中国語学習者のブログ

これって中国語でどう言うの?様々な中国語表現を紹介します。読者の皆さんと一緒に勉強しましょう。

“雷語”とは?―― 汚職役人達の人々を震撼させる言葉

2011年06月30日 | 中国生活

 今年は、従来無かったほど、地方の役人の不正に対し、政府が断固とした取り締まりをし、民衆の正当な権利を守ろうとしています。そんな中、こうした汚れた役人達の発した言葉を集めた記事が発表されました。時代劇の悪代官さながらの言葉が並んでいます。時代や国を越え、権力を握ると、人間のやることは同じだな、と感じる次第です。
 ところで、こうした、センセーショナルな言葉を、ネットから生まれた新語で“雷語”と言います。詳しくは、以下の語句解説をご覧ください。

     -*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-

■[1]
  (クリックしてください。中国語原文と語句解説が見られます)
   ↓


□        汚職役人の「人々を震撼させた発言」に焦点を当てる:
      県の党委員会書記の任に就くと、犯罪に手を染めざるを得ない?!
             2011年6月8日 西安晩報(夕刊紙)より

□ 昨日、《検察日報》は最近取り調べを受けた、何人かの正体が暴かれ、法の網の中に入れられた「害虫」達、「ドブネズミ」達の言論について整理し発表した。《検察日報》は評論の中で次のように語った:これらの言論は、彼らの仲間達が明るみにしたものか、そうでなければ彼ら自身が取り調べ官に対して話したもので、もう二度と、彼らが役職にあった時のように、大風呂敷、絵空事、決まり文句、永遠に間違うことが無いなどという無意味な話が、滔々と絶えることなく語られるということは無い。しかも、それぞれが個性を持っている。

●[2]
 

○ 「もし一銭の金の問題なら、私は十年獄に繋がれよう。一万元の問題なら、私を銃殺刑にしてくれ。」
 これは507万元の収賄をした湖北省監利県国土局の元局長、黄建平が検察官に行った宣誓である。
☆ 論評:もし「事実を根拠とし、法律をよりどころにする」を「事実を根拠とし、宣誓をよりどころにする」に改めたなら、黄局長は507回銃殺にされなければならない。彼にはそんなにたくさん首があるのか。

●[3] 
 

○ 「金を使わずに科長になった者がいるなら見てみたいものだ。本当にそんなに才能があるなら、そのお方をご主人さまと呼ぼう。」
 これは浙江省杭州市濱江区党委員会元書記の尚国勝が贈賄者に対して言った話である。
☆ 論評:尚書記の話は短いけれども、意味深長である。その言外の意味は、当地の役所のポストはただではない。たとえ友情が深く、関係が強固であっても役職に就きたいなら、事前に金を渡さないといけない。ここから分かることは、「金を出せば事が進む」ということこそ正しい論理で、金が無いなら、話をする値打ちも無いということである。

●[4]
 

○ 「私は政府の役人の庇護を受けていて、それも本庁クラスからで、やつらが先ず私から取り調べることはあり得ない。きっと先ずおまえから取り調べるだろう。おまえはじっと我慢していなければならない。鋼鉄のような意志を持たないといけない。コンクリートでも不十分だ。」
 これは浙江省石化建材集団有限公司の元董事長、王先龍の愛人に対する要求である。
☆ 論評:汚職官僚と情婦の関係は、一言で言えば、権力とセックスの取引きである。男が権力で肉体を征服すれば、女は肉体で権力を征服する。男は女を弄ぼうと思っている時、実は女も男を弄んでいるのである。今や危機が迫り、男は女に鋼鉄の意志で男を守るよう求めたが、女もばかではない。女が手柄を立てて罪をあがなうには、男を巻き添えにしなければならない。男の夢は水泡に帰したのである。

●[5]
 

