中国語学習者のブログ

これって中国語でどう言うの?様々な中国語表現を紹介します。読者の皆さんと一緒に勉強しましょう。

北京史(三十九)清代(1644-1840年)の北京(1)

2024年01月31日 | 中国史

清摂政王ドルゴン

第一節 北京、清朝の都城

 1644年(大顺永昌元年)430早朝、李自成は農民軍を率いて北京から退却した。城中に留まっていた明の御史曹溶が直ちに逃げ出し、自らを西城巡視に任じ、崇禎帝の位牌を祭る都城隍廟を設立した。彼は他の明朝の官僚と一緒に臨時管理機構を立ち上げ、まだ北京城から退却していなかった農民軍兵士を虐殺した。53日、清の摂政王ドルゴン(多尔衮)が清の兵士を統率して北京に入城し、多くの明の官僚が清に投降した。これと同時に、三河県(北京市と天津市の間の河北省の飛び地)では人々の髪を剃る(薙髪(ちはつ)。漢族に辮髪を強制すること)のに反対する抗清闘争が爆発した。

 漢民族の官僚地主を籠絡するため、ドルゴンは、およそ明朝の在京の内閣、六部、都察院などの役所の官吏は全て元の役人と満州族の役人が一体となり事務を行うよう命令を発した。彼は前後して明の吏部左侍郎・沈惟炳ら、一群の漢族官僚を登用し、明の廃大学士・馮銓(ふうせん)を召集し、清の内三院大学士にした。ドルゴンは北京に満州貴族の支持の下、満州族と漢族の官僚が共同で統治する清政権を打ち建てた。

 清朝廷は、明の崇禎皇帝のために喪を発し、崇禎帝の諡(おくりな)を懐宗端皇帝(後に庄烈帝に改めた)とし、明朝の臣民に代わって「君父の仇」に報いなければならないと宣言した。これは清朝廷が山西、陝西の大順農民軍(李自成の勢力)を進攻し、内地を占領するために作った政治的輿論である。

 9月、幼年の清朝第3代順治帝は瀋陽から北京に到着した。10月、「鼎を燕京に定める」、すなわち北京を清朝の首都にすると宣言した。

 山西、陝西農民軍の抗清闘争が失敗して後、清軍は南中国を統一する長期の戦争を開始した。1664年(康熙3年)8月になって、清軍は大順軍の最後の拠点、鄖陽(うんよう)茅麓山(湖北省十堰市一帯)を攻め落とし、また南明(16441662年、北京陥落後、明朝宗室が南方で樹立した政権)の抗清将帥張煌言を浙江省定海山中で捕虜にし、農民軍と南明諸王の反清武装勢力はようやく完全に鎮圧された。康熙帝(16611722年)から乾隆帝(17361796年)の時代まで、清朝廷は主に蒙古族ジュンガル(准噶尔)部に対する戦争の勝利を通じて、より一層中国の多民族国家としての地位を強固なものにした。

 国内情勢の進展に伴い、北京は、中国全土の中で、日増しに重要な地域になった。北京は中国の各民族との連係を維持する政治的中心であり、同時に清統治者が幅広い人々を管理する拠点であった。北京はこれまでの多くの王朝に比べても、より一層漢族と他の民族との経済、政治、文化での往来や協力を発展させた。1652年(順治9年)と1780年(乾隆45年)、ダライ・ラマ五世とバンチェン・ラマ六世が前後して北京に来、チベット族が中国全土の統一を擁護するという確固たる願望をもたらした。ダライ・ラマは清朝廷から「西天大善自在佛領天下釈教普通鄂済達頼喇嘛」に封じられた。清朝廷は北京にダライとバンチェンが行幸中に北京に一時滞在するため、西黄寺を建立した。バンチェンが北京で逝去後、「清浄化域」塔が建立された。清朝の皇室と長い間婚姻関係にあった蒙古の王公貴族はしばしば北京に来て、ある者は長期間北京に住み、清朝廷は彼らに親王、郡王、貝勒、貝子などの爵位を与え、また北京に彼らのために多くの壮麗な屋敷を建造した。北京城郊外の多くのラマ教寺院、いくつかの西域風の建築物も、清朝初期の各民族の政治、宗教上の連携の密接さをあらわしている。モンゴル商人は毎年たくさんの毛皮などの商品を持って北京に来て販売し、他の少数民族の商人も北京で交易活動を行った。清朝廷は少数民族の往来、交易を促すため、北京徳勝門外に彼らの積荷を保管する倉庫(貨栈)、「馬館」を設立し、関税、商業税を軽減した。漢民族の多くの手工業品や農産物、例えば絹織物、薬材、鉄器、陶磁器、茶葉などは、北京やその他の地方から少数民族の住む土地に運ばれた。北京の国子監では各民族の子弟が勉強した。漢民族と各少数民族の生産経験は、常に北京で相互交流が行われた。こうした政治、経済、文化活動は、各民族の関係が日増しに緊密となり、この多民族統一国家が日増しに強固になっていくことをはっきりと説明していた。

 当時、北京城郊外で各民族が雑居している様子は、この統一多民族国家の縮図であった。北京地区の住民はもともと漢民族、モンゴル族、回族、及びその他少数民族を含んでいた。清軍の入関後、北京には数十万の満州族の住民が増加した。満州八旗、蒙古八旗、漢軍八旗、及び八旗中の朝鮮族、ベトナム(越南)族旗丁(漕運担当の兵士)が北京の各地に分布していた。東城一帯に住むモンゴルの王公貴族は多くのモンゴル族のラマ僧を連れて来た。これらのラマ僧、チベット族のラマ僧、漢族のラマ僧は一緒に北京のいくつかの寺院で暮らし、経典を唱えて修行し、仏事を行った。北京近郊の農業従事者は主に漢民族であった。北京城内で暮らすのは、大小の官僚の他、かなりの人数の漢族商人、工房主、手工業者、露店商、工員、そして貧民であった。回族の人々は城内で主に飲食業などを営んでいた。前門外には漢族、回族などの手工業者や商人が集まっている所であった。康熙時代(16621722年)に中国にやって来た一部の俄羅斯族(ロシア人)は、城東北角の東正教会付近に集まって住んでいた。北京に住み、全国各地から北京にやって来た各民族の人々は、北京のこの時期の経済、文化を発展させた。例えば、北京城内外に分布する壮大で美しい建築物、七宝焼き(景泰藍)、琺瑯、象牙彫刻など精巧な特殊手工芸品、上流階級の生活を描いた小説『紅楼夢』、各種の農業技術など、これらは中国内のみならず、世界文化史上でも、重要な地位を占め、独特の風格を帯びていた。18世紀前後の北京は、世界最大にして最も美しい都市のひとつであった。

