ギリシアの医者
医術の草分けの人びとは神に並ぶ地位を与えられ、また天に住まいを与えられた。医神アイスクラピウスは死者を蘇らせたため、ゼウスの怒りを買い、その雷電に打たれて死んだが星になって昇天した・・・ギリシア神話の伝えるところである。
みんなが知っている話なのだが、プリニウスは事の順序としてそれを書く。彼はそれを伝説だといっているにもかかわらず、後世の人たちは、プリニウスは神話と現実をごちゃ混ぜにするといって非難する。
コス島生まれのヒッポクラテス(前四六〇ー三七五頃)は実在の人物らしい。名医とされている。いろんな言い伝えがあるが、はっきりはしない。その頃、治療の経過を神殿のどこかに書き込む習慣があったという。後の患者の治療に役立てるためである。ヒッポクラテスはそれを記録したが、プリニウスは医療技術の原則を初めて編集したと表現した。薬草の記述が多く、投薬に重点をおいたらしい。ヒッポクラテスに次ぐ何人もの医者がいるが、同じように医薬を重視したという。
だが、医薬を求めて歩くには苦労がいるし経験も必要だ。プリニウスは、とりわけ医術にとってもっとも有能な教師は経験であるといっている。だが、山野に出かけて薬草を探すよりは、教室で講義をしたり聴講したりする方が快適なので、その経験がたんなるお話へと堕落していったというのが彼の主張である。
アスクレピアデス(前一世紀頃)も著名なギリシアの医者であったが、後にローマに渡る。彼はヒッポクラテスと反対に投薬を好まなかった。プリニウスの伝える彼の医療五原則というのがある。「絶食」「禁酒」「マッサージ」「歩行」「乗り物を避ける」である。これを見ると医療というより健康法である。誰もが自分で出来ると思ったので、ずいぶん人気を博したらしい。ほとんどの人が彼の説になびいたという。
彼はいろいろの療法を試みたらしい。ブドウ酒を与える、冷水を飲ませる、吊り床で揺する、その外に愉快で楽しい多くのことを案出した。それによって彼は大きな名声を博した。それだけではなく、従来の荒っぽい療法、身体を痛めつけるような方法を放逐したことも好評だった。
さらに、マギのひどい欺瞞がはびこっていたので、それとの対比でアスクレピアデスの名声は大いに助けられた。マギの欺瞞というのは例えばこうである。アエティオピス(サルビアか)という草は川や池を涸らし、オノトゥリス(セイヨウキョウチクトウ)が触るとすべて閉じられていたものが開き、アカエメニス(ヒメハギか)を敵の戦列に投げ込むと、その戦列は恐慌に陥って遁走する。ペルシア王は使者たちにラタケ(魔法の草)を与えたが、使者はどこへ行ってもその草によってあらゆるものをふんだんに入手できる。
プリニウスは問う。そんな草が何処にあるのか、その草を使えば何でも解決するのに、どうして使わないのかと。彼がマギの欺瞞を並べ立てたのは、実はアスクレピアデスによって発明された医術の体系というものが、マギのたわごとよりもっとひどいものだということを示すためだった。
アスクレピアデスが創めた派にはテミソン、アントニウス・ムサ、そのほか何人もの後継者がいた。皇帝の治療に当たり莫大な年収にありついたりした。中でもネロの頃のテッサルには人びとが殺到した。マルセイユのクリナスが外出するときはかつてないほど多くの群集が彼の後について歩いた。医師の後を群集がついて歩くなど、今日ではとても考えられないことだ。
これらの医師についてプリニウスは一括して次のように断ずる。これらの連中はすべてなにか新しいものによって人気を得ようとして、患者の命でその新しいものを購おうとしている。そのため患者のベッドの傍らで医者同士のはしたない喧嘩が始まる。どの医者も、異なった意見を言わなければ、他の医者の診察が優れていることを認めると思われることを恐れるからである。そのために墓碑に「わたしを殺したのは一群の医者だ」というような、縁起でもない銘が刻まれるようなことにもなる。
医師への不信
