中国語学習者のブログ

これって中国語でどう言うの?様々な中国語表現を紹介します。読者の皆さんと一緒に勉強しましょう。

文の類型と文型

2010年09月30日 | 中国語

 詞組が文となっても、正しく意味を捉える手法は同じで、文を分析し、それがどの文型に属するのか、正しく理解することが必要です。文を構造別に類別する時、その区分には、句類、句型の二つの概念があります。

                      文と文の分析
                文の分析とはどのようなものか

 文(“句子”)は異なる角度から分析を行うことができる。
 文の語気により、陳述文疑問文命令文(“祈使句”という。英語でいうImperative Sentence)、感嘆文に分けられ、これらを一般に“句類”(文の類型)と呼ぶ。
 また、文の構造や型により、単文複文主述文(“主謂句”)、非主述文(“非主謂句”)などに分けられ、これらを一般に“句型”(文型)と呼ぶ。
 “句類”と“句型”は二つの異なる概念であり、同一の文型でも異なる文の類型であることがあるし、同一の文の類型でも異なる文型となることがある。例えば:
     (1)這是一首很好的詩。(陳述文)
     (2)誰写的?(疑問文)
     (3)你先念一遍吧。(命令文)
     (4)這首詩写得真不錯!(感嘆文)

 以上の四つの文は異なる文の類型であるが、これらは何れも同一の文型、すなわち主述文である。明らかに分かる(“顕而易見”)ことは、1番目の文が主述文であることだが、2番目の文を疑問文と判断する時、私たちは文の語気を基準にしている。一方、これら四つの文は皆主述文であると言う時には、私たちは語句の構造を基準にしている。

 文の構造分析の終極の目的は、文型を確定する為である。

 文型は多くの文例の中から帰納されたもので、様々な文が同一の文型に帰納される。
 例えば:“他動身了。”“他動身了?”は異なる文だが、同じ文型に属する。なぜなら語気を表す成分は文型に影響を与えないからである。
 “你読書。”“他看報。”“我写文章。”この三つの文も同じ文型に属する。なぜなら、文の中の機能が同じ詞の入れ替えは、文型に影響を与えないからである。
  “天気就要熱起来了”と“天気看起来就要熱起来了”は同一の文型に属するが、文の中に独立した成分を加えても、文型には影響を与えない。
  “他想起来了”と“慢慢地他想起来了”は同一の文型に属するが、語句の拡張(修飾語の追加)は文型に影響を与えない。
 “你哥哥走了嗎?”と“走了嗎,你哥哥?”は同一の文型に属し、語順を変えても、文型には影響を与えない。

 文型を確定するには、以下の方法が採られる。
 第一、上位の文型から下位の文型へ、順番に確定していく。一つの文を持ってきて、先ずこれが単文か複文か見る。もし単文なら、更にこれが主述文か非主述文かを見る。もし主述文なら、述語の構造により、その類型を確定する。

  第二、文の成分の拡張は文型そのものに影響を与えないので、文に付いている修飾語は文型を確定する根拠にならない。

 例えば:
     (5)関于種植棉花,我没有経験。
     (6)在我国,北方還是氷天雪地,南方已経開始播種了。

 上の二つの文は、全体から見ると、何れも偏正構造に属する。文型を確定する時、(5)は単文の中の主述文に分類され、(6)は複文に分類される。なぜなら、(5)は主述文の拡張型と見做すことができ、(6)は複文の拡張型と見做すことができるからである。

 このような方法は、主述文の下位の語句の類型の確定にも推し広げて使うことができる。例えば:
     (7)我已経読完了一年級課程。
     (8)他比我唱得好。
     (9)你別光着頭出去。
     (10)大家先譲他談談。
     (11)這本書的確内容豊富。

 これらの文の述語は何れも偏正構造であるが、拡張成分を取り除くと、(7)は動賓述語文、(8)は後補述語文、(9)は連動述語文、(10)は兼語述語文、(11)は主述述語文である。


******************

 文型分析の中で、主に主述文を取り上げて説明しました。主述文は、中国語の文で最も標準的な、S+V、S+V+Oの文型です。それでは、もうひとつの非主述文とはどのようなものでしょうか。


                        非主述文

 単文の中で、主語と述語から成る文を見出せない時、その文を非主述文と呼ぶ。非主述文には、名詞性のものと非名詞性のものがある。

 ◆名詞性のものの例:
     (1)小王!   (親しい人への呼びかけ)
     (2)票!     (チケットの販売員がお客にチケットを渡す時の呼びかけ)
     (3)好熱的天気!  (気候の変化に感銘を受けた時のつぶやき)
     (4)一九七九年的春天。 (文藝作品の本題に入る前の背景説明)

 ◆動詞性のものの例:
     (5)出太陽了。   (自然現象の説明)
     (6)忽然響起了鐘声。 (出現した状況の説明)
     (7)不許攀折花木。 (一般的要求の表示。公園などの禁止事項表示)

 ◆形容詞性のものの例:
     (8)好極了!
     (9)真熱!

