憎悪と友愛の原理
魔術の起源についてはっきりしたことが言えなかったプリニウスは、医術については多少確信ありげにいう。たとえば医術はトロイ戦争のときには用いられたと、ただし外科だけであるというようなこと。とにかく、彼は何でも「始まり」が好きなのだ。どこまでも始まりを追及しようという意欲に溢れている。しかし実際は医術の起源など分かるはずがないではないか。そういうと「下賎のものが何を言う」と叱られるかもしれないが。ただ、具体的な技術としての医術や医師の名前を明確にすることは出来なくても、医術を生み出した精神的土壌について彼が語っていることには一聴する価値があるかもしれない。
プリニウスは、医術を事物の憎悪と友愛の原理から語り始める。
その原理は極めて重要な自然の働きなのだ。それによれば、世界の事物はすべて自然が生み出したものであるが、そこには相和すものと敵対するもの、友愛(amicitia)と憎悪(odi)が存在しているが、この相対立する様相は人類のためにあるのだという。それをギリシア人は共感(sympathia)と反感(antipathia)という言葉で事物の基本原理に当てはめたという。こういう話は筆者の理解を越えるところなのであるが、そのまま承るしかない。
多分これはストア主義の思想に基づくのだろう。すべての原因は物質的であり、どんな結果も非物質的な原因によっては生じない。すべての事物は相互作用のなかにある。全宇宙には宇宙的共感が存在する・・・。では相互作用には共感だけでなく、それと対立する反感が存在するというのか? しかしプリニウスはストアの思想をそのまま丸呑みしているわけではない。すぐ後で触れるが「自然」は抽象的存在だが、理性も感情も持っているのである。
彼が例にあげるのは次のようなものである。水は火を消す。太陽は水を吸収し、月は水を作り出す。この両天体は他者の侵害によって蝕を受ける。磁石は鉄を引きつけるが他の石ははねつける。ダイヤモンドはどんな力によっても砕いたりできないが、ヤギの血によって砕かれる・・・。「ヤギの血によって」なんて信じられようか。
さらにつけ加えよう。カシワ(柏)とオリーヴは相互に根深憎悪によって分かたれているので、もしその一方を他方のものを掘りあげた穴に植えると枯れてしまう。逆に親和力のある物質は相互作用でよい結果をもたらす。キャベツとブドウの木の間の憎悪も致命的である。年老いて切り倒されようとしている木はなかなか倒れない。オオウイキョウはロバにとっていい飼料だが、他の家畜にとっては毒である・・・などなどきりがないのでやめよう。
プリニウスは言う、地上のいずこにおいても、あらゆるものの神聖な母つまり自然が、この共感と反発の原理に基づいて、人間の病を癒やすための医薬を配置しなかったところはない、砂漠のような所でさえもそうである。このような作用が医術発生の根源である。
身の回りに医薬が
したがって自然は、どこにでも存在し、容易に発見され、なんの費用もかからないようなものを医薬にするよう人びとに命じた。だが後になって、人間どもの欺瞞と狡猾な金儲け主義が、ヤブ医者の研究室で医薬を「発明」した。そしてどの顧客=患者も、金を出して命拾いの約束をとりつける。ややこしい処方と摩訶不思議な調剤が言葉巧みに繰り返され、アラビアやインドが薬の宝庫だと信じさせられるようになった。ちょっとした腫れものにも紅海からきた薬の経費を負担させられる。ところが、ほんとうの薬というものは、きわめて貧しい人びとでさえも毎日の食事でとっているのだ。
これがプリニウスの医薬に関する基本的な考えであった。それは特別なものの中に探す必要はなく、われわれの身の回りのありふれた存在のなかに発見できるという。そして『博物誌』にはその「ありふれた存在」がいかに重要か、その事例を延々と重ねていく。そのありふれた存在というのは、たんに食物だけではなく、多様な動植物、鉱物などにも当然及ぶ。そのようにローマ人は古くから自分たちの周辺に医薬を求めてきたのに、そのローマ国民はその偉大さのためにかえって自分たちの習慣を失い、征服することによって征服されたのだという。
征服されたのはどういう分野か。それはある一つの分野、一つの技術、つまり医術という技術においてである。外国人、つまりギリシア人がこの分野において、われわれ主人(ローマ人)をすら牛耳るようになったと嘆く。その上で、ギリシアから伝えられた医術の現状を告発していく。