○「腐敗撲滅活動は、隣でレンガを投げているようなもので、ぶつかった者が運が悪いのだ。まさか今日私にその番が回って来ようとは思ってもいなかった。」
 これは1500万元の金をかき集めて私腹を肥やした中国有数の貧困県である甘粛省宕昌県の党委員会の元書記、王先民の話である。
☆ 論評:レンガが下に落ちるのには、必然性がある。あなたにぶつかって他の人にぶつからないのは、偶然である。あなたが捕まって、刑に処せられるのには、必然性がある。なぜなら、あなたには経済的な問題があるからである。「いわゆる偶然なるものは、必然が中に隠された一つの形式である」(マルクス)。皆さん、しばらく立ち止まって見てみましょう。次に落ちてくるレンガは、どの大物の汚職役人にぶつかるでしょうか。

●[6]
 

○「私が県の党委員会書記に在職している間は、目下の社会環境では、犯罪を犯さないなんてことは不可能だ。なぜなら私は自分の価値理念を持っているだけでなく、誰もが実行している裏の掟にも従わないといけないからである。」
 これは「ソフトな腐れ役人」、雲南省麻栗坡県の党委員会元書記、趙仕永の言う、「裏の掟」という、びっくりするような話である。
☆ 論評:彼は罪を贈賄人になすりつけているかのようであるが、実は彼は一つの法則を忘れている。すなわち、事物の発展変化は、内因が根拠で、外因が条件である。外因は内因を通じて機能する。もし彼が清廉潔白なら、「裏の掟」は機能できるだろうか。

●[7]
 

○「もし私が汚職官吏だと言うなら、役所の人間は皆汚職官吏である。何に基づき私を裁くのか。本当に私を交代させるなら、私は三日三晩引き継ぎをして、茂名の役所をそっくりひっくり返すことだって出来る。中国は腐敗分子が腐敗分子を取り立てているのに、腐敗分子が腐敗に反対するというのか。」
 これは広東省茂名市党委員会元書記、羅蔭国が取り調べを受けた時に言った言葉である。
☆ 論評:この話はもちろん偏ったものの見方をしていて、大げさ言っているが、このことから私は温家宝総理の次の名言を思い出した:
「平和な成長段階で、執政政党の最大のリスクは腐敗であり、腐敗が生みだされる根本的な原因は、権力が効果的な監督と制約を受けることができていないことで、この問題をうまく解決しないと、政権の性格は変わってしまい、人がいなくなると政策も息絶えてしまう。これは私たちが直面している極めて厳しい試練である。」 
 腐敗撲滅の前途は依然厳しいが、私たちは力を出して総合的に管理しなければならない。

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国連 潘基文(パン・ギブン)事務総長再任演説で老子の言葉を引用

2011年06月28日 | 中国ニュース

 今回は、国連の潘基文(パン・ギブン)事務総長がニューヨークの国連総会で再任されました。国連総会でのスピーチで、潘基文事務総長は、老子の言葉を引用されました。今回は、このニュースについて、紹介したいと思います。

 原文は:
To quote the great philosopher Lao-tzu:
“The Way of heaven is to benefit others and not to injure.
The Way of the sage is to act but not compete.”
Let us apply this enduring wisdom to our work today. Out of the competition of ideas, let us find unity in action.

 この“The Way of heaven is to benefit others and not to injure. The Way of the sage is to act but not compete.”という老子の言葉ですが、中国語の原文は次の通りです。
“天之道,利而不害;聖人之道,為而不争”

 この言葉が引用される前の、潘事務総長のスピーチの要旨は:
■ 潘基文在随后用英語和法語発表的致辞中感謝各国対他的支持和鼓励,強調還有許多未完成的事業。“顕而易見,我們還有長路要走。太多人缺乏基本人権,太多人正在挨餓,太多儿童毎天無辜死去。”潘基文説,他将在新任期中継続充当一名“架橋者”和“協調者”,致力于増強世界各国、聯合国自身系统以及聯合国与其他国家組織之間的関係。
(《潘基文連任演講引老子名言》6月23日 河北日報)

