中国語学習者のブログ

これって中国語でどう言うの?様々な中国語表現を紹介します。読者の皆さんと一緒に勉強しましょう。

沈宏非のグルメエッセイ: 点心について。蝦餃と鳳爪

2010年10月31日 | 中国グルメ(美食)
 今回は飲茶の点心から、蝦餃(ハーカオ。エビ餃子)と鳳爪(ニワトリの足先の煮物)です。日本でも、飲茶が随分ポピュラーになってきましたので、蝦餃は目にする機会も増えたと思いますが、鳳爪については好き嫌いが分かれることと思います。しかし沈宏非に言わせると、それは中国内でも同様で、地方による食習慣の違いであるようです。

                         鳳爪你個蝦餃

 中国では、茶楼に上がって茶を飲む風習は別に広東独自のものではないが、広東式茶楼でのいわゆる“点心”と、“点心”の本来の意味との間には大きな隔たりがある。

  《辞海》の解釈によれば、“点心”とは「腹が減った時に軽く口に入れる物や、ケーキやクッキーの類のスナック」である。南宋の人、庄季裕《鶏肋編》巻下に言う:年長の人がいささか空腹を覚えたのを、若い者がそれを見て、懐の中の蒸した餅(ビン。小麦粉をこねて蒸したり焼いたりしたもの)を出して言った。「これで空腹を凌げば、気持ちを引き立たせることができましょう」(“可以点心”)。周密《癸辛雑識前集・健啖》:卿は健啖であると聞くが、朕は小さな点心でお相手したいと思うが、如何か?

 総じて言えば、“点心”は本来は一種の食べて楽しむもので、茶食について言えば、北京、南京、杭州、及び成都等の土地の茶楼では、通常はピーナツ、瓜子(クアズ)、干した果物の類しか見ないが、ただ広東の茶楼では、この閑食が「厳格な意味での」食物に発展し、“点心”、つまり空腹を凌いで気持ちを引き立たせるだけでなく、満腹になることもできる。アメリカ英語で“点心”をdimsunと音訳するのは、元は広州語の発音である。

 昔の広州の茶楼では、点心は二三十種類であったが、外地の人にとっては、充分に多種多様で壮観であった。現在では、点心の品種は千種類以上に増え、フカヒレ(魚翅餃:フカヒレ入り餃子)やツバメの巣(燕窩蛋達:ツバメの巣入り卵タルト)までもがメニューの中に見られるようになった。飲茶は食事になるだけでなく、茶楼に酒を並べてもあまり失礼にならないようになった。ある意味では、「お茶受け」(茶点)の観念に拘りさえしなければ、このような様々な精進、生臭入り混じっての“点心”を出すことは技術的には別に困難ではない。難しいのは、これらの物が生臭であれ、また甘いものであれ塩辛いものであれ、お茶で人々の腹の中に流し込まれることである。

 それはともかく、今日客達が茶楼で食べる点心は、おおよそ二十種類を超えないだろう。それは例えば蝦餃、鳳爪、煎(蒸)蘿卜糕、馬蹄糕、粉果、叉焼包、蓮蓉包、糯米鶏、芋角、咸水角、叉焼酥、腸粉、米粉、河粉、粥、麺などである。そしてこれら「基本の点心」の中では、蝦餃(エビ餃子)、鳳爪(鶏の足先の部分)をどこに出しても恥ずかしくない「主力選手」としている。この二つの点心は、出場率が最も高いだけでなく、同時に客達がその茶楼の料理のレベルを推し量る代表的な点心である。私の推測では、広州人が嘗てよく言った、いわゆる“一盅両件”(“盅”は取っ手の無い湯呑み茶碗のこと。“一盅両件”とは、一杯のお茶と点心二皿の意味)の中の“両件”が指すもので最も可能性が高いのは蝦餃と鳳爪である。これ以外に、この二つの言葉は広東の通俗文化の中で、あまねく用いられる符丁になっている。1980年代中ごろに王晶が制作した香港映画の中で、男性主人公は乱暴な言葉を使う癖を直す為、次のようなやりとりがある。“我叉焼包你個糯米鶏!”“我鳳爪你個蝦餃!”このように罵り合い、何度かやりとりするうち、おかしくてたまらない(“楽不可支”)観客達が空腹を覚えたかどうかはわからない。

                     佼佼者 (最も優れたもの)

 ニラと豚肉を餡にした水餃子が北方人の日常の飲食の“掌門人”(武術などの流派の主催者)とすれば、新鮮な蝦を餡にした蝦餃(ハーカオ)は、広東式点心の“大侠”(親分)で、最も優れたものである。

 広州の文化史の資料からわかることは、蝦餃は広東式の点心の中で唯一、来歴が有り“出処”のはっきりしたもので、決して「訳無く」出てきたものではない。1920年代、広州市郊外、河南漱珠崗付近の五風郷一帯は、街は活気があり、水産物が豊富で、川の上ではいつも漁船が魚やエビを売っていた。そして、村の一軒の茶店の主人が地元の物を材料に、新鮮のエビの剝身を餡にし、上等のもち米の粉で皮を作り、遂に他に比べようも無く美味しい蝦餃を作り出したところ、毎日供給が追い付かなかった。絶えず改良を行い、遂に農村から都市に行きわたり、広州の茶楼の代表的な点心の一つになった。

