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「甲越軍記」を現代仕様で書いてみた 武田家 2

2024年02月04日 20時09分52秒 | 甲越軍記
 新羅三郎の嫡子を刑部三郎義清という、初めて甲斐の国武田に住み、この人をもって武田家の始祖とする。
それから17代ののち武田左京大夫信虎という人が現れた、これが信玄公の父君である。
信虎は大胆不敵なうえに暴虐を好み、諸方の戦場に臨み、不覚をとったことは一度もなく、驕慢自ら驕り、人を虫けらのように扱い家臣が諌めてもそれを拒むので、譜代の忠臣もみな眉をひそめるばかりだった。
甲州、信州に住む親戚衆もみなこれを憎み、背けば待ってましたとこれを攻め滅ぼして、かえって信虎の勢いに火をつけることになった。
甲斐一国はすべて自分の領分として、更に信濃までも掠め取る勢いであった。

諏訪の領主、信濃の守諏訪頼茂は信虎の妹婿であったが、信濃まで攻めとる信虎を憎み不和となった。
近しい縁者でさえこの通りであったから、縁が薄い他人はなおさらのこと信虎を憎み罵った。
しかしそれはかえって信虎の侵入を招く結果となり、武田家はますます繁栄の勢いを増していった。

信虎には多数の子息がいた。 長は女子で、後に今川治部大輔義元の室となる
次は男子で勝千代丸、後に武田大膳大夫、入道して信玄公である。
次は次郎丸、後の左馬之介信繁、四番目は孫六、後に入道して逍遥軒である。

大永六年三月、甲府に一人の壮士が訪ねてきて「某は種子島新左衛門と申す、生国は薩州種子島の生まれで、幼少の時、商人船に乗って大明国に渡り、かの地において一つの武器を知り、それを伝えるために帰国した次第、それから天下の豪傑を求めて諸国を巡り歩いたが、世間の噂でご当家の武威が四方遠近に鳴り響き御屋形の勢いに怖れざるものなしと知り、この武器と薬玉の製法を手土産に当家に仕官させていただきたく参ったのです」

話を聞いた信虎は新左衛門に会い、兵器を手に取ると、それは鉄製の三尺ばかりの棒状のものであった。
「これは何という名の武器であるか、どのように弾を発射するのか、どのような徳用があるのか」と矢継ぎ早に聞いた。
新左衛門は「これは鉄砲と申し、黒鉛の弾を火薬に火をつけて発射すれば、百発百中、鉄板の鎧、大盾、皮盾など木っ端みじんとなり、発する時の音は雷の響きのようであり始めて聞く者は恐れぬ者なし」
さっそく試し打ちすると新左衛門の言う通り、全て的の黒丸に命中したので信虎は大喜びした。
「わが家だけがこれを持ち、隣国を片端から攻めつぶせば敵は自ずと降参して、一両年内に隣国の全てがわが軍門に降るであろう」
信虎は種子島を高碌で召し抱えて、鍛冶匠を集めて密かに鉄砲を造らせた。
これが皇朝(我が国)の鉄砲伝来の始まりです。
  







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