□ 潘基文はその後英語とフランス語で発表した挨拶の中で、各国の彼への支持と励ましに感謝し、まだ多くの未完成の事業のあることを強調した。「見て明らかなように、私たちはまだはるかな道を歩まねばならない。多くの人が基本的人権を欠き、多くの人が正に餓えに苦しんでおり、多くの児童が毎日罪も無く死んでいる。」潘基文は新たな在任期間中、引き続き一人の「架け橋」、「協調者」として、世界各国、国連内の関連部門、国連と他の国家組織との間の関係強化に力を尽くしたいと語った。

 そして、上記の英語文のように、この老子の言葉を引用しているのです。
■ “天之道,利而不害;聖人之道,為而不争”

□ 「天の道は、利して害さず。聖人の道は、為して争わず。」

 老子の“天之道,利而不害;聖人之道,為而不争”は、《道徳経》第八十一章に出てきます。:
■ 信言不美,美言不信。善者不辯,辯者不善。知者不博,博者不知。聖人不積,既以为人己愈有,既以与人己愈多。天之道,利而不害。聖人之道,為而不争。

□ 信じられる言葉は美しくなく、美しい言葉は信じられるものではない。善を知る者は、善を論じることなどなく、善を論じる者は善を知らない。深く知る者は、広くを知らず、広くを知る者は、深くを知らない。聖人は蓄えをしないが、人の為に行動することで自分にも利益が得られ、人に施しをすることで、自分に与えられるものも益々多くなる。天の道は、利を求めても他人の利害を損なうことはなく、聖人の道は、どんな行動でも人と争うということをしない。

 潘基文事務総長が、この言葉を引用して言いたかったのは、次のようなことです:
■ 潘基文還引用中国古代思想家老子的話“天之道,利而不害;聖人之道,為而不争”,表示要将這一先賢的智慧応用到工作中,与各国一起共同応対当今世界的挑戦。
(《潘基文連任演講引老子名言》6月23日 同上)

□ 潘基文は更に中国の古代思想家老子の“天之道,利而不害;聖人之道,為而不争”を引用し、この先賢の智慧を仕事に応用し、各国がいっしょになって現在の世界が受けている挑戦に対応していこうと表明した。

■ 潘基文説,新任期中,他将重点関注気候変化、核裁軍、中東和平等議題,打算在今年9月召開的聯合国大会期間公開下一任期藍図。
(同上)

□ 潘基文は、新たな任期の期間中に、重点を気候変動、核軍縮、中東和平等の議題に置き、今年9月に開催される国連総会の期間中に次の任期(5年間)の青写真を公表したいと語った。  

 潘基文事務総長の過去5年間の成功のポイントは、安保理常任理事国5カ国と均等に良好な関係を維持し、細心の注意を払い、何れかの国を怒らすことのないように気をつけたことにある、と言われています。再任の受託演説で、東洋思想の根幹とも言える老子の言葉を引用したあたり、気配り事務総長の真骨頂ですし、彼の東洋人としてのアイデンティティーの発揚だと思い、同じ東洋人の一人として、誇らしい気持ちになりました。
 尚、スピーチの原文は、
http://www.un.org/apps/news/infocus/sgspeeches/statments_full.asp?statID=1227
からどうぞ。

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一枚の写真から~《幸福》清掃夫とその孫娘の表情

2011年06月21日 | 中国生活

 今日の話題は、一枚の写真が中国のネット読者に与えた感動についてです。中国のニュースでは連日、今や世界で最も影響力のある国として、政府要人が世界中の政財界の首脳と会見し、先端産業の成果を宣伝する映像が映し出されています。そうした社会の発展の中で、世の中から忘れられた、社会の片隅での一瞬の出来事に、心が癒されます。

     -*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*

■[1]
 (クリックしてください。中国語の原文と語句解釈が見られます)
     ↓


□  人民ネット評論:
   草の根の中国、いつもある種の力が私たちの心の奥底を温め潤してくれる  
      蔡暁輝 2011年6月9日 人民ネット-“ものの見方”チャンネル

