静かの海

この海は水もなく風も吹かない。あるのは静謐。だが太陽から借りた光で輝き、文字が躍る。

自然誌の復権(1)

2011-07-31 17:10:34 | 日記

  
               (1)致冨の装置                                                       
   科学者の中には、原理的には実証可能な自然の探究であっても、実際は経
済的的な限界によって、その実証が困難になってきていると訴える人もいる。極限ま
での宇宙観・物質観を追求すれば、観測装置はますます巨大に、そして高価になる。
 しかし考えてみれば、近代以降の自然科学の研究・観察・実験はすべてその当時の
経済的な力、端的に言えば、資本主義的生産を基礎に置いている。資源開発も、素材
生産も、機械・器具・装置の生産もすべてそうである。それなくしては近現代の科学
の発展は望み得なかったのである。そして、その過程で科学はしばしば至冨の手段と
して資本に利用されてきた。発明・発見もそうである。ノーベル物理学賞なども例外
ではない。
 原子爆弾は大量虐殺の手段であるのみならず巨大な利潤の源泉でもある。その延長
線上にある原子力発電所は「平和」を装った致冨装置である。わが国の電力業界は日
本の産業界、政界、官僚を支配するゴジラへの道を突き進んできた。化学兵器、クラ
スター爆弾、原子力潜水艦・航空母艦、無人操縦爆撃機・・・いずれも富の源泉であ
る。
 マルクスはいう。自然科学は産業を介してますます実践的に人間生活の中に入り込
み、それを改造し、そして人間的解放を準備したのであるが、それだけますます直接
的には自然科学は、間化を完成させずにやまなかった・・・と。
 本当に「人間解放を準備した」かどうかはよくわからないが、原発問題を考えるよ
すがになるかも知れない。
                                                                           
    (2)真らしいもの
 自然を機械的に分析したり分解したりして観察する方法に異議を唱え、自然はそれ
を全体として総合的に観察・考察しなければならない主張したゲーテのような思想は
なにもゲーテだけのものではない。たとえば、ゲーテに先行するナポリの思想家ヴィ
ーコ(ジャン・バチスタ、1668-1744)にとっては
「幾何学的方法の力によって真理として引き出された自然学のことがらは単に真らし
いだけのことであり・・・われわれが幾何学的ことがらを証明するのは、われわれが
[それらを]つくっているからである。もしかりに、われわれが自然学的ことがらを
証明できるとしたら、われわれは[それらを]作っていることになってしまうであろ
う。というのも、事物の本性を形づくる真の形相はただ至善至高の神の中にのみ存在
しているからである」
ということだった。だからヴィーコにとっては、ビッグバンで宇宙ができたという話
などは信用できない、ビッグ・バーンをわれわれが作動させたのなら信用しようとい
うことだろう。
 だけど彼は「真なるものと作られたものとは相互に置換される」ともいっている。
研究における数学的方法の限界を述べながらも、実験的方法の意義をも認めている。
ヴィーコの時代と二一世紀の現代とは科学研究の条件は雲泥の差ということもできる
だろう。しかし、ヴィーコのような精神、発想は今日いっそう重要性も増していると
考える人もいるのである 
 ゲーテやヴィーコのような思想は機械的・数学的な自然観測ではなく、自然を総体
としてみる自然観察を重視する考えであり、それは自然誌という学問体系をそれに置
き換えるという発想が根底にあるのではないか。
 ヴィーコはベイコンに強く影響されていたようだが、そのベイコンは、自然を痛め
つけて(実験によって)自然の真実を探ろうとする研究方法を提唱してはいたが、そ
れは同時に充実した自然誌の編集が学問の進歩、人間の自然支配と生活向上に寄与す
るとする考えがその基盤となっていた(ブログ「ベイコンと自然誌1-6」参照)。
                                                                           
    (3)自然誌の復権を
 自然誌という学問の重要性については各時代に多様な人々によって主張はされてき
たし、事実一八世紀から一九世紀前半にかけて西欧では自然誌ブームとでもいうべき
現象も発生した。しかし、その自然誌は結局現代の学問の主流にはなることはできな
かったことも事実である。
 数学や物理学を中核とする現代科学の発達が、たんに間化を招くのみならず、
人類や世界の存続の危機を招いてきたという反省は、二〇世紀の後半頃から盛んにな
ってきた。科学の発達に対する漠然とした不安感は、わが国ではもう日露戦争の頃か
らあったことは漱石の作品の中にすでに見て取れる。
 だが、その漠然とした不安が現実のもの、具体的な現象として現れてきて、自然誌
への復帰がしばしば語られるようになったのは、今から十年ほど前からだったろうか

