静かの海

この海は水もなく風も吹かない。あるのは静謐。だが太陽から借りた光で輝き、文字が躍る。

人は人のため

2010-08-07 19:02:49 | 日記

    1、『義務について』

  「人は人のために生まれて、人はひとのため、たがいに助けあうのが天意であるとすれば、当然、われわれは天意にしたがって、公共の利益を中心として、たがいに義務を果しあい、たがいに与え、たがいに受け、たがいにその技術により、努力により、能力によって、人と人との社会的結合をさらに高めなければならないではないか」(キケロ『義務について』泉井久之助訳)。

 キケロが『義務について』を執筆したのは、カエサルが暗殺された年(前44年)だった。彼はローマの外交についてこう述べている。

 「古人は、自分が武力をもって征服した国家や民族を信義をもって取り扱い、祖先からの風習に従って、みずからその保護者となったほど、かつてのローマでは正義があつく守られていた」「かつてローマ国民の命令が不法によらずに恩恵によって行われている間、戦争は単に盟邦のためかローマの覇権の維持のために行われ、終戦の条件は温和であり必要な程度にとどめられ、元老院は諸方の王や民族・国民の港であり避難所であった」(上掲書)。

 この習慣と秩序を破ったのがスラでありカエサルであったと彼は言う。カエサルは「その戦争の名目もいまわしく勝利はなおも汚かったにもかかわらず、個々の市民の財産を公売に付したのみか、全面的に州や地方を、一挙に破滅の権力をふるって、合併したのである」(同上)と糾弾する。わが国(日本)のカエサルファンや作家はこのような言い回しに憤慨するだろうが仕方ない。それに不満な方は、キケロが翌年、マルクス・アントニウスの手先の一隊によって暗殺されたことで鬱憤を晴らしてほしい。

 なお、キケロは、カエサルの財産は少数の、野心は多数の、それぞれ暴民の手に遺産として伝えられたと書いた。少数の暴民というのはほとんどアントニウスのことを指すと考えていい。
 キケロは『義務について』の他の箇所でこういっている。 
 「われわれは人に対する尊敬の念を、もっともよき人に対してのみならず、その他の人びとに対しても、持たなくてはならない。なぜならひとの自意識を無視するのは傲慢の業であるばかりか一般に放恣の人のすることである。他人との関係を顧慮するとき、正義と敬虔の間に区別があることを知らなくてはならない」。

 「さてまた身分のもっとも卑しいものたちに対しても、正義は守られなくてはならないことを、われわれは思いかえさなくてはならないであろう。もっとも低い状況と運命におかれているものは奴隷たちである。かれらを日雇者のように取りあつかい、仕事を課するかわりにそれに相応した報酬を与えるべきだとわれわれに注意する人びとの教えは、正しいとしなくてはならない」(上掲書)。


 2、古代ローマの奴隷 
 奴隷の解放手続きは5つか6つあった。形式的なものが多く、それもだんだん緩やかになった。したがってローマでは解放奴隷の人口が増え続けた。
 ネロ帝のとき、元老院で解放奴隷の忘恩行為(旧奴隷主に対する)が取り沙汰され、保護者に解放奴隷の自由を取り消す権利を与えるべきだとの意見が出た。ネロは少数の助言者にその是非を諮った。賛否両論が出たがネロは「解放奴隷全体の権利は、これを毀損してはならない」と元老院宛に書いた。

 反対理由の中心は、ローマ市民の中に占める解放奴隷、あるいはその子孫の数が多いことであった。騎士や元老院議員ですらその祖先の多くが解放奴隷であった。「もし解放奴隷が別け隔てられてしまうなら、自由市民がいかに少ないかは明瞭となるであろう」(タキトゥス『年代記』)。 
 ローマ帝国の高級官僚の多くも奴隷や解放奴隷で占められ、彼らなしに帝国の運営もおぼつかなくなった。