□ 最近、一枚の《幸福》と名付けられた写真がネット上で話題になっている。この写真は最初、「金雲鐘」というネット読者が「撮影フォーラム」上に貼り付けた。しかしツイッターで「わが心が芽吹く」という読者が6月7日に送信してから、わずか2日間で8万回近く転送され、コメントは1万件余りになった。

■[2]
 

□ 情報が数え切れない程多いインターネットの世界では、このように強烈な共鳴の感情を引き起こすものは、極めて本質的で直接的なものに違いない。正にこの写真がそうである。一人の清掃夫が街角で孫娘を抱いて鼻を寄せ合うと、どす黒いしわだらけの顔から菊の花のように喜びがほとばしる…… 時間の面から言うと、それは純粋に労働者の職業の痕跡で、風に吹かれ日に晒されるという、生きていくための営みを読み取ることができる。生活の面から言うと、この瞬間、このしわは、個人の幸福によって、しばしば最も人を感動させる曲線に変化し、見る者に、自分の心の中の最もやさしい心のときめきが聞こえるだろう。

■[3]


□ これが正に《幸福》が見る者を深く感動させるところである。労働者の幸福や、草の根の愛情、これは社会の活力である。どの人も皆、長い人生の道を歩まねばならず、出発点が違えば、境遇も異なり、現実に対する願望も異なる。しかしこの写真を見ると、このごく普通の人のありふれた喜びを見ると、私たちの心の中に湧き立つものは、同じやさしさと希望である。老清掃夫が粗末な清掃用具を下に置き、子供を膝に抱き上げた時、喜びが泉のように自然と流れ出し、労働の疲れはこの一瞬に煙のように消えてしまった。幸福と肉親の情愛は、ごく普通の労働者にとって最高の慰めであり、これは草の根の階層の生活の活力であり、希望であり、未来である。

■[4]


□ 世事が如何に苦難に満ちていて、生活がどんなに難しくとも、幸福があれば、未来がある。埃にまみれた清掃夫であれ、工事現場で汗を滴らせている建設労働者であれ、工場の生産現場で機械に潜り込んでいるマシン・オペレーターであれ……皆、生活の為、あくせくと走り回り、運命と抗う力比べの中でも、同様に一つの夢を隠し持っている。子供の為、家族の為、より良い、より安定した未来を作り出そうと。これは草の根の夢であり、草の根の幸福である。「弱者心理」が絶えず蔓延する社会の中で、心の中に希望を持つ人一人一人が、注意深く、自分の幸福に神様のご加護があることを祈っている。それが生活の意義であり、生きることの報いである。

■[5]


□ 私たちは人との格差は否定しないし、公平でないことを否定しないが、私たちが気にかけるのは――幸福である。人はある種の幸福の瞬間に心を揺さぶられるやいなや、自分の心の奥底の声が聞こえてくる:この平凡な幸福を守らなければならないと。この声は一種の責任感である――草の根の幸福を大切にし、草の根の幸福を保護することは、猛スピードで発展し、姿を変えつつある中国に於いて言えば、目下の最大の社会的な責任である。

■[6]


□ ツイッターで、ネット読者はこの写真を評して、「いつもある種の力が私たちの心の奥底を温め潤してくれる」と言った。実際、常にある種の感動は、私たちがしっかりと守るに値するものである。この力、この感動、これこそ草の根の幸福である。正に無数の中国の草の根が、純粋で、素朴な行動で自らの幸福を編み出していて、そうして初めて人々は社会の温かさや愛情を体に感じることができ、人生の素晴らしさと希望を知ることができるのである。

■[7]