 新鮮なエビの剝身を餡にしていることが、間違いなく蝦餃の第一の売り物である。種々様々の「皮に包まれた」食品について言えば、餡の材料の主導的地位は言うまでもなく(“不言而喩”)、北方の餃子であれアメリカのハンバーガーであれ、その味と販売価格の相違は、皆「外因が内因を通じて作用した」ものである。いわゆる「中身が王様」である。好みの「包まれていない」食物を、通常は細かく刻んで餡にし、それを包みこむに、果てしなく細かくしたいという衝動に駆られるが、餡にするに十分なだけ細かくなってさえいればよいのである。ただ、内陸地区に住むコックでは、どう考えても、新鮮なエビの剝身で餡を作るというインスピレーションは永遠に湧いてこないだろう。更に、餡にするエビの剝身は元のエビのような口当たりで弾力性を保たなければならず、肉や野菜のように粉々にしてしまってはならないとは尚更想像すらできないだろう。(昔の蝦餃の餡もエビ肉を切り刻んでいたが、エビの剝身をそのまま使うのは後の改良である。)

 蝦餃の美しさは内なるエビの身の完全性だけでなく、外側の白地の皮(“坯皮”)にもある。小麦粉を皮にした北方の餃子と違い、蝦餃の白地の皮は澄(広東語音では“”)粉を調製して作る。いわゆる“澄粉”(また“澄面”とも言う)は、小麦粉のグルテン(糊状の物質)を洗い流した後の産物で、色は白くきめが細かく滑らかで、蒸し上げると、よりきらきらと透明になる。蝦餃の白地の皮が十分薄ければ、内部のあのピンク色や赤色のエビの剝身は白地に赤く透けて見え、隠れる如く現れる如く、見る者に涎を垂らしそうにさせる。

  くし状に形作られた蝦餃は外観上の造型もたいへんかわいらしい。嘗て泮渓酒家の名料理人が考案して、各種の「白兔の形の蝦餃」を作り、ハムの粒をウサギの眼にし、宴席に出す時には更に香菜と錦糸卵で周囲を「レース」模様で飾った。《ニューヨークタイムズ》の記者をして神業と驚嘆させ、これは「食品であるだけでなく、芸術作品である」と言わしめた。しかし、形は形、芸術は芸術、工夫を凝らした形もここに至っては天然の本来の意を失っている。ある美食家が言うように、「白兔の餃子は半円のくしの形の蝦餃の本尊とは、中の餡や造形に大きな違いがあったとしても、同じ遺伝子が変異した分身に過ぎない。」

                        出汁 (汁が十分)

 蝦餃はどの広東式茶楼にでも必ずある基本の点心であるが、これを美味しく作るのは、十分研究を要する学問である。

  いわゆる“学問”とは、先ず使っている材料に最上のものを確保する、すなわち主な材料のエビの剝身が新鮮で、それに配する材料がそれに合うものであるということである。正統なエビの剝身の餡の材料は、主に生の成熟したエビの身、豚の脂身、及び筍の細切り等を含み、白地の皮を作るのに使う澄面にはラード、塩、水を加えて作り、必ず十分に薄く、透明でなければならない。このようにして蒸した蝦餃は、食べるとほどよい量の甘い汁が出て、澄粉の柔らかさ、滑らかさとエビの身の歯への弾力が、珠が連なったように一つになり(“珠聯璧合”)、初めて最も充分な効果が得られるのである。木を見て森を見ず(“只見樹木不見森林”)の食客の機嫌を取るため、昨今の蝦餃の制作者は、しばしばエビの身の大きさやその完全さばかり強調し、それ以外の材料のバランスや品質のことを疎かにしている。最も憂鬱になるのは、健康志向の潮流の圧迫の下、皮や餡の中に必要不可欠なラードの成分が大いに減少、ひどいものは完全に無くなっていて、そのため、蝦餃の食感が味気ないものになってしまい、エビの身の弾力だけが残っていることである。

  実際は、筍やエビが入っているのは別に難しいことでなく、中に一匹丸々のエビの剝身の隠れている蝦餃は、広州の多くの茶楼で売っている。あけすけに言えば、筍、エビときらきらした透明できれいにひだを刻まれた薄皮は、最後には“汁”が浸み出してこそ蝦餃が持っていなければならない美味が発せられるのであり、それには豚の脂身やラードが鍵を握っている。実際、広東式の点心は脂っこいものが多いが、「脂っこくしたくて脂っこい」のではなく、茶を飲むことによって「油を洗い流す」という意味がある。このことは、突拍子もなく可笑しいと喝破されるかもしれないが、なに、人生みんなこんなものである。

 この他、外形の美観を保つため、皮を指先でひねって形作りをするのも蝦餃の制作過程で気の抜けない工程である。一粒ずつ注意深く形を整えられたエビは、ひだや紋がくっきりとしてすらっと長く、このようであって初めて見た感じが「すらっと弧を描く」美しさを持つことができるのである。

 香港の美食家、唯霊先生はこう指摘した。「その店の点心のレベルがどうかは、ベテランは三種類の点心を見れば、あらましを知ることができる。それは一に蝦餃、二に叉焼包、三に蓮蓉酥である。蝦餃はきらきらした透明できれいにひだが刻まれ、白い中に赤が透けて見え、皮は薄く粘り強くしなやかで、三日月の形をし、ひだは最低十個付いていなければならない。餡は筍とエビが入っていて、汁が有り、エビは弾力があって本来の味がなければならない。」

 大部分の茶楼が直接食品加工工場から食品を仕入れるようになった今日では、このような蝦餃を味わうのは、実にぜいたくなことである。念入りに作られた蝦餃を、広州市内で食べられるのも“花城海鮮酒家”だけである。“花城蝦餃皇”(6個30元。蒸籠1個18元/3個入り)は、広州の物価から言うと、高いことは高いが、その品質は上々である。もちろん、ツバメの巣やフカヒレが“花城”のメインであり、点心は副業に過ぎないが、彼らはきっとツバメの巣やアワビを料理するのと同じ態度で蝦餃を作っているのであろうと想像できる。