第二節 清初の民族弾圧と北京の人々の反抗闘争

 ドルゴン(多尔衮)は78日に次のような命令を下した。「順治元年(1644年)より、およそ正規の金額以外の、一切の増税、例えば遼餉(りょうしょう。明末、後金が侵入し、遼東の戦況緊迫で、軍糧不足に対し銀を徴収)、剿餉(そうしょう。明末の農民蜂起対応で不足する軍糧に対し銀を徴収)、練餉(明末の農民蜂起等社会不安対応で増強する正規軍訓練のための軍糧に対する銀の徴収)、及び商人を呼び寄せて、米、豆を買い付けさせる行為からは、尽く免除されるようにする。」明王朝の苛酷な政治は廃除され、各地に住む人々のこうした重い税負担から解放されたが、北京地区は、満州貴族、役人、八旗の兵士が大量に集まっていたので、清朝廷は絶えず北京近郊の漢族や少数民族の人々の家屋や土地を囲い込んで占拠し、土地や家の囲い込みの過程で満州貴族を保護し、各民族の人々を弾圧する制度を確立した。こうして北京地区の社会生産を著しく破壊し、北京の人々の絶えざる反抗を引き起こした。

清統治者による北京近郊(近畿)の土地囲い込み(圏地)

 清朝廷の家屋や土地の囲い込みは、清軍が北京に入った翌日から始まった。この日、ドルゴンは内城に住む漢人に三日以内に外城か他の土地に引っ越すよう強制し、内城を八旗の駐留地に区分けした。(八旗は清朝軍事力の中核となった独自の軍事・行政・社会組織。軍編制の色別旗に黄・白・紅・藍の4色を用い,それぞれに正旗(縁取りのない旗),鑲旗(じょうき。縁取りをした旗)の2種があり,8旗とした。)鑲(じょう)黄旗は安定門内に住み、正黄旗は徳勝門内に住む、何れも城北である。正白旗は東直門内に住み、鑲白旗は朝陽門内に住む、何れも城東である。正紅旗は西直門内に住み、鑲紅旗は阜成門内に住む、何れも城西である。正蘭旗は崇文門内に住み、鑲蘭旗は宣武門内に住む、何れも城南である。これより、内城は八旗兵営と満州貴族の屋敷で埋め尽くされ、ただ一部分、八旗の兵営から比較的遠くに住む住民と野菜農家、露天商などは内城の元の住所に留まった。これら引っ越さなかった漢人は後に外城の多くの住民と共に満州貴族からの新たな掠奪に遭った。満州貴族やその走狗は、城中で建屋や土地を強制的に占領する時に極めて横暴、狂暴で、順治17年(1660年)刑部尚書の杜立徳の上奏によれば、彼らは「或いは園地を強制的に占拠し、野菜や苗を着服、占領した。或いは家屋を取り壊し、壁や建屋を取り除いた。或いは墓地を奪い、塚を破壊し民に災いをもたらした。……或いは調度品や人々の日用品といった細々としたものまで掠奪し、民を追ってゆすりや賄賂の要求をし、それも一度だけのことでは無かった」。当時、張立という名の野菜農家があり、彼は光禄寺より遣わされた者に野菜農園と家屋を無理やり占拠されただけでなく、家の中の薪、糞便、ミツバチの巣箱、鉄鍋、井戸の蓋、犬まで皆彼らに取り上げられ、しかも更にひどく殴られた。

清代北京城八旗分布

 満州貴族と八旗旗丁に占拠し強奪された土地を一定の区域に制限するため、164412月、清朝廷は漢族官僚、柳寅東の建議を採用し、近郊5百里内(直隷北部と内蒙古の一部分)の土地を囲い込んだ。何度かの囲い込みを経て、清朝廷は全部で159千頃(1頃は6.6667ヘクタール)余りの土地を囲い込ん(圏占)だ。そのうち57百頃余りは皇室の荘園とし、133百頃余りは諸王の宗室の荘園とし、1412662畝は八旗旗丁の壮丁(満30歳になり兵役に就く年齢の男子)の土地とした。北京近郊の大興、宛平の域内で囲い込みされた土地は58百頃余りに達し、両県の土地総面積の80%以上を占めた。

 囲い込みをされた土地のありさまは、たいへん悲惨であった。満州族の役人は皇帝と戸部の命令を奉じて、各村に行き、囲い込みした土地を測量し、馬で駆け回った(姚文燮『雄乗』巻上「凡そ民地を囲い、天子の命令を請う。戸部は満州族の官吏と主管部門の官吏を派遣し、下級役人、撥什庫(官吏名。満州語)、甲丁といった役人を率い、やってきた村では田畝を検分し、二騎の馬の前後で、連れて来た部下に縄を配って測量、記録させ、四方を調べ、合算する。囲い込み地毎に全部で数百十响(きょう)。壮丁1人に5响与え、1响は6畝(ほ。1畝は6.667アール、1/15ヘクタール)である。「响」とは1本の縄を折り曲げて作った方形の広さで、この方法は弓を使う測量より手早く測ることができた。」)時、村中の農民は外の囲い込みされた土地から銅鑼の音や怒鳴り声が聞こえてくると、ひとりひとりがたいへん驚き慌て、泣いても声にならなかった。囲い込みが定まって後、農民は直ちに村から追い出された。農民は土地と家屋を失い、大部分が生活の術が無かった。清朝廷は遠くの土地を彼らに耕作するよう指示したが、一に道のりが遥かに遠く、引っ越し費用が欠乏し、二に指示された土地は尽く「アルカリ土壌の痩せた土地の村」や荒地で、農民はそこに行ってもすぐには定住して就業することができなかった。多くの老人や身体の弱い者は、村からあまり遠くないところで餓死者となり、道端で倒れてしまった。逞しい農民は飢餓に迫られ、到るところで反抗し、蜂起した。