□ 「幸福」という言葉は、ここ数年、政府トップから民間に至るまで、ずっと繰返し大切にされてきた。「私たちがすることの全ては、人民がもっと幸福に、もっと尊厳を持って暮らすことができるようにする為である。」草の根の幸福を重視し、草の根の幸福の為に最大の空間の社会を作ることによってはじめて、人の心の隙間を埋め、離散から人の心をつなぎ合わせる力が得られる。草の根の幸福を保護し、私たちの心の拠りどころを見守ることによって、社会の底辺はそんなにも脆く弱い状態にまで至らずに済むだろう。


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中国の大学入試事情 ~ “高考”について

2011年06月11日 | 中国生活

 6月7日、8日、一部地域では9日まで、“高考”gao1kao3、正式には“普通高等学校招生全国統一考試”が行われました。中国での“高等学校”とは、総合大学、単科大学の“本科”(4年制の教程)、“大専”(3年制の教程)を含む大学レベルの学校のことを言います。志願者は、この統一試験の成績に基づき、志望大学を選択し、大学は基本的にこの試験結果に基づき合格者を決定します。

  試験は、6月7日の午前(9:00~11:30)が語文(国語)、午後(15:00~17:00)が数学。8日の午前が選択で文科綜合、或いは理科綜合。午後が外国語です。この中で、毎年注目されるのが7日午前、語文の小論文の課題です。この小論文の課題をはじめ、統一入試といいながら、各地の独自色が濃くなっているのが、最近の中国の大学入試の特徴であるようです。
 そこで、次のような記事を見つけました。

■[1]
 (クリックしてください。中国語原文と語句解説が見られます。)
    ↓


□ 北京の大学入試で小論文を独自に出題するようになって10年: 新しさを求め、変化を求め、北京の独自性が徐々に色濃くなっている
   2011年6月7日《北京日報》

□ 今日午前9時、受験生の目の前に現れた小論文の出題は、北京市が独自に出題するようになってから十回目の夏季大学入試の小論文の課題である。2002年の春季入試で、北京市が初めて独自に大学入試問題の出題を始めてから、今年で十年が経過した。この十年、受験生の入試準備の指導をしてきた高三の教師、及び入試の採点教官はこう語った。十年間の独自の出題で、「北京版入試問題」の地域色は益々色濃くなり、個性は益々鮮明になった。

■[2]


□ 2002年、北京の大学入試の一部の科目は全国統一問題を使わず、独自出題を開始した。 
 “3+X”の試験形式がその年の春季入試で初めてお目見えし、受験生は五科目の試験を受ける必要がなくなり、四科目、すなわち、語文(国語)、数学、外国語の三科目の他、文科系の受験生は文科綜合、理数系の受験生は理科綜合を受ければよくなった。この時の春季入試ではまた、北京の入試問題の独自出題が始まり、その年の春季と夏季の入試では、語文、数学、英語が北京の独自出題で、文科綜合と理科綜合は教育部の入試センターの統一問題であった。2002年の夏季入試の語文の小論文の題は《規則》で、北京市の夏季入試の独自問題で初めての小論文の題となった。 
 2年後の2004年の夏季入試から、文科綜合、理科綜合ともに北京市の独自出題となり、北京市の入試の全科目独自出題が実現した。 
 2006年から、北京市は春季入試を廃止したが、春季入試から開始した独自出題と“3+X”の入試形式は現在まで継続している。

※ このように、大学の統一入試は、地方の独自色も加えながら、改革が続けられてきました。

■[3]


□ 2002年の北京の夏季入試以来、語文学科は主観問題の配点が増加し、試験問題の内容の最適化が行われ、基礎知識を問う問題が重視されるようになった。過去10年ずっと高三の指導に従事してきた東直門中学の語文教諭、安建恵の紹介によれば、以前の全国統一問題では、中国語のピンイン、漢字の字形の出題が各一問出題されていたが、北京出題問題では、発音、字形を一つの問題にまとめて出題され、このようにして一問減らした分で、学生の語文の鑑賞、審美能力の応用力を問う出題がされるようになった。2004年の入試では“北京方言”までも試験問題に取り上げられるようになり、2006年の小論文の課題《北京の符合》では一層、北京の独自出題の「地方色」が極限まで発揮されるようになった。

