中国語学習者のブログ

これって中国語でどう言うの?様々な中国語表現を紹介します。読者の皆さんと一緒に勉強しましょう。

北京史(十三) 第五章 元代の大都(1)

2023年05月25日 | 中国史

元大都城復元図

第一節 大都の建設

 

大都の建設

 燕京等の場所で尚書省の統治が行われる 中都の陥落後、ジンギスカンは直ちに腹心の汪古児(オングル)らを派遣し、勝手に収奪を行い、大量の金銀や金銭を荷造りして積み込み、持ち去った。

 

 戦火の下で幸運にも生存した中都の居住民は、孤立した城の中に久しく閉じ込められた後、食糧が無くなり、城中では人が人を食うような惨状まで出現した。蒙古に投降した漢人の将軍、王檝(おうしゅう)の要求により、蒙古の統治者は軍士(下士官)に兵糧を与え、城に入って転売するのを許可し、これにより飢餓の脅威を解決した。当時、城中に蓄積した貨物は、交易するところが無く、遂には銀を飼葉桶、金を酒かめに換え、大なるは千両にもなった。王檝の提案を実行したので、「士は金銭、織物を得て、民は食糧を獲た。」王檝はまた官吏を盧溝橋に派遣するよう提案し、十の中で一を取り、軍士が掠奪した耕牛を捜し出して、農民に与え、一部の農民は復業することができた。ジンギスカンの統治時代、王檝は宣撫使の肩書で職人たちを統率し帰順させた。施雷が監国であった時代、彼はまた汪古部(オングート部)の監国公主の命令により、中都を領有した。彼はこの時期、蒙古の政治代理人となり、中都地区の責任を負う重要な官吏の一人であった。当時、都城の廟学(孔子廟内の学校)は兵火で破壊され、1229年に王檝が旧枢密院の場所に再び廟学を建設し、春と秋に太学の学生を率いて釈菜礼を行い、昔、岐山(陝西省岐山県)の南で見つかった石鼓を庇(ひさし)の下に並べた。士大夫はこれは儒教の道の再興であると称賛し、礼楽の教化が再起した盛事であった。しかし実は、この時期の中都は、極めて不安定な状態にあった。ただ1228年についてだけ言っても、都の南で信安鎮の人々の反抗運動が発生した。反抗者は北山の李密と結びつき、近郊の各県に侵攻した。中都城内の秩序もたいへん混乱していて、盗賊が横行し、甚だしきは車を走らせて強奪を行い、止めることができなかった。施雷は使節を派遣し耶律楚材と共に驛馬を走らせ燕に来て、これらの強盗は皆、権勢家の子弟であることが判った。楚材は処罰を厳格にするよう提案したので、城中の秩序は多少安定した。同時期に燕薊留后長官に任じられた石抹咸得卜は、甚だ貪欲で、殺人が市中で頻発した。別の蒙古将官三模合は金の飾りの付いた龍のベッドで寝て、金の腰掛けを踏み台にしたが、このように贅沢を尽くし、またそれを求めるのをやめなかった。当時の中都の人々は塗炭の苦しみの中にあった。こうした状況の中で廟学を再開したものの、虚偽の粉飾であるに過ぎず、当然維持継続するのは難しかった。

 

 1234年、オゴタイが金を滅ぼして後、胡土虎中州(河南。黄河の中、下流域)の断事官にし、そこに居住する各戸を収奪し、租税を搾り取り、諸王や軍将に領地を分け与えた。南宋の使者の徐霆は、この胡丞相が曾て燕京でひどい搾取を行うのを自分の目で見たことがあり、「下は教師や乞食に至るまで、銀を出させて租税、徭役の対価とした。」燕京で教師を生業とする者が詩を作って言う。「教学を行う中で銀を納めねばならぬ。生徒は少なくあまりに清貧である。金馬玉堂の盧景善、明月清風の範子仁李舎才は道徳の講義をするのを認め、張齋恰は雨乞いの祈祷をする者を受け入れた。相次いで胡丞相に報告したが、この時は「捺殺因」(蒙古語で”好”)を免れた。」これと同時に、蒙古の統治者はまた入札で税を課す権利を売る(税の請け負い)方策を進め、例えば劉庭玉は五万両で燕京の酒税権を買った。これらの豪商は、任意に税額を増加させ、その中から利益を得、重い搾取を受けていた燕京の人々が、更に決まった額以上の苛酷な搾取を受けることとなった。

