中国語学習者のブログ

これって中国語でどう言うの?様々な中国語表現を紹介します。読者の皆さんと一緒に勉強しましょう。

沈宏非のグルメ・エッセイ: 私たちは害虫である~虫を食べる話

2010年07月31日 | 中国グルメ(美食)
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 訳者敬白:今回のお題は「虫」である。沈宏非氏は極めてまじめに虫を食べる話をされているが、もし読まれて気分が悪くなられたら、読むのを止めてください。

(写真は“禾虫蒸蛋”)

               私たちは害虫である(虫を食べる話)

  最近、マスコミでしばしば虫を食べるよう呼びかける文章を見かけるが、こうしたものを読むたび、二三日うんざりして食欲がなくなる(“倒胃口”)。本当に虫を食べた後は、尚更である。

  これらの文章で出てくる虫には、蟻、ミミズ、ゴキブリ、ハエ、とんぼ、こおろぎ、セミ、イナゴ、甲虫、青虫、更に毛虫、蛆もある。栄養、美味の描写がどんなに情を煽り立てても、引用するに忍びないことをお許しいただきたい。藪から棒に(“好端端”)どうして虫を食べることを思い出したかというと、あるインターネットのページに、どこから書き写した文章か知らないが、こういうものがあった。「1999年に人類は自分たちが60億の人口に達した日を迎えた。60億の胃袋が、地球に食べ物を要求しているのだ!新しい食物資源を切り開く為、人類は昆虫に向け進軍ラッパを吹き鳴らした。」

 坊主は多いが粥は少ない(“僧多粥少”)、なるほどその通り。先週、もうひとつニュースがあって、全世界で飢えに苦しむ人口が8億人にまで増加したそうだ。しかし、話がまた前に戻るが、私はたとえ不幸にも自分がこの8億の飢える人々の一員となっても、飢え死にしても先に書いた虫は絶対に食べない。当然、私は焼身自殺をすることを選ぶ、高品質のガソリンを使って。それでもってあの虫を食うやつらが私をたべられないようにするだろう。

  虫には栄養があり、たんぱく質が豊富で、「十数種の人体に必要なアミノ酸を含んで」さえいる。これらの話を私は信じる。しかしこのことが私に虫を食べるのを納得させる理由にはならない。たんぱく質にどんな珍しいものがあるのだ?私のコンタクトレンズの上にはたくさんあり、毎日寝る前に専門の薬品でそれを取り除かないといけない。虫を食べるのを拒否するのは、それらをみると気持ちが悪くてむかむかする(“悪心”)からで、おそらくこの点については誰でも同じ気持ちだと思う。

  紙面が限られているが、「虫」という字をあまり考証してこなかった。嘗ての中国語の言語環境の中で、「昆虫」の一般的意味合いを除き、「虫」の字は一種しきりにもぞもぞうごめき(“蠕動不已”)、倦まずたゆまず(“孜孜不倦”)、うまく立ち回る(“鑚営”)のが上手で、多少陰でこそこそする(“鬼崇”)人やその行為を形容するのに用いられることが多かった。例えば、“淫虫”(浮気の虫)とか“網虫”(インターネットのウイルス)とか。不動産の二級代理市場(不動産の仲介市場)が正規化される以前は、北京の不動産の賃貸、売買の仲介業者は“房虫”と呼ばれていた。顧剛教授は、大禹は一匹の虫であったと言い、魯迅先生を大いに立腹させた。

 総じて、形而下或いは形而上の種々様々(“形形色色”)な虫は、“虫二”(“風月”の二字から構えや払いを除くと“虫二”となるので、“風月無辺”、景色がこのうえなくすばらしい、という意味)を除き、私に如何なる楽しい体験ももたらしてくれなかった。

  飢え死にするのは小さなことだが、虫を食べるのは大ごとである。

                      昆虫豪華宴

 大部分の昆虫は皆風味が非常に良いものだそうだ。これを普及させる為、既に103年の歴史のあるニューヨーク昆虫学会が、少し前に「昆虫豪華宴」を開催した。

  この値段がお一人様65USドルの昆虫豪華宴のメニューは以下のようなものである。

◆ 前菜:“蜡虫”(イボタロウムシ)のミンチ(“砕肉”)・プラムソース(“梅子汁”)、タイ産“水甲虫” (ゲンゴロウ)の油炒め、虫の粉団子(“粉虫球”)の揚げ物
◆ メインディッシュ:牛肉と鶏胸肉、新鮮なこおろぎ(“蟋蟀”)のパン添え
◆ デザート:昆虫クッキー、チョコレートこおろぎクレープ等。

 報道によると、盛装して宴会に来た昆虫学者達は、ひとつひとつ食べては「大変おいしい(“津津有味”)、大いに堪能した(“大快朶頤”)」と感想を述べた。実を言うと、私はずっとこれは或いはエープリルフール(“愚人節”)のニュースではないかと疑っていた。よしんば確かにこのようなことがあったとしても、なんら「権威性」或いは「指導性」があるとは思えず、更には昆虫学者の内輪(“圏内”)のばかげた冗談パーティーのように思えた。しかし、このいいかげんに作った感のある(“杜撰之嫌”)「虫宴メニュー」は、虫を食べることのある重要な問題を十分に暴露した。すなわち大部分の虫のごちそう(“饌”)は皆油で揚げたり濃い味で漬け込んだりして処理している。なぜか。私はやはり心理上の具合悪さをごまかす為だと思う。それと同時に、「虫宴」のメインディッシュは依然として鶏、牛から離れられない、このことは昆虫が人類の未来の主要な副食品(おかず)となる見通しは暗澹たるもので、その量がある種の別のスナックに回されるだけであることを証明している。「新鮮なこおろぎのパン」とか「チョコレートこおろぎクレープ」に至っては、説明が不十分(“語焉不詳”)で、こおろぎを必ずしも材料にする必要がないこと以外、その他は推測しようがない。

 食べ物の供給が過剰なアメリカ人は、見たところ確かに多少「天下の憂いに先んじて憂う(“先天下之憂而憂”)」という心持ちのところがある。最低限、虫を食べるという事に於いては、吾人はまた「我国は古(いにしえ)より以て之有り(“我国古以有之”)」とこれを嗤うことはできない。金聖嘆「また愉しからずや(“不亦快哉”)第一」に言う。「夏七月……汗が体中に流れ出て、縦横が溝となる。飯を前に置いても、食欲がなく、食べることができない。竹のむしろ(簟)を持ってこさせ、地面に横になろうと思うと、地面はじとっと湿っていて、ハエが首筋や鼻先に飛んできて、追い払っても去らず、正に如何ともし難かい。すると、突然大きな黒い車の車軸のような、にわか雨の轟々とした音が沸き起こり、正に数百万の金鼓が鳴り響くようである。雨水が軒を盛んに伝わり落ちて滝のようである。涼しくなって体の汗はおさまり、地の乾きは一掃され、ハエもいなくなり、食欲も出てきて飯を食べることができた。また愉しからずや!」

 この金先生は本当にものの善し悪しを知らないおばかさんであり、おいしいものを勝手に口元まで持ってきてもらいながらその食べ方がわからず、それでも「また愉しからずや!」などと屁をたれている。

                     蟻には問題がある

 艱難困苦の生存環境の中で、初期の人類は間違いなく虫を食べていたであろうし、少なからず食べていたと思われる。その後の長い時間の天地との闘い、人との闘い、虫との闘いの歴史の過程でも、おそらく虫を食べることをやめることはなかったろう。これには道理がある。しかし、暗黒の中を数千年も模索したにもかかわらず、このことは今に至るも好ましい成果で出ておらず(“成不了気候”)、昆虫は人類の食事のメニューに載ることができないが、これには道理がある。

  第一、 虫は見て気持ちが悪い(“悪心”)。完全にそうとも言えないこともあるが、蛇、ねずみ、カニのような外観はなおさら「気持がわるい」(“核突”:広東語で「吐き気がする」意味)
 第二、 捕獲が容易でない。しかし虎はもっと捕まえにくいので、虫はやはりいつでも食べれて、食べ損なうことがないものである。
 第三、 虫は大きさが小さすぎ、肉もほとんど無い。思うに、これが最大のポイントである(“要害所在”)。

 実際、この点はニューヨークの昆虫学会の「昆虫豪華宴」のメニューにその手がかり(端倪)を見つけることができる。これを職業としている昆虫学者にしてから、依然として鶏肉、牛肉をメインディッシュにしている。その人自身が生前全く食べたことのない虫を、またどんな食べ方があるのだろう。殻、翅、それに腹の中のたんぱく質、内臓、炭水化物、何本かの細きこと比類なき脚が全てである。更に言うと、これらかわいそうな翅、太ももなどの、どこが鶏やアヒルと比べられるだろう。