 この他、感嘆詞、擬声語(“象声詞”)も非主述文を構成することができる。

 上記の非主述文は、あるものは一つの詞であり、あるものは一つの偏正詞組や動賓詞組であり、構造は皆簡単である。
 非主述文は、省略文とは異なる。省略文は、言語環境(上下の文を含む)の手助けにより、語句のある成分を省略したものである。例えば、命令文は通常、主語を省略する。この主語は確定的であり、もし主語を補充して言うなら、正確に言うことができる。対話の中の命令文、例えば“別抽煙”と言う時は、暗に二人称の主語を含んでおり、具体的な環境の中では、“你”、或いは“你們”を加えて理解される。公共の場所でのポスター、貼り紙で“禁止抽煙”と書かれている場合は、それ自身が完全で、主語を加えなくても理解できる。したがって、前者は主述文の省略形式、後者は非主述文である。


【出典】胡裕樹主編《現代漢語》重訂版・上海教育出版社1995年


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詞組の階層分析、及び詞組の多義性

2010年09月28日 | 中国語
 これまで、詞組の類型、構造の特徴を見てきましたが、通常の文では、複数の詞組が結合して使われます。こうしてできた、複雑な詞組を分析する手法に、階層分析があります。

                    詞組と構文分析
                 五 複雑な詞組と階層分析

 これまで述べた各種の詞組は、“的”を使った構造や、介詞構造(“結構”[注①])とつながり合って、複雑な詞組となる。複雑な詞組は、一層一層がつながり合い、したがってずっと切り分けていくことで、その中の語句の間の階層や関係を探し出すことができる。これらの階層ごとの区分は、下記のように表すことができる。

[注①] ここでの「構造」(“結構”)とは、一方を実詞、一方を虚詞から成る組合せを指す。

     ◆ 提高 分析問題 和 解決問題 的 能力
        ――――――― 動賓 ――――――――      
           ――――――  偏正  ――――――      
           ―――― 連合 ――――      
           ―動賓―     ―動賓―

     ◆ 教学経験 豊富 的 老年教師
        ――――― 偏正  ―――――
        ―― 主謂 ――     ―偏正―
        ―偏正―

     ◆ 本国生産 的 和 従外国進口 的  
        ―――――― 連合 ――――――   
        ― 的構造  ―    ― 的構造――   
        ―主謂―        ―介詞構造

 上記の分析から分かることは、語句の組合せの関係は直接的なものと、直接的ではないものがあるということである。区分する時、先ず全体からそれらの構造を理解し、直接的な成分を探し出す。一般的には二分されるのではなく、連合関係などの詞組が包含する直接成分が二項目以上ある時、多項目に分解される。このような階層的な分解方法を“層次分析法”(階層分析法)と呼び、このような分析が“句法分析”(構文分析)である。

 注意すべきは、いくつかの偏正詞組では、修飾語が比較的複雑で、修飾語と修飾語の間や、修飾語と中心語の間に別々の関係が存在することである。一つのケースとして、例えば、“偉大的、光栄的祖国”と言う時、ここで“偉大的”と“光栄的”の間の関係は並列的で、この関係は、詞組全体(“偉大的、光栄的”)が中心語を修飾していると見做すことができるし、二つの並列する成分がそれぞれ中心語を修飾していると見做すこともできる。すなわち“祖国”は“偉大的”と“光栄的”の修飾を個別に受けているという見方もできる。

 もうひとつのケースは、例えば、“一位工人的建議”と“一項工人的建議”の場合である。前者は“一位”が“工人”を修飾し、“一位工人”が“建議”を修飾している。後者は“工人”が“建議”を修飾し、“一項”は“工人的建議”を修飾している。

 私たちはA、B……を用いて修飾語と被修飾語の各項を表し、>を用いて修飾関係を表すとすると、上の詞組の構造は、符号を用いて以下のように表すことができる:

      (A+B+C)>D、 或いはA>D+B>D+C>D
      (A>B)>C
       A>(B>C)

 実際の言語中では、これらの異なった関係は、一つの文の中に入り混じって存在する。例えば:
     世界上 一切 善良的 愛好和平的 人民的 優秀 之 花       
               ――― ――――― ――   ――    ―     
           ―― ――――――――――――  
     ――― ―――――――――――――――  ――――――

