「恋というものは相手をわがものにしたい。躰だけでは無うして、心も何もかも残らず奪いとってしまいたいと思う事でございます」はたして、この台詞、何世紀頃の人のものだと思います?
(中略)
「愛というものは、その逆でござります。相手に身も心も捧げ尽くす。おのれの欲も何も打ち棄てて、相手に与えて悔い無い心でござります。相手がわがもんにならんでもよか……倖わせになってくれればよか……それがおのれの喜びじゃと思う事でござります」
何と、これが17世紀末、島津家の家臣・長寿院盛淳(1548? - 1600) が、島津義弘(1533 - 1611)に対して言ったことばなんですね。
ああ、もちろん小説中の台詞ね。
違和感を覚えませんか。
これ、キリスト教的なエロス(=人間の利己的な愛)とアガペー(=自分中心ではない利他的な恋愛関係・自己犠牲を厭わない献身的で純粋な恋愛関係)じゃあありませんか。
いくらフィクションの世界でも、「恋」と「愛」についての16世紀日本人の概念とは思えません。
本書には、これ以外にも、違和感を覚える表現・概念が出てきます(一つは、戦国バブル経済を「戦の景気」とするもの。まあ、これは許容範囲でしょうか)。
「恋」と「愛」については、本書の主人公・島津義弘の私生活に関する重要なキーとなるので、ちょっと見のがすわけにはいきません。
以前に大岡昇平の「歴史小説の2類型」を御紹介しました。この説によれば、歴史小説には、「A.過去の再現という、歴史の線に沿ったもの」と「B.現代社会の諸条件では不可能な状況を、歴史をかりて設定し、人間のロマネスク衝動を満足させるもの」との2類型があり、実際には、その中間の位置にさまざまな具体的な小説がある、とするものでした。
その考えを援用すれば、本書は、〈類型A〉に近い線を目指しながら、ついつい〈類型B〉が紛れ込んでしまっている、という気がします。
普通、このようなケースを「破綻」と称します。
ストーリー自体も、長いわりには起伏の付け方が今一つ。
ということで、お勧めできない歴史小説であります(関ヶ原の戦いの描写が司馬遼太郎作品に似ていたとの理由にて絶版)。
池宮彰一郎
『島津奔る(上)(下)』
新潮文庫
定価:各667.円 (税込)
ISBN978-4101408163/978-4101408173