  昆虫の中でも比較的成熟した食品として、蟻は世界各地でごちそう(“饌”)として相対的に普及している。《本草綱目》にもまた、その性味甘く穏やか、気を益し、顔を潤し、血を活性化しうっ血を溶かし、風を除去し寒を散らし、腎を補い肝を養い、脾を強める等の効果があり、薬であるだけでなく、食事をするということで言えば、多くは調味料やタレとして使われている。例えばチュアン族(荘族)の蟻の苦瓜炒め、タイの蟻入り唐辛子ミソ、等々。また酒を醸造するのに用いたりする。一品料理としては、コロンビアで盛んに養殖されている大型のシロアリ――長さが1インチに達すると言われ、肥えており、インデイオの伝統的な方法で油で揚げて食べることができる以外は、これら「小さくて、あくせく行き来する」(“細砕営営”)物を、どういうふうに食べたら堪能できるだろうか?私のように「“螞蟻上樹”(蟻が木に登る)」(はるさめとひき肉の炒めもの。炒めた肉をはるさめにからませ、蟻が木に登る姿に見立てた料理の名前)以外、本当の蟻を食べたことが無い者は、どんな考えも思いつかない。遺伝子技術で「いなごの腿、トンボの眼、蝶の羽」を持つ蟻を作り出すのを除いて。しかし、蟻は問題無い。問題はこのような蟻を誰が食べる勇気があるかということだ。

                       嶺南の虫二

(※“嶺南”とは、“五嶺”以南の地という意味で、広東省、広西荘族自治区を指す)

 たとえどんな蛇でも食べてしまう広東人でも、昆虫に対する態度は大変慎重である。外地の人がこのことについてどんなに大胆な仮説をしたとしても、虫の問題については、広東人は一貫して注意してその証明を求める。

  一般的に言って、広東人は“虫二”(ここでは二種類の虫のこと)、つまりゲンゴロウ(“龍虱”)と禾虫だけを食べる。ゲンゴロウは、広東人が“和味龍虱”或いは“和味龍”と呼び、形はゴキブリに似ており、したがって「水ゴキブリ」(“水蟑螂shui3zhang1lang2”)とも呼ばれている。しかし泳ぎが得意で、また飛ぶのも上手である。この「広東版小さな巨人」の料理方法はたいへん簡単で、煮立った湯でゆでて、味付けをして風で乾かせば、即食べられる。レストランや屋台で、多くはスナックとして売られる。

 ゲンゴロウを食べる過程は大変見苦しい。まず背中の一対の固い羽を剥き、その後首をねじ切り、かつ慎重に頭をつまんでおく。というのは、きたない内臓を全部引っ張り出す為である。その後、ひと口で口の中に押し込む。

 ゲンゴロウを私は小さい頃一度食べたことがある。思うに、小さくて何も知らず、恐れを知らなかったのだろう。けれどもただガスコンロであぶっただけで、口に入れると油まみれで、特別な風味は無かった。広東のこういう食べ方は、これまでずっと試してみる気もしなかったし、ただ見るだけでも嫌だ。実際、多くの広東人自身がこの“和味龍”のどこが“和味”なのかわからない。ゲンゴロウの愛好者は、大部分がこれを夜間の頻尿を直す薬だと見做している。

  “和味龍”と比べ、より多くの人が禾虫を好んで食べている。禾虫の学名は毛虫綱沙蚕科、疣沙蚕と言い、珠江三角州近海地区の塩水と淡水が交わる稲田のなかにおり、形は小型のムカデ(“蜈蜙”)に似ている。《順徳県志》の記載によれば、「夏と秋の間の水稲が熟する時、満ち潮の時、或いは雨の夜の度に田んぼから押し流され、海に出て浮遊すると、水面が皆紫がかった緑色を呈し、また様々な色に変化するが、やがて日の出とともに溶けてどろどろになってしまう」と。

  “禾虫蒸蛋”(禾虫の茶碗蒸し)が最もよく見る料理方法で、この珠江三角州の郷土料理の前菜の味は明らかにゲンゴロウに勝っている。清代の順徳の学者、羅天尺は彼の詩の中でこう証言している。「粤人(広東人)は生まれつき性魚生(生の魚)を好み、膾(刺身)を作るに刮鑊鳴(細く刻むために包丁を鳴らすこと)を厭わず。この地向来(これまで)怪味多し、禾虫は今亦南烹に列せらる。」

  聞くところによると、禾虫とニンニクを土鍋で煮込んで食べると、水虫(“脚気”)が治ると言われており、水虫(“香港脚”)にかかりやすい広東では、禾虫が食卓に登ったとしても、不思議ではない。

  「ある日の早朝、グレゴリー・サムサが不安な夢から覚めてみると、自分が一匹の巨大な甲虫となってベッドに横たわっているのがわかった。」

 これは、《変身》の冷静なる前口上(“開場白”)である。虫はあの旅行会社のセールスマンの悪夢(“噩夢”)であるだけでなく、人類共通の恐怖である。それと同時に、昆虫アレルギーは人類各種族共通の発生の確率の高い病症である。

  もし心理的要因を除外し、単に経済面の帳簿だけで計算するなら、食生活を改め虫を食べることは、間違いなくそろばんに合う(“劃算”)。専門家の予測によれば、人類は肉食の資源を満足させる為、大規模な家畜の飼育をしなければならず、同時にこの為に巨大なコストを支払わねばならない。淡水を例にとると、1キロの牛肉を生産するのに7キロの飼料が必要で、この飼料は又7千キロの水を使って育てる必要がある。アメリカのユタ州のひとつの養豚場から出る汚水は、ロサンゼルス全体より多い。したがって、徐々に昆虫を人類の主要なタンパク源にしていくことは、地球の生態環境を維持する手助けとなる。

 それと同時に、世界各地の多くの科学者と投資家が、昆虫の大規模な人工飼育を通じ、これを近い将来人類の主要なおかずにしようとするだろう。

  もちろん、これは差し迫ったことではない。けれども、今後ひょっとすると、こおろぎパンを朝食にし、蟻ジャムのサンドイッチを昼食に、セミのバーベキューを晩飯にし、三度三度虫を食べないといけなくなるかもしれないと考えると、私の心は何とも言えず落ち込んでしまう。災いは口より出ず(“禍従口出”)、この言葉は少しも間違っていない。

  私たちがツバメの巣やフカヒレをあまり食べないようにしていれば、今日ひょっとすると虫を食べないといけないというような考えを持たなくてもよかったかもしれない。

  オリンピックの開会式のような場面を一目見れば、人類の尊大さ(“自大”)、ナルシズム(“自恋”)が制御できない速度で膨張しているとはっきりと感じられる。人と虫、結局最後に笑うのはどちらだろう?いつの日か、私たちがある日の朝眼を覚ましてみると、あちらもこちらも皆甲虫、或いは蟻に変わっているのに気がつくのではないだろうか?

 湯顕祖がかつてこう言った。「人の蟻を視るに、“細砕営営”とし(小さくて、あくせく行き来する)、去るに為す所を知らず、行くに往く所を知らず。この意皆居して食する事の為なり。世人は妄りに眷属の富貴の影像を執りて吾が為に想う。知らず虚空中の一大穴也。倏ち来たりて去り、何れの家の到る可き有る哉。」

我々は害虫である。

【原文】沈宏非《食相報告》四川人民出版社2003年

反意語の使い方

2010年07月29日 | 中国語
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                     反意語の使い方

 反意語を使った修辞は奥が深い。特に、反語の使い方は難しい。表現力に幅を持たせる修辞技法という観点から、反意語を勉強していきたいと思う。

(一)反意語の性質と範囲

 言語中の語彙の意味で、相互に矛盾、対立することばが、反意語(“反義詞”)である。反意語は、意味の上で常に相互に排斥し、相互に対立する。例えば:

    大―小 長―短 高―低 好―壊
    浪費―節約 吝嗇lin4se4―慷慨kang1kai3 擁護―反対
    痛苦―快楽 謙虚―驕傲 平坦―崎嶇qi2qu1