 

 モンケがハーン(汗)の位に就いて後、燕京などの地域には尚書省を置き、牙刺瓦赤、不只児、斡魯不、賭答児などを断事官にし、天下の全ての財を燕に授けた。同時に皇弟フビライに漠南(蒙古高原大砂漠以南の地)の漢地の軍事、国事、全てを管理させた。 不只児(ブジル)は任を就いた初日に28人を殺した。一人は馬の窃盗犯だったが、既に杖で打たれて釈放されていた。ちょうどこの時に環刀を献上しに来た者があり、彼は釈放された男を追いかけ、自らその男を殺してこの刀を試した。このような暗黒状態に置かれた燕京の人々は、生命の保障も全く存在しなかった。

 

 大都の造営 1211年にジンギスカンが金を討伐してから1260年にフビライが元朝を建てるまでの半世紀の中で、蒙古軍は絶えず中央アジア、東欧で侵略戦争を発動し、ヨーロッパとアジアに跨る大蒙古国を打ち立てた。この時、汗国の政治の中心は依然として蒙古草原上の哈刺和林カラコルム)であった。燕京は蒙古の統治者が華北、中原を統治する重要な拠点であるに過ぎなかった。フビライは漠南漢地の軍隊と民事の総理を任されて後、駐留地点を草原の端の開平(今の内蒙古正蘭旗の東)に選定し、カラコルムと華北の間の連絡の便を図った。1260年、モンケが死んだ。フビライは急いで鄂州の北から燕京に戻り、直ちに開平で大汗(ハーン)に即位すると、カラコルムの留守を守っていた弟のアリクブケとハーンの位の争奪戦を展開した。フビライは燕京を基地とし、東部諸王や漢人の将軍、読書人、謀臣の支持の下、草原の貴族や保守勢力を代表するアリクブケを打ち負かした。そして積極的に古い制度を改変し、中原の経済の基礎におおむね適応する封建王朝を打ち立て、礼儀を制度とし、漢人の法令を遵守し用いた。元朝初期、フビライの都城は依然として開平にあり、上都と称した。同時に燕京に「宮殿を建立し、省部を分立」して華北、中原地区の統治を併せて顧みることを決定し、戸籍により財政や租税収入を保証し、また今後の遷都のために必要な準備を行う必要があった。このため、彼は1264年(至元元年)燕京を中都と改名し、府の名前は旧来のまま大興とした。

 

 中都の造営は1267年(至元四年)に始まった。前年の十二月、安粛公張柔、工部尚書に任じられた段天祐など同行の工部の官吏に詔して宮殿建立を準備させた。その前後に造営事業に参加したのは、その他に高鐫、野速不花、王慶端、張弘略、劉思敬、及び西域人也黒迭児などがいた。城の土地の測量、宮城の建築計画は主に劉忠、及び助手の趙温、趙鉉より出された。金の中都の旧城は金から元の間の半世紀に破壊されていたので、フビライに旧城址を放棄する決意を促すこととなり、旧城の東北、金代の瓊華島離宮を中心として、新たな都城を建設した。新城は高粱河の下流を選び、宮殿の庭園の水源について、より一層の改善をすることができた。木材や石などの建築材料を輸送するため、再度金口の開鑿を行い、盧溝河の水を引いて西山の木材や石を水路で輸送した。

 