だがギリシア医術に真っ先に異議を申し立てたのはマルクス・カトー(前二三四ー一四九、ローマの政治家)であった。彼は、ギリシア人は無価値で手に負えない国民で、医者を送り込んできて何もかも腐敗させ、信用させておいてその医術ですべての外国人を殺戮しようと共謀する、それでいて、それによる報酬まで受け取る・・・などと言いたい放題である。そこでカトーは大のギリシア嫌いだという定評がある。
それではカトーは、医薬それ自体を嫌ったのだろうかとプリニウスは問い、そうではなく、カトーが排斥したのは医者という商売であり、生命を救うということで暴利をむさぼる者たちを承認できなかったのだろうと推測する。その証拠に、カトーは自分の息子・召使・家族を治療し、自分自身と妻の生命を高齢にまで延ばした医療法や処方の覚書を持っていると主張していた。このようなカトーの生活ぶりは、プリニウスがギリシアの医術に疑問を抱き、ローマ古来の医療法の妥当性を確信する大きな理由になったような気がする。彼は『博物誌』においてカトーの記録を病気ごとに配列し直しているのだと説明している。
プリニウスは「ギリシアの数多い技術のうち、われわれまじめなローマ人がまだ習熟していないのは医術だけだ」と慎重な発言をしている。にもかかわらず医術には大きな問題がある・・・つまり、医学書はギリシア語で書かれないと威信あるものにならない。そして、誰かが、自分は医者だと公言すれば直ちに信用される唯一の職業だ。彼らは人びとの生命の犠牲において実験を行い、人びとの危険を材料にして知識を得ている。全然とがめられずに人殺しができるのは医者だけである。それどころか、やられた者が責められる、節制を守らなかったといって。叱られるのは死んだ人間のほうだ。
また、これほど毒殺や政治的陰謀の源になったものがあるだろうか。医者を通じた帝室の姦通事件が幾度もおきている。おまけに金儲けと名声のために、いいかげんな処方・治療法・薬の調合をおこなって蓄財をしている。そういう習慣がローマ帝国の退廃の原因をなしているのだ・・・。
医術の草分けの人びとは神に並ぶ地位を与えられ、また天に住まいを与えられた。医神アイスクラピウスは死者を蘇らせたため、ゼウスの怒りを買い、その雷電に打たれて死んだが星になって昇天した・・・ギリシア神話の伝えるところである。
みんなが知っている話なのだが、プリニウスは事の順序としてそれを書く。彼はそれを伝説だといっているにもかかわらず、後世の人たちは、プリニウスは神話と現実をごちゃ混ぜにするといって非難する。
コス島生まれのヒッポクラテス(前四六〇ー三七五頃)は実在の人物らしい。名医とされている。いろんな言い伝えがあるが、はっきりはしない。その頃、治療の経過を神殿のどこかに書き込む習慣があったという。後の患者の治療に役立てるためである。ヒッポクラテスはそれを記録したが、プリニウスは医療技術の原則を初めて編集したと表現した。薬草の記述が多く、投薬に重点をおいたらしい。ヒッポクラテスに次ぐ何人もの医者がいるが、同じように医薬を重視したという。
だが、医薬を求めて歩くには苦労がいるし経験も必要だ。プリニウスは、とりわけ医術にとってもっとも有能な教師は経験であるといっている。だが、山野に出かけて薬草を探すよりは、教室で講義をしたり聴講したりする方が快適なので、その経験がたんなるお話へと堕落していったというのが彼の主張である。
アスクレピアデス(前一世紀頃)も著名なギリシアの医者であったが、後にローマに渡る。彼はヒッポクラテスと反対に投薬を好まなかった。プリニウスの伝える彼の医療五原則というのがある。「絶食」「禁酒」「マッサージ」「歩行」「乗り物を避ける」である。これを見ると医療というより健康法である。誰もが自分で出来ると思ったので、ずいぶん人気を博したらしい。ほとんどの人が彼の説になびいたという。
彼はいろいろの療法を試みたらしい。ブドウ酒を与える、冷水を飲ませる、吊り床で揺する、その外に愉快で楽しい多くのことを案出した。それによって彼は大きな名声を博した。それだけではなく、従来の荒っぽい療法、身体を痛めつけるような方法を放逐したことも好評だった。