  反意語の存在は、客観事物の矛盾、対立の反映である。しかし、反意語は一種の言語現象であり、一切の矛盾、対立の事物、概念が皆反意語を通じて表現されるわけではない。反意語の成立は、言語習慣の基礎に基づかねばならない。したがって、“晴天”と“雨天”、“飛機”と“高射砲”といった意味の上で相対立することばは反意語ではない。一方、いくつかのことばは、意味では別に厳格な矛盾対立関係は無いが、言語中では常に並べて対比され(“併挙対比”)、反意語に属する。例えば、“春”と“秋”、“黒”と“白”がそうである。これは、言語の習慣より決定されたものである。

(二)反意語の文中での作用

 反意語が表すのは対を為す相互に矛盾対立する概念で、常により鮮明に矛盾する事物の二つの対立面を明らかにし、よりはっきりと矛盾する事物の対立性を暴きだすので、言語表現上、常に特殊な修辞機能を有する。

 文章中で、反意語は常に修辞上、対比させ、引き立てあう(“映襯”)手法が用いられ、それにより文章により鮮明な色彩を加え、より強烈な説得力を持つようになる。

例えば:
  ◆ 虚心使人進歩驕傲使人落后,我們応当永遠記住這個真理。
  ◆ 一切只顧個人不顧社会,只顧局部不顧全体,只顧眼前不顧将来,只顧権利不顧義務,只顧消費不顧生産的観点和行為,都是必須反対的。
  ◆ 我們的癰疽,是它們的宝貝,那麼,它们的敵人,当然是我们的朋友了。 
・癰疽 yong1ju1 悪性の腫れもの
  ◆ 的、的、的東西総是同的、的、的東西相比較而存在,相斗争而発展的。
  ◆ 事物的発展規律総是由,由低级高级,由普及提高
  ◆ 社会把逼成社会将変成

 これらは、反意語を利用して対比を構成し、それにより述べている真理をよりはっきりさせ、明確にし、より説得力を持たせている。ことわざや格言の中でも、しばしば反意語、或いは反意の語素を用いてそれを表現手段にしている。例えば:

     ◆ 失敗成功之母。
     ◆ 
     ◆ 学如逆水行舟,不退
     ◆ 人無遠慮,必有近憂。

 次に、文中で、反意語を続けて使うことで、しばしば表面上は矛盾しているが、実際はより深刻な哲理を含んでいる語句を構成することができる。このような語句は、より含蓄を持つとともに、より訴求力が強まる。例えば:
   ◆ 世界上最而又最,最而又最,最易被人忽視而又最易令人后悔的,就是時間。
   ◆ 后方前線 (本などの題名)
   ◆ 平凡偉大 (本などの題名)
   ◆ 典型形象―熟悉陌生人 (本などの題名)

 次に、反意語現象の存在により、特定の言語環境の中では、類推(“類比”)を利用し一つの反意語を新たに作り、一種の特殊な修辞手法を構成することが許される。この種の表現方法は、しばしばユーモアやからかいの意味を帯びる。例えば:

  ◆ 読者定会覚得這是一条新聞吧,其実却是一条旧聞

 最後に、反意語現象の存在により、文章中でその意味の矛盾、対立を利用し、「反語」(“反話”)的な修辞手段を構成することができる。例えば、貶義を含んだ反意語を元々の相応する褒義詞に代え使用することで、しばしばより親しみのある、或いは深刻な感情の意味合いを表現することができる。例えば、“薄情”、“可憎”を用いて愛人(“情人”)のことを呼んだり、“小丫ya1頭”、“小鬼頭”を用いて子供のことを呼ぶことで、“多情”、“可愛”、“小宝貝”と言うよりもっと意味に表情を持たせることができる。反対に、褒義を含んだ反意語を貶義詞に代えて用いることにより、より深刻な否定的で皮肉な感情的意味合いを持たせる。例えば:

  ◆ 請問那些仁慈的打手們,可否把你們的拿手好戯当衆再表演一番呢?
  ◆ 也有解散辮子,盤得平的,除下帽来,油光可鑑,宛如小姑娘的髪髻一般,還要将脖子扭几扭。実在標致極了。

  ここで、“仁慈”、“標致”の二語は、実際はこれらの反対の意味のことばに代えて置かれた。このように構成される「反語」は、明らかにより深刻な意味を含み、より生き生きとした、鮮明な表現力を備えている。

(三)反意語の成語の中での作用

 反意語が成語の中で連用されると、意味合いはしばしば単独で用いられる時より豊かになる。例えば:

     深入浅出  棄暗投明  取長補短  厚今薄古
     此起彼伏  悲歓離合  無独有偶  苦尽甘来

深入浅出 shen1ru4qian3chu1 (文章や言論の)内容は奥深いが、表現はごくわかりやすい
棄暗投明 qi4an4tou2ming2 暗きを捨て明るきに投じる。反動集団から離れて革命組織に参加すること
取長補短 qu3chang2bu3duan3 長を取り短を補う。長所を取り入れ短所を補う
厚今薄古 hou4jin1bo2gu3 (学術研究などで)現代を重視して古い時代を軽視する傾向
此起彼伏 ci3qi3bi3fu2 一方が下火になれば他方が盛り上がる。ひっきりなしに起こるさま
悲歓離合 bei1huan1li2he2 別れ・めぐり会いなど世の中の喜びや悲しみ。人生の常ならぬ移り変わり。変転浮沈
無独有偶 wu2du2you3ou3 単独ではなく同じものがもう一つある。同じ事が他にもある(よくない事柄について言うことが多い)
苦尽甘来 ku3jin4gan1lai2 苦が尽きて楽が来る。苦労をし尽くして楽な生活が始まる

 成語の中には、反意語と同義語が交叉複合して構成されるものがあり、意味は豊かで、生き生きとしている。例えば:

     横衝直撞  生離死別  東揺西擺  長吁短嘆
     博古通今  争長論短  瞻前顧后  天昏地暗

横衝直撞 heng2chong1zhi2zhuang4 しゃにむに走り回る。縦横無尽に突き進む
生離死別 sheng1li2si3bie2 生き別れと死に別れ。再び会えない永遠の別れ
東揺西擺 dong1yao2xi1bai3 歩みが安定していない。動揺しやすい
長吁短嘆 chang2xu1duan3tan4 しきりに溜息をつく
・博古通今 bo2gu3tong1jin1 古今の事柄に精通する
争長論短 zheng1chang2lun4duan3 あまり重要でない事物をあれこれ比較すること
瞻前顧后 zhan1qian2gu4hou4 ①後先をよく考える。事に当って慎重である。②優柔不断である
天昏地暗 tian1hun1di4an4 ①天地ともに暗くなる。②政治が腐敗し、社会が混乱する

【出典】胡裕樹主編《現代漢語》重訂版・上海教育出版社1995年

同義語の選択(2)

2010年07月26日 | 中国語
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 中国語は、表意文字である漢字を使うことから、語句そのものにより意味、ニュアンスが込められる割合が大きい。そのため、多くの同義語が存在する。
 前回に続き、同義語の使い方の違いを意味、文法、修辞面から違いを分析し、同義語をどのように選択し、活用すればよいか、見ていきたい。
 テキストは、胡裕樹主編《現代漢語》重訂版・上海教育出版社1995年である。

               二、同義語の分析の方法

  より多くの同義語を把握し、個人の語彙を豊かにするため、先ず、同義語の間の細かな違いを理解することにより、同義語をより積極的に活用することができる。一般的に、以下のいくつかの面から同義語を分析し、理解すべきである。

(一)ことばの意味の性質と範囲の上からの分析

1、感情的色彩の違い

 いくつかの同義語はその包含する基本的な意味は同じだが、その感情的色彩に違いがある。
 あることばは、話をする人のその事物に対する肯定、賞賛(“賛許”)の感情を表現し、ほめる意味合い(“褒義”)を含む。あることばは、話をする人の同一の事物に対する否定、非難(“貶斥”)の感情を表現し、けなす意味合い(“貶義”)を含む。あることばは、話をする人のその事物に対する褒貶を表現せず、一種の中性詞である。

  例えば、“頑強”、“堅定”、“頑固”、“固執”、“堅持”は同義語で、表現しているのは何れも「堅く守って変えない」(“堅持不変”)という概念であるが、“堅定”は“褒義”を含み、指しているのは正確な信念、或いは事業の正義を堅く守って変えない態度である。“頑固”と“固執”には“貶義”を含み、堅持しているのは不正確で間違ったものであることを表している。“頑強”と“堅持”は中性詞で、明確な感情の意味は無い。

  類似した例には:
    鼓動―煽動 果断―武断 保護―庇護
    成果―后果 含蓄―含混 依靠―依頼
    抵抗―抗拒 団結―勾結 技巧―伎倆

・勾結 gou1jie2 結託する。ぐるになる
・伎倆 ji4liang3 芸当。やりくち(悪いことに用いる)