 二・三の例を挙げてみよう。

○「私は『科学』から『誌』への転換を試みている。『進歩』型社会の科学は生物を
も機械とみなし、部品に還元して理解してきた」「知識を技術に活用していく。それ
が『生命誌』だ」「物理や化学も、宇宙や地球を歴史との関係でとらえる『宇宙誌』
『地球誌』に向かっている」「必要なのは『進歩』という幻想からの脱却なのだ(中
村桂子、朝日新聞1999・1・11)。
○「『自然との対決』型の旧来の科学ではなく、『自然を丸ごと捉え直す』科学」「
私はこのような科学の拡がりを『新しい博物学』と呼んでいる」(池内了『エコノミ
スト』2003・4・1)。                                                         
            ○「戦後五〇年にわたり、わが国では自然史の研究教育には強い逆風が
吹いた。人口の都市集中や自然環境破壊に加えて、机上の勉強だけを追い求める国民
性などにより、人々の自然離れが生じ、自然の研究教育の場や人員も極度に縮小され
てきた。このままでは自然史の研究教育は多くの大学から消え、日本の自然史研究は
世界から取り残されることが危ぶまれる」(自然史学会連合会設立趣旨から。1995)

○「近代自然科学は、ある意味では”不自然な”、”人工的”な自然へのテクノロジ
ー的介入を前提とした知的営みである。実験器具をたずさえて自然に介入し、自然を
挑発し攪乱するからである。それに対して、自然史ないし自然誌は、もっと”自然に
”アプローチする。それはただ自然のさまざまな事物、生物を観察し、分類し、畏敬
するだけの段階にとどまる。けれども、そのような自然学の試みが近代自然科学より
も劣っているわけではない。前近代世界は豊饒な自然史、博物学の伝統をもっていた
」「近代自然科学の中枢的学科として君臨してきた物理学を通してだけ自然は正しく
見られるとする観点(物理学中心主義、物理学帝国主義)は必ずしも健全な自然科学
ではない。・・・自然史は自然環境を重視する時代の学問として当然復権され、高い
地位を割り当てられるべきなのである」(佐々木力『科学論入門』岩波新書、1996
・8・)。

(4)ナチュラルヒストリーとディルタイ
 「自然史」「自然誌」は英語の「ナチュラルヒストリー Natural History」であ
る。語源はラテン語の Naturalis Historia 。博物誌、博物学、自然(誌)史学など
とも訳される。
 ナチュラルヒストリーという書を最初に著したのは古代ローマのプリニウスである
。原書名は Libri Naturalis Historiae (Libri=書)だが簡略に Naturalis Histor
ia ともいう。この『博物誌』は二千年近く前の書であるが、中世以降もヨーロッパ
では、書名はまちまちではあるが自然誌的な書が数多く出た。多くはプリニウスから
の抜粋などである。近世に入って博物学が隆盛になる。著名な研究書や大衆的読み物
などが大量に発行される。著名なものはビュフォンの『博物誌』だろう。
 だがそのころの自然誌はもうプリニウスの『博物誌』の内容からは遠ざかっている
。いや、ほとんど異質のものになっていると言っていいだろう。それは動植物や鉱物
が中心の「自然誌」になった。それは時代の要請でもあったのだろう。
 一九世紀の哲学者ディルタイは、その著『精神科学序説』のなかで次のように論じ
た。
 「プリニウスの『自然誌』は・・・宇宙を世界空間のかたまりの運動から地上にお
ける人類の分布と精神活動にいたるまで包括しようとする、ヨーロッパ古代民族の偉
大な事業の締めくくりと認められることができるのである。しかも彼は特に好んで、
自然関係の人間文化にたいする影響を追跡した。ギリシャ人の精神生活のあけぼのに
宇宙の概念が現われてきたのであった、今やエラストテネスやヒッパルコスやプトレ
マイオス- これらの包括的な精神からの息吹をわれわれはなおプリニウスの計画の
中に感じるのであるが- のような人々の偉大な仕事の中で、これらの古代民族の若
いときの夢が実現されたのである。
 しかしながら古代世界の文化は砕け散った。そして個別諸科学は、ひとつの全体 
- 形而上学の役目を果たすことができたであろうような- に結合されることはな
かった」(ディルタイ『精神科学序説』山本・上田訳)。
 ここでディルタイは、一世紀という時代のプリニウスの計画に、ヨーロッパ古代民
族の偉大な事業の締めくくりを見ているわけだが、彼の時代、つまり一九世紀には、
個別科学の発達によって、プリニウスの企画にみるような諸科学の全体的結合という
ことがなかったと指摘しているのである。今、この一世紀と一九世紀の間を埋めるも
の、とくに自然誌という研究分野がどのような変遷を経たか、今それを点検している
余裕はない。ただ言えることは、西洋社会における自然誌の伝統は、ラテン世界から
中世ヨーロッパに地下水脈のように絶えることなく、やがてそれはルネサンスに、そ
して啓蒙の時代に、また近代科学誕生とその発展の過程で重要な役割をはたしてきた
ということである。
 次回はそれらを飛ばして、一八世紀の博物学について瞥見してみたい。         
 


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