 近畿と直隷の一帯はしょっちゅう水害、旱魃の災害が発生したが、こうした自然災害の人々への脅威も、土地囲い込みのひどさには遠く及ばなかった。1654年(順治11年)戸科給事中の周体観の題奏(上奏)によれば、当時直隷の各受災地区では大量の被災民が餓死し、その中の89割が囲い込み地が最も多かった順天、永平、保定、河間等4府であった。まだ囲い込みをされていないか、囲い込み地のたいへん少なかった真定、大名等4府は12割を占めるに過ぎなかった。題奏によれば、餓死者は「もとより凶作によりもたらされたものだが、実に久しく土地を囲い込まれ占拠された民と未だ土地を囲い込まれ占拠されていない民では天と地ほどの差があった」。こうした状況は、囲い込み地が漢族の農民の大量の流浪と死亡をもたらし、北京地区その他の土地を囲い込まれた府州県の農業生産を直接破壊したことを非常に具体的に説明している。「離散が世間に満ち溢れ、死体が山も谷も埋め尽くした」、これは他でもなく、周体観が当時の近畿一帯の有様を描写した一幅の悲惨な絵図であった。

皇庄、王庄と旗地

 順治年間(16441661年)、近畿一帯の土地に設けられた皇庄(皇族の荘園)は、全部で132ヶ所あり、それぞれに荘園を管理する撥什庫と庄頭が設けられ、庄丁の生産を監督し、庄丁は食糧作物の生産以外に、養蜂、綿花栽培、藍栽培も行った。満州貴族は自分の荘園の中にも同様に撥什庫と庄頭を設置した。八旗旗丁はひとりひとりが各々30畝(2ヘクタール)の土地を得て、また清朝政府から兵士と、給与の食糧もしくは銭を受け取った。

 入関(北京入城)以前、満州貴族は大封建地主で、同時にまた大量の奴隷を保有し、当時の八旗制度は、封建的な組織と残余していた奴隷制の組織が結合したものだった。入関後、彼らはこうした社会体制を北京地区にもたらし、満州貴族、庄頭と庄丁との関係も、こうした遅れた封建組織の性質を反映したものだった。例えば清朝廷や満州貴族が指名し派遣された庄頭は、自分たちは信任され、取り立てられた下僕だと考えた。彼らは自分たちの主人の権勢を頼みとして、庄丁を農奴として使役した。庄丁は土地を耕さなければならないだけでなく、銀租と現物租を納入し、それ以外に各種の重い労役を負担しなければならなかった。彼らは土地を離れることは許されず、さもないと「逃人」とされ、庄頭に逮捕された。これら庄丁は、一部は満州貴族が関外から連れて来たもので、その中の多くが、清軍が明の崇禎年間に4度入塞した時に、河北、山東などから攫(さら)って来られ、一部は北京近郊で貴族の庄頭によって強制的に八旗軍の下で奴隷とされた漢族の農民であった。こうした庄丁は搾取やいじめに耐えられず、しょっちゅう逃亡やサボタージュを行った。そのため、満州貴族も周辺地域の租佃(小作)制度の影響を受け、少しばかり庄丁の待遇を改善せざるを得なくなり、また漢族の農民で荘園に来る者を吸収し、小作農(佃農)とした。

 八旗旗丁は満州貴族と異なり、彼らは囲い込み地の中からいくらも利益を得ていなかった。清朝廷は八旗で体力のある旗丁は兵隊を職業とすると規定し、「壮丁地」を耕作するのは、彼らの家族、随従と兵隊になることのできない旗人だけであった。こうした人々は、農業生産の習慣が無かったり、八旗兵に従って出征したりするので、しばしば土地を荒れるに任せ、耕作を行わなかった。康熙11年(1672年)都察院の上奏によれば、満州兵丁は土地を分配されたが、数年来収穫が上がっていない。命を奉じて出征するに、必ず随行しなければならない人々は、耕作の業を失するに到り、しばしば土地を見捨てて顧みず、ひとたび旱魃、洪水に遭えば、また部隊は口糧を与えなければならない。多くの旗丁は付近の農民に土地の耕作を強要したり、土地を彼らに貸して、自分は坐して地租を受け取った。旗丁の経済的地位は間もなく分化し、貧しい旗丁は、後に売買を禁じられた旗地を一区画一区画と、こっそり漢族地主に売り渡してしまった。


北京史(三十八) 第六章 明代の北京(16)

2024年01月21日 | 中国史

八達嶺長城

長城と居庸関

 万里の長城の修築は戦国時代に始まった。当時、各国は分裂して雄を称し、強が弱を凌駕(りょうが)し、衆が寡を暴き、領土兼併の戦争が已まず、このため互いに防御を行うための土木事業として、長城が各国の辺境に出現した。斉、楚、魏、燕、趙、秦などの大国が長城を築いただけでなく、たとえ小国の中山国でさえも長城を築いた。これらの長城は、各国がお互いの防御のために用いただけでなく、一部は匈奴の侵入を防御するためにも用いられた。これは燕、趙、秦北部の長城の場合である。この当時、燕、趙、秦の北部は匈奴と境界を接していて、しばしば匈奴の騎馬隊の侵入、攪乱を受け、たいへん苦悩していた。このため北部に長城を修築せざるを得ず、それによって防御していた。紀元前221年秦の始皇帝が中国全土を統一し、その他の長城は悉く取り壊されたが、引き続き匈奴の侵入を防御する見地から、蒙恬(もうてん)が燕、趙、秦北部の長城を繋ぎ合わせ、修理し、合わせて一本の長城にさせた。西は臨洮(りんとう。今の甘粛省岷県)から東は遼東に至り、長さは万余里に達した。ここから、長城は中国北部の土地の上に巍然(ぎぜん)と聳え立った。

 秦の始皇が築いた長城は、上は燕、趙、秦の長城の旧を承け、下は歴代の長城の基に立ち、後世への影響はたいへん大きかった。この後、両漢、北魏、北斉、北周、隋、明などの王朝が、長城に対して大きな徭役を興し、その中で漢、明両王朝での規模が最も大きかった。その他の王朝では長城の一部を修繕するにとどまり、漢代は長城の西を敦煌付近の玉門関と陽関まで開拓し、明代は長城全体を修理し、多くの区域について完全に新たに修築した。

 明朝は大いに長城を築いたが、その目的は北部のモンゴル勢力とその後に蜂起した東北の女真政権を防御するためだった。明朝は開国の第一年、すなわち1368年、朱元璋が大将軍徐達を派遣し、居庸関などの長城を修築した。この後各皇帝が数度に亘って長城を修理し、2百年余りの時間をかけ、ようやく明の長城の全部の工程が完成した。この長城は西は嘉峪関を起点に、東は鴨緑江に至り、全長127百里余りであった。そのうち、山海関から鴨緑江に至る区間は、工事が簡素であったため、今では崩壊が甚だしくなっている。山海関から嘉峪関に至る区間は、工事が堅牢にできており、今日まで比較的良く保存されている。