                        濃妝艶抹 (厚化粧)

 鳳爪はニワトリの足先(爪子)に対する、「スズメ転じて鳳凰になる」式の美化された修辞である。(もちろん、あなたがスポーツ愛好家なら、大げさにこれを「美女の足」と呼ぶこともできる。)しかし、“鳳”という伝説上の神聖で高貴な飛禽も、実際は雉に過ぎないと言われている。

 しかし、どんなに高貴な名前であろうと、鳳爪は相変わらず卑賤なものに過ぎない。たとえ広東式の点心の中でも、味の上で蝦餃といっしょに論議することはできない。しかしながら、点心の中に鳳爪を欠かすことができない由縁は、先ずその唯一無二の食感による。骨を除くと、皮の中のゼラチン質だけで、鳳爪は食べるべき肉が付いておらず、別にとりたてて美味しいものではない。だから、点心師(点心制作担当の料理人)は鳳爪の調理では手間と材料を惜しまない。茶楼での鳳爪は通常先ず油で揚げ、それから醤油、牡蠣油、柱侯醤(醤油にニンニクや砂糖を加えた調味料)、唐辛子、八角、ネギ、ニンニク、生姜などの調味料に漬け、最後に蒸す。したがって、茶楼で食卓に出される鳳爪は、見たところ全身厚い化粧を施され、もはやその生前の姿を想像することはできない。

 実際は、鳳爪は味付けが容易なので、味付けの上では必ずしも一定の決まりは無い。十分柔らかく蒸されており(広東語で“淋”と言う)、口に入れた時十分芳しければ、完成である。

 こうして見ると、これに付けられた美名の他は、鳳爪は別に美味しいものではない。しかし、茶楼の客達が好むのはこの一口である。この点心は京劇の中の茶番劇(“挿科打諢”)のような役割で、鳳爪は食べるべき肉も無く、また取り立てて美味しくもないが、噛み応えは十分ある。口の中で、この爪はひらひら舞い、むしゃむしゃ咀嚼する間に、細い骨が一本一本音も無く吐き出される。唇と歯の間のおもしろい動きである。おもしろいと言えば、古龍の《絶代双驕》の中で鶏爪鎌という名の武器が出てくる。これは憐星宮主と鶏冠人の武闘の場面で登場する。「鶏冠人の目の中には凶悪な光が現れ、突然手まねをすると、三双の鶏爪鎌が現れ、直ちに風を突いて憐星宮主に向け投げつけた……憐星宮主は長い袖で振り払うと、五本の柄の鶏爪鎌は「ガラッ」と地面に落ちた。彼女は手で柄を一本つかんでそれをしげしげと見ると、笑って言った。「何かと思えば鶏爪鎌、さて味はどうだろう?」とおちょぼ口をかすかに開いて、鶏爪鎌を口に入れた。「カシャッ」と音がして、この鋼で鋳られた、世の中で皆が恐れをなす武器が、むざむざと彼女に食べられてしまった。憐星宮主は首を振って言った。「まあ、この鶏の足はなんて不味いの!」「ペッ」と口の中に半分残った鉄爪を吐き出してしまった。すると銀色の光がきらめき、風の音がかすかに響き、残された花衣の人は突然うめき声を上げ、両手で顔を覆い、地面をのたうち回った。鮮血が絶えず指の間から流れ出し、何度ものたうち回ると、もう動けなくなった。」

 鳳爪は、実際は動詞であり、修辞学の意味のうえでは、“蝦餃你個鳳爪”というのは、“鳳爪你個蝦餃”と改めた方が良さそうだ。

 鳳爪は広東式の茶楼での欠くことのできない伝統的な点心であるだけでなく、日常の広東料理の中でもよく使われている。例えば、広東人はスープを煮込む時に適量の鳳爪を入れるのを好む。そうするとそのゼラチン質でスープのコクが増すからである。しかし、私がずっと分からないのは、どうして同じものが茶楼では“鳳爪”と呼ばれ、スープに入れられると一律にまた元通り“鶏脚”になるのかである。(例えばよく見る“花生眉豆煲鶏脚”は未だかつて“花生眉豆煲鳳爪”と言われたことはない。)“鶏脚”は点心の時だけ“鳳爪”と呼ばれるというのだろうか?

 外省人は鶏を食べる時、鶏の内から外まで余す所はほとんど無いが、広州人の“鳳爪”を好むことについてはいささか見方があるようである。先ず、この物は肉が付いていないだけでなく、食べるのが面倒で、「けちけちしない」ことを尊ぶ北方の人は尚更に蔑む。この他、文化上のタブーもある。私は小さい時大人が、鶏の足先を食べると字がきれいに書けなくなると言うのを聞いたことがある。後に私は呉倩蓮が対談で、彼女は幼い時から鶏の足先を怖くて食べれなかった、というのは母親が鶏の脚は書物を破いてしまうし、「書物から学んだものをすぐに忘れてしまう」と言っていたから、と言っているのを読んだ。後に香港に住んでから、茶楼に行く度、美味しそうな豉汁鳳爪や白雲鳳爪を見ては涎が止まらなかったが、ずっと鳳爪の美味を試すことがなかった。