 “優秀”は“花”を修飾し、“善良的”、“愛好和平的”は“人民”を修飾し、“一切”は“善良的愛好和平的人民”を修飾し、“世界上”は“一切善良的愛好和平的人民”を修飾し、その後、組み合わされて“優秀之花”を修飾する。

*************************

 もうひとつ、詞組を分析する時に注意しないといけないのは、このような複雑な詞組では、語句の構造により、詞組が複数の意味を持つ(特に文法構造の違いという意味で)ということです。このことは、詞組の本となる詞が、通常複数の意味を持つのとよく似ています。

               六 多義と岐義(意味の紛らわしさ)

 形式上は一つの詞組であるが、実際は二つ、或いは二つ以上の異なった種類の詞組が交叉していっしょに使われる。このような詞組は多義的である。多義性は詞の特徴で、単義、つまり一つしか意味を持たない詞は、語彙の中では少数である。詞組は、その置かれた状況により、一般には単義であるものが、多義になることがある。例えば、“学習文件”、“研究計劃”、“出口商品”は偏正詞組、動賓詞組両方の場合がある。(「学習文件」という名詞であれば偏正関係、「“文件”を学習する」という使い方であれば動賓関係。)多義詞組は、多義詞と同様、実際の上下の文の中で、通常はただ一つの意味を表す。“我們下午学習文件”の中の“学習文件”は動賓詞組であり、“這是一份学習文件”の中の“学習文件”は偏正詞組である。しかし、文によってはこれら二つの何れもが考えられる場合がある。例えば、“我們要学習文件”は、「“文件”を学習しなければならない」という意味と、「“学習文件”が要る」という意味と二つのケースが考えられる。これを詞組の“岐義現象”(岐義:意味が紛らわしいこと)と言う。

 “学習文件”のような詞組は動賓関係と偏正関係の交叉であるが、これは中国語の中では比較的よく見られる多義詞組の類型である。この他にもいくつかの類型の多義詞組がある。例えば:
     几個農場  的 青年     几個 農場的青年
     ――― 偏正―――     ―――偏正―――
     ―偏正―                   ―偏正――

 前者であれば、“几個農場”(いくつかの農場)の青年ということになる。後者であれば、農場の何人かの青年ということになる。誤解を避ける為、前者の意味であれば、“几個農場的一些青年”と言い、後者であれば、“農場的几個青年”と言うことができる。

 上記のような二つの状況は、またしばしばいっしょに結合する。つまり、詞と詞の間の結合関係の違いや、詞組内部の構造の階層の違いにより、多義現象が発生する。例えば:
     熱愛 人民的領袖     熱愛人民  的 領袖
     ―――動賓―――     ―――偏正――――         
         ―偏正――     ―動賓―

 指摘しておかなければならないのは、上記の分析は、書面の材料を対象にしているが、口語を分析の対象にすると、状況はまた変わってくる。一般に“几個農場的青年”と言う時、“几個”の後ろに明確なポーズ(休符)、或いは語気の延長があるか、“青年”の前に明確なポーズがあれば、誤解が生じることはない。また、例えば“拿了五塊銭出来”で、“出来”を軽声で発音すると、意味は“拿出来了五塊銭”に相当し、動賓構造になる。もし“出来”の“出”を軽声で発音しなかった場合は、全体の構造は連動構造になる。“我想起来了”も同様である。このように、いくつかの“岐義”の例は、実際には書面に書いた場合は岐義だが、口語として話す時は普通、岐義は生じないのである。

【出典】胡裕樹主編《現代漢語》重訂版・上海教育出版社1995年

 以上で、詞組の文法構造の説明を終わります。次回からは、文の分析をしていきたいと思います。

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沈宏非のグルメエッセイ: 生煎饅頭(焼き饅頭)

2010年09月26日 | 中国グルメ(美食)
 今回は焼き饅頭、小ぶりの肉まんを焼いた一品の話です。上海人はこの“生煎饅頭”に何か特別な思い入れがあるのでしょうか?上海出身の沈宏非の説明にも、たいへん力が入っています。表題の“十八春”は、上海出身の女流作家で、今も人気のある張愛玲の小説の題名です。《十八春》と生煎饅頭の関係、それは本文を読んでください。

                       十八春

 “生煎饅頭”(焼き饅頭)は、上海の市井の軽食(“市井小食”)である。私はこのことばを聞くだけで、或いはこの四文字を見かけるだけで、上海の横丁(“弄堂”)のにおいが漂ってくるような気がする。ちょうど、船酔いになり易い人が、船の切符を手に取るだけで、明らかに陸地の上の体と、明らかに体の上の頭が、実際は舟の上にいるのではないのに、ゆらゆら揺れて、目が回り、頭がくらくらしてくるのと同じである。

