静かの海

この海は水もなく風も吹かない。あるのは静謐。だが太陽から借りた光で輝き、文字が躍る。

自然誌の復権(2)博物学の隆盛と衰退

2011-08-06 15:32:08 | 日記

               ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~     
 本日のメモ・・・「米空軍 核使用に聖戦論」(朝日新聞1面3面、8月4日) 
 「カリフォルニア州バンデンバーグ基地。ミサイル発射担当将校全員が核の訓練を
受けている。そこで倫理の講義を担当したのが従軍牧師。「核の倫理」という資料に
は、旧訳・新訳聖書から多数引用。キリスト教の聖戦論を引き合いに「旧訳聖書には
、戦争に従事した信者の例が多い」と指摘したり「イエス・キリストは強い戦士」と
位置づけ。そして、広島への原爆使用を正当化。この「聖戦論」は20年以上続けられ
てきたが、今年7月突然取りやめになる。油井大三郎氏のコメント「国防長官や大統
領がこのような教育を黙認してきたのか。特にオバマ民主党政権下で問われる」。
(8月6日、今日はヒロシマ被爆66年。やっぱりアメリカは「神の国」なのだろう
か。原爆投下は「神の御心」だったのだろうか?・・・・筆者のコメント)
        ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~         

(5)ビュフォンとフンボルト
 ディルタイは一九世紀の人だが、西欧における博物学の最盛期は一八世紀から一九
世紀前半だった。ディルタイはそれを視野に入れつつプリニウスを論じたに違いな 
い。この時代には多くの偉大な博物学者を輩出した。
 一八世紀はディドロらの『百科全書』の世紀でもあった。百科全書的な知識の集積
が世に広く受入れられ歓迎されていく、それと同時に隆盛を極めたのが博物学であっ
た。フランス科学アカデミーの会員であり、王室植物園長を勤めたビュフォン (1707
-88)は、『一般と個別の博物誌(通称『博物誌』)全三六巻(1749-88) を著わした。
この『博物誌』という題名はプリニウスの『博物誌』を念頭においてのことであっ 
た。彼の『博物誌』の扉にはプリニウスの『博物誌』の序文の一部が掲げられた。
 「古いものに生気を、新奇なものに権威を、平凡なものに光輝を、曖昧なものに明
確さを、陳腐なものに魅力を、疑わしいものに確実性を、そしておのおのにその本質
を、本質に特性を与えることは困難な仕事である」。
 ビュフォンの『博物誌』の内容は、人類、哺乳動物、鳥類、鉱物など狭義の博物学
(今日で言う)の内容だけでなく、農業技術や生活上の各種技術なども含む広範なも
のであった。精巧で美しい大量の図版によって一層魅力的な書になり、多くの人たち
に感銘を与えた。生命のない鉱物から植物、動物、さらに思考する人間にいたるまで
連鎖した階段が存在するという彼の理論は、ディドロたちにもヒントを与えた。
 ベイコン、ディドロ、ビュフォンと続く自然史の精神をもっとも強く受け継ぎ発展
させたのはアレキサンダー・フォン・フンボルト(1769-1859)であった。彼は若いと
きから各地に研究旅行を行った。ヨーロッパ各地、アメリカ大陸、ウラル・アルタイ
、ジュンガル地方、カスピ海周辺など。それはルネサンスのころの珍奇なものを求め
ての冒険旅行と違って、学術探検的な旅行であった。それらの旅行の直接の成果も実
り多いものがあり、地理学、動植物学、鉱物学などで業績をあげたのみならず、気候
学、海洋学などの新しい学問分野を開拓したことで知られている。               
 彼はメキシコの探査から帰ったのち、一八〇五年から約二〇年間パリに住んだ。パ
リでのフンボルトの人気はナポレオンに次ぐものがあったという。一八二八年、プロ
イセン国王のたっての懇請によってベルリンに移った。ベルリンはパリに比べると学
問の発達ははるかに遅れてはいたが、自然科学にたいする一般的関心は高まりつつあ
った。そういうなかで彼は、大勢の市民を前にして自然科学に関する講義をおこなっ
た。これには国王や廷臣も列席した。「『国王から一介の左官屋にいたるまで』あら
ゆる階級のほとんど千人近い聴衆が非常な緊張ぶりをもってフンボルトの講義に傾聴
した」(ダンネマン『大自然科学史』安田外訳)。この講義をもとに生れたのが、彼
の代表的著作『コスモス』である。この著は宇宙を統一して描こうとする壮大な計画
に基くものであった。
 第一巻は、コスモスの総体。星雲から太陽系、地球、その地学的な内容から生物学
的内容に至るまで。第二巻では、自然への人間の感じ方、接し方など、次いで自然科
学史。第三巻は主として天文学の、第四巻は地上の諸現象の記述にあてられている。
この二つの巻はどちらかというと専門的な性格をもっていた。第五巻の執筆中に彼は
倒れそれは未完となった。
 この『コスモス』の扉、表題の下に、フンボルトはプリニウスの一節を掲げた。
 「宇宙の性質の威力と尊厳とは、もし我々の心がその一部を捉えるだけで全体を捉
えることがなければ常にに信じ得ないのだ」。
 フンボルトは、プリニウスの作品は自然と技術の百科全書の一種であり、万有につ
いて、物質的に記述しようとする構想を示していると評し、プリニウスが自然と並ん
で技術を作品の内容の要素としていることに注目する。そして、自然に関するもろも
ろの記述とともに、人間の知的特質の多様性、それらの精神的才能の高揚によって、
芸術によるもっとも高貴な創造物を発展させつつあるという考えを高く評価した。こ
のように自然誌のなかに、広く人間や、その人間の作り出すもの、芸術・技術をも含
める考え方は、かつてベイコンも主張したことでもあったが、フンボルトもそのよう
な視点をもった。
 「自然が、文明や人間精神の発展に及ぼしてきた影響について、プリニウスが絶え
ず常に強い愛着心をもって語っていることは、いつも私に特別な喜びを与えてくれる
」「自然を大きく統一的にとらえる見方は、人間を勇気づけ慰めてくれる・・・」と
語ったフンボルトは、おそらく、もっともよくプリニウスに理解を示していた博物学
者だったろう。
 