 外国人の友邦の驚きに至っては、ことさら言うまでもない。香港のTV局、明珠台が以前英国人制作のバラエティー番組Don’t do this at home(中国語訳《敢玩倶楽部》)を放送したが、内容は苦心惨憺して思い付いた、スリルのある冒険ゲームで、例えば蜘蛛が嫌いな人が密閉された狭い空間でたくさんの蜘蛛といっしょに過ごしたり、高所恐怖症の人が空中から飛び降りる、といった内容である。その中に一つレギュラー・コーナーがあり、スタジオの観衆が舞台に上がり「びっくりするような」食品を食べてみるというもので、これらの食品の中に鳳爪と蚕の蛹が出てきた。私の記憶では、鳳爪が出てきた回は、皿を覆っていた蓋がはずされても、舞台の上の六名のイギリス人の男女は最初は皿の中がどんな物か見ても分からず、司会者が促すと、皆怖くて血の気が引き、中にはがまんできず吐きそうになったり、一人の女性は悲鳴を上げた。しばらくして、一人の勇敢な中年男性が遂に勇気を出して、つまみあげて口に入れ一噛みした。続いてもう一噛み……言うまでもなく、たいへん勇敢な人だ。もう一人、口に入れた女性は、司会者に促され、一噛みしたが、こっそり吐き出していた。

 【原文】沈宏非《食相報告》四川人民出版社2003年4月より翻訳


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複文の構造の特徴(1)

2010年10月28日 | 中国語
 これから何回かにわたり、複文の構造の特徴について見ていきたいと思います。複文というのは、いくつかの分句(クローズ)が組み合わさって構成される文です。今回は、複文の主語についてと、分句間の接続について見ていきます。

                                複文
                    一 複文中の分句の主語の差異と省略

 一つの複文にはいくつかの分句(クローズ)が含まれる。分句は主述文(句)でもよいし、非主述文(句)でもよい。例えば:
   (1)刮了一夜的北風,竟然下起雪来了。
   (2)没有高度的工業化,国家是不可能強盛的。

  例(1)の二つの分句は非主述文であり、例(2)の前半の分句は非主述文であり、何れも主語が無い。

 いくつかの分句は主述文であり、これらの主語は同じであり、各分句に出現することがある。例えば:
   (3)掌握科学道理的人比普通人高明,他們憧得事物的生存和発展的規律,他們憧得辯証法,他們看得遠些。
   (4)要知道建設的理論和方法,就得参加建設。

 また前の分句に現れるが、以下の分句は省略される、或いは前の分句は省略され、後ろの分句に現れる場合もある。例えば:
   (5)我們天天穿衣吃飯,応該知道衣和飯的生産過程。
   (6)掌握了拼音方案,我們学習普通話就方便多了。

  例(5)は前を受けて後ろが省略され、例(6)は後ろを受けて前が省略されている。一般的に、分句の主語が同じだと、省略はしばしば行われる。省略されず全部の主語が現れる時は、強調の修辞作用を帯びる。

 複文のいくつかの分句の主語が異なる場合は、通常は主語の省略はできない。例えば:
   (7)不犯我,不犯人;若犯我,必犯人。

 しかし時には省略できることもある。例えば:
   (8)我也做過這種工作,不算太難。
   (9)我們的研究工作取得了不少成績,但絲毫也不能自満。

  例(8)の二番目の分句の主語は“這種工作”であるが、前の分句の賓語を受けて、省略されている。例(9)の二番目の分句の主語は“我們”であるが、前の分句の主語の定語を受けて、省略されている。このような省略は、中国語の融通性の現れである。しかし、運用する時は注意を払わねばならない。後ろの分句の省略された主語は、前の文で現れたものでなければならない。同時に意味は明確でなければならず、人に誤解を与えてはならない。

                         二 複文と関連語句

 一つの複文にはいくつかの分句(クローズ)が含まれる。分句と分句の間には一定の関連があるが、この関連は一定の文法手段――語順と関連語句(“関聯詞語”)――によって表わされる。

  いくつかの複文の各分句の間の関係は、語順(つまり分句の配列順序)だけによって表わされる。例えば:
   (1)火生起来,炉子焼得通紅,上頭坐着一飯盒飯,盒蓋上刻着禹龍大字様。

 この文では、先ず“火”から“炉子”のことまで話をし、その後“炉子”の“上頭”の“一飯盒飯”のことを言い、その後さらに“盒蓋上”に刻まれた文字のことを言っており、分句の間の関係は、話の順番に並んでおり、間に接続詞等を挟む必要がない。もちろん、間に接続詞等を用いることもできるが、用いないことが多い。

 例えば、次の文は“如果”を用いることもできるが、用いる必要はない。
   (2)今夜搭不上你的車,恐怕要走上半夜哩。

 しかしながら、多くの場合、特に書面語では、複文の中に関連語句を用いるのはごく普通に見られることである。

 関連語句(“関聯詞語”)には、“雖然”、“所以”のような“連詞”(接続詞)、“就”、“才”のような副詞、“另一方面”、“反之”のような詞組がある。これらが分句間の関係で果たす機能は、以下のいくつかの面から考察できる。

(一)いくつかの複文の分句の間の関係は、関連語句を用いて初めて表すことができ、関連語句を除くと、分句と分句がつながらなくなってしまう。例えば:
   (3)尽管他有許多独特的創造,可是他一再把自己的成就帰功于導師的指引。

 この文で“尽管”と“可是”を取り除くと、この二つの分句はつながらなくなってしまう。

(二)一つの複文に含まれる分句の数が多く、関係が複雑であると、関連語句を用いないとこれらの関係をはっきりと表現することができない。例えば:
   (4)工作的条理雖然很好,可是困難也還不少,如果我們対困難没有足够gou4的估計,会給工作帯来損失。