■[4]


□ 安建恵の説明では、以前の入試の小論文はテーマからずれていないかどうかが重視され、テーマからずれてしまうと、小論文の成績は合格が難しかった。一方、独自出題の小論文では、形式上の要求が緩和され、受験生は個性が発揮できるようになり、論理のつじつまが合ってさえいればよくなった。「試験会場で受験生の身に被せられた形式主義の手かせ足かせは益々少なくなり、中身が無く形式ばかりにこだわった文章が多く見られ、良い作品がほとんど見つからないという情況は改められた」と安建恵は語った。

     -*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-

 ご承知のように、中国は長年科挙の試験で人材を登用してきた伝統があるせいでしょうか、全国統一入試でも、最初の語文で出題される小論文のテーマが今年は何か、が話題になるのがおもしろいと思いました。

 ちなみに、2011年の北京の小論文の課題は、中国が卓球の世界選手権で金メダルを独占したことについてで、それに関して学校での教師と生徒の間で行われた討論が紹介されており、それを使って、自分の見解を選び、テーマを定めて800字以上の論文を書きなさい、というものでした。

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于丹 《論語心得》 3.処世之道(3)

2011年06月10日 | 中国文学

(挿絵は範仲淹。本文参照)

 于丹教授の《論語心得》は、《論語》そのものからの引用を必要最小限にし、《論語》の思想のポイントに関し、寓話を有効的に引用し、読者や聴衆の理解を助けており、《論語》の思想を現代人の生活や仕事に結び付けて考えることが話の主眼になっています。

     -*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-

■[1]

 (クリックしてください。中国語原文と語句解説が見られます。)
     ↓




□ この言葉はなんて実用的なのだろう。“言寡尤,行寡悔”(言に尤(とがめ)寡(すくな)ければ、行に悔い寡(すくな)し)この6文字は、今日でも相変わらず役に立つのではないだろうか。ネット上で次のような話を見つけた:
 一人の利かん気の男の子がいて、一日中朝から晩まで家で癇癪を起し、物を叩いたり、わがままのし放題だった。ある日、父親がこの子を家の裏庭の籬(まがき)の傍に連れて行き、こう言った。「息子よ、これからおまえは家族に癇癪を起こす度に、籬の上に釘を一本打ちなさい。何日かしたら、おまえがどれくらい癇癪を起したか見てみよう。いいね?」この子供は思った。それがどうしたというのだ。それなら見てやろうじゃないか。それから、彼は一回騒ぎ立てる毎に、自分で籬のところに行って釘を一本打った。一日が過ぎ、見に行ってみると、まあなんと、釘の山ができていた。彼は自分でも少し申し訳なく思った。
 父親は言った。「どうだい、ちょっとは我慢しないといけないと思うだろう。もし丸一日一回も癇癪を起さなかったら、打った釘を一本抜いて構わないよ。」この子は思った。一回癇癪を起したら釘を一本打ち、一日癇癪を起さなかったら、ようやく釘を一本抜くことができる。なんて難しいんだろう。しかし釘の数を減らすため、彼は絶えず自分を抑えて我慢するしかなかった。
 初めは、男の子はたいへんだと思ったが、籬の上の全ての釘を抜き終わる頃になると、彼はふと自分はもう我慢することを学んだと感じた。彼はにこにこして父親を見つけると言った。「父さん、早く行ってご覧よ。籬の上の釘を全部抜き終わったよ。僕はもう怒ったりしないよ。」
 父親は子供と籬の傍に来ると、意味深長に言った。「坊やご覧、籬の上の釘はきれいに無くなったね。でもあれらの釘穴は永遠にここに残るんだよ。本当はね、おまえが家族や友達に腹を立てる度に、皆の心の中に一つの穴を開けていたんだよ。釘は抜けたから、おまえは謝れば済むが、あの穴は永遠に消すことはできないのだよ。」