(6)自然誌の開花     
 植物・動物・鉱物を中心とする博物学が学問分野として確立してゆく。「博物学者
」といいわれる人たちが続出し、一八世紀から一九世紀前半にかけて、自然誌は一種
の流行ともいうべき状態になった。前節でも、ビュフォンの講演に大衆が集ってきた
例をみたが、「自然科学はその当時ヴァイマルでは流行であった。すべての人が鉱物
学を研究していた。宮廷の貴婦人でさえ自然科学の標本室を設けた」(ダンネマン『
大自然科学史』)という状態であり、徴税請負人たちまでが博物学の研究室を作った
りしたという(ディドロ『哲学断想』)。植物園・動物園・博物館などが市民の人気
を呼び、各地に設立された。
 イギリスでもフランスでもドイツでもそうであった。フランスではすでに一六三五
年ルイ一三世によって王立植物園が設立されていた。一七三九年には、ビュフォンが
その長についた。この植物園が一七九三年、フランス革命政府によって国立の自然誌
博物館となり、規模も拡大して発展し、大衆的に人気を博すようになっていた。この
自然誌博物館設立や運営にはラマルクやキュヴィエなども貢献した。
 博物学はイギリスでとくに人気を博した。ヴィクトリア朝時代は自然誌が全面開花
した。自然誌は大衆化し、人々は胴らんを持って植物採集にでかけ、魚を眺めるため
に水槽が飛ぶように売れ、豪華な動植物の図鑑が何種類も発行されて一般家庭の書斎
を飾った。図鑑だけではない、ブルジョアたちの居間は動植物の標本、鉱石、考古学
的コレクションなどが絵画や彫刻等と並んで飾り立てられた。巨大なコレクションで
自宅に展示室を作る人もあらわれた。そのうちの代表的人物イギリスの医師ハンス・
スローンの個人的コレクションは、一七五三年政府に遺贈されて大英博物館に発展し
た。
 イギリスに限らないが、当時の西欧における自然誌ブームは、クックやフンボル 
ト、ダーウィンたちの探検大旅行に強く刺激された面が強い。フンボルトについては
すでに述べたが、ここでダーウィンについても若干触れておきたい。

(7)ダーウィンの自然誌
 イギリスの代表的な博物学者ダーウィン (1809-92) は、はじめ医師になるために
エディンバラ大学に学んだ。彼はそこでプリニウスの名を冠したプリニウス協会にし
ばしば通い小論文さえも発表した。そのように、そこで博物学者としての素地を養っ
た。その後ケンブリッジ大学に移り博物学者への道を選ぶことになった。
 彼はケンブリッジ在学中にフンボルトの旅行記 Personal Narative を甚大な興味
を持って精読したこと、この書がハーシェルの『物理学入門』と並んで、他のいかな
る書物も与ええなかった影響を与えたと告白している。(フランシス・ダーウィン『
チャールズ・ダーウィン』小泉外訳)。 彼のピーグル号による探検はフンボルトの
影響が極めて大きかった。『進化論』を著わすうえで、自然誌的な発想が大きな役割
を果たしていたことは彼の次のような発言からも推測できる。「私たちが、自然のあ
らゆる生産物はそれぞれ歴史をもったものだ、そしてなおまた、[自然界の]あらゆ
る複雑な構造や本能をば、- ちょうど[産業上の]機械の大発見があまたの労働者
たちの苦労や経験や思慮や不注意の総計であると見られると同じように- かずかず
の仕組の総計であったのだと知るとき、要するに、私たちがあらゆる生物をかような
ものだと観察するとき、自然誌の研究は何と興味深いものとなってくることだろう」
(『種の起源』)。
 ダーウィンは、自然界にある生物の諸機関の発展を、産業上での労働者による試行
錯誤によっての、つまり、技術の発展によっての機械の発見になぞらえて述べている
。そして、このような発想が前人未踏の研究分野を開拓することを可能にしたことを
宣言している。その場合彼にとて自然誌の研究と切り離しては考えられなかったので
ある。