(三)時には、ある複文で関連語句を用いるとある関係を表すが、関連語句を用いないと別の関係になってしまうことがある。例えば:
   (5)或者写過信去,或者拍份電報去,叫他馬上回来。

 これは選択関係であり、“或者”を取り去ると、並列関係になる。

(四)同一の関連語句であっても、異なる関係を表すこともできる。例えば:
   (6)就是剰下一個人,要堅守陣地。
   (7)小王学習很好,就是有点驕傲。

 例(6)の“就是”は文頭に用いられ、“也”と呼応し、譲歩関係を表す。例(7)の“就是”は文中に置かれ、話の転換を表す。

(五)分句の間の異なる関係を表す時は、異なる関連語句を用いなければならない。例えば:
   (8)因為你能够gou4虚心学習,所以工作搞得好。
   (9)既然你能够gou4虚心学習,工作一定搞得好。
   (10)如果你能够gou4虚心学習,工作一定搞得好。
   (11)除非你能够gou4虚心学習,工作会搞得好。

 ここでは四組の異なる関連語句を用いることで、四つの関係の異なる複文を構成している。

 関連語句を用いることは複文の特徴の一つであるが、関連語句のある文は必ずしも複文ではない。なぜなら関連語句は分句を接続する以外に、詞、詞組、文、さらには段落をも接続することができるからである。例えば:
   (12)我們這様的国家,可以而且応該用“偉大的”這個字。
   (13)既然建設祖国需要不断提高人民的教育程度和科技文化水平,我們知識分子就応該積極地担負起這個比較艱難但是十分光栄的任務。

 例(12)の“而且”が接続するのは二つの詞で、例(13)の“但是”が接続するのは二つの詞組である。また例えば:
   (14)“祥林嫂怎麼様?倒不如那時不留她。”四嬸有時当面這様説,似乎是警告他。
       然而她総是如此,全不見有伶俐起的希望。他們于是想打発她走了,教她回到衛老婆子那里去……

 ここで“于是”が接続しているのは二つの文であり、“然而”が接続しているのは二つの段落である。

 時には、関連語句は何も接続せず、文の中で強調する機能のみを行うことがある。例えば“無論誰,都要参加労働”という文の中の“無論”は強調する機能しかない。この文は単文であり、複文ではない。

【出典】胡裕樹主編《現代漢語》重訂版・上海教育出版社 1995年


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文の変換を利用した語義の明確化

2010年10月26日 | 中国語
 中国語では、文型まで変えるのではないが、語順を変える等、多少の変換をすることで、文に様々なニュアンスを追加することができます。こうした変換は、表現を豊かにするだけでなく、詞で構成される文が持つ意味の紛らわしさの解消、或いは語義の識別に利用することもできます。今回はこうした文の変換について見ていきます。

                         句式の変換とその応用
                           一 句式の変換

  文(“句子”)は言語の基本運用単位である。人と人の交際、思想交流の過程で、話をする人は必要に基づき文に変化を加えることができる。この変化は、文の基本構造まで変えるものではないが、これにより若干の色彩(ニュアンス)が加わる。こうした変化は、文には起こるが、文を構成する詞組には見られない。例えば主述詞組は、常に主語が前で述語が後ろだが、主述文では反対の語順になることがある。例えば:
   (1)写得多好啊,這篇文章
   (2)都読了嗎,你們

 この二つの文の主語は後ろに置かれている。例(1)は強烈な感情を表現するためで、例(2)は述語を強調するためである。口頭で表現する時、これらの文の中では明らかに語気の停頓が起こり、それは書面では逗号(コンマ“,”)で表示される。

 修飾語は一般に中心語の前に置かれるが、文中の修飾語は中心語の後ろに置かれることがある。例えば:
   (3)我們曽経抵制那些壊作品,色情的暴力描写的
   (4)学生們都跑来了,従操場上従教室里従学校的毎個角落

 動賓詞組では、動詞が前、賓語が後ろで、順序は固定されている。一定の条件下では、動賓述語文の中の賓語は動詞の前にも置くことができる。通常見られるのは:
(一)賓語が疑問代詞で、通常“都”、“也”と共に用いられる場合。例えば:
   (1)我哪儿都不去。
   (2)他什麼都会,真是一個能干的人。

(二)賓語の前に“一”があり、後ろに否定を表す副詞“不”、“没”、“没有”があり、“一……不(没有)”の文型が構成される場合。例えば:
   (3)我一個人都不認得。
   (4)山上一戸人家也没有。

(三)いくつかの賓語は、疑問代詞ではないが、文全体が列挙形式の時、クローズ(“分句”)中の賓語が動詞の前に置かれることがある。
   (5)我上海也到過,天津也到過,几個大都市都到過。

 形式上は並列するいくつかの項目は無いけれども、意味の上で言っているのが一項目に止まらない時も、この形式が採られることがある。例えば:
   (6)我上海也到過。

 以上の三つには、共通の特徴がある。つまり、普遍性を指す(“遍指”)と同時に、賓語が強調されている。“哪儿都不去”は如何なる場所にも行かないという意味であり、“一個人都不認得”は如何なる人も皆知らないという意味である。例(5)で列挙されている“上海”、“天津”にも、普遍性の意味を含んでいる。

  賓語が動詞の前に置かれる時、賓語の位置が変わるだけで、動詞と賓語の間の構造関係は変化しない。“我們応該向他学習”のような場合は、ここでは“他”は既に“学習”の賓語ではない。“向他学習”は偏正構造であり、動賓構造ではない。

 偏正構造の複文(“偏正複句”)では、“偏句”、つまり副文(或いは修飾文)が一般に前に置かれ、“正句”、つまり正文(或いは被修飾文)が一般に後ろに置かれるが、反対の語順になることもある。このことについては後述する。

 二つの単文をつないで、一つの単文にするのも、文の変化のもう一つの形式である。例えば:
   (7)他洗衣服。+ 他洗得満頭大汗。→ 他洗衣服洗得満頭大汗。
   (8)在旧社会,媽媽忍痛把姐姐売給人家。+ 姐姐給人家当童養媳。→ 在旧社会,媽媽忍痛把姐姐売給人家当童養媳。
   (9)你到過北京?+ 你没有到過北京?→ 你到過北京没有?
   (10)他聴得見?+ 他聴不見?→ 他聴得見不?