 明代は中国史上、長城を修築した最後の王朝であった。秦の始皇帝の時代の長城は破棄されて久しく、その遺跡は既に捜すのが困難である。現在私たちが見ることのできる長城は明代に築かれた長城である。

 万里の長城は、中国古代の各民族の統治集団が北方で対立、対抗した結果の産物で、ある時期には中原地区の統治者が北方の遊牧民族の侵入、攪乱を防御するための防御工程であった。これは中国史上、堅牢で壊すことができない民族間の砦(とりで)であり、(本来の意味での)中国北方の国境ではない。中国が多民族統一国家として発展するに伴い、各民族間の関係は日増しに密接になり、長城は次第にその役割を終息させていった。

 居庸関八達嶺付近の長城は、明代の長城の中でも代表的なものである。この区間の長城は高く大きく堅牢で、城壁の表面は、長方形の石板が積まれ、内部は土と砕石が詰められ、頂上面は方形のレンガが敷かれ、平均の高さが約7.8メートル、頂上面の幅が5.8メートルで、五匹の馬を並んで走らせることができた。城壁の上の凹凸の突き出た部分(垛口。胸壁ともいう)の壁の高さは2メートル近くで、その壁の一つ一つに見張り穴と射撃口が設けられていた。城壁の峰の険要や曲がり角んぽ地点には、全て高さの異なる「堡塁」が設けられ、壁に凹凸がある以外に、高い地点の堡塁は敵楼と言い、兵士が見張りをし宿営する場所で、低い地点の堡塁は墙台と言って、兵士が巡邏(じゅんら)し歩哨を置く場所であった。城壁の外側の付近の山や丘の上、或いは遠くがよく見える場所には、更に狼煙(のろし)台(烽火台、烽燧、墩台、烟墩、狼烟台)が設置され、日中には煙を挙げ、夜間は点火し、辺境警備の情報伝達を行った。

八達嶺烽火

 居庸関と八達嶺付近の長城は全て山に依って築かれ、その工事はたいへん困難であった。八達嶺長城で発見された明の万暦10年(1582年)長城修築の石碑の記載によれば、当時長城の修築は軍の下士官と民間の人夫が区域を分けて請け負う方法が採用され、工事をした軍士、民夫は905名、請け負った長城の長さは333寸(11メートル)、高く連なる城壁の凹凸の突き出た部分(垛口)は23尺(7.5メートル)。7月中旬から10月中旬まで、3か月の期間を経て、ようやく完成した。その工事の進展が容易くなかったことは、推察できる。

 明代の長城の沿線には多くの著名な険しい関門(険関)、山間の要害の地(隘口)があり、居庸関はその中のひとつである。『呂氏春秋』と『淮南子』は何れもこう言っている。「天下の九塞、居庸はその一なり」。漢、唐でも居庸に関が設けられた。その後、各時代にたびたび建立、設置され、或いは西関と称し、或いは軍都関と称し、或いは納款関と称し、名称はひとつではなかった。(『昌平山水記』巻上)現在の居庸関1368年(明洪武元年)大将軍徐達が建設した。(劉效祖『四鎮三関志・建置考』)

 居庸関関城は一本の長さ約40里(20キロ)のでこぼこした(崎岖)峡谷の中間に建築され、この峡谷の名は関溝と言い、華北平原が蒙古高原に通じる唯一の近道(捷径)である。これは南から北へ、その間に南口、居庸関関城、上関、北口(八達嶺)などの関城が分布している。広義の居庸関は、峡谷全体を指して言う。狭義の居庸関は、単に居庸関関城の所在地だけを指す。

 居庸関関城は、南は南口から15里離れ、北は八達嶺から20里離れ、山を跨いで築かれ、南北に二門あり、その上には明の景泰年間(14501457年)に題記された「居庸関」の三文字の石の扁額が嵌め込まれている。南口から上ると、両側の山壁が立ち、中を一本の道路が走り、両側は皆幾重にも重なり合った山々(重岭叠嶂)で、日光を覆い隠すので、この関は古来より絶険と呼ばれた。明朝はここに参将、通判、掌印指揮各1名を設置して守らせ(扼守)、また巡関御史1名を設置し、居庸、紫荊の二関を往来して監視(按視)させた。

 居庸関は険要(地勢が険しい)とは言え、1644年(明崇禎17年)李自成の蜂起大軍が柳溝から居庸関に前進(進抵)し、明将の唐通は戦わずに降り、居庸関はその険要を失い、李自成はそこで長躯北京に入った。

 居庸関が有名な所以は、その地勢が険要であるだけでなく、その風景が秀美なことによる。毎年春夏になると、草木が青々と茂り、様々な花が咲き誇り、緑が幾重にも重なり合い、美しい景色が山に満ちている。このため、金代以来、「居庸叠翠」が燕京八景のひとつになった。

 とりわけ指摘する価値があるのは、居庸関関城の雲台である。この台の上には元々三基の石塔があった。1345年(元の至正5年)に建てられ、名を過街塔と言った。後に三塔は破棄され、台上に一寺が建立された。この寺は1439年(明の正統4年)の再建を経て、「泰安寺」の名を賜ったが、清の康熙年間(16621722年)に火災で焼失した。現在の雲台は全て漢白玉の大石を積み上げた、アーチ門(券門)の通路のある石台である。アーチ門の内側の石壁の上には四大天王像が彫刻され、造形が活き活きし、まるで飛び出さんばかりである(跃然欲出)。石壁の上には梵語、漢字、チベット語、パスパ文字、ウイグル文字、西夏文字など6体の文字でダラニ(陀羅尼)経が刻まれている。雲台は重要な芸術価値のある元代の建築遺跡である。

居庸関雲台

居庸関雲台・四天王像レリーフ

居庸関雲台ダラニ経彫刻

 八達嶺関城は峡谷の最高点に盤踞し、高きに居て下を臨み、守りやすく攻めにくく、地勢は極めて険峻である。うち一か所の懸崖の上に、「天険」の二文字が穿たれている。関城は1505年(明の弘治18年)修築が始められた。(『四鎮三関志・建置考』)東西に二門有り、その上には何れも石の扁額が付いていて、東門は「居庸外鎮」と題され、西門は「北門鎖鑰」(軍事上重要な場所)と題されている。八達嶺から居庸関を見下ろすと、井戸の中を覗くかのようで、それゆえ古代から人々は「居庸の険は関城に在らずして八達嶺に在り」と称した。八達嶺を守ることは、それゆえ居庸関を守ることで、このため、元代にはここに千戸所を設け、明代にはここに守備を設けたのだ。


