静かの海

この海は水もなく風も吹かない。あるのは静謐。だが太陽から借りた光で輝き、文字が躍る。

偉大な酢の力

2009-12-20 18:37:55 | 日記
 古代において、真珠が酢に溶けるとされていたのは、酢に特別な力があると思われていたからでしょう。
 食用や食材保存用以外に、薬用としても高く評価されたことはもちろんですが、そのほかに、意外な事柄に使用していました。たとえば、航行中に嵐にあった場合、心細いながら遭難から逃れる唯一の方法は、海に酢を流すことだといわれていました。また、酢を地上に注ぐと地が沸騰すると考えられました。あるいは、火で割ろうとしたが駄目だった岩が、酢を注ぐことによって砕けたり、金の採掘現場で硬い火打石にぶつかったら、酢を用いて砕いたりしたということです。

 火打石に関しては、すでに新石器時代からフリント(火打石)鉱山で、手ごろな大きさの岩石片を得るためにこの方法が用いられていたといわれています。だから、酢によって岩を砕いたり溶かすというのは,そんなに突飛な話しではありません。前一世紀の建築家ウィトゥルウィウスも、硬石は火だけでは溶けないが、火で十分焼いて酢を注ぐと分解して解けてしまうといっています。

 カルタゴの将軍ハンニバルがローマ攻略のためにアルプス越えをしているとき、岩石で塞がれた道路に出くわしました。そこで木を燃やして岩を熱し、それに酢を振りかけて砕いたと伝えられています。一六世紀のドイツの鉱山学者アグリコラは、非常に硬い岩も火によってぼろぼろになることがあると書き、ハンニバルがスペインの鉱山師に見習ってアルプスの岩石を酢で爆破したといっています。
 近年、イギリスの地質学者ロバート・シェパードがこの事実を実験で確かめ、酢酸四~六パーセントのビネガーがもっとも効果があったと報告しているそうです。

 アルプスの岩石を砕くには相当量の酢が必要でしょうが、それはどうしたのでしょうか。シェパードは、ハンニバル軍団は兵士たちに支給するためのワインを相当量運んでいたが、ワインの質が悪くて醗酵し酢(ビネガー)になったと推測しているそうです(金子史朗『科学が明かす古代文明』)。だが、ハンニバルがワインを兵士たちに支給していたかどうか、断定することは難しいことです。

 戦闘に赴く兵士にワインが支給されていたなどということは、アジア太平洋戦争で戦闘員の半数もが餓死者であったといわれる日本陸海軍兵士にとって信じられるでしょうか。二三日分の食料しか与えられず、以後は自分で算段せよと放り出される・・・現地の住民からの略奪によるしか食料が手に入らない・・・あとは草を食んだり蛇やかえるを捕って食べたり泥水を飲んだり・・・。

 ローマの兵士たちも平素とてもバラエティーに富んだ食事を摂っていたようです。安物ですが、ワインも欠かせませんでした。ローマの兵士に支給される飲料にアケトゥムというものがあったことは知られています。アケトゥムは酢ですが、先ほども述べたように、ぶどう酒の保存状態が悪いと自然に酢酸醗酵して酢になります。だから途中で酸っぱいぶどう酒になったりします。それらも含めアケトゥムと呼んでいたようです。このアケトゥムと水を混ぜたものはポスカと言い、お金のない人はワインの代わりにこれを飲んだということで、一般的な飲み物だったようです。これを飲むとスキッとして気分がよくなるともいわれています。

 したがって、航海に出かけるときや軍隊の遠征には濃いアケトゥムをたくさん携えていき、水で薄めて飲んだりしたと思われます。だからハンニバルの兵士たちも、ワインではなくアケトゥムを持参した可能性のほうが高いのではないでしょうか。アルプス山中で用いたのが、このアケトゥムであったとすると説明がしやすくなります。

 酢ではなく、ただたんに水を熱した岩石に注いで砕く話なら東洋にもありました。中国四川省の成都郊外に都江堰という灌漑施設があります。先年、この地方を震源地とする大地震があったので広く知られることになりました。 
 前三世紀、戦国時代末期の秦の蜀郡太守李ひょうが、長江の支流みん江の氾濫を防ぐと同時に灌漑用水を確保する目的で大土木工事を行いました。みん江の流れを二つに分けて制御しようと、巨大な岩石を砕いて新しい水路を開いたのです。
 そこで用いられたのが、岩石の上で木を燃やして熱し、それに水をかけて砕くという方法でした。これは優れた手法であるとして後世にも語りつがれたそうです。この灌漑用水で広大な耕地が造成され、秦の経済力の拡大に大きな貢献をしたといわれています。

 しかし岩を砕くというのは特殊な例で、一般的には食用ですが、広く薬用にも使われました。『博物誌』には膨大な事例が載っていますが、もちろん今でいえば民間療法といったところでしょうか。ほんの少し例をあげます。
 酢は、強い解熱の性質をもつ。吐き気を止め、しゃっくりを抑え、水を割って飲めば消化を助ける。日射病になったら水割り酢でうがいをすると有効である・・・などなど。酢の入った袋を運んでいた男がエジプトコブラに咬まれたが、酢を飲んだら治った・・・、眉唾ものですがね。

 パンテオンを造ったり水道施設を整備したりしたことで知られているマルクス・アグリッパは、晩年ひどい痛風に悩まされました。あるとき、あまりの痛さに耐え切れず、医者のすすめにより、足が駄目になる怖れも顧みず、熱い酢の中に両足を突っ込んだそうです。今日でも、ビニール袋に酢を湯で薄めたものを入れ、そこに足を浸すという療法が流行っているとの報道もありました。酢の健康に及ぼす効能については、二一世紀の今日でもますます盛んに喧伝されており、日常の飲料の分野にまで及んでいることは誰もが知るところです。
 たわいない話を書いてしまいました。

  
 


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1 コメント

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Unknown (高野裕恵)
2016-02-07 13:50:50
たわいなくないです。すごく面白いし、勉強になりました。
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