 工事は極めて迅速に進んだ。1267年(至元四年)四月、宮城を新築した。翌年十月には、宮城が完成した。1271年(至元八年)内裏の建設を始め、正式に国号を「大元」と定めた。1272年(至元九年)二月、中都を大都と改め、元朝の首都と定めた。そして元の開平の上都は、毎年夏秋の季節に避暑をする行宮とした。1274年(至元十一年)正月、宮殿が完成し、フビライが正殿の使用を始め、諸王百官の朝賀を受けた。1276年(至元十三年)、城が完成した。1285年(至元二十二年)二月、「詔を発し、旧城の居民の新しい旧城への転居について、身分が高く役職に就いている者を先にし、従来通り、土地八畝(一畝は6.667アール)を一分(一区画)とすると定めた。土地が八畝を越える者や、力が無く屋敷を建てることができない者は、みだりに土地を占拠してはならない。居民の意見を聞いて部屋を作るよう定めた。」貴族や功臣は、悉く封地を受け、屋敷とした。1293年(至元三十年)、最後に大都の東で通州とつながる通恵河が完成し、南北を貫く経済動脈である大運河と接続し、大都全体の造営事業がようやく完成した。このような大規模な土木工事は、主に金から元へ移り変わる時期に長期の騒乱の辛苦を経験し、活力がようやく少しばかり回復しつつあった北方の人々の負担となり、至元四年から十二年までの間、ほぼ毎年幾千幾万という農民や兵士が徴発され、労役に服することとなった。例えば至元八年(1271年)、「中都、真定、順天、河間、平灤の民二万八千余りの人を徴発して宮城を築造した。」元朝政府には「都城修築の詔勅では、凡そ費用は悉く官より給し、諸民から取ること勿れ。並びに樹木伐採の賦役は免除すること」の規定があったが、実際は只の空文に過ぎなかった。徭役のため北方の幅広い人々にもたらした苦しみは、疑いなくたいへん重いものだった。

 

大都の規模

 

 大都の設計思想は、『周礼・考工記』に規定する「匠人が国を営み、九里四方、傍らに三門、国中は九経九緯、経塗(縦方向の大通りの幅)は(馬車)九軌(が並んで走れる幅)。左に祖廟右に社稷、正面に朝廷、後ろに市場の原則を完全に遵守していた。『周礼』は儒家の政治理想の青写真である。元の大都は完全に平地の上に計画的に建造された。少しも過去の因襲による制約を受けておらず、このためある程度までこうした理想が形を変えて実現することができた。フビライは国号を「大元」と定め、「蓋し『易経』の「乾元」の義を取り」、以て「百王を継ぎ常道を行く」と授受の正統を顕示した。彼は年号を「至元」としたが、これも語源は『易経』の「至る哉坤元」から採られた。その他、例えば宮殿の名前は大明、咸寧。城門の名前は健徳、雲従、順承、安貞、厚載、これらも同書の乾坤二卦之辞から採られた。これらは皆、当時フビライが「漢法」を行い、「礼儀制度、漢法を遵守、適用」する、部分的な内容である。これらを通じて、フビライは、新たに打ち立てた蒙古と漢の封建領主連合の専制新王朝が、中原王朝の正統で合法な継承者で、以て漢人地主や士大夫の支持を勝ち取り、また次のステップで南宋を滅亡させ、全国を統一する思想上、輿論上の準備を極めて強く示した。当時、フビライの政治担当の設計師であった劉忠は、出家してまだ還俗していない儒者であり、「『易』及び邵氏の『経世書』より更に深遠であった」。元の大都の宮城の設計思想は、このような歴史背景の下でもたらされたものである。

 

 元の大都城は世界で最も輝かしい都市であった。その建築規模、建築技術、科学的な構造や工事のレベルから見ても、世界のその他の都市とは比べることができなかった。ここはまた当時の世界が嘱目する政治、商業と文化の中心のひとつであった。西方の人は習慣上、ここを「汗八里」と呼んだ。「八里」は突厥語で「都市」の訳である。「汗八里」はすなわち「大汗の都城」(ハーンの都)ということである。ここは雄壮、豊か、華麗さにより、幅広く西方で称賛、羨望されていた。

 城市 大都は北に位置し南を向き、規則的な長方形をしており、その南壁は今日の北京市の東西長安街の南側で、北壁は徳勝門外八里の小関の一線で、土壁の遺跡は、さながら尋ねることができそうである。東、西両側の南の部分は、おおよそ後に城壁で結合された。城の周囲は実測で二万八千六百メートルで、十一の城門があった。正面中央が麗正門(今日の天安門の南)、南の右は順承門(今の西単)、南の左は文明門(今の東単)、北の東は安貞門(今の安定門小関)、北の西は健徳門(今の徳勝門小関)、真東が崇仁門(今の東直門)、東の右は斉化門(今の朝陽門)、東の左は光熙門(今の和平里東)、真西は和義門(今の西直門)、西の右は粛清門(今の北京師範大学西)、西の左は平則門(今の阜成門)であった