(8)自然誌隆盛の背景
 このような博物学の隆盛・大衆化の基底には、産業革命以来、西欧諸国が、圧倒的
な経済力と軍事力でもって、アフリカ、アジア、アメリカ大陸を支配し収奪してゆく
過程があった。資本主義的大量生産と富の蓄積、ブルジョア的私的所有権の確立は、
探検ブームによる知的好奇心とあいまって、世界各地からもたらされた動植物、その
剥製、考古学的・民俗学的・美術的諸コレクションが全国家的規模で集積された。
 イギリスのヴィクトリア朝時代は経済的にも文化的にも繁栄し、やがてはパクス・
ブリタニカという言葉さえ生れてくるような時代を築きつつあった。博物学が発達し
たのには十分な理由があった。大英博物館をはじめとする各地の博物館、動植物園な
どもそれなりに学問の発達や普及に貢献したであろう。しかし、博物学がまさに繁栄
の頂点に達し、大衆化がすすんだそのときに、博物学は衰退の道をたどりはじめた。
あるいは博物学という概念自体が徐々に消滅しはじめていた。博物学という語は自然
科学という名称に変えられ、それぞれの学問分野が独立していく。すでにラマルクは
生物学という言葉を提唱していたが、その生物学をはじめ、地質学、天文学、気象学
、鉱物学、地理学等々の学問として発達していった。そして博物学者 naturalist は
自然科学者 scientist に衣がえした。それをディルタイは「しかしながら古代世界
の文化は砕け散った。そして個別諸科学は、ひとつの全体- 形而上学の役目を果た
すことができたであろうような- に結合されることはなかった」と語ったのであ 
る。                                           
(9)博物学から自然科学へ
 それらの自然科学のなかで、生物学はそれでも最も自然誌的要素を備えていた。他
の自然科学が「法則定立的」であるとすれば、生物学は「個体記述的」であったとい
えよう。個体記述的ということはつまるところその個体に歴史がなければならないと
いうことである。したがって生物学は、natural history の要素をもっとも強く保持
しているものといえよう。また生物学というのは、他の自然科学に比べて人々の世界
観・人生観などと深い関連もっている。神と創造の問題、動物と進化の問題、自然と
人間の問題など。だがその生物学もやがて、より「理論的」「法則定立的」な方向へ
脱皮を強いられていった。
 自然科学の発達に伴う普遍的法則の追及という任務を課せられた生物学にとって、
生物の生命過程を明らかにするための研究方法、そのための実験が最大の研究方法に
なっていく。自然誌研究のように生命形態の多様性を追及することよりも、少数の動
植物を実験台に載せて分析と解析を繰り返す。ハツカネズミとかショウジョウバエと
かを個別的に深く追求してゆく。そしてやがては遺伝子の研究などのような分子的レ
ベルの研究が生物学の主流を形成していく。アメリカのジャーナリスト、ビル・マッ
キベン著『自然の終焉』からの一節を紹介する。                               
 「イギリスの作家ブライアン・スティブルフォードは有名な著書『未来人』のなか
で、遺伝子工学により<われわれはやがて地球上のすべての生物の働き- 生物圏全
体- を人類という種の利益となるように変えることができるだろう>と言明してい
る」。
 昨日(8月5日)の新聞は一斉に、マウスのiPS細胞、ES細胞それぞれの万能
細胞から精子を作り出すことに成功したと、大々的に報道した。
 「生物学にとっては、博物学の世界から脱却するすることが、科学としての地歩を
確実に占めることであり、二〇世紀後半の生物学は、かくして博物学の世界から抜け
出して生物科学への変貌に成功した」(岩槻邦男「今なぜナチュラルヒストリーか」
(『UP』1996・10)らしいが、さらにその加速度を高めているように見える。
 


最新の画像もっと見る

コメントを投稿