魔術の起源についてはっきりしたことが言えなかったプリニウスは、医術については多少確信ありげにいう。たとえば医術はトロイ戦争のときには用いられたと、ただし外科だけであるというようなこと。とにかく、彼は何でも「始まり」が好きなのだ。どこまでも始まりを追及しようという意欲に溢れている。しかし実際は医術の起源など分かるはずがないではないか。そういうと「下賎のものが何を言う」と叱られるかもしれないが。ただ、具体的な技術としての医術や医師の名前を明確にすることは出来なくても、医術を生み出した精神的土壌について彼が語っていることには一聴する価値があるかもしれない。
プリニウスは、医術を事物の憎悪と友愛の原理から語り始める。
その原理は極めて重要な自然の働きなのだ。それによれば、世界の事物はすべて自然が生み出したものであるが、そこには相和すものと敵対するもの、友愛(amicitia)と憎悪(odi)が存在しているが、この相対立する様相は人類のためにあるのだという。それをギリシア人は共感(sympathia)と反感(antipathia)という言葉で事物の基本原理に当てはめたという。こういう話は筆者の理解を越えるところなのであるが、そのまま承るしかない。
多分これはストア主義の思想に基づくのだろう。すべての原因は物質的であり、どんな結果も非物質的な原因によっては生じない。すべての事物は相互作用のなかにある。全宇宙には宇宙的共感が存在する・・・。では相互作用には共感だけでなく、それと対立する反感が存在するというのか? しかしプリニウスはストアの思想をそのまま丸呑みしているわけではない。すぐ後で触れるが「自然」は抽象的存在だが、理性も感情も持っているのである。
彼が例にあげるのは次のようなものである。水は火を消す。太陽は水を吸収し、月は水を作り出す。この両天体は他者の侵害によって蝕を受ける。磁石は鉄を引きつけるが他の石ははねつける。ダイヤモンドはどんな力によっても砕いたりできないが、ヤギの血によって砕かれる・・・。「ヤギの血によって」なんて信じられようか。
さらにつけ加えよう。カシワ(柏)とオリーヴは相互に根深憎悪によって分かたれているので、もしその一方を他方のものを掘りあげた穴に植えると枯れてしまう。逆に親和力のある物質は相互作用でよい結果をもたらす。キャベツとブドウの木の間の憎悪も致命的である。年老いて切り倒されようとしている木はなかなか倒れない。オオウイキョウはロバにとっていい飼料だが、他の家畜にとっては毒である・・・などなどきりがないのでやめよう。
プリニウスは言う、地上のいずこにおいても、あらゆるものの神聖な母つまり自然が、この共感と反発の原理に基づいて、人間の病を癒やすための医薬を配置しなかったところはない、砂漠のような所でさえもそうである。このような作用が医術発生の根源である。
身の回りに医薬が
したがって自然は、どこにでも存在し、容易に発見され、なんの費用もかからないようなものを医薬にするよう人びとに命じた。だが後になって、人間どもの欺瞞と狡猾な金儲け主義が、ヤブ医者の研究室で医薬を「発明」した。そしてどの顧客=患者も、金を出して命拾いの約束をとりつける。ややこしい処方と摩訶不思議な調剤が言葉巧みに繰り返され、アラビアやインドが薬の宝庫だと信じさせられるようになった。ちょっとした腫れものにも紅海からきた薬の経費を負担させられる。ところが、ほんとうの薬というものは、きわめて貧しい人びとでさえも毎日の食事でとっているのだ。
これがプリニウスの医薬に関する基本的な考えであった。それは特別なものの中に探す必要はなく、われわれの身の回りのありふれた存在のなかに発見できるという。そして『博物誌』にはその「ありふれた存在」がいかに重要か、その事例を延々と重ねていく。そのありふれた存在というのは、たんに食物だけではなく、多様な動植物、鉱物などにも当然及ぶ。そのようにローマ人は古くから自分たちの周辺に医薬を求めてきたのに、そのローマ国民はその偉大さのためにかえって自分たちの習慣を失い、征服することによって征服されたのだという。
征服されたのはどういう分野か。それはある一つの分野、一つの技術、つまり医術という技術においてである。外国人、つまりギリシア人がこの分野において、われわれ主人(ローマ人)をすら牛耳るようになったと嘆く。その上で、ギリシアから伝えられた医術の現状を告発していく。
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