北京史(三十七) 第六章 明代の北京(15)

2024年01月18日 | 中国史

十三陵

 北京昌平県北天寿山の麓に、明朝の13人の皇帝の墳墓が分布し、十三陵と称する。明代には16人の皇帝がいたが、開国の皇帝、朱元璋が南京孝陵に葬られ、建文帝朱允炆(しゅいんぶん)が「靖難之役」の中で亡くなった場所が分からず、景泰帝朱祁钰(しゅきぎょく)は帝号を削られ、死後は王礼に依って北京西郊の金山に葬られた。それ以外の13人の皇帝は、均しく昌平県北天寿山の麓に葬られた。十三陵とは、長陵、献陵、景陵、裕陵、茂陵、泰陵、康陵、永陵、昭陵、定陵、慶陵、徳陵、思陵である。

 明の成祖朱棣(しゅてい)は皇位を取得して以後、鋭意北京に遷都し、1407年(永楽5年)7月皇后徐氏が亡くなり、人を遣って北京で陵地を選定するのに、諸山を遍歴させ、「吉壌」(風水の良い墓地)を捜した。最後に「地理術人」(風水師)廖均卿(りょうきんけい)が昌平県北黄土山に「吉壌」を得、朱棣が自ら現場に赴き決定をし、遂に黄土山を天寿山に改め、1409年ここに陵墓の造営を開始し、1413年(永楽11年)完成を告げ、名を長陵とした。皇后の徐氏は先に南京に葬られていたが、この年南京から長陵に改葬された。1424年(永楽22年)7月、朱棣は北方へ遠征し、北京に凱旋の途中、楡木川(今の内蒙古多倫県の域内)で亡くなり、12月に長陵に葬られた。この後、その子孫が継承し、皆陵墓を長陵の左右に造営し、明朝末年までに、全部で十二陵が揃った。

 明滅亡後、更に思陵が出現し、遂に十三陵が形作られた。思陵だけが西南の一隅にあり、他の陵とは隔絶して見えない。ここは元々朱由検(16代崇禎帝)の妃の田氏の墓であった。1642年(崇禎15年)田貴妃が亡くなり、ここに葬られた。朱由検は即位し、陵墓の地を選定しようとしたが、天寿山にはもう選定する土地が無く、それとは別に遵化に営陵する建議があったが、まだ実施していなかった。(『帝陵図説』巻31644年李自成が北京を攻め落とし、朱由検は煤山(今の景山)で首をくくって死に、皇后の周氏は宮中で首をくくって死んだ。李自成は彼らを田妃の墓の中に葬るよう命じたので、元昌平の小役人だった趙一桂らが金を集めて墓作りを開始し、田妃を右に移し、周皇后を左に置き、朱由検を真ん中に安置し、よもぎを刈って土を封じ、慌ただしく墓を完成させた。清朝は入関(山海関内に入って)後、この墓に追加工事をして陵にし、名称を思陵に改めた。

 明朝の埋葬制度では、一帝一后の合葬であった。例えば長陵には成祖朱棣と皇后徐氏が埋葬され、献陵には仁宗朱高熾と皇后張氏が埋葬され、景陵には宣宗朱瞻基と皇后孫氏が埋葬され、泰陵には孝宗朱祐樘(しゅゆうとう)と皇后張氏が埋葬され、康陵には武宗朱厚照と皇后夏氏が埋葬され、徳陵には熹宗朱由校と皇后張氏が埋葬された。しかし裕陵以後は、皇后が慣例通り合葬された以外、位を継いでから合葬する、又は皇帝が位を継いでからその生母或いは祖母を追尊してから合葬することになり、このため、それにつれ一帝二后合葬、一帝三后合葬という情況が生まれた。例えば裕陵には英宗朱祁镇と皇后銭氏、周氏(憲宗の母)が埋葬され、茂陵には憲宗朱見深と皇后王氏、紀氏(孝宗の母)、邵氏(世宗の祖母)が埋葬され、永陵には世宗朱厚熜と皇后陳氏、方氏(陳氏死後に立てられた皇后)、杜氏(穆宗の母)が埋葬され、昭陵には穆宗朱載坖(しゅさいき)と皇后李氏、陳氏(李氏死後に立てられた皇后)、李氏(神宗の母)が埋葬され、定陵には神宗朱翊钧(しゅよくきん)と皇后王氏、光宗の母、王氏が埋葬され、慶陵には光宗朱常洛と皇后郭氏、王氏(熹宗の母)、劉氏(崇禎帝の母)が埋葬された。思陵は特殊な情況で、崇禎帝朱由検と皇后周氏、妃の田氏が埋葬された。このように、十三陵には十三帝二十四后妃が埋葬されている。

 明初、宮妃従葬の令が出され、およそ皇帝死後、諸妃は従葬させるよう強制された。長陵にはいわゆる東西二井があり、東井は徳陵の東側、西井は定陵の西北にあり、すなわち朱棣の十六妃が従葬された場所であった。従葬者の墳墓はと称した。これは墓穴があるだけで、隧道が無く、棺桶は上から直下に降ろされ、井戸に降ろされるのと同じだからである。このような人を殉葬させる制度は、英宗の末年になってようやく廃止された。この後、諸妃嬪は天寿を全うすると、各々その墳墓があり、あるものは数人、十数人が一つの墳墓に合葬され、多くが北京西山、金山に埋葬され、また天寿山の陵墓地区内に埋葬されたものもあった。

 十三陵の建築には、膨大な体系があった。陵区全体の周囲は40平方キロ、周囲には中山口、東山口、老君堂口、賢庄口など10の関所(関口)があり、各々の関所の間は全て囲い壁(垣墙)でつながれ、陵区全体が囲われていた。陵区の南端及び西南端には、大小の赤色の門が建てられ、そこから出入りできた。しかし、これらの建物は現在はもう残っておらず、その残跡が見られるだけである。

明十三陵陵区地図

 昌平から北に行き陵区に到ると、五架六柱6本の柱の上に5つの小屋根が掛け渡された)の白石坊(石牌坊が一基あり、一色の漢白玉で作られ、1540年(嘉靖19年)に建立された。