 以上の対を成すことばには異なった感情の色彩がある。注意しないといけないのは、ここで挙げたのは比較的典型的なもので、実際は各組の中で、褒義詞であろうと貶義詞であろうと、一つに止まらず、一連の褒義詞、或いは貶義詞の中で、褒貶の程度に違いがある。同時に、各組の同義語が皆褒義、貶義、中性の三種あるのではなく、褒義詞と中性詞しかないものがある。例えば、“教誨”(jiao4hui4 教え諭す)と“教訓”。貶義詞と中性詞しかないものがある。例えば、“効尤”(xiao4you2 悪いと知りながらその真似をする)と“効法”。

 上記で言ったことばの意味の褒貶の他、同義語にはその他の感情的色彩の上での差異がある。人々の感情は多種多様であり、こういう差異には各種の異なった情況がある。例えば、“生日”と“誕辰”、“寿辰”;“客人”と“来賓”、“賓客”;“死”と“逝去”は一般的な感情的色彩と、厳粛で重々しい(“庄重”)色彩の違いがある。“人”と“家伙”;“漂亮”と“時髦”は一般的な感情的色彩と軽蔑的な色彩の違いがある。“肥”を人に用いると、諷刺、諧謔的意味となり、“胖”にはこのような意味は無い。

2、語意の軽重の違い

 いくつかの同義語の微細な差異は、語意の軽重の面を表現する。その表現する事物の概念は同じでも、そのある種の特徴や程度を表現する面で、軽重の差異がある。例えば、“損壊”、“毀壊”、“破壊”が表現するのは、同一の行為、動作であるが、“損壊”の語意はやや軽い。“毀壊”、“破壊”はやや重い。ある人が“損壊公物”(公の物を壊した)と言うのと、 “毀壊公物”、或いは “破壊公物”と言うのとでは、明らかに程度が異なる。

 類似した例には:
     優良―優異 掲發―掲穿 固執―頑固
     愛好―嗜好 鄙視―蔑視 請求―懇求

・優異 you1yi4 ずば抜けている。特に優れている
・掲發 jie1fa1 摘発する(人々が気付かなかった問題や悪事を表に出すこと)
・掲穿 jie1chuan1 あばく。暴露する(隠されていた悪を暴露すること)

3、範囲の大小の違い

 いくつかの同義語が指すものは同一の事物であるが、その中には指す範囲の大きいもの、小さいものの違いがある。例えば、“性質”と“品質”が代表するのは何れも“属性”の概念だが、“性質”が一切の事物の属性を指すことができるのに対し、“品質”は人の一種の精神修養上の特性のみを指し、範囲の大きさが異なる。

 類似した例は:
    事情―事件―事故  房屋―房子―屋子
    時期―期間―時間  災難―災荒
    戦争―戦役      局面―場面

・災荒 zai1huang1 災害と凶作。飢饉

4、具体と概括の違い

 いくつかの同義語は、同様の事物を指すが、あるものの指すのは具体的、個別的で、あるものは専ら概括的で、集団的なものである。例えば、“樹木”と“樹”が指すのは同一の種類のものだが、“樹木”が指すものは概括的で、一切の樹であり(例えば、“這地方樹木很多”)、“樹”が指すのはしばしば具体的で、個別的である(例えば“蘋果樹”、或いは“這棵樹”)。

 類似した例は:
     河流―河  書籍―書  花卉―花
     湖泊―湖  馬匹―馬  信件―信
     船只―船  紙張―紙  布匹―布

5、適応対象の違い

 いくつかの同義語は、代表する概念は同じだが、その適応する対象が、上、下、内、外などの違いがある。それらはしばしば話をする人がいる地位と関係する。例えば“愛護”と“愛載”は表す基本概念は同じだが、“愛載”は上に対してのみ適用され、“愛護”は下に対して適用される。“表達”と“伝達”は基本の意味は同じだが、“表達”はしばしば自分自身に適用され(例えば、“表達自己的思想感情”)、“伝達”は他人に対して適用される。

 類似の例:“改正”は消極的な事物に用いられ、“改進”はしばしば積極的な事物に用いられる。“保護”の対象は一般的なもので、“保衛”の対象は重大な事物である。“充足”は具体的な事物を説明するのに多用され、“充分”は比較的抽象的な事物の説明に多用されている。“熱誠”は人に対して多く用いられ、“熱心”は人に対して多く用いられるだけでなく、事柄に対しても用いられる。“侵蝕”は外から中に至る過程に多く用いられ、“腐蝕”は中から外に至る過程に多く用いられる。

(二)ことばの用法からの分析

1、ことばの配合関係の違い

 これらの同義語は、表す意味は同じであるが、具体的な運用の中で、いくつかのことばはしばしば固定したあることばとだけ組み合わされ、他のことばは常にまた別のことばと組み合わされ、混同する(“混淆”hun4xiao2)ことは許されない。例えば、“維持”と“保持”は基本的な意味は同じだが、“維持”は常に“生活”、“秩序”、“状況”、“状態”等のことばと組み合わされるが、“保持”は常に“清潔”、“衛生”、“健康”、“伝統”、“記録”、“光栄”等のことばと組み合わされる。

 その他の例は:
    ◆交換 ―― 意見、礼物
      交流 ―― 思想、経験
    ◆担任 ―― 工作、職務
      担負 ―― 責任、任務
    ◆侵占 ―― 土地、財産
      侵犯 ―― 主権、利益、領空
    ◆履行 ―― 条約、諾言、義務
      執行 ―― 命令、任務
    ◆改善 ―― 関係、生活
      改正 ―― 缺点、錯誤

 指摘しておかないといけないのは、これらの区別は絶対的なものではなく、事物の発展に伴い、元々はいっしょに組合せることができなかったことばが、組み合わされるようになる可能性がある、ということである。

2、詞性と句法の機能の違い

 ある同義語は、意味は同じだが、“詞性”(語の性質。品詞の分類の拠り所となる特徴)と“句法”(文の構造。構文)の機能に違いがある。例えば、“充分”と“充満”は、前者は形容詞、後者は動詞である。“剛毅”と“毅然”は、前者は形容詞、後者は、名詞。“勇敢”と“勇気”は、前者は形容詞、後者は名詞である。これらは“詞性”が異なる。あるものは、“詞性”は同じだが、“句法”の機能が一致しない。例えば、“艱苦”と“艱難”は何れも形容詞だが、前者は常に定語(限定語、連体修飾語)(例えば、“艱苦的生活”)になるのに対し、後者は常に述語(“謂語”)(例えば、“生活艱難”)になる。これらは、応用上も区別しなければならないものである。

(三)語体の風格の上からの識別

 異なる語体の風格を表現することも、同義語の機能の一つである。したがって、いくつかの同義語の間の細かな差異は、語体の風格の上から識別することができる。ある同義語はある種の語体の風格でのみ使われるが、またある同義語は別の語体の風格で使われ、それぞれ異なる。例えば、“夫人”、“妻子”、“老婆”という同義語の中で、“夫人”は比較的厳粛な、かしこまった場合に用いられ、“老婆”は比較的くだけた、日常のやりとりで用いられる。“妻子”は一般的な場合に用いられ、これらの語体の風格の色彩はそれぞれ異なる。

 現代漢語の語体の風格はたいへん多く、したがって同義語の語体の風格の上での区別も各種各様である。ここでは、よく見かけるいくつかの例を以下に説明する。

1.口語と書面語の違い

 いくつかのことばは多くは口語に用いられ、同時に通俗的な語体の色彩を帯びている。一方、いくつかのことばは書面語に用いられ、厳粛な重い風格や色彩を持つ。例えば:

    爸爸―父親
    媽媽―母親
    吓嗁xia4hu―恐吓kong3he4
    溜達―散歩
    剃頭―理髪
    怎麼―如何
    走―歩行
    信―函
    在―于

  もちろん、これらの境界は絶対的ではなく、口語の中でも書面語を用いることがあるが、いくつかの書面語は口語の中ではほとんど用いられない。

2.普通用語と特殊用語の違い

 いくつかのことばはしばしばある種の語体でのみ用いられ、別の語体の中では用いられない。ここにおいて、普通用語と特殊用語の区別が構成される。下記のことばは、普通用語と文藝作品で用いられる特殊用語の違いの例である。

     飛―飛翔
     走―行走
     心―心霊
     静―寂静
     光亮―晶瑩
     半夜―子夜
     寂寞―寂寥
     好―美好
     好意―美意

