静かの海

この海は水もなく風も吹かない。あるのは静謐。だが太陽から借りた光で輝き、文字が躍る。

「15歳の志願兵」を出さなかった教師たち

2010-09-05 13:57:50 | 日記
 きょうの内容は、M氏の回顧談である。文中では少年Mと呼ぼう。それ以外の人物・固有名詞はイニシアルだけにする。
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 少年Mは1930年生まれ。1941年12月太平洋戦争勃発、11歳のときである。翌42年A小学校(国民学校)卒業、A中学に入学。同じクラスから何人中学に進んだかは知らない。担任も誰も教えてくれないし、話題にもならない。約50人中多分4人か5人。当時は色々な条件を満たさないと進学できない時代だった。少年Mは近所の遊び友達に隠れるようにして中学に通った。

 1943年5月、2年生のとき、父親の転勤に伴いT中学に転校、13歳の春である。戦局はますます厳しくなっていた。はっきりとは覚えていないが、多分2年の終わり頃からだったと思うが、ときどき勉強はそっちのけで、勤労奉仕として農家の手伝いや港湾の荷揚げの仕事などにかり出された。辛かったという。3年の秋遅い頃からは毎日、町の軍需工場に「出勤」するようになった。にわかに兵器工場になった所である。4年になると父母のもとを離れて遠くH町の軍需工場に泊り込みで勤労動員され、そこで敗戦を迎えた。

 というわけで、記憶ははっきりしないのだが、多分3年生の1学期だと思う、ある日突然全校生徒が剣道場に集められた。T校には体育館も講堂もなかった。あるのは剣道場と柔道場だけ。1学年2クラス、全校で10クラス、剣道場に全員収容できた。当日の集合は全校生徒ではなく3年以上だったかもしれない。全員座らせられると、見慣れない軍人が現れた。

 これも記憶が定かでないが、多分陸軍中尉だったと思う。軍から派遣されて、あちこちの中学を巡っているのだと容易に推測できた。
 激烈な演説であった。みんな息をのんで聞いていた。あんなすごい演説は後にも先にも聞いたことがないと、いまでも「少年M」氏はいう。話の内容は、要するに、国のため、天皇陛下のため立ち上がれ、軍人になり戦場へ赴き一身を捧げよ、靖国の英霊となれということであった。さすが軍が選りすぐった弁士だと思ったという。
 ついでに言うと、そのしばらく後にもう一度軍人がやってきてアジ演説を行った。海軍の軍人だったかもしれない。記憶は定かではない。だが、印象は一回目に比べて薄い。

 それまで少年Mは、ただの一度も軍人になろうと思ったことがなかった。中学1年のとき親しい友人に「天皇は豪族のなりあがりだ」と語ったらしい。戦後その友人が、お前はそんなことを言っていたというので思い出したという。
 その少年Mが、この演説を聞いてはじめて気持ちが動かされたというのである。少なくとも、校長や担任から強くすすめられれば、そういう道に進まねば、という気持ちになっただろうという。
 
 翌日、校長が全校生徒を集めるだろうという予測ははずれた。担任のN先生もこの演説のことには一言も触れない。隣のクラスの担任で「物象」を教えているY先生も。その他国語の先生、数学の先生、英語の先生そのほか誰もこの演説を話題にする人はいなかった。級友のだれもが口にしない。少年Mももちろん沈黙を守った。

 では配属将校は何をしていたか? 配属将校は上級生担当で、少年Mの学年は予備役の年配将校が担当していた。H氏である。同じクラスのH君の父君である。この人も何も言わなかった。息子の前で戦場へ行けとは言えないからという者もいたが、そうでもないだろう。配属将校は何をしていたか知らないが、とにかく、全校生徒を前にアジ演説などはしなかった。

 H氏について一言。温厚な人であった。しかし怒るときは怒った。叱られるのは決まって柔道部の猛者2~3人であった。少年Mには、どういう理由で彼らが叱られているのかよく分からなかったが、心の中にいい気味だと思う気持ちがあった。
 H氏はあるとき突然いなくなった。戦場に引っ張られたのだと噂が飛んだ。そういうことは軍の機密であった。

 H氏の後任に近所の農家の子息がやってきた。下士官で、戦傷のため少し歩行が不自由であった。教練の時間、はじめおざなりの「訓練」をしたあと、校庭の脇の草むらに円陣に座らせ、戦場の話などをしてくれた。三八銃はどれくらい威力があるかなどと。どちらかというと楽しい時間であった。

 話を戻そう。その陸軍将校の名演説がおこなわれてから少し経った頃、父兄会(保護者会)があった。出席した母親は帰ってきて少年Mにこう報告した。
 「N先生は、お宅の息子さんは高等師範にお入れになるのでしょうね、と言った」
 少年Mはびっくり仰天した。思いもよらぬ担任の発言である。少年Mは、将来上級学校に進もうと漠然とは思っていたが、戦争が激化する中、とてもそんな細かく考えたことはなかった。それになぜ高等師範なのだ。当時高等師範は東京と広島にしかなかった。露ほども考えたことはなかった。

 だが少年Mは直ちに理解した。担任のN先生や大人たちはわれわれが戦場に行くことを望んでいないのだ! たちまちそれは確信となった。少年Mの父は中等学校の教員だった。そこで、教員養成学校への進学をアドバイスする形で戦争に行かせないようにしているのだと。
 布団屋の級友の母親には「お宅の息子さんは将来店を継がせるのでしょうね」とか、銀行マンの息子の母親には「将来お父さんの後をついで銀行員になさるのでしょうね」とか言ったのではないか。これは少年Mがとっさに考えたことであるが。
 とにかく、軍人になれとか、戦場に赴けとか、N先生は絶対に言わなかったに違いない。少年Mの頭から軍人・兵隊・戦争が完全に消えた瞬間であった。再び思うことはなかった。

 上級生や下級生のことはよく分からない。だが、自分のクラスのことは完全にわかる。終戦のときまで、誰一人として軍に志願したり軍人の学校に入るものはいなかった。隣のクラスのことはほぼ分かる。ここでも誰もいなかっただろう。
 上級生で、あるいは個人で進んで志願した生徒はいたかもしれないが、校長を始めどの教員・教官も「教え子を戦場に送る」ようなことはしなかった、少なくとも学校ぐるみでそんなことはしなかったと、元「少年M」氏はいう。
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 あの激烈な将校の演説の後で、T中学ではなにがあったのだろう。職員会議で何か論議されたのだろうか。校長はどういう態度をとったのだろうか。習っていないからよく分からないが、N校長はとても温厚で、大正デモクラシーの洗礼を受けたリベラリストではなかったかとM氏は言う。
 教頭は京都大学文学部卒、国語はずっとこの人に習ったからよく知っているが、この人もオールドが付くかもしれないがリベラリスト。誰もが丸刈り、国民服姿になった時代に、最後まで長髪、背広にネクタイの姿を変えなかった。今は市であるが当時は町。M氏が言うには、この町で出会う人で最後までそういうスタイルを崩さなかった人は2人しか知らない、そのうちの一人だという。『坊ちゃん』の赤シャツなどとは格が違う。
 担任のN先生は謹厳な人で、冗談もめったに言わない、言っても生徒に気づかれないようにいう。生徒の一人ひとりに気を配ってくださった・・・、とM氏は語る。

 T中学は田舎の平凡な学校、近くの高校に数人でも入れれば良しとするような普通の中学である。全国で三本の指に入るような進学校とはわけが違う。
 だがM氏は思う、T中学の先生方はみんな素晴らしかったと。


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