静かの海

この海は水もなく風も吹かない。あるのは静謐。だが太陽から借りた光で輝き、文字が躍る。

「2×2=4」の真実

2010-07-24 15:59:10 | 日記
 ハンナ・アレントは次のようにいう(『革命について』志水訳による)。
 アメリカ独立宣言の起草者ジェファーソンはその宣言で「われわれは、これらの真理を自明のものとみなす」と書いたが(注:みなすの原語はholt)、本来ならばジェファーソンはこのような不適当な文句に満足する筈もなく「これらの真理は自明である」と書いたはずだと。
 
 さらにまた、「これらの真理」は、専制権力と同様の不可抗力的な強制力をもっており、それはわれわれによって「みなされる」(holdされている)のではなく、われわれのほうがそれによって「とらえられている」(hpldされている)というべきで、ジェファーソンはそのように書いてもよかっただろうという。

 アレントは、ジェファーソンがそのような妥協的な表現を使ったことが不満なのである。だが福沢諭吉の「天は人の上に人を造らず・・・と云えり」の「云えり」よりは責任感がある。
 アレントは、ジェファーソンが「万人は平等につくられている」という命題は「2×2=4」という命題と同じような強制力を持ち得ないことをよく知っていたから、そうなったのだと言いたいらしい。
 
 アレントは言う。「万人は平等につくられている」という命題は理性の命題であるのに反し、「2×2=4」という命題は人間の頭脳の肉体的構造にもとづくものであり、したがって「不可抗力的」なのであると。われわれ東洋人には思いつかないような比喩を使う。

 (ここでちょっと横道にそれる。ここで用いている独立宣言の訳文は、冒頭に示した志水氏の訳によっている。岩波文庫の『人権宣言集』<高木外訳>では、「われわれは、自明の真理として、・・・ことを信ずる」となっている。「みなす」と「信ずる」とでは大きな違いで、「信ずる」ではアレントの論拠も薄くなる。一般的に「信ずる」はbelieveであってholdではない。)

 元に戻る。復習のようになるが、ジェファーソンは「これらの真理」は自明であるから、合理的以前のもので、ある意味では「専制的権力」と同じくらい強制的であり、数学の公理の持つ真理と同じように絶対的であると思っていたに違いないが、彼は「みなす」と後退してしまったとアレントは言いたいらしい。

 アレントが絶対的な専制的権力にこだわっているのは、ヨーロッパ諸国と違って、アメリカ独立革命が絶対的権力の存在しない新大陸で起きたことは幸運で(とくにフランス革命と比較して)、この革命成功の大きな理由だったという論理の中に位置づけたかったのだと思う。しかしここではその論理を追求するのが目的ではない。

 
アレントは、フーゴー・グロティウスが「神でさえ、2×2=4であることをひっくりかえすことはできない」と述べたことを取り上げ、それは、神の力でさえ無制限ではないと宣言することによって、神の全能を具現しているとする絶対君主の主権意思を拘束・制限することが目的であったと解釈している。そして、そういう数学的な法のみが専制権力を阻止する力をもつとグロティウスが考えたとみなし、そういう考えは間違っているというのである。

 ジェファーソンがグロティウスを読んでいたのは間違いないだろう。上記のようなことをジェファーソンはぼんやりとではあるが気づいていたので「これらの真理は自明である」とせずに「自明のものとみなす」とひるんだのだとアレントは推測しているのだ。天才アレントはしばしば面白いことを言うが、これもそうだ。

 数学あるいは数字に真実の存在を認めようという思想はピュタゴラス以来断続しながら伝えられてきたが、グロティウスが果たしてそういう考えのもとに先の発言をしたのだといえるだろうか。
グロティウスは近世の自然法理論の創立者といわれる。彼は、たとえ神が存在しないとしても自然法はその効力を失わないだろうといって、神学を前提としない世俗的な自然法の可能性を追求したという。
 グロティウスは、アルミニウス派の指導者であるとして急進的カルヴァン主義者とその政治的同盟者によって迫害され終身禁固刑に処せられたがフランスに亡命、ルイ13世の保護を受けたという。「絶対君主の主権意思を拘束し、制限すること」がグロティウスの意図であったとするアレントの主張は理解できない。

 エンゲルスは『反デューリング論』のなかで次のように言う(『マルクス・エンゲルス全集』20参照)。
 2×2=4であり、三角形の内角の和は二直角に等しく、パリはフランスにあり、人間は食物をとらなければ飢え死にするなどという真理が存在する、だから永遠の真理、究極の決定的真理というものがあるのではないか、と主張する者がいる。
 このような、究極の決定的真理、真正の、けっして変わることのない真理を追い求める者は、たとえば、およそ人間は働かなければ生きてゆけないとか、人間はこれまではたいてい支配する者と支配される者とに分かれていたとか、ナポレオンは1821年5月5日に死んだなどという、まったくくだらない平凡陳腐な事柄以外には、ほとんどなにも獲物は得られないだろう。 
 
 そしてさらに言う。
  2×2=4であるとか、鳥にはくちばしがあるとか、そういうたぐいのことを永遠の真理だと宣言する者は、・・・数学上の認識や応用に類似した妥当性と有効範囲とを主張できる永遠の真理、永遠の道徳、永遠の正義等々がある、という結論を引きだそうという下心をもっている人間だけであると。

 グロティウスは17世紀の、エンゲルスは19世紀の、アレントは20世紀の人である。それぞれ「2×2=4」の扱い方は違う。いずれにしても絶対的真理を論ずる中で利用されてきたことだけは共通している。これ以外にもこの数式を利用した人はいただろうが私は知らない。しかし、なにも「2×2=4」でなくてもいいのではないか。たとえば「2+2=4」ではどうか。あるいは「10×2=20」ではだめか。

 1世紀の人プリニウスはこういっていた(『博物誌』)。 
 人間の立場からすると自然は完全ではないが、それに対して主として慰めになることは、神といえども全能ではないということである。なぜならたとえば、神は自殺しようとしてもそれはできない。・・・また人間に永世を与えたり、死者を甦らせたりすることもできず、生きてきた人間を生きて来なかったようにしたり、高官であった人をそうでなかったようにすることもできない。また神は、過去の事柄についてはそれを忘れさせること以外はどうする力ももっていない。・・・彼は10の二倍を20でないようにすることも、それと同じような種類のたくさんのこともできない。これらの諸事実は明らかに自然の力を証明するものであり、われわれが「神」という言葉で意味するものはこれだということを証明している。

 プリニウスは神が存在するかのように書いている場合もあるが、基本的には認めていない。「神」という言葉の存在は認める。そしてその「神」をこのような形で皮肉り、からかうのである。そして自然の偉大さを称えるのだが、その自然ですら、人間の立場から見れば完全ではないのである。人間は自然の子、自然の被創造物であると彼自身は言っているのだが。

 グロティウスはプリニウスを読んでいたに違いない。プリニウスからグロティウスの間に誰かが「10×2=20」を「2×2=4」にすり替えた人がいるかもしれないが、私はグロティウス自身が表現を替えたのだと思う。グロティウスの時代は、神の存在を正面から否定することは許されなかった。そんなことを言うのは「極悪の罪を犯すことなしに容認できないところ」と彼自身が書かざるを得なかった。彼は古代の権威プリニウスの言葉を借りて神の全能を疑う文章を書くようになるのだが、そのような思想は、カルヴィン派から見れば極悪な異端であった。


最新の画像もっと見る

コメントを投稿