元大都城

著名な旅行家マルコポーロはこう記している。「全城に十二の城門があり(記憶の間違い)、各城門の上には宮殿があり、頗る壮麗である。城壁の四面それぞれに三門(北側は実際は二門)、五宮、各角にもそれぞれ一宮が建ち、壮麗さはそれぞれ等しい。宮中には広大な御殿があり、その中では守城者の兵器を蓄えていた。」城壁は土を突き固めた版築が用いられ、基部の厚さは二十四メートルに達した。

徳勝門外土城、元大都健徳門古跡

マルコポーロの記載では、土壁は「壁の根の厚みは十歩だが、高くなるほど厚みが削られ、壁のてっぺんは三歩しかない。あまねく女壁が築かれ、女壁は色が白く、壁の高さは十歩である。」土壁を保護し、雨水のしみ込みを防ぐため、葦(あし)で覆われていた。また文明門の東五里の所に葦場を設立し、毎年葦を収穫し、葦を編んですだれ状にして使用に供した。張昱の『可閑老人集・輦下(天子のおひざ元、帝都)曲』に言う。「大都の周囲には十一門有り、土で築かれた草葺きの哪吒 (北京城の別称)。讖言未来の吉凶禍福の予言)で、もし磚石で包まれていたら、その姿は天王が鎧兜を身に着けているかのようだろう。けれども元の時代を通じて、遂に磚で包まれることはなかった。

元大都城平面略図


北京史(十二) 第四章 遼宋金時代の北京(4)

2023年05月18日 | 中国史

瓊華島

第二節 金代の中都

 

 

社会経済(続き)

 農村の経済概況 都の郊外の土地は、政府、貴族、官僚と大地主の手で掌握されていた。漢人の名門の大地主の中で、韓、劉、馬、趙の四つの姓が、遼以来幽燕地区の大金持ちであった。官田と放牧地は国家が直接管理する土地であり、中都路の放牧地は全部で63516.667ヘクタール)余りに達した。貴族が賜ったり略奪したりすることで大量の土地を占有し、都城内の170家の宗室の占有地が3,683に達した。一般に猛安(女真語で「千戸」の意味)、謀克(同「百戸」)の民戸が内地に移り住んで後、政府が各戸に土地を賜い、そこを耕作させ、平時の口糧とさせた。貞元の遷都1153年。金の海陵王、完顔亮の中都への遷都)に伴い、上都で元々太祖阿骨打、遼王宗干、秦王宗翰に属していた猛安(三者は合併して「合扎猛安」となった)と右諫議の烏里補猛安、及び太師勗、宗正宗敬の親族は皆、中都に引っ越した。その他の人戸はそれぞれ山東、河北の各地に引っ越した。多くの民間の田畑はこのために略奪を受けた。これらの軍事を職業とする猛安、謀克の人戸は、おごり高ぶり怠けて、田畑を耕したり穀物を植えたりせず、土地を漢族の農民に分けて耕作させ、重い租税を徴収した。金銭の浪費が過度であったので、彼らは二三年先の租税まで予め徴収した。このため広大な土地が荒廃してしまい、桑や棗の木が勝手に伐採されて柴にして売られ、「一家百口、畝には苗がひとつも植わっていなかった。」このように、内地に引っ越した猛安、謀克は、貧困に耐えきれなくなり、軍役に対応する力がなくなった。女真族の腐敗と貧困を防ぎ、軍隊の戦闘力を維持するため、世宗は再び良田を接収し、再度彼らに分配し、彼らが農耕生産するのを督促したが、全く効果が無かった。一方、多くの漢族の農民は小面積の土地しか無かったものさえ失い、甚だしくは先祖の墓地や井戸、竈さえも、彼らに囲い込まれてしまった。人々はこのために恨み骨髄に達し、民族間の矛盾が激しくなった。

