだろうが、言語という障碍が残る。その言語を英語で間に合わせている。今や英語はヨーロッパの共通語の役割を演じつつある。

 東アジアでは以前漢字が共通文字であった。だが今は漢字を使っているのは中国と日本だけになってしまった。その日本も、漢文ではなく漢字と仮名を組み合わせて使っている。そして小学校でも英語教育が始まったという。学問のためとはいわない、”国際人”を育成するためらしい。

明治の百科全書

2010-06-03 20:17:22 | 日記
 中国の古い百科全書的な書物といえば『天工開物』だろうか。わが国では貝原益軒の『大和本草』か? 益軒のこの書の内容は、すべて”民生の日用に便ある”もので、ことごとく庶民の啓蒙のため、産業の助成のためであったと言われている(三枝博音『日本の唯物論者』参照)。だがしかし、ディドロの『百科全書』のようなものは生まれてこなかった。
 徳川期、若干の蘭学書がわが国に紹介されてはいたが、本格的な西洋の近代科学の建設が始まるのは、一八世紀の七・八十年代からとみていいだろう。それは徐々にではあるが、「漢学」から「洋学」への転換をもたらしつつあった。急激な変換は幕末から明治維新にかけてであり、西洋の近代科学や技術に対する関心は急速に高まった。

 幕末から明治の初期にわたって普及した『博物新編』という書物がある。この書は伝道医療宣教師として中国に派遣されたイギリス人ホブソン(中国名 合信、1816-73)の著によるもので、一八五五年に清国で発行された。 
 わが国では一八六四年(元治元年)に江戸の万屋というところから出版され、明治になってからも版を重ねた。当時わが国では広い範囲で科学を扱った書物はこれしかなく、広く普及したという。漢文で書かれていたが、当時の人々は一般に漢文の素養のある人も多かったのである。

 それでも、少し遅れてではあるが、この書の翻訳・訓点・注解などもあいついて発行された。たとえば大森惟中訳『博物新編訳解』(四巻五冊、1868-70)、小室誠一訓点・頭注『整頓博物新編』(1876)ほか数種類が発行されて、西洋の科学知識の普及に役立ったという。この書は量的にはさほどでないにしても、動植物のみならず天文から地理・物理などにも及ぶ、相当大きな構想のものに出来上がったものであった。

 その概略をいうと、この書は三集から成り、第一集は地気論、熱論、水質論、光論、電機論、第二集は天文論、星論、地球論、四大州論、その他、第三集は陸棲動物・水生動物・鳥類を含めた鳥獣論となっており、それぞれ図解つきである。この書には後に第四・第五集が第二編として付け加えられた。この第二編は清国の容兆の著となっているが、内容は第四集が人類総論、平原論、雨論、海洋論その他今日でいう地学関係、第五集が草木略論、化学略論、人体略論である。

 この書とは別に、イギリス人のウィリアム・チェンバーズ(1,800-83)とロバート・チェンバーズ(1802-71)の兄弟による『博物新編補遺』(小畑篤次郎訳、1869)という書物が慶応義塾から出版されている。これは原書名を Introduction to the Science(1861)といい、Chambers Educational Cause の中の一冊で、合信(ホブスン)の『博物新編』を解読できない児童たちを対象にして訳したものとされ、明治初期の教科書に多く引用されたり、教材に用いられたという。
 上巻は天文・地理、中巻は物理、下巻は動植物からなる。明治五年に文部省の定めた小学教則によれば、上等小学に「理学論議」という科目が設けられており、この科目の説明には、この書の利用の仕方などが述べられている。

 それから数年後、文部省の手によって『百科全書』なるものが翻訳・発行された。これは同じくチェンバーズ兄弟の Information for the People (1833-1835)の全訳ということになっている。全九二冊で、天文・地質から始まり体育・絵画彫刻にまで及び、まさに百科全般にわたっている。先の『博物新編』に比べてもその間口は遥かに広い。名称も「博物」ではなく「百科全書」に変っている。

 この文部省の『百科全書』は一八七三年(明治6)に計画・準備が始まったようだが、発行されたのは七四年から八〇年にかけて。好評なので、のち民間の出版も許された。
 一項目が一冊になっている。動植物はもちろん物理・化学、鉱物、土木、建築、交通、農業、園芸、狩猟・漁業・食物・衣服、歴史、地誌、宗教道徳、経済、教育、文法・・・など極めて幅広い。ほとんどが100ページ余り、一ページ360字詰めの小型本である。図版も入っている。訳文は、今日から見れば相当ずさんであるが、これは止むを得なかったのかもしれない。