■[2]


□ この寓話から、《論語》の中の“言寡尤,行寡悔”(言に尤(とがめ)寡(すくな)ければ、行に悔い寡(すくな)し)の言葉を読み解くことができる。私たちは行動を起こす前に、その結果を考えてみないといけない。それは、釘を打ってしまったら、後で抜いてしまうにしても、籬はもう元通りの姿に戻らないのと同じだ。私たちは行動する時、先ず遠くを見据えて考えてみて、慎重の上にも慎重にして、他人に害が及ばないように気を付け、自分ができるだけ以後後悔しないようにしなければならない。話をする時は頭でよく考え、行動する時にはその結果を考慮すること、これは人の処世の重要なポイントである。

■[3]


□ 入り組んで複雑な現代社会の中で、様々な人間関係をうまく処理しようと思ったら、より重要なのは礼節をわきまえていることである。それでは、孔子の眼から見て、どういうことを礼節と呼ぶのだろうか。
 孔子は日常生活の中の礼節をたいへん重んじた。彼が礼を尊び、礼を守り、礼を行うのは、別に他人に見せるためではなく、自分自身の修養であった。役人をしている人、喪服を着た人、また盲人が彼の前を通り過ぎる時は、その人がどんなに若い人であっても、彼も必ず立ち上がった。彼がこれらの人の前を通り過ぎる時は、小さな歩幅で急いで通り過ぎ、これらの人への尊敬を表した。盲人は、今日の言葉で言えば、「社会的弱者集団」と呼べるもので、尚更尊敬を示さなければならなかった。彼らの行動をあまり長い時間邪魔をしてはならない。彼らの悲しみを見て驚き騒いではならず、彼らの前をそっと通り過ぎなければならない。これは一種の礼節であり、これは相手に対する一種の尊重であった。孔子はその他の場面でもこのようにした。

■[4]


□ 《論語・郷党》にこう記されている。「郷人飲酒し、杖なる者出でて、斯(すなわ)ち出づ。」「郷人追儺(ついな)し、朝服して階(きざはし)に立つ。」村人たちがいっしょに正式の宴会をする時、宴席の儀礼が終わると、孔子はいつも杖をついた老人が出て行ってから、退出するようにし、決して老人を置いて我先に外に出るようなことはしなかった。村人たちが疫病や魔物を追い払う儀式を行う時は、孔子は必ず朝服を身につけ、恭しく家の東側の石段の上に立ったが、これは最小限の礼儀作法であった。皆さんはこう感じているかもしれない。聖人がある事を行ったら、古典典籍に記載されていることを引き合いに出すんでしょう?それは誰でも知っている道理ですか。聖人をほめたたえているんでしょう?いや、実は、いわゆる聖人賢人の言動というものはたいへん素朴なもので、その素朴さが今日の私達にはいくらか胡散臭く感じさせさえする。このようなことは、隣家で起こるかもしれないし、自分の家で起こるかもしれない。けれども、なんと温かみのあることだろう。このことは私達に聖賢は決して遠い存在ではないと感じさせる。彼は今なお自分で悟った道理、体得した経験を、私達に残してくれ、いっしょに分かち合うことができる。

■[5]


□ 孔子の弟子の子路は嘗て先生にどうやったら君子になれるか尋ねたことがある。孔子は彼に告げて言った。「己(おのれ)を修めて以て敬せよ。」自分自身を修練した上で、厳粛で敬虔な態度を維持しなさい。子路はこれを聞くと、こう思った。“修己以敬”の四文字のようにできたら君子になれるのか。こんなに簡単なはずがないだろう。そこで更に問うて言った。「斯(か)くの如きのみか。」こうすれば、それでよいのか。孔子はまたちょっと付け足して言った。「己を修めて以て人を安んぜよ。」自分自身をきちんと修練した上で、他人の気持ちを安らかにする方法を考えなさい。子路は明らかにそれでも尚満足できず、更に尋ねた。「斯(か)くの如きのみか。」孔子は更に付け足して言った。「己を修めて以て百姓(ひゃくせい)を安んぜよ。己を修めて以て百姓(ひゃくせい)を安んずるは、堯、舜も其れ猶(なお)諸(これ)を病(や)めり。」自分自身を修練し、更に一般民衆が幸福な生活を送れるようにしなさい。堯、舜のような聖賢の君子であってもこれについては十分出来ない点があった。そこまで出来て、どうして君子と呼ぶに足りないなんていうことがあるだろうか。