石牌坊

更に北に行くと大紅門に到り、門は三洞に分かれ、門外の両側にはそれぞれ下馬碑が一基あり、その上には「官員らはここに至り下馬す」と刻まれている。

大紅門

門を入って中に行くと一本の長い神道があり、南から北へまっすぐ長陵に到達し、その上には一連の帝王の尊厳を表す建物が聳え立っている。先ず、出迎えてくれるのが、大きな碑亭があり、二重の庇が四方に出て、中にアーチ型の碑(穹碑)があり、龍頭亀趺(頭部に龍が刻まれ、足元には石亀が置かれる)、その上には「大明長陵神功聖徳碑」と題されている。碑文は仁宗朱高炽が洪熙元年(1425年)に撰し、碑の実際の建立は宣徳10年(1435年)であった。十三陵では長陵と思陵の碑亭の碑にだけ文字が刻まれ、その他の諸陵の碑亭には文字の刻まれていない碑が立っているだけである。碑亭の北側には一群の石像が置かれ、その内容は石人が12体(勲臣4、文臣4、武臣4)、石獣が24体(馬4、麒麟4、象4、駱駝4獬豸かいち。麒麟に似ているが、身体は牛に似る)4、獅子4)で、それぞれ神道の両側を挟んで侍している。これらの石像は宣徳10年に立てられ、一個の大きな白い石を彫んで作られ、活き活きとして本物のようである。

十三陵神道石像群

石像の北には棂星門(れいせいもん)、別名龍鳳門があり、これは華表(宮殿や陵墓の前に建てられた装飾用の大きな石柱)の様な柱で組み立てられた三つの石門で、その構造は特異である。棂星門から北に行くと、七孔橋を経て長陵に到達する。

棂星門

 十三陵の各陵には、祾恩門、祾恩殿、明楼、宝城など、建物の構成は基本的に同じであるが、各陵の規模の大小、建物が豪華か簡素かの違いが存在する。長陵は規模が最大の陵墓であり、それに次ぐのが永陵、さらに定陵である。献陵、景陵は比較的小さく、思陵が最も狭小である

 長陵は陵門から祾恩門に到り、更に 祾恩殿に到り、次に明楼、宝城に到ると、全部で三重の構成(三進院落)となっている。宝城には城壁が築かれ、方形を呈し、別名を方城と言う。城壁の中は一つの大きな墳頭を取り囲んでいて、その直径は1018尺(約336メートル)。墳頭の下はすなわち地下宮殿である。明楼は宝城の楼閣で、宝城の上に盤踞(ばんきょ)し、これも方形をしている。中には墓碑が建てられ、その上には「成祖文皇帝之陵」と刻まれている。この碑は元の碑ではない。元の碑は仁宗が建て、「大明太宗文皇帝之陵」と題されていた。嘉靖帝の時、太宗を成祖と改めたが、まだ新たな碑は立てられず、木に「成祖」の二文字を刻み、元の碑の上に嵌め込んだ。万暦年間に元の碑が焼損したので、別に新たな碑を立てたのが、現在の碑である。(徐学聚『国朝典匯』巻7)祾恩殿は祭祀を行う場所で、元の名を享殿と言った。1538年(嘉靖17年)、世宗朱厚熜がここに参詣し、この時から改名して祾恩殿と呼んだ。祾恩とは、陵墓を祭り、先祖の恩を感じ、福を受けるという意味である。祾恩殿は長陵の主要建築で、九間二重の庇の屋根で、黄色の瑠璃瓦に赤い壁で、総面積は1956平方メートルに達し、今の故宮太和殿と同じ構造をしている。木造の巨大建築で、使用された木材は全て香楠木(クスノキ)である。御殿内部には32本の楠木の柱があり、各柱は一本の木材で、とりわけ中央の4本が最大で、直径は1.17メートルに達し、大人二人で抱きかかえても、手を合わせることができない。この建物は、明代の建築物中でも最大の木造建築のひとつで、その迫力は雄壮で、現在の人々もこれを見ると嘆声を発する。この建物は1427年(宣徳2年)に建てられ、今日まで551年の時間を経ている。

長陵

 永陵の宝城の大きさは長陵に次ぎ、直径は81丈(約270メートル)である。永陵の祾恩殿も極めて雄壮で、二重の庇の屋根で七間、長陵と同じく楠の木造建築である。定陵は建築上極力永陵を模倣しており、祾恩殿も二重庇の屋根で七間である。永陵と定陵は規模の上では長陵に及ばないが、その建物の技巧の精緻で華麗なことは、長陵を上回っている。永陵で最も特色を備えた建造物は宝城で、全て花斑石(大理石の一種の、まだら模様の石)を積んで作られ、支えの木や板は一切使っておらず、「氷や鏡のようにきらきら輝き、ちりやほこりも残らない。長陵もこれに及ばない。」(王源『居業堂文集・十三陵記上』)定陵の明楼も全て石で作られ、一本の木も使われていない。残念ながら永陵と定陵の地上の建造物は皆捨て置かれていたので、祾恩殿はただ残跡だけが残され、保存され壊れていないのは明楼と宝城だけである。

 定陵の地下宮殿は1957年に発掘され、私たちに地下宮殿の謎を明らかにしてくれている。元々これは巨大な石の宮殿で、全体を大理石、漢白玉石と磚石(タイル)を積み上げて作られ、梁や柱は一本も無く、完全にアーチ(拱券)構造を採用していた。全体が前、中、後、左、右の五つの正殿から構成され、部屋と部屋の間は石門で隔てられている。石門は巨大で重いが、制作は精緻で巧みで、軸は厚く周辺は薄く作られ、開け閉めは容易である。各部屋の床には多くつるつるして摩耗に強い「金磚」(別名澄浆が敷かれ、後殿はつるつるに磨かれた花斑石が敷かれ、総面積は1,195平方メートルに達する。後殿の天井の最も高いところで高さ9.5メートル、その他の各殿は天井の最も高いところの高さ7メートル以上である。この地下宮殿は広く大きく、天井が高く、きらきら光沢があり、極めて壮麗で、中国古代建築芸術中の傑作と言って羞じないものである。

定陵地下宮殿

 十三陵の広大で精巧な建物は、人々の智慧の結晶であり、当時の優れた職人の高度な技術レベルを活き活きと記録している。しかし十三陵は人々の血や汗を使って作られ、人々が圧迫され搾取された歴史の証人である。