 この『百科全書』は先に述べたように一般に好評だったが、エフライム・チェンバーズの『百科全書(サイクロペーディア)』がフランスの百科全書派の人たちに与えたようなインスピレーションをわが国の人びとに喚起させてくれなかった。ましてやディドロたちの『百科全書』のような書物の出版は望み得べくもなかった。

 明治六年には、森有礼、福沢諭吉、加藤弘之、西周らによって明六社が生まれ、機関誌『明六雑誌』の発行や講演会などが行われた。これは斬新主義にもかかわらず啓蒙運動において一定の影響を与えつつあったが、これも明治政府の讒謗律や新聞紙条令などによる言論・出版の取り締まりが強化され、これを理由にした福沢の『明六雑誌』廃刊案が採択された。わずか一年半でこの運動も挫折した。これは、この運動にかかわった人たちの主体性の問題でもあっただろう。
 その後、この科学啓蒙のエネルギーは、自由民権思想の一つの支柱となったともいわれる。 

 話は飛ぶが、一九三〇年代の大恐慌と資本主義の危機は、科学や技術のあり方に対する根本的な反省を促す契機となった。 一九三〇年、「一五年戦争」の始まる直前の年、戸坂潤や岡邦雄たちは雑誌『アンシクロペディスト』の刊行を計画したがそれは実現しなかった。だが三二年にはこの二人に三枝博音らが加わって「唯物論研究会」が設立される。この間の事情については暉峻凌三が次のように述べている。
 
 「思想や文化の、民衆からの自発性が著しく蔽い妨げられているところでは、精神のこの篭絡状態の全面的=百科全書的批判がまず必要であり、またたとえ幼稚なものであれ思想・文化の諸分野における民衆の自発性の萌芽が、嗅ぎ出すようにして探り当てられなければならなかった。このことが戸坂らの『唯物論研究会』の組織として結実したのだろう」(『戸坂潤全集』第1巻月報)。

 次のような評価もある。
 「唯物論研究会の活動は、フランスの大百科全書派の日本版ともいうべきものであった。この日本版においてディドロとダランベールの役割を演じたのは、戸坂潤と岡邦雄とであったといえよう」(湯浅光朝「日本の近代化と科学技術」)。

 こ唯物論研究会によって一九三五年から三八年にかけて『唯物論全書』全五六冊が刊行された。「科学を大衆化し、大衆を科学化することを通して、当時のヴァンダリズム(注:バンダリズム、文化や文化財、公共施設などを破壊すること)に抵抗し、文化と知性を擁護していこうとする意図のもとに企画された」(『戸坂潤全集』の古田光の解説)と評されたが、これは唯物論研究会を日本の百科全書派となぞらえたその理由でもあった。

 この『唯物論全書』も、かつての文部省の『百科全書』に似た小型の本だったが、活字がそれに比べて小さく1ページ480字(『三笠全書』と改称してからは520字)、ページ数はほぼ200ページ余から300ページ余だった。内容の水準は高く、今日読んでも面白い。
 だが日中戦争の拡大、治安維持法による弾圧の強化に伴い、会の中心人物や機関誌読者たちの検挙・投獄が相次ぎ、唯物論研究会は解散に追い込まれていった。

 

百科全書(4)

2010-06-02 14:38:49 | 日記
 
 ⑦ ディドロと百科全書

 この『百科全書』は一七五一年に発行が開始されるや直ちに人びとに迎え入れられ、完成を見ないうちから成功は確実となった。政府当局やイエズス会の弾圧や妨害にもかかわらず発行は続けられ、一七七二年には本卷一七巻、図版一一巻が完成し、続いて補巻の四巻と図版1巻、索引二巻が一七七六年から八〇年にかけて発行された。ダランベールがひとつの「百科全書」を完成させるのは幾世紀にもわたる事業であると述べたにもかかわらず。

 科学史家ギリスピーはこの壮挙を「ディドロの『百科全書』は啓蒙思想の最も大胆な事業であって、<百科全書派>と<哲学者>とはほとんど同義語のようなものになっている。この書物はそれ自体が産業の博物誌であった」と評価した。(ギリスピー『科学思想の歴史』島尾訳)。
 ギリスピーのいうように、哲学書とでも言うべき内容がこめられており、われわれはこの書を読むことによって当時の思想の一般的傾向を読みとることができる。とくにダランベールの「百科全書序論」やディドロの「哲学」「技術」の項目などは優れた問題提起をしている。