  およそ市井のものは、第一に上流の宴席には登らない(“不登大雅之堂”)-私の知っているところでは、ある高級レストランでは、“生煎饅頭”は実は店のオーナーやシェフもこの料理に私淑しているのであるが。多くは、横町の入口の屋台で、その場で焼いて売っている。第二に、安くなければならない。20年前、生煎饅頭は一両(50グラム)0.18元で売っていたが、20年後、一両1.8元に値上がりし、既にこの類の商品の中では名品と見做されている。通常の販売価格は一両1.5元、安くても1.2元以下にはならないし、高くても2.2元以上にはならない。価格の差異は大きくないが、量の上では、一律、一両4個である。二、三元のお金で、お腹一杯になることができる。五元も出せば、一家が飢えをしのぐことができ、十元はたけば、人にごちそうすることができる。

 古龍は小説の中でこう書いている。胡鉄花は小さな茶館に座って楚留香を待つ間、一度に蟹肉入りの小籠包を二蒸籠、生煎饅頭を二十個食べ、「更に麻糖(表面にゴマなどをちりばめ、齧るとサクッと割れる飴菓子)を一皿取ってお茶を急須に二杯飲んだ」。これはまさしく(“純属”)小説家の言、それも男性の小説家の言である。それに比べ、「当地の」市井の小説家の言といったら、つまるところ、やはり張愛玲のものを見なければならない。《十八春》の中で、踊り子の曼璐のことをこう書いている。彼女は「夜食を食べる習慣があり」、ある日の深夜、家に帰ってから、温め直した生煎饅頭を食べようとしていると、ふと物音で二階の母親がまだ寝ていないのに気が付いた。彼女は「その時、生煎饅頭を一皿両手で持ち、黒い緞子の黄色の龍を刺繍したバスローブをはおり二階へ上がって来た。」「曼璐は母親に生煎饅頭を一つ食べるよう言い、彼女自身も饅頭を一個、ひと口食べると、ふと怪訝に思い、電灯の下で食べかけの饅頭を左右にかざして見ると、その肉は真っ赤だった。彼女は、「こん畜生!この肉はまだ生じゃあないの!」と言い、もう一度見てみると、その白い皮の部分も赤く染まっており、それでようやくこれが彼女の口紅であることが判った。」

 張愛玲のペンにかかると、赤色は、セクシーだが不吉で、市井にいるのに荒涼として、華麗な服の上をはう蚤のようである。壁の上の蚊の血の跡や、胸の一点の朱砂色の痣以外に、張愛玲ファン達は未だこの赤く染まった生煎饅頭の肉餡と皮に付いた口紅に気づいていない。この小説を原作として撮影された映画《半生縁》の中で、梅艶芳演じる妾の曼璐は、真に迫って生煎饅頭を食べる場面を演じていた。これは香港映画の中でも珍しい原作に忠実な作品である。“十八春”の三文字は映画を作った時の時宜に合わなかったのかもしれないが、生煎饅頭を売る店の名前にはふさわしい。“半生縁”はやめてほしい。どこかのステーキ・レストランのようだから。実際は、“十八春”でもよいし、“半生縁”でも構わない。生煎饅頭とは別段のつながりもないことだ。私がここで取り持ちたいのは、主に私のあの熱心で客好きな上海の友人たちの巾着の中身のために、これから以降、生煎饅頭一皿か二皿で、三々五々、店名を目当てでやって来て色目を送る小金持ちの旅行客にお引き取りいただきたいということである。

 上海語で“包子”(バオズ。肉まんのこと)のことを饅頭(マントウ)と言う。したがって、“生煎饅頭”は実は“生煎包子”である。(北の包子が南下すると、自動的に一段低く見られる。ちょうど、小豆餡の包子が主食と見做されないことや、村長が政府の幹部と見做されないのと似ている。しかし、彼らが白湯を“茶”と呼ぶことを考えれば、「世の中に解けない梁は無い」の譬えの如く、解決の糸口はあるだろう。)そう、包子(バオス)である。大きさはゴルフボールぐらいで、見たところ、無邪気さが実にかわいらしい(“憨態可掬”)。“生煎”の名は、聞いた感じは、伝説上の酷刑のようだが、実際は先ず半発酵(小発酵)させた小麦粉の皮で餡を包み、平底のフライパンに並べて少量の油で焼き、何度か上から水を吹きかけてやれば出来上がるのは、全く“鍋貼”(クオティエ。焼き餃子のこと)とよく似ている。鍋から取り出す時に、白ゴマとネギのみじん切りを振りかける。香港の上海料理屋の中には、先に蒸してから焼く方法があるが、実に邪道(“歪門邪道”)である。“生煎生煎”、大事なのは“生”、つまり現場中継のように、その場で焼いてその場で売るという感覚、“Live”である。先に蒸して後で焼こうが、先に焼いて後で蒸そうが、つまり専業でなく誤魔化しをする「録画放送」では、おもしろくないのである。