 昌平黄土山は別名康家庄と言い、明朝が皇帝陵をここに作るや、山を閉ざし墓をあばき、人々を悉くここから追い払った。(『帝陵図説』巻2)これより、各種の徭役、祭祀や必要な調査が次々と押し寄せ、人々は耐えられなくなった。例えば長陵の造営には、4年の歳月を要し、人夫や職人の徴発は山東、山西、河南、浙江などの布政司、直隷(今の江蘇、安徽地区)府州県と北京などの地に及んだ。定陵の造営は、6年の歳月を要し、毎日使役された軍人、職人、人夫は23万人を下回らなかった。たとえ比較的小さな景陵の造営でも、6か月の時間を要し、使役された軍人、職人、人夫は十万人余りに達した。また定陵が完成した時は、費用が銀8百万両に達した。(『明史・礼志・山陵』)慶陵着工の際は、スタートで銀50万両を使った。徳陵のプロジェクトでは、その中の橋を一本架けるだけで、銀20万両余りを消費した。また陵墓建設に用いる楠や杉の大木は、皆雲南、貴州、四川などの深山老林から伐採されたもので、陵墓の建設に用いる漢白玉、艾叶青(大理石の一種で浅い灰色、青みがかった灰色のもの)などの石材は、皆百里離れた房山大石窩で採取され、花斑石は河南省浚県普化山中で採取された。

 十三陵は明代には恐れ多い禁区で、人々はここに一歩たりとも立ち入ることができなかった。明朝の律令の規定により、凡そ勝手に山や陵門に立ち入った者は棍棒で百回打たれ、陵地に入り柴を拾い草を抜いた者は、辺境に流され兵役を課され、陵地内で樹木を伐採し、採石した者は斬殺に処された。

 然るに、現在の十三陵は、中国の人々のための園林となっている。その容貌は面目一新した。古い建築群の他、壮麗な十三陵ダムや肥沃な田園が加わった。勇壮な古い建築と大自然の湖の景色や山水が互いに引き立て合い、ここは旅人を惹きつける場所となった。


避暑山荘(その7)奇峰異石十大景

2024年01月13日 | 旅行ガイド

磬錘峰(けいすいほう)

 有名な承徳十大景は、避暑山荘と外八廟の周囲に広がり、あるものは近く武烈河のほとりにあり、あるものは遠く十数里外にあり、均しく天然に形成された奇峰異石であり、多種多様な姿をしている。人々はそれぞれ形状に基づき、様々なイメージの名前を付けた。例えば、磬錘峰、蛤蟆石、鶏冠山、僧冠山、羅漢山、元宝山、双塔山、月牙山、饅頭山などである。

 避暑山荘から東を望むと、先ず目に映るのが、 磬錘峰(けいすいほう)である。これは上部が太くて下部が尖っていて、形が棒槌(きぬた)のように倒立した奇峰で、俗に棒槌山と呼ばれる。この峰は崖のほとりにきわどく立ち、峰の頂には背の低い樹木が群生し、峰の腰部の岩の隙間には古い桑の樹が生えている。伝説ではこの桑の実(桑葚)はたいへん甘美で、食べると仙人になれる。この峰の最も古い記載は、北魏の地理学者、酈道元の『水経注』に見られる。「武烈水は東南に石挺を歴(へ)て下り、層巒の上に挺(ぬきん)で、孤石雲挙し、崖の危峻に臨み、高さ百余仞(ひろ。七尺、または八尺)になる可し。彼が言う「石挺」は磬錘峰のことである。峰の南に怪石があり、頭を昂げた鼓腹の青蛙にたいへん似ている。これが十大景中の 蛤蟆石である。

蛤蟆石

 東側の更に遠い群山峻嶺の中に、天橋山がある。山頂は南北に走る巨大な平台で、台の下は中空になっており、まるで雲の端に浮かぶアーチ橋のようである。牧童は雨に遇うと、いつも牛を追って「橋」の下で雨宿りをする。民間の伝説では、この橋は天に通じるとされ、それゆえ天橋山と呼ばれる。

天橋山

 避暑山荘東南の武烈河畔には、いくつもの峰が高く突き出ている(突兀而起)。その中の一峰は老僧が静かに座り、目を閉じ心を休めているようで、頭、胸、腹、臂がひとつひとつはっきりと見ることができる。これが羅漢山である。

羅漢山

ここから南を望むと、僧帽が頂を覆ったような形の高峰が見える。これが 僧冠山で、そこにはいつも雲霧がからみつき、山の峰が見え隠れする。

 鶏冠山は避暑山荘の東南数十里の外にある。山の頂は険しい峰が聳(そび)え立ち、高さがまちまちで、雄鶏の鶏冠によく似ている。満月が空に懸かる時、山の影を数十里外まで引きずり、「鶏冠掛月三千丈」、その景観は奇異で、たいへん見ものである。

山荘から西に行き、広仁嶺を越えると、滦河の水辺で流れがゆっくりになるところの丘の上に、二つの峰が抜きん出て突っ立っているのが見え、まるでふたつの塔が並立しているようだ。これが双塔山である。

双塔山

北側の峰の方が大きく、扇形をしている。南側の峰はやや小さく、丸い形をしていて、直径はわずか10メートル、高さは約40メートルである。ふたつの峰は共に上が大きく下が小さく、よじ登るのが困難である。南峰の頂上にはレンガ造りの建物が建ち、或いは廟、或いは塔であると言われている。清の紀昀の『閲微草堂筆記・滦陽続録』の記載によれば、乾隆の庚戌の年(1785年)、乾隆は人を遣って木を架けて梯子とし、山に上って実地調査をさせたところ、比較的大きな山の峰の頂の周囲は106歩、中に小屋があり、屋内のテーブルの上に香炉が置かれ、「中に石片が供えられ、「王仙生」の三文字が刻まれていた。」最近の調査によれば、峰の上の建物は遼代に建てられた墓塔で、塔の上の何層かは既に崩れているが、底層はまだ比較的完全に残っている。


避暑山荘(その6)外八廟(2)

2024年01月10日 | 旅行ガイド

普陀宗乗之廟

 

(三)普陀宗乗之廟と土爾扈特(トルグート)部の帰順

 普陀宗乗之廟は避暑山荘北側の獅子溝に位置し、土地は22万平方メートルを占め、外八廟の中で最大規模の寺院である。この寺院は乾隆が自分の60歳の誕生日と母親の80歳の誕生日を祝うため、命令を出してラサのポタラ宮に似せた様式に建造させたものである。乾隆は誕生祝いの際、モンゴル、青海、西北各地の少数民族の上層の人物が熱河にお祝いに来ることを考慮し、来訪者の大部分がラマ教の信徒であるので、ラマ教の聖地、ポタラ宮に似せてこの廟を建設した。普陀宗乗はすなわちチベット語のポタラ(布達拉)の漢訳である。乾隆の詩の中でいわゆる「普陀はもと遐(とお)きの人を撫(なぐさ)め、神道は誠にこれを相する有るを看る」(『普陀宗乗廟即事』)というのは、「神道教えを設く」を以て辺境地区の各民族を安撫するの意味である。