 公文書では、一般に普通用語と異なる特殊用語が用いられる。以下の例は、(普通用語)―(公文書で用いられる特殊用語)である。

     給―給予
     現在―茲
     辧法―措施
     安排―部署
     私下―擅自
     這―此

 その他では、“黎明”と“拂暁”、“爬行”と“匍匐”は、普通用語と軍事特殊用語の違いの例である。

 この他、語体の風格の特徴は、標準語(普通話)と方言のことば、専門用語と一般的なことばとの違いの上などで表現される。

 同義語の分析は、上に述べたことば自身の意味、用法、語体の風格の特徴から行う以外に、同義語と多義語、反意語との交叉関係にも注意し、それらとこれらのことばの関係から、その正確な意味を確定すべきである。

【出典】胡裕樹主編《現代漢語》重訂版・上海教育出版社1995年

沈宏非のグルメ・エッセイ: 麺条=体つきがすらりと美しい

2010年07月20日 | 中国グルメ(美食)
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               体つきがすらりと美しい(“条順”)

 《随園食単》で、袁枚は麺(中国語で“面条”)を“点心”類に入れている。顕かに、麺はメイン・ディッシュでなく主食でもなく、正餐の間の空腹を満たすためだけのもので、食い意地を抑える(“圧圧饞念”)一種の「しばし心を引き立てる」(“且点心”)、心に火をつければ役目の終わる(“点到為止”)美食である。

 しかし、“点”の字はそれを用いて麺と“心”の間の関係を表現するのにはふさわしくない。麺の形状から言っても、麺の美味しさから言っても、それと私の心の間は気持ちが絡み合い(“纏繞”)、三日経っても家の梁の周りを回り続ける(“繞梁三日”)ほど印象の強いすばらしい音楽のようで、たいへん「心を惑わせる」(“繞心”)。成都の人は美女のことを“粉子”と呼び、美女の尻を追ったり(“追美女”)美女といちゃつく(“泡美女”)ことを“繞粉子”と言う。この“繞”の字も、私の麺に対する感情を表現するのに適している。

 加工された日常の食物の中で、その姿形がすらりとして(“苗条”)、しなやかで美しい(“婀娜”)ものといったら、先ず麺を挙げる。麺の前身は、大きくてぶくぶくした(“臃腫”)小麦粉の固まりであるが、切断されることで、“面”から細長い筋(“条”)になり、驚くべき艶めかしい変身を遂げる。だから麺(“面条”)は小麦粉の最も美しい、最も科学的な直線的な展開(“延展”)である。

 70年代の北京の隠語(“黒話”)の中で、美女の評価を高度に濃縮して四文字にした。“盤正条順”。いわゆる“盤”とは“臉盤”、つまり「顔立ち」、「顔の輪郭」を指し、“条”とは“身条”、“身材”、つまり「体つき」のことである。“盤正条順”は見たところ、“名正言順”(「名分が正当であれば、道理も通る」という意味の成語)の焼き直し(“脱胎”)のようである。しかし、“正”の字は決して“正確”の“正”ではなく、“端正”の“正”でもなく、今日言うところの“正点”(定刻、定時)の“正”に近い。“順”の字に至っては、体つき(“身材”)がしなやかで、すらりと美しく(“苗条”)、流線型の曲線を指すに他ならない。麺も同じで、重要なのはこの“順”の字で、“順”は麺の外見(“外在”)であるだけでなく、更にその最も重要な食感(“口感”)であり、まさにこの独特の“順”が、私たちが麺を食べる時、食事の時は本当は出してはいけない、ズルッ、ズルッと続けざまに発せられる快楽の音を、思いのまま(“放肆”)発せさせる。或いは、一人の悪魔の体を持った美女が、“順”繰りに人々にスルッとものを啜る(“吸溜”)音を聞かせると言う。

 もちろん、タンメン(“湯麺”)か、それとも“撈麺”(たっぷりの湯で茹でた麺を湯から引き揚げ、どんぶりに盛って、その上から具や餡をかけたもの)か、箸で食べるのか、或いはフォークで食べるのか、これらの要素は“順”対し、たいへん大きな影響を与え、様子がすっかり変わってしまう(“面目全非”)場合さえある。例えば、スープの無いスパゲッティーは、元々タンメンのあの「美人の風呂上がり」のほんのりと火照った様(“春色”)が欠けているが、更にフォークで巻き取って食べるので、“順”、つまりズルッ、ズルッとリズミカルに食べる快感は少しも無く、どんなに言ってももぞもぞと歯にからみつく(“糾纏不清”)ドーナツ(“軟麻花”)を頬張っているような感じである。それに比べると、嘗てイタリアの貧しい人々が手で麺を引き伸ばし、高いところから「吊るして」口に入れていた食べ方の方が、却って“条”、つまり麺のすらりとした美しさを感じることができる。また、広東人の作る麺はすこぶる不味い。ひょっとすると広東語ではどんな“麺条”mian4tiao2も単に“麺”minと呼ぶのと関係があるのかもしれない。

            人それぞれの麺に対する見方(“面面観”)

 《随園食単》の“点心単”(点心のメニュー)に挙げている麺には、“鰻麺”、“温麺”、“鱔麺”、“素麺”、“裙帯麺”の五種類がある。「墨を金の如く惜しんだ」(“惜墨如金”)のか、それとも「麺を墨の如く惜しんだ」(“惜麺如墨”。明らかに“惜墨如金”を踏まえたしゃれ)のか定かでないが、全体に少なすぎるような気がする。

  袁枚は八十二歳まで生きたが、行ったことのある場所が少なかったわけでなく、食べたことのある麺はきっと上の五種にとどまらないだろう。それでもこの五種だけを《食単》に収めた由縁は、郷土の習慣や個人の好み以外に、これらの選ばれた麺にはそれぞれ他に比べられないほどすばらしいところ(“独到之処”)があるのだろう。しかし、私はまた、五つの麺には共通点があることを発見した。それはつまり、これらを作る上で、スープやかけ汁(鹵)の役割が何れもたいへん強調されているのである。「鰻麺……鶏のスープは澄んだものを之に加え、鶏の汁、中華ハムの汁、キノコの汁に入れて煮る」「素麺は、先ず前日に干しキノコを水で戻して煮出した汁を澄ましておき、翌日にこのだし汁に、麺を加えて煮立たせる。」ここまで書いてきて、ひょっとすると自分でも偏りに失している(“失之偏頗”)と感じたのかもしれない。そこで一筆を加えた。「およそ麺を作るに、総じて湯(スープ)の多いを佳とし、碗中を望んで麺の見えざるを妙とする。寧ろ食い畢わりて(麺を)再び加えれば、以て人をして佳境に入らしむ。此の法は揚州にて盛んに行われるが、恰も甚だ道理有り。」

 もう一人、清代の美食家、李漁は、袁枚より百年余り前に生まれた人で、祖籍は浙江、生まれは江蘇で、この二人の生涯の「麺食生活区域」はほとんど完全に重複し、人生に対する態度も瓜二つ(“如出一轍”)である。然るに、彼らの麺に対する態度は大きく異なり、轅(ながえ)を南に向け、車を北に走らせているかのようである(“南轅北轍”)。李漁は《閑情偶寄》の中でこう批判して言った。「北人は麺を食するに多く餅にし、予は細長く分けて、一本一本はっきりさせるのを喜ぶ。南人のいわゆる‘切麺’がこれである。南人が切麺を食すに、油塩醤醋を調味料とし、皆麺湯の中に下す。湯に味あり麺に味無し、これ人の重きが麺に無く湯に在る所、むしろ未だ嘗て麺を食さず。」

 李漁は言うばかりでなく、言ったことを実行に移し、彼は二種類の上述の理論に基づく麺を発明し、一つは“五香”と名づけ、一つは“八珍”と号した。その重点は、麺を切る前に「醤油、酢、胡椒の粉、すりゴマ、筍を茹でたりシイタケを煮たりエビを煮た煮汁」、及び「鶏、魚、エビの肉……と新鮮な筍、シイタケ、ゴマ、サンショウ(花椒)の粉末」を悉く麺の中に練り込んだことで、目的は、「諸物を調和させて麺に帰し、麺は五味を備え湯は独り清し、此の如くしてはじめて麺を食すは湯を飲むにあらざる也。」