 

 都の近郊の農民は、重い租税と徭役の負担以外にも、多くの特殊な搾取や制限にも耐えねばならなかった。王侯貴族の家は、しばしばみだりに人夫を徴用した。いくらかの田地は囲い込んで牧場にされ、人々は無償で政府のために馬の飼育をさせられた。皇帝が狩猟を行う需要を満足させるため、政府は京畿(都の付近)より真定、滄、、北、及び飛狐に至るまで、数百里内を皆立ち入り禁止とし、狐やウサギを捕殺する者は厳しく罰せられた。

 

 都の近郊の土地では、稲、麦、桑、麻、瓜、野菜類を除いて、『金史・地理誌』によれば、大いに金、銀、銅、鉄の生産を興隆させ、漢方薬として、滑石(かっせき、タルク)、半夏(はんげ)、蒼朮、代赭石(たいしゃせき)、白龍骨、薄荷、五味子、白牽牛などがあった。良郷の金粟梨(洋ナシ)、天生子(イチジク)、及び易州の栗は、小さくて甘く、何れも有名な果実であった。範成大は詩の中でこう詠んでいる。「紫爛山の梨や紅棗、総じて運び易く栗は十分甜い。」南宋から来た使節は、これらの名果を心行くまで楽しんだ。

 

園陵名勝

 

 遼代以前、燕京地区の名勝は、主に規模の広大であったり、古い歴史のある廟宇であった。金の海陵王が遷都して後、ここは一代の王朝の首都となり、いくつもの皇帝、貴族が遊覧した離宮、別荘で、文人、詩人たちが遊びにふけり、詩を吟詠した風景や古跡が時が経つ毎に生み出された。とりわけ金の章宗の在位期(1190年から1208年まで)は、世宗の大定(1161年から1189年まで)の全盛期を承けて後、国は富み、政治は安定し、朝廷も民間も、贅沢が習慣となる傾向にあった。章宗本人は「退廃的な音楽や女色を楽しむのをたいへん好み、」都の郊外の多くの名勝は、皆彼が造営し、評価し、行幸したので、その時代は有名だった。それゆえ、「西山の古跡は、多くが金の章宗の造るところ」と言われた。

 

 瓊華島、梳粧台  現在の北京北海公園に浮かぶ瓊華島は、金の中都の東北、つまり高梁河の支流が集まった湖沼地区にある小島である。金朝の皇帝はここに離宮、大寧宮を建造し、島を 瓊華島と命名し、湖の名は太液池とした。史敩(しこう)の『宮詞』に、「宝帯香褠(こう)水府仙黄旗彩扇九龍船。薰風十里瓊華島、一派の歌声採蓮を唱う。 」この詩からも、当時の緑のハスの葉が天に接し、池に浮かぶ龍舟は色鮮やかな旗がたなびき、ハスの実を採る女たちの歌声が響き渡る場面が想像できる。 瓊華島上の築山や巨石は、汴京から移されたものと伝えられた。徽宗は贅沢や堕落した享楽生活を追及するため、大いに「花石綱」を起こし、江南の奇花異石を汴京まで運び、築山を作った。それから瞬く間に、女真族が北宋を滅ぼし、徽宗は捕虜になり下がり、五国城で客死した。彼が収集した珍宝は、これらの作りが細かく、形の珍しい築山の石も含まれたが、皆敵国の戦利品になった。瓊華島上の 梳粧台は、俗に遼の肖太后の化粧台と言われるが、金の章宗が元妃の李氏のために作ったものだ。

 

 燕京八景 北宋の画家、宋廸瀟湘(湘江)の風景を平遠画法ひろびろとした眺望の中に山林・水流・舟人などを描いた山水図。水平線が画面のほぼ中央にくる )の山水画八副を描き、世間から「瀟湘八景」と呼ばれるようになってから、文人が地方の風景を描写する際、習慣として八景、十景などと呼びならわすようになった。『明昌遺事』(「明昌」は章宗の時代の元号)の中でも、いわゆる「燕京八景」という言い方が現れる。それらは、居庸畳翠、玉泉垂虹、太液秋風、瓊島春陰、薊門飛雨、西山積雪、盧溝暁月、金台夕照、である。