 普陀宗乗之廟は山勢に依って建ち、前部と中部は河谷と緩い斜面に築かれ、後部は高き山の巅(いただき)に盤踞し、宏偉(雄大)巍峨(高く聳え立ち)、たいへん壮観である。廟の前部はかなり整った漢式(中国式)建築で、主に黄色の瑠璃瓦で屋根の頂を覆いた方形の重檐(ひさし)の碑亭である。碑亭を北に往くと、極めてチベット族の色彩の濃い五塔門で、門の上には五基のラマ塔がある。

更に北に往くと、光華艶麗(光り輝き色鮮やか)な瑠璃牌坊(アーチ状の門。牌楼)である。牌坊は北に延び、20基余りの白台が、間隔が異なっているが趣があり、まちまちの高さで徐々に昇って行く斜面に設置されている。

更に北には、廟の中心の建物の大紅台である。大紅台の高さは43メートルに達し、正面の赤い壁の上には、上から下に向け6つの交互に黄色と緑の瑠璃瓦の仏龕(ぶつがん)嵌め込んで装飾され、最も上端の女児墻(城壁の上にある凹凸形の小さな壁)の上には更に瑠璃瓦の宝塔が嵌め込まれていた。

大紅台の四方には慈航普渡殿、洛伽勝境殿、千佛閣等の建物があり、中心には楼閣群より一段高い万法帰一殿で、建物のてっぺんの金メッキをした銅瓦がきらきらと光を発し、左右を照り映えさせている。

 普陀宗乗之廟は1767年(乾隆32年)に着工した。1771年(乾隆36年)の竣工時、ちょうど乾隆の母親の80歳の誕生日で、ここで盛大な宗教儀式を挙行し、皇太后のため祝福した。この時、トルグート部(土尔扈特)の人々数万人を率い、半年余りの期間、1万里余りの行程を費やし、祖国に戻った渥巴锡(ウバシ・ハーン)も、ちょうど承徳に到着したので、このことは乾隆をとりわけ喜ばせ、彼は万樹園で歓迎宴を催した他、更に万法帰一殿でこのために経典を唱え祝福した。普陀宗乗之廟の碑亭内の巨大な石碑に、満州語、漢語、モンゴル語、チベット語の四種の文字で乾隆が著した『普陀宗乗之廟碑記』と『土爾扈特全部帰順記』。『優恤土爾扈特部衆記』を刻んだ。前方の一基の石碑には廟宇建設の経緯が記載され、後方の二基の石碑にはトルグート部が祖国に戻った壮挙と清政府がトルグート部に同情した情況が記述された。

 

(四)須弥福寿之廟と班禅(バンチェン)六世の乾隆との朝見(覲見)

 

須弥福寿之廟

 須弥福寿之廟はチベットの日喀則(シガチェ)の扎什倫布寺(タシルンポ寺)の形式を真似て建てたもので、避暑山荘北側の獅子溝の、普陀宗乗之廟の東側に位置する。「扎什」とは福寿の意味、「倫布」は須弥山を指し、須弥福寿とは即ち福寿が須弥山のようだという意味である。

 1780年(乾隆45年)乾隆帝70歳の誕生日の際、各民族の王公貴族が熱河行宮に集まり、彼の長寿を祝った。事前に、班禅(バンチェン)六世が自ら求めて都、北京に赴き、「以て中国が黄教(ラマ教)を振興させ、万物を撫育し、国内を安寧にし、万物が静まり安らかな光景を見」て、更に避暑山荘に至って乾隆の長寿を祝った。乾隆はこれに対してたいへん喜び、そして命令を出し、バンチェンが暮らしている タシルンポ寺の形式を真似て廟宇を建立させ、バンチェンが経典を唱え仏法を伝え、居住する場所とした。

 バンチェンはラマ教の重要な指導者であり、モンゴル、チベット地区でたいへん高い声望を享受していた。バンチェン六世は熱河に来て乾隆に謁見し、疑い無く重要な政治的影響をもたらし、中央の朝廷とチベット地方の関係を強化し、民族の団結を維持するのに有利であり、それゆえ乾隆の特別な重視を引き起こした。17807月に、バンチェン六世は熱河に到り、乾隆は直ちに避暑山荘の澹泊敬誠殿で接見し、自ら茶や点心を賜り、チベット語でバンチェンと談話し、並びに金冊金印を賜った。翌日、乾隆は自ら班禅行宮、すなわち須弥福寿之廟に来てバンチェンを尋ねたが、これは極めて特殊な待遇であった。

 須弥福寿之廟は華麗で堂々としている。バンチェン六世が経典を唱え仏法を伝えた大紅台主殿、妙高庄厳殿は、屋根が二重の檐(のき)を持つ(重檐)とんがり屋根(攢尖)で、頂には魚鱗状の金メッキ(鎏金)の銅瓦で覆われ、四方の仏殿の棟(屋脊)は各々二匹の金の龍で覆われ、一匹は上を向き、一匹は下を向き、姿かたちが活き活きとし、まるで飛び立たんばかりである。

殿内には今も乾隆当時、バンチェンが経典を講じた時のふたりの坐床(座席)と銅造と木造の仏像が残っている。大紅台の北西には吉祥法喜殿があり、これはバンチェンの居室であった。廟の一番後ろは山の斜面の高い所に建てた七層の瑠璃塔である。

 乾隆が著した『須弥福寿之廟碑記』の中で、次のように書かれている。百年余り前(1652年、順治9年)チベットのダライ・ラマ五世が清朝廷の「敦請」(切なる要請)により北京に赴いた。当時、辺境地域は尚朝廷に服していなかったが、この時はバンチェン五世が「自ら進んで」皇帝に拝謁(朝觐)し、オイラト部が「亦無不帰順」(また帰順せざること無く)、須弥福寿之廟が建立されたのは、「答列藩傾心向化之悃忱」(列藩が心から帰順したことの忠誠)を表すためだった。こうも言うことができる。この廟の建立は、ひとつの側面では乾隆時代に辺境地域の統一事業がより一層強固になったことを反映している。