静かの海

この海は水もなく風も吹かない。あるのは静謐。だが太陽から借りた光で輝き、文字が躍る。

明治の百科全書

2010-06-03 20:17:22 | 日記
 中国の古い百科全書的な書物といえば『天工開物』だろうか。わが国では貝原益軒の『大和本草』か? 益軒のこの書の内容は、すべて”民生の日用に便ある”もので、ことごとく庶民の啓蒙のため、産業の助成のためであったと言われている(三枝博音『日本の唯物論者』参照)。だがしかし、ディドロの『百科全書』のようなものは生まれてこなかった。
 徳川期、若干の蘭学書がわが国に紹介されてはいたが、本格的な西洋の近代科学の建設が始まるのは、一八世紀の七・八十年代からとみていいだろう。それは徐々にではあるが、「漢学」から「洋学」への転換をもたらしつつあった。急激な変換は幕末から明治維新にかけてであり、西洋の近代科学や技術に対する関心は急速に高まった。

 幕末から明治の初期にわたって普及した『博物新編』という書物がある。この書は伝道医療宣教師として中国に派遣されたイギリス人ホブソン(中国名 合信、1816-73)の著によるもので、一八五五年に清国で発行された。 
 わが国では一八六四年(元治元年)に江戸の万屋というところから出版され、明治になってからも版を重ねた。当時わが国では広い範囲で科学を扱った書物はこれしかなく、広く普及したという。漢文で書かれていたが、当時の人々は一般に漢文の素養のある人も多かったのである。

 それでも、少し遅れてではあるが、この書の翻訳・訓点・注解などもあいついて発行された。たとえば大森惟中訳『博物新編訳解』(四巻五冊、1868-70)、小室誠一訓点・頭注『整頓博物新編』(1876)ほか数種類が発行されて、西洋の科学知識の普及に役立ったという。この書は量的にはさほどでないにしても、動植物のみならず天文から地理・物理などにも及ぶ、相当大きな構想のものに出来上がったものであった。

 その概略をいうと、この書は三集から成り、第一集は地気論、熱論、水質論、光論、電機論、第二集は天文論、星論、地球論、四大州論、その他、第三集は陸棲動物・水生動物・鳥類を含めた鳥獣論となっており、それぞれ図解つきである。この書には後に第四・第五集が第二編として付け加えられた。この第二編は清国の容兆の著となっているが、内容は第四集が人類総論、平原論、雨論、海洋論その他今日でいう地学関係、第五集が草木略論、化学略論、人体略論である。

 この書とは別に、イギリス人のウィリアム・チェンバーズ(1,800-83)とロバート・チェンバーズ(1802-71)の兄弟による『博物新編補遺』(小畑篤次郎訳、1869)という書物が慶応義塾から出版されている。これは原書名を Introduction to the Science(1861)といい、Chambers Educational Cause の中の一冊で、合信(ホブスン)の『博物新編』を解読できない児童たちを対象にして訳したものとされ、明治初期の教科書に多く引用されたり、教材に用いられたという。
 上巻は天文・地理、中巻は物理、下巻は動植物からなる。明治五年に文部省の定めた小学教則によれば、上等小学に「理学論議」という科目が設けられており、この科目の説明には、この書の利用の仕方などが述べられている。

 それから数年後、文部省の手によって『百科全書』なるものが翻訳・発行された。これは同じくチェンバーズ兄弟の Information for the People (1833-1835)の全訳ということになっている。全九二冊で、天文・地質から始まり体育・絵画彫刻にまで及び、まさに百科全般にわたっている。先の『博物新編』に比べてもその間口は遥かに広い。名称も「博物」ではなく「百科全書」に変っている。

 この文部省の『百科全書』は一八七三年(明治6)に計画・準備が始まったようだが、発行されたのは七四年から八〇年にかけて。好評なので、のち民間の出版も許された。
 一項目が一冊になっている。動植物はもちろん物理・化学、鉱物、土木、建築、交通、農業、園芸、狩猟・漁業・食物・衣服、歴史、地誌、宗教道徳、経済、教育、文法・・・など極めて幅広い。ほとんどが100ページ余り、一ページ360字詰めの小型本である。図版も入っている。訳文は、今日から見れば相当ずさんであるが、これは止むを得なかったのかもしれない。

 この『百科全書』は先に述べたように一般に好評だったが、エフライム・チェンバーズの『百科全書(サイクロペーディア)』がフランスの百科全書派の人たちに与えたようなインスピレーションをわが国の人びとに喚起させてくれなかった。ましてやディドロたちの『百科全書』のような書物の出版は望み得べくもなかった。

 明治六年には、森有礼、福沢諭吉、加藤弘之、西周らによって明六社が生まれ、機関誌『明六雑誌』の発行や講演会などが行われた。これは斬新主義にもかかわらず啓蒙運動において一定の影響を与えつつあったが、これも明治政府の讒謗律や新聞紙条令などによる言論・出版の取り締まりが強化され、これを理由にした福沢の『明六雑誌』廃刊案が採択された。わずか一年半でこの運動も挫折した。これは、この運動にかかわった人たちの主体性の問題でもあっただろう。
 その後、この科学啓蒙のエネルギーは、自由民権思想の一つの支柱となったともいわれる。 

 話は飛ぶが、一九三〇年代の大恐慌と資本主義の危機は、科学や技術のあり方に対する根本的な反省を促す契機となった。 一九三〇年、「一五年戦争」の始まる直前の年、戸坂潤や岡邦雄たちは雑誌『アンシクロペディスト』の刊行を計画したがそれは実現しなかった。だが三二年にはこの二人に三枝博音らが加わって「唯物論研究会」が設立される。この間の事情については暉峻凌三が次のように述べている。
 
 「思想や文化の、民衆からの自発性が著しく蔽い妨げられているところでは、精神のこの篭絡状態の全面的=百科全書的批判がまず必要であり、またたとえ幼稚なものであれ思想・文化の諸分野における民衆の自発性の萌芽が、嗅ぎ出すようにして探り当てられなければならなかった。このことが戸坂らの『唯物論研究会』の組織として結実したのだろう」(『戸坂潤全集』第1巻月報)。

 次のような評価もある。
 「唯物論研究会の活動は、フランスの大百科全書派の日本版ともいうべきものであった。この日本版においてディドロとダランベールの役割を演じたのは、戸坂潤と岡邦雄とであったといえよう」(湯浅光朝「日本の近代化と科学技術」)。

 こ唯物論研究会によって一九三五年から三八年にかけて『唯物論全書』全五六冊が刊行された。「科学を大衆化し、大衆を科学化することを通して、当時のヴァンダリズム(注:バンダリズム、文化や文化財、公共施設などを破壊すること)に抵抗し、文化と知性を擁護していこうとする意図のもとに企画された」(『戸坂潤全集』の古田光の解説)と評されたが、これは唯物論研究会を日本の百科全書派となぞらえたその理由でもあった。

 この『唯物論全書』も、かつての文部省の『百科全書』に似た小型の本だったが、活字がそれに比べて小さく1ページ480字(『三笠全書』と改称してからは520字)、ページ数はほぼ200ページ余から300ページ余だった。内容の水準は高く、今日読んでも面白い。
 だが日中戦争の拡大、治安維持法による弾圧の強化に伴い、会の中心人物や機関誌読者たちの検挙・投獄が相次ぎ、唯物論研究会は解散に追い込まれていった。