                     二 “岐義”(紛らわしい意味)の解消

  “岐義”、つまり紛らわしい意味が発生する原因は多種多様である。いくつかの岐義は詞を文中で用いる中で、詞が多くの意味を持ち続けるために発生する。例えば、“小店関門了”の中の“関門”は、営業を停止したことを指すし、営業時間が過ぎたことを指すこともできる。文法関係が不明確であるので発生するものもある。例えば、“研究方法十分重要”の中の“研究方法”は動賓関係と理解することもできるし、偏正関係と理解することもできる。いくつかは、語義の関係の確定が難しいために発生する。例えば、“反対的是他的弟弟”の中の“反対的”は動作の主体(“施事”)にも、受身(“受事”)にも取れる。文の構造の階層区分がはっきりしないため発生する場合もある。例えば、“他們三個一組”の区分方法は一つではない。岐義を解消するには、前後の文を利用することができる。用いることばを変えたり、語句の運用を変換することもできる。句式、つまり文の形式の変換を利用して岐義を解消するのは、幅広く運用されている方法である。以下に例を挙げて説明する。
   (1)今天下午我們小組討論。
      a.今天我們下午小組討論。
      b.今天我們小組下午討論。

   (2)他們能考慮安排這些事情。
      a.這些事情他們能考慮安排。
      b.安排這些事情他們能考慮。

 上の例文は何れも意味が紛らわしいが、aやbに変換してやると意味が明確になる。


                          三 語義の識別

 いくつかの文は同じ文型に属しているが、包含する語義の関係は一様ではない。その差異を識別するため、文の変換を利用することができる。例えば:
   (1)a.飯吃完了。
      b.飯吃飽了。

 aは“被”を使った文に変換し、“飯被××吃完了”とすることができるが、bはこのように変換することができない。これは“完”と“飯”の間に語義上の連係があるからで、“飽”と“飯”の間にはこのような連係は無い。

    (2)a.他們来了客人。
      b.他們来了三位。

 aは“他們的客人来了”と変換することができるが、bはこのように変換することができない。これは“客人”は“他們”とは別のもので、一方“三位”は“他們”と同じものであるからである。

   (3)a.我找不着先生教。
      b.我找不着東西吃。

  aは“我找不着先生教我”と変換することができるが、bはこのように変換することができない。これは、“我”は“教”に対しては受身(“受事”)、“吃”に対しては動作の主体者(“施事”)であり、文中の語義の関係が異なる。


【出典】胡裕樹主編《現代漢語》重訂版・上海教育出版社 1995年


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文全体の修飾語、提示成分、独立成分(2)

2010年10月25日 | 中国語
 今回は前回の続きです。文の特殊成分の3つ目、独立成分について取り上げます。

                           文の特殊成分
                     三 独立成分とその機能


 文の中のいくつかの語句は、文の別の成分と構造関係を生じ、置かれる位置は比較的自由である。これが独立成分である。例えば
   (1)身体怎麼様,老朋友?
   (2)看様子電話已経修通了。

   

例(1)の“老朋友”、例(2)の“看様子”が独立成分である。

 

 独立成分は、構造上必ず要るものではないが、表意の上では有っても無くても良いというものではない。独立成分には、主に次のような機能がある:

(一)呼びかけ、応答、感嘆を表す
 常に名詞、感嘆詞等を用いて表す。例えば:
   (3)昌林哥玉翠嫂子,你們両位同位不?
   (4),就這様決定!
   (5)啊呀,你長得多結実啊!

 (二)相手の注意を引き起こす
 一般に“你看”、“你瞧”、“你想”、“你聴”などの語句で表わされる。例えば:
   (6)你看你看,這不是又一批新砍的毛竹滑下山来了嗎?
   (7)朋友們,你們想,我怎麼会譲老金因為我一個病得這様的人無代価地犠牲呢?
   (8)你聴,這些孩子的嘴多巧!

 形式上から見ると、これらの文中の“你看、你們想、你聴”はクローズ(分句)のように見えるが、実はそうではない。なぜなら、これらの置かれる位置は固定されておらず、文頭にも文末にも文中にも置くことができ、同時にこれらは別のクローズ(分句)と物事の道理やロジックの上で関係を生じないからである。一般のクローズはそうではない。

(三)情況に対する推測、予測を表す
 情況への推測に対し、結論を保留するという語気を含める。通常、“看来、看起来、想来、看様子、説不定”等の語句を用いて表す。情況に対する予測を表すものは、あるものは“大、多”等の面に向け予測し、あるものは“小、少”等の面に向け予測する。通常、“充其量(多く見積もっても。せいぜい)、大不了、少説、往少里説、少説一点”等の語句を用いて表す。例えば:
   (9)看起来,我們有些同学,対于語言和言語的分別,還不理解。
   (10)従前安徒生写過一篇故事,叫《皇帝的新衣》,想来看過的人很不少。
   (11)大嬸,説不定我們這几天就要開到開封前線去。
   (12)就算這麼做,那充其量也只能使出三十部犂唄,三十部犂又擋什麼事?
   (13)我看櫻花,往少里説,也有几十次了。