さらに、マギのひどい欺瞞がはびこっていたので、それとの対比でアスクレピアデスの名声は大いに助けられた。マギの欺瞞というのは例えばこうである。アエティオピス(サルビアか)という草は川や池を涸らし、オノトゥリス(セイヨウキョウチクトウ)が触るとすべて閉じられていたものが開き、アカエメニス(ヒメハギか)を敵の戦列に投げ込むと、その戦列は恐慌に陥って遁走する。ペルシア王は使者たちにラタケ(魔法の草)を与えたが、使者はどこへ行ってもその草によってあらゆるものをふんだんに入手できる。
プリニウスは問う。そんな草が何処にあるのか、その草を使えば何でも解決するのに、どうして使わないのかと。彼がマギの欺瞞を並べ立てたのは、実はアスクレピアデスによって発明された医術の体系というものが、マギのたわごとよりもっとひどいものだということを示すためだった。
アスクレピアデスが創めた派にはテミソン、アントニウス・ムサ、そのほか何人もの後継者がいた。皇帝の治療に当たり莫大な年収にありついたりした。中でもネロの頃のテッサルには人びとが殺到した。マルセイユのクリナスが外出するときはかつてないほど多くの群集が彼の後について歩いた。医師の後を群集がついて歩くなど、今日ではとても考えられないことだ。
これらの医師についてプリニウスは一括して次のように断ずる。これらの連中はすべてなにか新しいものによって人気を得ようとして、患者の命でその新しいものを購おうとしている。そのため患者のベッドの傍らで医者同士のはしたない喧嘩が始まる。どの医者も、異なった意見を言わなければ、他の医者の診察が優れていることを認めると思われることを恐れるからである。そのために墓碑に「わたしを殺したのは一群の医者だ」というような、縁起でもない銘が刻まれるようなことにもなる。
医師への不信
だがギリシア医術に真っ先に異議を申し立てたのはマルクス・カトー(前二三四ー一四九、ローマの政治家)であった。彼は、ギリシア人は無価値で手に負えない国民で、医者を送り込んできて何もかも腐敗させ、信用させておいてその医術ですべての外国人を殺戮しようと共謀する、それでいて、それによる報酬まで受け取る・・・などと言いたい放題である。そこでカトーは大のギリシア嫌いだという定評がある。
それではカトーは、医薬それ自体を嫌ったのだろうかとプリニウスは問い、そうではなく、カトーが排斥したのは医者という商売であり、生命を救うということで暴利をむさぼる者たちを承認できなかったのだろうと推測する。その証拠に、カトーは自分の息子・召使・家族を治療し、自分自身と妻の生命を高齢にまで延ばした医療法や処方の覚書を持っていると主張していた。このようなカトーの生活ぶりは、プリニウスがギリシアの医術に疑問を抱き、ローマ古来の医療法の妥当性を確信する大きな理由になったような気がする。彼は『博物誌』においてカトーの記録を病気ごとに配列し直しているのだと説明している。
プリニウスは「ギリシアの数多い技術のうち、われわれまじめなローマ人がまだ習熟していないのは医術だけだ」と慎重な発言をしている。にもかかわらず医術には大きな問題がある・・・つまり、医学書はギリシア語で書かれないと威信あるものにならない。そして、誰かが、自分は医者だと公言すれば直ちに信用される唯一の職業だ。彼らは人びとの生命の犠牲において実験を行い、人びとの危険を材料にして知識を得ている。全然とがめられずに人殺しができるのは医者だけである。それどころか、やられた者が責められる、節制を守らなかったといって。叱られるのは死んだ人間のほうだ。
また、これほど毒殺や政治的陰謀の源になったものがあるだろうか。医者を通じた帝室の姦通事件が幾度もおきている。おまけに金儲けと名声のために、いいかげんな処方・治療法・薬の調合をおこなって蓄財をしている。そういう習慣がローマ帝国の退廃の原因をなしているのだ・・・。
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