                        梨花帯雨

 タンメン(湯麺)の忠実な擁護者として、私は、袁枚は李漁より数段優れていると信じざるを得ない。

 麺について言えば、麺自身の味も当然たいへん重要である。しかし、小麦粉自身を除き、すなわち小麦自身の品種と品質以外で、麺の重要な売り物はすなわち噛み応え(“咬勁”)であり、上述の要素を除き、咬み応えはまた麺、切麺、煮麺の技巧により決まる。麺の味わいは、主にスープから汲み取られる。これと同時に、スープはまた麺固有の芳香と融け合う。このように、スープと麺は、柔鋼取り交ぜ、一箸のスープの滴り落ちる麺は、梨の白い花が雨を帯びるように(昔、白楽天は《長恨歌》で、楊貴妃の泣く様を梨の花に落ちる雨の滴に譬えた)美しく艶めかしい。

 したがって、「人の重きが麺に無く湯(スープ)に在る」の説はその根拠の片面を失い、却って「人の重きが湯に無く麺に在る」かのようであり、「麺に五味を備え湯は独り清し」と言うのも独りよがりである。私たちの一碗の美味しい麺の要求は、全てを兼ね備え、麺は美味しく、スープも美味しく、かくの如くしてはじめてタンメン(湯麺)は二つながら素晴らしく、功徳円満である。科学的、市場的角度から見ても、湯(スープ)と麺の“一体化”の優勢は抜きんでている。

 もちろん、乾麺、和え麺(“拌麺”)、上海冷麺、新疆の“大盤鶏”(鶏肉とジャガイモを炒めて甘辛く味付けした料理)の中のあの「幅広の」麺も、たいへん美味しい。しかし私はわざわざ他のものを麺に入れて食べるのは嫌いである。広東人は湯麺も乾麺もうまく作れない。却って李漁の教義を継承、発揚させ、技量を全て麺に何かを混ぜ込むことに費やし、蝦子麺、鮑魚麺といった俗悪な麺を作り出した。

 湯麺に対する態度では、李漁が一方の極端とすると、張愛玲は別の面で極端である。すなわちスープは好きだが麺は食べない。「私はちょうど湯麺が一番嫌いだ。‘スープはたっぷり、麺は少し’(“寛湯窄麺”)が好く、(麺は)いっそ無ければ一番好く、ちょっと麺の風味が残っていれば、スープは清々しく、より濃厚になる……杭州で旅行ガイドが皆を楼外楼に連れて行き、螃蟹麺を食べるよう手配した。当時、この老舗の料理屋はまだ上海のレストランのように‘大衆向け’でなく、値段は低く抑えられ、手抜きや材料のごまかし(“偸工減料”)で質も落ちていた。この店の螃蟹麺は確かに美味しかったが、私はやはり具だけ食べて、スープを飲み干したところで箸を置いた。自分でも、大陸の今の情勢下でこのように自然の物を無駄にする(“暴殄天物”)ことは、罰当たり(“造孽”)なことをしていると感じた。」

 私の家の部屋に書きつけ(“帖子”)がある。「湯麺を食べる時は、必ず特大のどんぶり(“海碗”)を使い、どんぶりの縁はできれば自分の顔より大きいこと。五官が燻されて湯気が立つほど熱々になり、ズルッ、ズルッと麺をすする感動が顔を伝って立ち上る。

                         南人北相

 袁枚が記録した麺は、皆南派で、基本的に江蘇、浙江の二省を出たことがない。麺は何れにせよ北方起源の食物であり、李漁が《閑情偶寄》の中で言っているように、「南人は米を飯とし、北人は麺を飯とするが、常なり」。

 もし袁枚の文章が関を越えて、都、北京の官吏になっていたら、彼は北方人の主食である麺を“点心”に入れることはなかったし、そうすることはあり得なかったろう。北方人の日常生活の中で、麺を点心と見做すことはあり得ないし、貧しい人について言えば、それは一種の精緻を称えることのできる麺食である。それと同時に、北方の麺は日常的で、たいへん普及しているだけでなく、スタイルや種類もたいへん多く、山西省一省だけでも、麺の種類は百を超え、当地の家庭の主婦は「三百六十日、毎食の麺食が重複しない」という腕前(“本領”)がある。もし袁枚が三十三歳で「官を辞し郷里に帰」っていなかったら、《随園食単》に収めた麺食メニューは五種類だけということはあり得なかったろう。

 したがって、江蘇・浙江一帯の中国で最も美味しい麺を盛んに生みだす由縁は、第一に、広義の南方に在って、上述の地区は戦乱の災いと運河による船上輸送の便により、歴史上、中国の北方の精緻な文化の最も奥深く、最も持続的な影響を受けたこと。第二に、北方の麺がはじめて南渡し、江南の精緻な飲食はまた最初のうち、「北の麺」の薫陶を受けた。この故に、呉越の麺は実に「北人の顔を持った南人」(“南人北相”)と称えることができる。

 反対に北方に残った麺で、比較的代表的な北京の炸醤麺を例にすると、文人が「雪のように白く柔剛整った手打ち麺。四月の柳の若葉のような緑鮮やかなキュウリの細切り。卵、さいの目に切った豚肉、キクラゲ、マッシュルーム、黄韮を油で揚げた味噌」といった修辞でこれを賛美したとしても、私個人の経験で言うと、南城の“老北京”人の家であろうと、東城の五つ星ホテルであろうと、炸醤麺は何れもたいへん不味い。そして特に不味いのは、その味噌である。

 ネット上で広く流布している長編小説「包子・麺大戦」の中で、炸醤麺を主人公とする一節があり、ここでもう一回繰り返して、北京人を怒らすことを恐れなければ、「さて、小籠包は訳も無く殴られてから極めて不愉快で、肉まん、小豆餡の包子、近い親戚の餃子、遠い親戚の月餅といっしょに、仇を取りたいと思った。死のうと思っても死ねず、道で炸醤麺に出会った。皆は取り囲んで、炸醤麺を息も絶え絶えになる(“半死不活”)まで殴りつけた。帰り道に皆は小籠包に言った。「あなたは本当にそんなに麺を恨んでいるのですか。あんなに半殺しで片端(かたわ)になる程殴るのだから。」小籠包は言った。「本当は、私もただ適当に何発かかましてやれば良いとしか思っていませんでした。彼がなんと全身に大便を塗りたくっているなんて思いもしませんでした。そのようにしていれば、私が恐れをなして彼を殴らないと思ったのかもしれません。うまいことを考えついたもんです(そうは問屋がおろさない)。このような意気地なしな奴を見て、私はかっとなり、殴りだすと、抑えが利かなくなりました……。」  

 実際には、炸醤麺が最も不味いという訳ではない。広東人の麺、とりわけあのワンタンメン(“雲呑麺”)のような物を口にすれば、本当に「なんて悲惨な人生に直面しているんだ」と叫びたくなる。

                       ラーメン(“拉麺”)

 蘭州ラーメンは既に一杯の麺から神話になってしまい、流行(はやり)の言い方を真似るなら、ラーメン(“拉麺”)は蘭州の「町(都市)の名刺」である。

 蘭州ラーメンとほとんど同時期に神話になったのは、日本のラーメンである。蘭州と日本は、地理上は遠く離れていて、両地の飲食文化は更に全く異質であるが、しかし、この二つのラーメンと、その形成するラーメン文化の間には、微妙に似たところがある。

 蘭州ラーメンと日本のラーメンは何れも湯麺であり、「濃厚スープ」(“重湯”)の麺で、何れもスープの味が勝っている。前者は牛肉や羊の肉からスープを採り、後者は醤油、味噌、豚骨、及び澄んだスープを四つの基本的なスープのベース(“湯底”)としている。もちろん、牛肉、ネギ、ニンニクの芽(“蒜苗”)、香菜、唐辛子を除き、蘭州ラーメンの材料や名称は日本のラーメンのように多くはない――このような喩えをすることができる。蘭州ラーメンを“Windows”とするなら、日本のラーメンは“Linux”のようなものである。後者は基本コードが完全にオープンなプラットフォームで、およそ思いつく材料なら、何でも加えてやることができる。この意味において、日本のラーメンは実は集団創作の成果のようなものである。