そのなかにあって、百科全書運動の最大の中心人物がディドロであったことは一般に承認されているところである。ディドロは、少年のころからギリシア・ローマの古典の素養を身につけ、後にはホメロス、ウェルギリウス、セネカ、ルクレティウス、プリニウスに関する注釈を著したという。そのような素養が彼の思想を培ってきたのだし、この運動に大きく貢献した。

 ディドロはいう、従来の辞典類は「その形式そのものからいって、ただ所々参照されるにのみ適していて、筋道の立った読み方を拒むものである」(「趣意書」)と。彼は従来にはなかった新しい百科全書への抱負があった。彼は、従来の百科全書への個別的批判はしていないが、当時もっとも名声の高かったエフライム・チェンバースの『百科全書』(ロンドンで発行されて版を重ね、イタリア語訳も出ていた)だけには言及している。その内容に触れる必要はないが、一つだけ、チェンバースの「学問と技術の系統図」には別の樹を置き換えなければならないと批判していることだけは指摘しておきたい。

 
 ⑧ ディドロたちの自己評価

 前に述べたことだが、科学や学問は人間生活の向上に貢献するものでなければならないというのがディドロの一貫した思想であり、百科全書運動を支える精神であった。また「事実というものは、たとえどんな性質を帯びていようと、哲学者にとっては真の富である」(「『哲学断想』)というのもディドロの信念であった。

 『百科全書』の出版は先述のように成功はしたが、ディドロたちの自己評価には厳しいものがある。ディドロはいう。
 「執筆者の選択に関して細心の注意をはらう時間的余裕はなかった。若干の秀でた人に混じって、才能のない人、凡庸な人、まったく出来の悪い人がいた。こうした理由から、大家の手になる作品が小学生のような未熟な文章と並び、崇高な事柄ととなり合って愚劣なことが見出され、力強さと、純粋さと熱意と分別と理知と典雅さをこめて書かれたページが、みすぼらしく、けち臭く、平板で、くだらないページの裏に書かれているといった、あの玉石混交が生じたのだ」。
 また好意的な批評家たちさえも「怪物」と評し、ヴォルテールは「がらくたの山」と文句を言ったという(プルースト『百科全書』平岡訳)。ダランベールが幾世紀にもわたる事業と言っていたにもかかわらず、ディドロは、時間的余裕がなかったと告白しているのである。

 そして、たしかに、『百科全書』に盛られた学問の原理や技術の蓄積は、その後の二世紀の間に時代遅れのものになり、当時の真理も真理ではなくなったものも多い。この間の科学・技術の発達を測るための基準にはなるけれども。だがしかし、古代からの知識の蓄積も、しばしば、誤謬と軽信の巨大な蓄積に過ぎない、などといわれてきた。
 ディドロ自身は先に述べたように、率直にいろいろな誤りを犯しただろうことを認めている。

 フランスのディドロ研究家ジャック・プルーストは次のように言う。
 「今日私たちは、『百科全書』を、それが創出した<真理>の総和でなく、むしろ、そのいつも変わらぬ根強い謬見に照らして」評価すべきであり、また同時に、当時の情勢の中で、「あえて、誤謬と対決し、承知の上で、冷静に誤謬に陥る危険を引き受け」たことを評価すべきであると。
 さらに、「誤謬への権利は、自由への第一の要求事項である。それはまた『百科全書』の編者たちがもっとも粘り強く要求していた」権利であり「彼らが時として”真理”をかすめえたのも、もっと率直に言って、彼らが若干の真理を述べえたのも、彼らの第一の関心が真理ではなく、真理の探究にあったからである」、つまり、「百科全書的思潮は、うぬぼれた人士がそう思ったように、人間知識の総和ではなく、一つの精神的傾向、精神の習慣なのである」と。(プルースト『百科全書』平岡・市川訳参照)。

 私などは何も言う資格はないのだが、成るほど、そういうものかと感心する。つまり言えば、人間の歴史は誤謬だらけだったというべきなのか。誤謬を恐れてはいけないということなのか。
 このような精神がフランスの市民革命を用意し、思想的に準備したのだと思うが、それはここでの主題ではない。