 帝政時代の奴隷の地位向上の一端をみてみる。
 ネロの時代、奴隷を主人の非道から守るための警察法発布。
 ハドリアヌス帝の時代、主人による奴隷の殺害を罰することにする。
 アントニウス・ピウス帝の時代、奴隷に対し、神々の祭壇のもとへ逃れる権利をあたえる。 
 マルクス・アウレリウス帝の時代、剣技士による見世物を禁ず。 
 一世紀、主人の命令で奴隷を野獣と戦わせること、重病の奴隷を遺棄することが禁止に、       男の奴隷を去勢することが禁止に。 
 二世紀以降、奴隷を虐待したため処分された主人たちが知られている。 
 三世紀、国家奴隷は遺言によってその財産の半分を自由に処理できるようになる。
 四世紀、奴隷が自分の主人を告訴できるようになる。                                  (ヒルシュベルガー『西洋哲学史』ほか参照) 


 3、スパルタクスの精神 
 剣闘士奴隷スパルタクスが仲間とともに逃亡し、そして反乱を起したのはキケロが『義務について』を書く30年ほど前である。キケロは一面で評判が悪い。とくに日本ではそうであり、その先頭に立つのは、スパルタクス研究の第一人者土井正興氏かもしれない。
 当時、剣闘士奴隷を養成して貸し出す商売があったらしい。キケロは友人アッティクスに「あなたは見事な一隊の剣奴を買い取ったが、それを貸し出しだしたら、2回ほどの貸し出しで元はとってしまえただろう」という趣旨の手紙を送った。 

 土井氏はこのことを取り上げ「キケロの手紙にみられるようなことを、平気で良心の呵責なしに書けるローマの支配階級自身も・・・唾棄すべき存在であることは、たしかであろう」という。キケロは、彼の『書簡集』を見てもわかるように大の皮肉屋であった。
 土井氏はスパルタクスの反乱を、ローマの自由民に対する奴隷の階級闘争という視点から論ずる。そして彼らの蜂起はローマの「奴隷制社会」から奴隷たちの故郷の「原始共同体社会」への復帰という解放の思想によるものとした。

 土井氏のスパルタクス観を示す一節を引く。
 「この蜂起は・・・奴隷のなかのアウトローであった剣闘士奴隷によって指導されていた。このことは、ローマにとっては・・・貪欲な侵略戦争であり、奴隷にとっては、抑圧からの解放を求める正義の戦争であることに由来する・・・」「そして、このこと自身を、ローマの支配階級の一員であるプリニウスすら、『何と、われわれの逃亡した奴隷が、心情の偉大さにおいて、われわれを顔色なからしむることよ』と容認せざるを得なかったのである」(『スパルタクスの蜂起』)。

 さらに岩崎充胤氏は土井氏のこの主張を援用しながらプリニウスのこの一文が、100年経ってなおローマの支配階級のあいだに彼らを苦しめた奴隷に対する畏敬の念の残存を示す証拠であると論じている(岩崎充胤『ヘレニズム・ローマ期の哲学』)。

 だが、プリニウスは「正義の戦争」が「われわれを顔色なからしめた」とは書いていない。プリニウスはこういっている。「われわれはスパルタクスが彼の陣営に、だれしも金または銀を所有することを禁ずる命令を出したことを知っている。してみると、われわれの逃亡奴隷のなかにかえって多くの精神があったということだ」

 ここでプリニウスが追求しているのは金貨を発明した人物の犯した罪であった。それによって金に対する絶対的な飢餓が、一種狂乱状態をもって燃え上がったと批判した。このプリニウスの一節を引用しながらカール・マルクスはいう「貨幣は至富欲の一対象であるばかりではない。それはその唯一の対象である。致富欲は本質的には金に対するのろわれた渇望である」と(『経済学批判』)。
 プリニウスはスパルタクスの反乱自体についてはまったく触れていない。彼が恐れたのは奴隷反乱ではなく、人びとの金への渇望が人間社会を滅ぼすのではないかという怖れであった。
 
 『博物誌』での一貫した主張は、奢侈への批判であり、なかでも金や銀への欲望に対する弾劾であった。彼は金山での乱開発の模様を極めて写実的に描写しながら、それが自然への挑戦であるとして、自然を征服したと誇り顔の人間たちを告発した。
 これはキケロほかの、ローマのコモンセンスを代表する人たちの自然観の反映でもあった。



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