(四)特定の語気や口ぶりを表す
 特定の語気(“口気”)とは、ここでは主に肯定、強調の語気を指す。通常、“毫無疑問、没問題、不用説、不可否認、説真的、説実在的、老実説、不錯”等の語句を用いて表す。例えば:
   (14)毫無疑問,我們応当批評各種各様的錯誤思想。
   (15)不用説両個人的勁頭都綳得像梆子戯上的琴弦。
・梆子戯 bang1zixi4 陝西省から流行した戯曲で、“梆子”(拍子木)で拍子をとりながら歌うことからこう呼ばれる。梆子腔。或いは地方の名から秦腔という。

   (16)説実在的,這些成績全是大家的。
   (17)老実説,她還更瞧不起昌林。
   (18)不錯,八股文章中国有,外国也有,可見通病。
   (19)這種埋頭做事、不動脳筋的人,簡直是――説得不客気一点――跟牛馬一様。

(五)ある知らせや情況の出所を表す
 通常、“聴説、据説、相伝、据報道”等の語句を用いて表す。例えば:
   (20)聴説現在有一些省有這様的情況:一切事情,省長或県長一個人説了就算数。
   (21)据説她還在計劃写一部関于原子弾的小説。

(六)総括を表す
 通常、“総之、総而言之、総的説来、一句話”等の語句を用いて表し、それらは文中で前文を受けて後文を展開する(“承上啓下”)機能がある。例えば:
   (22)姐姐叫他用功点,他照様偸懶;哥哥叫他交友小心,他照様濫交:総之,家里人的耐心勧告,他都当做耳辺風,好像是故意和他作対似的。
   (23)解決人民内部矛盾,不能用咒罵,也不能用拳頭,更不能用刀槍,只能用討論的方法,説理的方法,批評和自我批評的方法,一句話,只能用民主的方法,譲群衆講話的方法。

(七)ある問題に対する意見や見方を表す
 通常、“我想、我看、依我看”等の語句を用いて表す。例えば:
   (24)我們提出向外国学習的口号,我想是提得対的。
   (25)我看一個人平均三畝地太多了,将来只要几分地就尽够吃。

 独立成分と提示成分は、形式上と表意上の差異が明らかで、これらと文全体の修飾語も異なる。提示成分は一般に名詞性であり、文全体の修飾語は、時間、場所名詞を除いて、非名詞性である。独立成分には修飾機能は無い。


 【出典】胡裕樹主編《現代漢語》重訂版・上海教育出版社 1995年


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文全体の修飾語、提示成分、独立成分(1)

2010年10月24日 | 中国語
 今回取り上げるのは、文の直接の構成成分ではないが、完全に別のクローズ(分句)にもならない、しかし表現上は意味を強めたり、文が冗長になるいことを防ぎ、表現を豊かにする、という文法成分です。表題に掲げた、文全体の修飾語、文の提示成分、独立成分の三つに分けて説明をします。

                          文の特殊成分

 文の特殊成分とは、文全体の修飾語、提示成分、独立成分を言う。これら三者の特徴は、文に付着し、文を離れて独立することはできないが、文を構成する直接成分ではないので、これを文の特殊成分と呼ぶ。

                    一 文全体の修飾語とその機能

 主述文は文全体の修飾語を伴うことがある。このような修飾語が文頭に現れる時は、文頭の状況語と見做すこともできる。例えば:
   (1)除了少数人之外,大家都賛成這個方案。
   (2)関于這件事,我們已経討論過了。

 介詞構造はしばしば文頭に置かれ、文全体の修飾語になる。“関于”、“対于(対)”、及び“在……以后”、“在……方面”、“在……時”を用いて構成される介詞構造以外に、文全体の修飾語は更にいつも“在……上”、“在……下”、“在……中”といった介詞構造を用いる。これらの介詞構造は、もともとこれらを用いることで方位、場所、時間を表す。例えば、“在桌子上”、“在灯光下”、“在春節中”がそうである。後に、これらが派生(“引申”)して条件、範囲を表すようになった。例えば、“在他的領導下”、“在生産上”、“在調査研究中”がそうである。注意すべきは“在……上”、“在……下”を用いる時、「主語+述語(動詞+賓語)」のような構造形式を挿入できないことである。“在学習上”、“在大家的幇助下”と言うことはできるが、“在我們学習外語上”、“在大家幇助我們下”と言うことはできない。

 時間を表す名詞や詞組も、しばしば文全体の修飾語になる。例えば:
   (3)下午我們開小組会。
   (4)三天之后,風力会加強,気温会下降。

 副詞、形容詞、場所を表す名詞や詞組は、文全体の修飾語になることがある。例えば:
   (5)忽然人們発出了一陣笑声。
   (6)慢慢地,他驚奇地発現,随着一封封信的往来,他和老人的心在一天天靠近……
   (7)津浦路上,他遇到一位多年不見的朋友。

  述語の中の修飾成分で、とりわけ時間を表すものは、しばしば文頭に持って来られ、文全体の修飾語になる。このような修飾成分の性質の変化は、表現上の必要のためである。それは、あるものは時間を突出させるため、あるものは前の文と意味をつなげるため、あるものは言葉を簡潔でわかりやすくするためである。時間を突出させる例は:
   (8)夏天,他堅持鍛煉;冬天,他仍旧堅持鍛煉。