 優秀な生煎饅頭の評価基準は三つ。焼いたその場で売ること、肉餡が新しくて柔らかく、肉汁(スープ)があること。下部がきつね色でサクッとしているが焦げておらず、皮が厚すぎないこと。

 高さを知ろうと思えば、先ず足元を見よ(“欲摸高,先探底”)。生煎饅頭の底の作り方には特殊な要求があり、これと鍋貼の間で一つの重大な分野を形成している。この底部は断じてピザとは異なり、薄さは各々好みがある。良い底は、堅く香ばしくサクッと脆く、キツネ色だが焦げてはいない。小麦粉以外に、これがうまくできるのは、直接、火加減が関係している。火が強すぎると堅くなり焦げてしまうし、火加減が足りないと柔らかすぎてぺしゃんこになってしまう。これを北京人は“底儿潮”(“潮”は品質や技術が劣っているの意味)と言う。強火で焼いている時、もし饅頭の底が鍋に付いていると、底の大きな面積に焦げ跡ができてしまう。したがって、生煎饅頭の焼く工程で工夫されているのは、“底朝天”(底を上に向ける)、或いは焼いている途中で饅頭の向きを変えてやることが、少なくとも欠かすことのできない工程である。しかし、効率のため、或いは怠けて、現在ではそんなことをする人はたいへん少ない。

 生煎饅頭の内部では、肉汁が成功か失敗かのカギである。味の良いこと、他に比べるもののないこのスープは、主に肉餡からのもので、その次に餡をかき混ぜる時に適量加えた豚肉の皮の煮凍りが援軍となる。小麦粉の皮が半発酵でないといけない、その目的も、発酵により餡の中のスープを吸い尽くしてほしくないからである。

 この基準に基づけば、呉江路小吃街東段の“小楊生煎館”が上海の生煎饅頭業界全体で、全てに優れた(“三好”)模範である。私が一人、店の入り口に着いたのは、ちょうど晩飯の時間で、「ザアッ」という音の中、既に十数メートルの行列ができていた。付近の“王家沙”は、上海で最も美味しく最も値段の高い生煎饅頭と称しているが、今しがた店の入り口を通った時は、店は閑古鳥が鳴き、子猫が二三匹佇み、この楊という名の男は、あの王という名の男より確かに何か秘訣を持っているのに違いない。道理で、最近《Wall Street Journal》までも取材に来て賞賛し、場を賑わしている。

 出来たての生煎饅頭を二両(100グラム)、琺瑯びきの皿を両手で持って、薄汚れた店の壁のところへ人をかき分け進んで食べる。うん、皮は薄い。底の焼け具合もちょうど良い。肉汁(スープ)は、有る、有るだけでなく、充分に有る、思った以上に多い、啜れるだけでなく、吸えるほど有る、飲めるほど多い、噴き出せる程だ。私が言いたいのは、このスープは食べている間の供給を保障するだけでなく、余分に出てくる部分は遊びに使うこともできるということだ。その時の状況は実際、少しかじると、濃厚で熱いスープが皮を破って飛び出し、まっすぐ上に飛び出し、私の眼に命中した。手で拭うと、指に糊でべとべとになったような感じで、まばたきをしていないと、まぶたが貼りついてしまいそうだった。二つ目を食べる時はひとつ目で経験したので、流体力学の理論をおさらいするまでもなく、この起爆物を危険距離より向こうに置いて、箸の先で慎重に穴を一つ開け、タイミングをみて、それに吸いつくと、大きな口で続けざまに三、四回吸い、スープを飲み尽くし、もう自分にかかったり、人に向け飛び出すことがないことが確認できたら、安心してむしゃむしゃ食べることができた。

