静かの海

この海は水もなく風も吹かない。あるのは静謐。だが太陽から借りた光で輝き、文字が躍る。

エッセネ派の人々とプリニウス

2010-06-19 18:35:57 | 日記
  
 
 ①はじめに

 西欧で生まれ、さらに日本においては今日「共産主義」と訳されているcommunismの思想が、プラトンやエッセネ派や空想的社会主義者の人たちの思想を源流としていることは前回のブログ(『日本輸出の「共産主義」)で触れた。このうちプラトンや空想的社会主義者については比較的よく知られているが、エッセネ派についてはそれほどではない。
 エッセネ派に関してはユダヤの歴史家ヨセフス(23-79)、同じくユダヤ人哲学者フィロン(前30頃ー後45頃)、そしてプリニウス(23<24>-79)が記録を残している。それぞれ有益な資料であるがプリニウスの『博物誌』が広く普及したので、プリニウスを通して知られたことが多い。後で触れるが、ギボンなどもそうであった。
 今日、エッセネについては遺跡も発掘され、数多くの研究書なども世に出ている。ここで私がエッセネ派について何かを論ずるなどということはできない。ただ、プリニウスの叙述に関連して思うことを少し述べたい。

 ②ユダヤ戦争とプリニウス

 ネロの統治の晩年には、国費の乱費による財政困難やその他の内政危機に直面した。同時に外政でも各地での反乱に遭遇する。なかでも66年に始まったユダヤ人の反乱はパクス・ロマーナに対する最大の挑戦となった。ウェスパシアヌスは長子ティトゥスとともに67年大軍を率いてガリラヤに進軍してその地の反乱を鎮圧、69年に彼が帝位についてからはティトゥスが代わってローマ軍の指揮をとり、70年にはエルサレムを包囲し、半年の攻防戦のすえエルサレムを攻略した。ローマ軍はユダヤのシンボル七枝の燭台とラッパ、そのほかの宝物などを奪って凱旋した。ここにユダヤ人は国土を失って四散し、ローマの平和は確固としたものになった。

 このいわゆるユダヤ戦争にプリニウスがかかわっていたと思われる節がある。
 フェニキアのアラドス(現、レバノンのルアド、トリポリの北にある海岸の町)で、プリニウスの経歴を書いたと思われるギリシア語の碑文が発見され、ドイツの歴史学者モムゼンが、欠けた箇所を補って解読した。そのなかに、ユダヤにおいて、プリニウスがアレクサンデルの副官であったと読める一節がある。

 69・70年、イスラエル攻略のローマ軍は先に述べたように後の皇帝ティトゥスに指揮されていたが、その軍団にティベリウス・ユリウス・アレクサンデルという指揮官がおり、モムゼンの解読によると、プリニウスはその副官であったと説明される。
 このアレクサンデルは、ユダヤの名門の出であり、先ほど述べたアレクサンドレイアのユダヤ人哲学者フィロンの甥で、ユダヤの皇帝代官、エジプトの総督を勤めた人物である。つまり、ローマの高官であったこの人物は、ユダヤ人でありながら、ローマのユダヤ反乱鎮圧軍の指揮官を勤めたのである。
 彼はウェスパシアヌス帝の擁立にも功績があったといわれる。このアラドスの碑文によれば、プリニウスはこのアレクサンデルの副官時代にティトゥスと知りあいテント仲間(戦友)になったという解釈が生まれてくるのである。

このモムゼンの解釈については異論もあり、プリニウスがアレクサンデルの副官であったという説も確実とはいえない。しかし、有力な説ではある。プリニウス自身は、ティトゥスと戦場で共同生活を送り、戦友であったことを明確に述べている。しかし、どこの戦場であったかは述べていない。彼は若い頃から長いあいだゲルマニアで軍務についていた。一方ティトゥスは57・58年頃ゲルマニアで指揮をしているのでこの時期にプリニウスと戦友になったのかもしれない。したがって、ユダヤ戦争で、あるいはゲルマニアで、あるいその両方でとも考えられる。

 『博物誌』の中で、ユダヤに関する直接的経験に基づくと思われるような記述が多いことも、彼がユダヤ遠征に加わったことの裏づけとされている。だがプリニウスは、ユダヤ教それ自体やキリスト教についてはまったく触れていない。だがエッセネ派については以下のような叙述がある。それは地理に関する編のなかで、あっさりとさりげなく書かれている。

 ③椰子のみを友とするエッセネ人

 彼は死海についてヨルダン川の水源パニアスの泉から書き始める。この川は心地よく流れ、流域の住民にとって大切な川だが、このとても称揚さえた水も、最後には死海の有毒な水に混入して姿を消す。その途中でゲネサレス海(ガリラヤ湖)と呼ばれる湖を作っているが、その岸辺には温泉のあるチベリアスなどの気持ちのいい都市がある。

 プリニウスは死海についてこう語る。死海の唯一の産物は瀝青で、そのギリシア語が、この湖にアスファルティテスというギリシア名を与えている。水中ではウシやラクダなどの動物も沈まない。沿岸にカリエロという医療価値のある温泉がある、などなど。
 そして死海の西側の沿岸の「毒気地帯」の外部に孤独な種族のエッセネ族がいるという。この「毒気地帯」な何を意味するかは、今日でも議論がある。これは全世界の他のすべての種族以上に珍しい種族だ。

 プリニウスはエッセネ派とはいわない。種族の一種とみなしている。ユダヤ民族の一員だとも、ユダヤ教に関係しているとも言っていない。
 「彼らは婦人というものをもたず、すべての性欲を絶ち、金銭を持たず、ただ椰子の木のみを友としている」。(注:原文は socia palmarum。 palma を棕櫚と訳すことも多いが、ここは椰子、しかもなつめ椰子のことだろう。socia は仲間(女)あるいは女友達)。
 「日々、人生に疲れ、運命の波によってそこに追いやられた人々が多数、彼らの生き方を採用するために加わることによって補充され、同じ数を保っている。かくして何千年という年月(こんなことを言っても信じ難いことだが)、一人も生まれてこないのに一種族が永久に存続するのだ」。
 
 このプリニウスの叙述は、後世の人たちに深い印象・感慨を与えた。たとえば、『ローマ帝国興亡史』の著者ギボンは、「プリニウスの哲学的な眼は、死海のほとり椰子の木々の間に住むこの孤独な人々を驚きの念で眺めた」(朱牟田夏雄訳)と記した。
 プリニウスの記述にはあいまいな点も多いのだが、後世の人が感銘を受けるのは、その事実よりも、プリニウスの人生観を反映したようなその文章である。(つづく)