 日本ドラマ(“日劇”)とSonyを除き、日本人のものの絶対多数は、中国よりもたらされたと信じられており、ラーメンも例外ではない。ある説によれば、中国拉麺は三百年余り前に日本に上陸したと言われている。当時、“反清復明”を一心に唱えた中国人、朱舜水(字は魯璵、舜水と号す。明浙江紹興府余姚県の人。南京松江府の儒学生)は七度海を渡り、長崎で資金を集めたが、事成らずの已む無しに至り、1659年、長崎に寄寓した。水戸藩第二代藩主、徳川家康の孫、水戸黄門は儒学を熱愛するあまり、一年の時間を費やし、家臣を派遣し、三顧の礼をとり(“三顧茅廬”)、遂に朱舜水を招聘し江戸水戸藩邸宅に客居させた。朱老師は水戸黄門に儒学の講義をしただけでなく、彼に中国の麺を食べさせた。《朱文恭遺事》の記載によれば、朱舜水は自ら厨房に立ち、水戸黄門のために作ったのは、“藕粉扁条麺”、つまりレンコンの粉で作った平たい麺で、スープは豚肉と中華ハムを煮出して作ったものであった。

 もう一つの説は、現代日本のラーメンは日本に居住した浙江籍の華僑、潘欽星が大正時代(1920年代初期)に創始したと言われている。

 何れにせよ、蘭州ラーメン、日本ラーメン、呉越湯麺、及び、李漁、袁枚、朱舜水、潘欽星という既に亡くなった江蘇・浙江人の間には、ある種の麺が結びつける関係が、歴史と美味の霞の間に隠れているように、私には感じられる。

【原文】沈宏非《飲食男女》江蘇文藝出版社2004年から翻訳

沈宏非のグルメ・エッセイ: フカヒレ(魚翅)の社会学

2010年07月14日 | 中国グルメ(美食)
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                  フカヒレ(魚翅)の社会学

 フカヒレ(魚翅)はこれまでずっと高級広東料理レストランの看板メニュー(“招牌菜”)であった。店に一歩入ると、ガラスケースの中に、白い(“白生生的”)巨大な背ビレが、店を鎮める宝として置かれ、更にはスポットライトで照らされている。見た感じ、奇妙である。水族館のようであるが、展示されているのは、海洋生物の肢体の一部である。

  満漢全席の“海八珍”の一つとして、フカヒレは中華料理の最高傑作(“巓峰之作”)であり、また常に富貴の象徴であり、フランスのフォアグラ、ロシアのキャビアと同等の地位に処せられてきた。中国の主要料理も、フカヒレが無いと歓迎されない。広東料理(粤菜)は言うまでもなく(“自不待言”)、譚家菜(北京飯店二階)は“黄燜魚翅”によって世に知られ、孔府食単にも“菊花魚翅”があり、浙江料理には“火瞳翅”があり、広東料理と対等に振る舞っている(“分庭抗礼”)。正にいわゆる“無翅不成席”(フカヒレが無いと宴席が成り立たない)である。《本草綱目拾遺》によれば、「凡そ宴会の佳品として、必ず此物を設けて“珍享”(珍重)する。」

 フカヒレが“珍享”されるのは、以下四つの理由による。一、珍しい。二、美味しい。三、利潤が相当ある(“利潤可観”)。四、料理人の技量が十分に顕示される。

 しかし、海鮮の売価がこのうえなく「猛々しく上がり」(“生猛”:本来は海鮮の活きがよい意味だが、ここでは価格の値上がり具合を揶揄している)で、“漁利”(努力せず横から利益をかすめとる。漁父の利(“漁人之利”))ということばがことのほか生き生きとしている今日では、殺されることを恐れないなら、フカヒレは唯一、レストランの中で首を長くして「殺される」(調理される)のを待っている食材だと思う。なぜなら、フカヒレを下処理(“炮制”)するのは、たいへん面倒なことだからである。《随園食単》は言う。「魚翅は爛(くず)れ難し。須(すべか)らく両日煮て、剛を摧(くだ)いて柔と為す。」“煮両日”と言うのはいささか誇張があるが、“摧剛為柔”は確かに時間がかかり、水に浸し、とろ火で煮込み、異味を除き、骨(“枯骨”)を取り除くなど、一連の複雑な手順が必要である。水に浸すだけでも、一晩置かなければならず、分業が進んだ厨房でも、シェフがちゃんとしたフカヒレ料理(“翅饌”)を煮るには、少なくとも五六時間以上必要であろう。老鶏、金華ハム、陳皮、豚の赤身などいっしょに煮込む物は別に難しくなく、家庭でも手作りできないことはないが、贖(あがな)えない時間と作る意欲のことを考えたら、お金を払ってレストランから買ってきたとしても、間違っている(“不公道”)とは言えない。

  だから、フカヒレは、それなら食べなければよいので、もし食べるなら、信用のおける(“信誉卓著”)レストランに行って食べることだ。道理はたいへん簡単である。なぜなら、世の中で、あなただけが面倒なことが苦手なのではないから。

  後進国のフカヒレの産地では、例えばマダカスカルのマーケットでは、原住民の売る新鮮なフカヒレが、キロ当たりわずか数ドルである。香港の商人が専用にチャーターした飛行機で買い付けに来る。飛行機のチャーター料を除き、フカヒレの価格の付加価値は、アワビと同様、後半の制作過程で乗せられる。

  今日のフカヒレ料理(“翅饌”)は、百花斉放であるが、基本的に袁枚の“魚翅二法”に基づく。すなわち、「一に好き火腿(中華ハム)、好き鶏湯(チキンスープ)を用い、鮮筍(新鮮な竹の子)、氷糖(氷砂糖)を一匁(“銭”)ばかり加え、とろ火で煮て柔らかくする。これが一法である。一にただ鶏のスープだけと細かく切った大根の千切りを用い、折ってバラバラにした鱗翅(ヒレ)をその中に混ぜ、碗の上に浮かんだ時に、食べる者が、それが大根かフカヒレか見分けがつかないようにする。これがまた一法である。ハムを用いる時は、スープが少ないのが宜しい。大根の細切りを用いる時は、スープが多いのが宜しい。総じてとろりと溶けて柔らかい(“融洽柔膩”)のが佳く、海参(ナマコ)の臭いが鼻に付くのや、ヒレが固くて盤を跳ねるようなのは、お笑い草である。呉道士の家で魚翅を作る時は、“下鱗”(ヒレの下の方)は用いず、上半分の根元の方だけ用いると、また格別な風味がある。大根の千切りは水を二回揉み出して、臭いはようやく消える。嘗て郭耕礼の家で“魚翅炒菜”(フカヒレの炒め物)を食べたが、たいへん佳かった(“妙絶”)!残念ながら、その作り方は伝え聞いていない。」

 人はサメを十分痛めつけて(“折磨”)後、このように料理人を痛めつけるのである。それゆえ、魚翅と鶏翅(鶏の手羽)は一文字の違いであるのに、価格は天と地ほどの差がある(“天壌之別”)。したがって、多くの人が恨めしげにこう言う。「あの春雨のようなもの。」もちろん、これ以外に料理を頼む前に小声でこうつぶやく人もいる。「先ずフカヒレで口をゆすごうか(漱漱口)。」

 好きでも嫌いでも、フカヒレはいつも食客の強烈な反応を喚起する。これはフカヒレが経済の指標の一つであるからである。香港はフカヒレの全世界の貿易の中心で、世界中でフカヒレの消費の最も多い場所である。しかしフカヒレが口に入る量の増減は、全てハンセン指数(“恒生指数”。香港の株式市場の代表的な指数)のコントロール下にある。ある経済誌の統計によれば、香港の歴史上のフカヒレの輸入量の増減は、ハンセン指数の曲線の起伏とおおよそ一致しているそうである。

  一食一食しっかりフカヒレを食べようが、甚だしくはフカヒレで口をゆすごうが、これは香港人がどうしても手に入れたいと願う(“夢寐以求”)「成功した」生活様式である。ある人が宝くじ(“六合彩”)に当たったり、株式や不動産が一夜にして高騰したら、彼自身が思うこと、或いは他人が、彼が最初にやるにちがいないと思うこと、それはフカヒレを腹一杯食べに行くことである――もちろん、“魚翅撈飯”(フカヒレの姿煮と蒸籠蒸しご飯)であればいうことがない。

  フカヒレはたいへん上品に食べることができるが、たいへん俗悪に食べることもできる。“魚翅撈飯”は俗悪の代表作である。

 いわゆる“魚翅撈飯”は、先に煮ておいたフカヒレを、ご飯といっしょに掬い取って食べる(“撈食”)。凝ったものは、レタス、香菜、ネギの細切り、大根の細切り、及び豚肉の細切りなどの付け合わせと共に供せられ、もっと凝ったものになると、濃い味付けのアワビの煮汁、乃至はアワビの薄切りが付け合わされる。正直言って、“魚翅撈飯”は味覚上、そんなに悪いものではない。なぜなら、フカヒレはやはり昔からの方法で処理しなければならず、手を抜くことはできないからである。恨むべきは、この行為自身で、米飯といっしょに食べられるフカヒレは、(その価値が)如何なるフカヒレ・スープをも超えることはできない。