  前の文と意味をつなげる例は:
   (9)(他接連鍛煉了三個月)那時候,驕陽如火,別人都思歇一歇,他却能堅持。

 もちろん、全ての述語の修飾成分が文頭に持って来られて文全体の修飾成分になる訳ではない。たとえ時間を表す修飾語でも、移動できるものはたいてい時間名詞に限られる。副詞や形容詞はたいていは移動できない。とりわけ単音節のものはそうである。例えば、“我早上就知道了”は、“早上我就知道了”と言うことができる。一方、“我早就知道了”は“早我就知道了”と言うことはできない。しかし“很早我就知道了”と言うことはできる。

 反対に、文全体の修飾語が皆述語に移動して修飾成分になる訳ではない。例えば“関于”、“至于”を用いて構成される介詞構造は文全体の修飾語になるが、あまり移動させることはできない。時間を表す語句の位置は、比較的融通が利くが、次のような文では、文全体の修飾語に留めておくのがふさわしい。
   (10)在1986年9月22日,新疆部分地区可以看到日全食,上海什麼也看不到。

  いくつかの修飾語は、文頭に置くこともできるし文中に置くこともできるが、表現する意味は異なる。例えば:
   (11)幸而他来了,要不然我們要迷路了。
   (12)他幸而来了,要不然他一個人要迷路的。

                      二 提示成分とその機能

  二つの詞、或いは詞組が指すのが同一の事物で、それらが組み合わさって一つの言語単位になるもの、例えば“五一節那天”、“中国的首都北京”、“中朝両国”、“雷鋒同志”、“你老王”は、前に説明した同位詞組である。また、“反封建的旗幟”、“先進集団的光栄称号”のような偏正詞組で構成される部分も同一の関係があり、前者の“的”は“這面”に変えることができ、後者の“的”は“這個”に変えることができる。このような同一性のものの組合せは、一つの単位として使用される。もし二つの詞や詞組が指すものが同一の事物であり、一つは文の中で文の一部となり、もう一つが文頭、或いは文末に置かれ、主語や述語の一部に属さない時、文頭、或いは文末のこの部分を提示成分と呼ぶ。提示成分には、二つの種類がある。

 (一)代詞復唱型(“称代式”)の提示成分
 代詞復唱型の提示成分は一般に文頭に置かれ、文中では代詞を用いてそれを指す。提示成分の後ろは、明らかに語気の停頓、ポーズが入るので、文章では通常コンマ(,)やダッシュ(―)を用いて表示する。例えば:
   (1)国家的統一人民的団結国内各民族的団結是我們的事業必定要勝利的基本保証。
   (2)母親――是多麼親切、多麼偉大的名子啊!

 代詞復唱型の提示成分がたまたま文の後ろに倒置されることがある。例えば:
   (3)我們常常想念敬愛的胡老師

(二)全体+部分型(“総分式”)の提示成分
 文頭の提示成分は、全体の説明をし、文中にはそれに呼応する部分的な説明部分がある。部分的な説明の部分は、クローズ(節、分句)の主語となる。これが全体と部分の提示成分である。このような提示成分の後ろには、一般に音声の停頓(ポーズ)があり、書面ではコンマ(,)やコロン(:)を使って表す。常に“的”を使った構造、或いは“一個”などを使って部分的な説明をする。例えば:
   (4)全村農民有的在割麦,有的在挿秧,有的在従事別的労働。
   (5)姚志蘭和呉天宝一個是電話員,一個是火車司机。
   (6)婆媳二人儿媳頂個全労働力,婆婆一日不閑。

 文によっては、部分説明の部分は一つしか出てこない。例えば:
   (7)参加這項科研工作的人年紀軽的占百分之七十。

  また、文によっては提示成分が部分説明の部分で、文末、文中に分けて説明しているものが全体の説明部分に相当する。例えば:
   (8)文科有五個系中文歴史哲学経済新聞
   (9)這里有三種人同意的反対的中立的

  “××説”がいくつものクローズ(節)の先頭に置かれるのも、一種の提示成分である。

 提示成分の主要な機能は文の条理を明確にすることである。文の前方には音声の停頓(ポーズ)があり、また文中で代詞やその他の相応する詞で再提起(“復指”)するので、表現する事物がたいへん強調される。時にはこうした句式を採用することで明らかに語気が活発になり、意味が明確になる。例えば例(2)がそうである。文によっては、こうした句式を採用することで、文がだらだらしたり(“拖沓”)、くどくなったり(“累贅”)するのを防いでいる。

  意味を正確に、綿密に表すため、修飾語が長くなってしまうことがあるが、修飾語が長過ぎたり複雑になると、文がだらだらしてくるので、一定の条件下で、提示成分を用いて長い修飾語に取って替えるのは、良い方法である。例えば:
   (10)你怎麼能随随便便把農民辛辛苦苦種出来的糧食糟踏了呢?

 この文は“農民辛辛苦苦種出来的糧食,你怎麼能随随便便把糟踏了呢?”に変えた方が良い。

 提示成分は主述詞組であってはならない。さもないと、複文の中のクローズ(分句)になってしまう。例えば:
   (11)新生的必然代替腐朽的,這是自然界発展的規律,也是社会発展的規律。
   (12)調査有両種方法,一種是走馬看花,一種是下馬看花。
・走馬看花[成語]馬を飛ばして花見をする。大ざっぱに物事の表面だけを見るたとえ。
・下馬看花[成語]馬から降りて花を見る。じっくり観察し、調査、研究するたとえ。

 上の例(11)、(12)は、意味の上では文全体の提示ではあるが、主述詞組なので、ここで言っている提示部分とは文法的には異なる。 

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3つ目の独立成分については、次回に説明します。


 【出典】胡裕樹主編《現代漢語》重訂版・上海教育出版社1995年


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