 前で述べたが、私の見たところ、スープは肉餡と調味料の中から自然に出てくるべきであり、粘りや濃厚さを増加させる他は、豚肉の皮の煮凍りは、補助、或いはスターターに過ぎない。広東語では、ある人が色っぽいことを形容するのに、“出汁”という言い方をするが、実際、“出汁”であれ“入骨”であれ、意味は自然に現れ浸透することであり、こんこんと溢れて歯と頬の間を濡らし、“分泌”とよく似た現象である。“出汁”と“分泌”には原因があり、餡と合わせる時に決して手で柔らかくしてはいけない豚肉の皮の煮凍りを投入し、もたらされる滔々とした流れは、もはや内分泌とは言えず、外分泌である。よしんば内分泌と見做すにせよ、甚だしく調和を失っている。ようやく鍋貼から脱却し、自ら進んで湯包(小籠包)を見習うようになった。スープが多いと益々病みつきになることはとっくに分かっていたが、あのカレー牛肉スープは見れば見るほど余計なものに思えてきた。

 しかし、このことは全てを店側の責任にはできない。現在、街で売っている質の劣った生煎饅頭は、通常、乾いて水気が無いことで有名だが、それなら生煎饅頭のスープに対する要求は、食客の生煎饅頭に対する要求であろう。人間の欲望は渦を巻いているが、生煎饅頭のスープはその濫觴(らんしょう。「大河といえども、水源はやっと觴(さかずき)を浮かべることのできる小さな水たまりに過ぎない」という原議があり、普通は物事の始まりの意味)ではないか。私は“小楊生煎館”の入口で行列に並んでいる時、一人の女性が慣れた様子で先ず箸先で生煎饅頭の皮を突き破り、肉をつまみ出し、饅頭のスープを一滴残らず捨てているのを見た。このような行為に、専門家は悲しみ眉をしかめて「愚かな行為だ」(“洋盤”)と責めるが、今思えば、これも女性の身を守る術の一つに違いないではないか。

 胡蘭成はこう考えている。張愛玲の生活の中には「世俗的な清潔観があった」、すなわち「物事を処理するのに彼女の条理があり、且つ侮りを受けなかった」。《今生今世之民国女子》の中でこう書いている。彼女はある時上海の街頭で、チンピラに手に持っていた生煎饅頭をひったくられた。半分は地面に落ちたが、残り半分は彼女は紙の包みとともに「しっかりと」奪い返した。もし張愛玲の時代の上海の生煎饅頭の名店、例えば“大壺春”や“夢春閣”のものであったら、このようにスープがたっぷりで、チンピラが同じようにひったくろうとしたら、淑女も当然防戦するだろうが、“小饅頭”はこらえ切れず、スープが四方に飛び散り、めちゃくちゃになってしまった(“一塌糊涂”)だろう。張愛玲はたとえスープが顔にかかることはなかったとしても、手はおそらくチンピラの手といっしょにヌルヌルになり、世俗的と言えばたいへん世俗的だが、“清潔”とは言いようがないだろう。

【原文】沈宏非《飲食男女》 江蘇文藝出版社2004年から翻訳

  どうも沈宏非という人は、餃子や包子(バオズ)の時もそうでしたが、肉汁(スープ)に強いこだわりがあるようです。これは上海の人の一般的な感覚なのかもしれません。この話も、表題の張愛玲の《十八春》の艶めかしい世界は一瞬に通過し、肉汁の話に終始してしまいました。

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接続詞; 名詞性詞組と非名詞性詞組

2010年09月24日 | 中国語
 今回のテーマは二つ。一つは接続詞の使い方。もう一つは名詞性詞組と非名詞性詞組の特徴について、取り上げたいと思います。
 先ず、連合構造の詞組で、動詞+動詞、形容詞+形容詞、名詞+名詞を結合する時の接続詞の機能について、説明をしたいと思います。

                     詞組と構文分析
            三 連合詞組と連詞“并”、“而”、“和”、“或”

 動詞の結合(“連合”)には、“并”を用いて接続し、例えば“討論并通過”というようにすることができる。形容詞の結合は、“而”を用いて接続し、例えば“光栄而艱巨”のようにすることができる。名詞の結合は、“和”(跟、同、与)を用いて接続することができる。しかし、“和”は名詞の接続に限らず、動詞や形容詞を接続することもできる。例えば:
     (1)我們要積極地宣伝貫徹教育方針。
     (2)這件工作的意義十分偉大深遠。

 “和”が動詞を接続する時、一般に一つの賓語を共有するか、共通の状語がなければならない。形容詞を接続する時は、一般に共通の状語が必要である。

  並列する二つの語句の間に、“和”を用いなくてもよいが、“和”を用いないと、誤解が起こり易く、誤解を防ぐためには、“和”を用いるべきである。例えば、“平日有重要活動,不但跟学生商量,還征求家長的意見。在畢業分配時,也多次召集学生家長共同学習教育方針,一起研究班上的問題。”元の意味は、“学生和家長”であるが、“和”を省略したことにより、人に“学生的家長”と誤解され易くなっている。