 “魚翅撈飯”は、香港人の1980年代初期の傑作である。あの時代、ほとんど全ての人が株式市場や不動産市場でひと儲けした(“大撈了一票”)。十分儲けたら、自然とフカヒレを食べる(“撈魚翅”)ことを考えた。しかし、たとえフカヒレであっても、あの黄金時代には既に通俗的な食べ物になってしまっており、それだけでは、もはや何の証明にもならず、そこで、好事家の思い付いたのが、フカヒレでご飯を食べる食べ方であった。

 “魚翅撈飯”が飲食人類学(Anthropology of food)に提供した素材は、それが口腔に提供した娯楽性よりもずっと豊富である。“魚翅撈飯”の社会機能は、次第に漠然としてきた社会等級を再び明晰化するのを助けるものであるが、使われているのはある意味、逆行した、粗野な手段である。世間を見たことのない田舎者(“没見過世面的郷巴佬”)は、通常、次のように金持ちの日常生活を想像する:左に金、右に銀。朝鮮人参が口に入らぬ日は無いと。ある日、田舎者(“郷巴佬”)もこのような生活を送るようになると、金持ちはそこでいくつか失ったものを感じ、恥ずかしさや憤りをも感じるようになる。このような状況から脱するため、遂には次のような憎まれ口をたたく(“損招”)――「黄色い緞子で尻を拭く――高価なものをつまらぬことに使う」(“鵞黄緞子擦屁股”)。あなたは毎食毎食フカヒレを食べていないのか。よろしい、たいへんよろしい。でも慌てないで。あなたがたから見て、ご飯(“撈飯”)や麺(“撈麺”)といっしょに食べるのは、牡蠣油、漬物、豚足などの下賤な物で、良くても牛の腰肉(“牛腩”)くらいだろう。でも今度はわざわざフカヒレでご飯を食べようとしている。米飯で満足できないなら、麺でもよろしい。このことは何を表しているか?まだ気がつきませんか。このことは明らかにあなた方にこう言っている。あなた方は自分が富貴な、成功したフカヒレと見做されていると思っている。でも、今私が見ると、漬物、豚足の類に過ぎないと。

 火瞳翅、鳳呑翅、菜胆翅であろうが、蟹黄翅(フカヒレ・スープにカニみそを加えたもの)、鶏煲翅であろうが、はたまた最近流行の木瓜翅(パパイヤの果実を器にし、それをくり抜いて、中にフカヒレ・スープを入れたもの)であろうと、フカヒレの調理方法は次々と現れて尽きない(“層出不窮”)。しかし、食べ方は一種類しかない。すなわち、フカヒレそのものには味が無く、ガツガツ食べる(“大嚼”)ものではなく、正に袁枚が言うように、「海参(なまこ)、燕窩(つばめの巣)は平凡な卑しい人(“庸陋”)のようなもので、全く個性が無く(“全無性情”)、人の籬(まがき)の下に集まる。」全ての正しい(“正路”)フカヒレ料理(“翅饌”)は、その美味の最終は鶏と中華ハム(“火腿”)を煮て作る“上湯”(シャンタン)の中から誕生する。

 しかし、フカヒレの“富貴”のため、フカヒレが食卓に出されるや、食客の注意力は期せずして皆(“不約而同”)スープの中のヒレの多寡に集中し、しかもこれが騙されていないか(“受騙上当”)判断する標準となっている。フカヒレがスープの中に入っている数は固より定価の根拠の一つであるが、フカヒレの料理の中での根本作用は、他から味を借り(“借味”)、味を調和させる(“和味”)ところに重きがあり、それ自身の「食べ応え」(“可嚼性”)ではない。

 道理は誰でも知っているが、実践上は「より速くより安く」(“多快好省”)の衝動を抑制するのは難しい。だから、タイの中華街(“唐人街”)の多くの魚翅店が、専ら香港の旅行者のために一種のファーストフード式のフカヒレ料理を作り、「ヒレがたくさん入っている」ことを売り物にし(“売点”)、大きなお椀に、一杯に入っているのは全部フカヒレで、値段はたった40数香港ドル、はるばる来た(“遠道而来”)香港の食客は下顎を大いに喜ばせる(“大快朶頤”)と同時に、ある面、仇を取ったような痛快感を味わうことができるのである。

 実際は、食客を満足させる太く大きなヒレは、基本的に火力不足の結果であり、火力が十分なフカヒレ料理は、ヒレが小さく細いだけでなく、柔らかくよく煮えた食感がある。食客の「重さが十分」(“斤両十足”)に対する過分な期待は、しばしばレストランやコックの低劣な、不合格の技能を覆い隠し、速やかに十分な重さと見栄え(“排場”)の料理を手配(“舗排”)させた。例えば、“大紅浙醋”(浙江省産の赤色の酢)(店によっては、赤ワインから作ったワインヴィネガーがこれに取って代わり始めている)は何のために用いるのか。それは、火力不足で、フカヒレがまだ鍋で煮られて充分に細かく滑らかになっていないので、酢で生臭さを消し、消化を助けるためである。あの一皿のもやしは、又どうやって食べるのか。これは根本的に何の風味も加えることはできず、熱々のスープを冷ますことができるだけである。

 私はまた、袁子才の嘲笑い(“哂笑”)を耳にした。「嘗て某太守の宴客に見(まみ)えた。大きな碗は甕(“缸”)のようで、白く煮られた燕窩(つばめの巣)が四両(200g)、ちっとも味がしないが、人々は争ってこれを褒める。余は笑って言った。「吾輩は燕窩を食べに来たので、燕窩を売りに来たのではないよ。」もし見た目を褒めるだけなら、お椀の中に真珠を百粒ばかり放り込めば、価値は万金である。(でもそうすると)これが食べられなくなってしまうのをどうしようか?」

 魯迅は言った。「魚翅を見て、別に路上に投げ捨てて「平民化」を顕示するのでなく、栄養(“養料”)があるのなら、友人たちと大根や白菜のように食べてしまえばよい。」

 実際、単純に栄養学について言えば、フカヒレ、燕の巣、アワビの人体に吸収される栄養分は、若干の高タンパク質である食品に過ぎず、効能はニワトリの卵とさして変わらない。《本草綱目拾遺》に言う、「魚翅は五臓を補い、腰力を長じ、気を益し痰を清め胃を開き、血を補い、腎を補い、気を補い、肺を補い、食欲を増進させる」というのは、基本的にでたらめ(“扯淡”)である。

 ある報道によれば、フカヒレを食べ過ぎると、発育不良になるという。しかし、地球上で絶えず減少しているのはサメの方で、フカヒレを食べる人類ではない。世界自然基金会の報告によれば、サメは海洋で最も凶悪な掠食動物であるが、人類がサメを乱獲した結果、サメは種の絶滅に瀕している。世界自然基金会の推定では、毎年三千万から七千万頭のサメが捕獲されている。アジアのインドネシア、シンガポール、中国(香港、台湾地区を含む)等の国が、それぞれが最大のサメ捕獲国、世界のフカヒレ貿易の中心、世界最大のフカヒレ生産国等、分担して異なった役割を担っている。

 環境保護のことはさておき、フカヒレが人間にもたらしたのはつまるところ愉悦なのか、それとも焦燥なのかは、またたいへん微妙な問題である。香港映画《満漢全席》の中で、ひとりの美食評論家がこう言った。「フカヒレは食べると、原始的で血なまぐさい(“血腥”)味がする。」“血腥”とは文化的な意味で、社会の階級や身分の認識と直接の関係があり、それは人間が自分で発明した、圧迫を行い、自分を圧迫する無数の道具の一つとして抽象化されている。特に男性主体の社会では、“魚翅”ということばは“富貴”、“成功”、“失敗”、“発育不良”といったことばと溶け合って一体となり、禁忌の連鎖の輪のひとつひとつをしっかりと構成している。

 数年前、香港の海水浴場の海面でサメが人に喰い付くという惨劇が発生した。海水浴客は現場でTV局の記者に質問された。「サメが怖くないですか?」この海水浴客は腹立たしげ(“悻悻然”)に答えた。「怖い、もちろん怖いですよ。何時だって怖い。海の中では、奴に食べられるのが怖い。レストランでは、お金が無くて、奴を食べられない(“吃不起”)のが怖い。」

【原文】沈宏非《写食主義》四川文藝出版社2000年9月より翻訳