■[6]


□ 《論語》には至る所にこうした素朴さがあり、あたかも私たちの身近で起きた出来事であるかのようで、長いページを割いて展開する大論理はほとんど無い。私たちは《論語》が述べる道理は遥か高所にあって自分には及ばないなどと感じることはなく、却ってたいへん温かみがあり、身近なものであると感じる。 孔子が私たちに教えるのは、先ず、如何に天下を安んずるかではなく、如何に最も良い自分自身を作るかということである。「修身」とは、国家、社会に責任を負うための第一の前提である。孔子と彼の弟子は「最も良い自己」を実現するに努めたが、その目的は国家や社会に対する責任をより良く果たすためであった。

■[7]


□ 別の人が嘗て子路に尋ねた。あなたの先生の孔子はどのような人ですか。子路はそれに答えなかった。孔子は後になって子路に尋ねた。おまえはどうしてこのように答えなかったのかね。「其の人と為りは、憤(いきどおり)を発して食を忘れ、楽しんで以て憂いを忘れ、老いの将に至らんとするを知らざるのみ」と。私は発憤して懸命に努力している時には、食事をとるのを忘れてしまうことがある。楽しくてうれしい時には、悩みや憂いを忘れることができる。このようにしてやるべき仕事をし、楽しめることを思いきり楽しんでいると、私の生命がもう終焉に近づいているということを忘れることができる。これは孔子の描写であるが、中国の知識層の、理想の人格を追求した描写でもある。

■[8]


□ 儒家の哲学とは、つまるところ、道を実践する者を育成することであり、文化を担うという使命を果たすことのできる特殊な階層を育成することでもある。この階層の中の傑出した人物の品格は、範仲淹の言うところの「天下の憂いに先んじて憂い、天下の楽しみに后(おく)れて楽しむ」(《岳陽楼記》)である。そういう人は自分自身の損得を忘れ、自分自身を大きな民衆の利益の中に融合することができる。これはある種の信仰であり、ある種の心意気であり、社会の担い手である。けれども、その前提は飾らないことで、先ず自分の足下から始めることである。身を修め精神を涵養し、きっちりとした自我を持つこと、それが始まりである。

■[9]
 

□ 私たちは、人が社会が不公平だと怨み、世渡りは大変だと嘆くのをよく耳にする。実際は、天を恨み人をとがめるより、わが身を振り返って反省する方がましである。もし私たちが本当に物事の頃合いを知っていて、言行を慎み、礼儀作法を世の中に普及させ、身を修め精神を涵養することができるなら、様々な煩悩を少なくし、自然と人としての処世の道を理解することができるだろう。
 楽観的で積極的な気持ちを持ち、人と交際する上での頃合いを理解し、自分自身によって他人を気持ちよくさせることのできる人は、自分自身の心地よい気持ちを陽の光のようなエネルギーにし、他人を照らし出し、他人を温める。それは、家族や友人、ひいてはより幅広い社会に、自分自身の体から多少なりとも安堵の理由を得さしめることができる。
 私は、このことは《論語》の中のある種の道徳的理想に止まらず、それは同様に21世紀にも通用するものだと思う。孔子とその弟子たちが享受した快楽は、同様に私たちの今日の快楽の源でもある。この点がおそらく《論語》が私たち現代人への最大のお手本であり、経験たり得るところであろう。


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