 並列成分は二つに止まらず、習慣上は、“和”を一つだけ、最後の二つの語句の間に置く。例えば、“工人、農民知識分子”のようになる。もし並列するいくつかの語句がグループに分けられるなら、“和”と読点(、)を続けて用いて、グループ分けと並列の関係を表す。例えば、“工廠、商店農場、牧場”、“真假、善悪、美丑”のように用いる。

 “或”は名詞を接続し、動詞、形容詞を接続することもできる。“或”を連詞に用いるのは、「二つのうちの一つ」の意味で、選択関係を表す。

 “和”、“跟”、“同”は現代口語の中の詞であり、用法は同じである。“跟”は北京語の中では使用頻度が“和”より多く、“同”は華中一帯でよく用いられ、“和”は文章の中で最もよく見られる。

********************************

 次に、詞組の構文による機能の違いについて、考えます。詞組は、主に名詞性詞組と非名詞性詞組に分かれます。名詞性詞組というのは、主に偏正構造の詞組で、名詞になるものです。

                   四 詞組の機能分類

 構文の機能に基づき、詞組は名詞性詞組と非名詞性詞組などの種類に分類することができる。

 名詞性詞組は一般に述語にはならない。しかし、いくつかの名詞性詞組、例えば“三条腿”、“黄頭髪”、“大眼睛”は、述語として使うことができる。例えば、“這張桌子三条腿”、“那個人黄頭髪,大眼睛”がそうである。
(注:但しこれらも、“這張桌子”、“那個人”の後ろに動詞“是”が省略され、“三条腿”、“黄頭髪”、“大眼睛”は動賓構造の賓語であると解釈すれば、述語ではないと見ることもできる。)
 これらの名詞性詞組は閉鎖的で、拡張性が無い。この種の偏正詞組では、定語と中心語の間に“的”を加えることができない。

 名詞を中心語とする偏正詞組は、名詞性の詞組である。いくつかの動詞や形容詞を中心語とする偏正詞組では、名詞や人称代詞を定語にする。このような詞組も名詞性の詞組である。例えば、“会議的召開”、“動作的敏捷”、“他的到来”がそうである。数詞と物量詞の組合せも名詞性の詞組である。例えば、“三本”、“五個”がそうである。

 名詞性偏正詞組の修飾語を“定語”(限定語)と呼ぶ。

 非名詞性詞組の特徴は、述語になることである。よく見かける、動詞や形容詞を中心語とする偏正詞組は、動詞性詞組であり、動賓詞組、後補詞組、及び一般の主謂(主述)詞組も、動詞性詞組である。

 動詞性詞組の修飾語を“状語”(状況語)と呼ぶ。

 この他、もう一つ、修飾性の詞組がある。その特徴は、主語や述語にならないが、定語や状語になることである。例えば、“有生以来”、“無時無刻”、“一個勁儿”がそうである。多くの固定詞組(成語など)も、修飾性の詞組である。例えば、“排山倒海”、“経年累月”、“挨門逐戸”、“苦口婆心”がそうである。これらの詞組は、たいてい連合構造である。

・有生以来 生まれてこのかた
・無時無刻 時々刻々。四六時中
・一個勁儿 わき目もふらずに。ひたすら。一途に。
・排山倒海 山を押しのけ、海を覆す。気勢がきわめて盛んであるたとえ。すばらしい勢い。
・経年累月 何年も何か月も。長い間。
・挨門逐戸 家ごとに。一軒一軒。
・苦口婆心 老婆心から、繰り返し忠告する


【出典】胡裕樹主編《現代漢語》重訂版・上海教育出版社1995年


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助詞 “的” を用いた詞組の構造、意味の違い

2010年09月23日 | 中国語
  “的”は最も常用される助詞ですが、詞組(連語)の構造を分析していくと、“的”を用いるか用いないかで、詞組の構造や意味が変わったり、関係が明確になることが分かります。今回は、“的”の機能について紹介したいと思います。

                     詞組と構文分析
                二 偏正詞組と構造助詞“的”

 “的”は最もよく見かける、詞組(連語)の構造の種類を表す虚詞である。

 名詞と定語(限定語、連体修飾語)の間に“的”を用いるかどうかは、融通性があるように思えるが、こうした融通性には一定の制限がある。例えば、単音節の形容詞が名詞を修飾する時、“的”を用いることができるし、用いなくてもよい。“高山”は“高的山”と言うことができ、“好天気”は“好的天気”と言うことができる。しかし、“大的衣服”は、普通は“大衣服”とは言わないし、“好性子”は、普通は“好的性子”とは言わない。形容詞の前に状況語を伴う時は、必ず“的”を用いなければならない。例えば、“很高的山”、“非常好的天気”のようになる。動詞が名詞を修飾する時、“的”を用いるかどうかは、融通の利く時もある。例えば、“学習的時間”は“学習時間”と言うことができ、“辧公的制度”は“辧公制度”と言うことができる。しかし、“読的書”は“読書”と言うことはできないし、“画的図画”は“画図画”と言うことはできない。構文上から言うと、“的”を用いるか、用いないかは、文の構造、及び意味の違いに注意しなければならない。例えば:

   第一組(名詞+名詞)
     父親母親 → 父親的母親
     生物歴史 → 生物的歴史

   第二組(動詞+名詞)
     写文章 → 写的文章
     討論問題 → 討論的問題

   第三組(代詞+名詞)
     我們学生 → 我們的学生
     我們文藝工作者 → 我們的文藝工作者

 第一組は名詞と名詞の組合せで、“的”を用いて偏正関係(修飾、被修飾の関係)と連合関係(並列、或いは選択の関係)を区別している。なぜなら、「名詞+名詞」の型で通常出現するのは偏正関係と連合関係であるからである。第二組は動詞+名詞の組合せで、“的”を用いて偏正関係と動賓関係を区別している。なぜなら、「動詞+名詞」の型で通常出現するのは、偏正関係と動賓関係であるからである。第三組は代詞と名詞の組合せで、“的”を用いるかどうかにより、偏正関係であるか同位関係(同一の事物)であるかを明示している。なぜなら、この種の型で通常出現するのは、偏正関係と同位関係であるからである。もちろんこのことは、こうした組合せでは“的”を用いることによってはじめて偏正関係を表すことができると言っているのではない。次の例は別の状況を説明している。

   第四組(名詞+名詞)
     歴史事実 → 歴史的事実
     木頭房子 → 木頭的房子

   第五組(動詞+名詞)
     斗争経験 → 斗争的経験
     広播節目 → 広播的節目

   第六組(代詞+名詞)
     我們国家 → 我們的国家
     他哥哥 → 他的哥哥

 これらの例では、“的”を用いているものも“的”を用いていないものも、同様に偏正関係を表している。一般的に言うと、“的”を用いないものは、詞組全体の結合がたいへん緊密である。一方、“的”を用いると、前の語句の修飾性がより明確になる。この他、「名詞+名詞」の型の中では、“的”は従属(所属)関係(“領属関係”)と非従属関係を区分することができる。例えば、“朝鮮的朋友”は“朝鮮朋友”とはニュアンスが異なる。(“朝鮮的朋友”:「友達」という集合全体の中で、特に朝鮮にいる友達と範囲が限定される。“朝鮮朋友”は「朝鮮の友達」という集合が意識され、友達という集合の意識は弱い。)“孩子的脾気”は“孩子脾気”も同様である。 [注①] 
 
まとめると、“的”の機能は、主に二つの点を表す。一つは、偏正関係とその他の関係を区分すること、もう一つは、前の語句の修飾性、或いは従属(所属)性を強調することである。

[注①] 通常は、従属(所属)関係を表す時は、必ず“的”を用いる。非従属関係を表す時は、“的”を用いるものと“的”を用いないものと、二つの型がある。“××的××”という語句に出会い、それが従属関係であるかどうかを判断するには、これには前後に並列する語句があるかどうかを見なければならない。したがって、全ての場合に“的”によって従属関係と非従属関係の区分ができるわけではない。例えば、“討論曹操的問題”は、“関于曹操的問題”(曹操に関する問題。曹操自身の問題とは限らない)かもしれないし、“曹操自己的問題”(曹操自身の問題)かもしれない。

 偏正関係と非偏正関係を区分するには、前後に相対的な語句がなければならない。相対的な語句が無いと、機能の区分を云々することができない。修飾性や従属性を強調するには、前後に同等の語句がなければならない。同等の語句が無いと、強調している機能を明確にすることができない。前後に相対的な語句や同等の語句の無い状況では、“的”を用いなければならないか、用いることができないかは、構文により決まっている。例えば、主述詞組を名詞にする時の定語(限定語、連体修飾語)には必ず“的”を用いなければならない(例:麦子黄了的時節)。数量を表す数量詞組(繰り返しを用いない)を定語にする時は、“的”を用いることができない(例:一本書)。

【出典】胡裕樹主編《現代漢語》重訂版・上海教育出版社1995年

 語句中で“的”を使うべきか否か、普段なにげなく使い分けているかもしれませんが、このように分析すると、本当に必要な時だけ“的”を用いることができ、文章がより簡潔で、言いたいことがより明確になるのではないでしょうか。

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