盧溝暁月

 八景の他、『春明夢余録』には金の章宗の西山八院も載せており、何れも章宗が交遊し宴を催した場所である。「そのうち、香水院は京口山にあり、石碑がなお残っている。その少し東は清水院で、現在は大覚寺に改められた。玉泉山には芙蓉殿があり、基壇が残っている。鹿苑は東便門外にあり、通恵河のほとりにあった。」これらは現在は大部分がもう遺跡も残っていない。

 

 寺廟、道観 金代の中都の仏教寺院は、禅寺が多く、律宗寺院は少なかった。著名な寺院には、弥陀寺(法蔵寺)、護聖寺(功徳寺)、甘露寺(香山寺)、聖安寺、隆恩寺、功徳寺、柏王寺、香林禅寺、大覚寺、雀児庵、従容庵などがあり、そのうち香山寺の規模がとりわけ巨大であった。香山寺跡は遼代の中丞、阿里吉が喜捨したものであった。金代にも大規模な築造が行われ、1186年(大定二十六年)に完成し、名を大永安寺と言った。香山の名は、金李宴の『香山記略』によれば、「言い伝えでは、山にふたつの大石があり、形が香炉のようであったので、元の名を香炉山と言い、後の人が略して香雲と称した。」香山寺には祭星台があり、言い伝えでは、章宗が星を祭った場所であった。その西南には護駕松があり、章宗がここを通った時、道の傍らの松の木の影が密に覆っていて、そのため護駕松と呼ばれた。その他、感夢泉があり、聞くところによると、章宗が夢に矢を放つと、その地に泉が湧いたので、翌日地面を掘ってみると、果たして泉の水を得た。それゆえその名がついたそうである。この寺は、明の正統年間、太監の範弘が拡張し、そのため七十万両あまりを費やした。今日の遺跡の中から、私たちはまだ当時の規模の雄壮華麗さのあらましを想像することができる。

北京昌平県東北、銀山の金代古塔群

  道観の中で、比較的有名なものに、玉虚、天長、崇福、修真などがあった。全真教の「七真」の一人の王処一は、玉陽子と号し、何度も世宗、章宗の招請を受けて中都に来て、天長観(今の白雲観)に居住した。世宗は彼に養生と治世の道を尋ねた。王処一は答えて言った。「精髄を含んで以て精神を養い、己を恭して以て無為にす。」後に章宗が彼を体元大師に封じた。

 

 金陵 金の初め、阿骨打と呉乞買の陵墓は上京の護国林の東にあった。海陵王が中都に遷都した後、大房山雲峰寺で地を卜し、陵園を造営し、阿骨打と呉乞買を含め、始祖以下十二帝の梓宮(しきゅう。皇帝、皇后の棺桶)をここに改葬し、万寧県に奉山陵を設置したため、その後は奉先県に改称した。熙宗から章宗までの諸帝をここに葬り、元代になってここはまた房山県に改称した。房山の名は大房山より来ている。大房山は山が高く険しく、優れて麗しく、古来よりここは「幽燕の奥座敷」と称された。金陵はおおよそ金、元の時代に既に壊滅的な破壊を受けていた。明朝の人、儲巏(ちょかん)は、『大房金源諸陵』の詩の中でそのことを詠っている。「翁仲(石像)は半ば存す行殿の跡、苺苔(青苔)は尽く蝕す古碑の陰」。これより、明中期までに陵墓はひどく破損していたことを説明している。

 

蒙古軍の威嚇下の中都

 

 ジンギスカンの中都包囲 十三世紀初め、蒙古部の首領、テムジンは蒙古草原の諸部を統一し、ジンギスカンと号し、直ちに南に向け金を侵略した。1211年(金の衛紹王の大安三年)、ジンギスカンが自ら軍隊を率いて金の師団を野狐嶺で破り、烏沙堡を下し、徳興府を抜いた。金の居庸関の守将は城を棄てて走り、蒙古の大将は中都に入らず、取り囲んだ。『大金国志』の記載によれば、金人は「京城の金持ちを東子城に移し、百官の家族は南子城に入り、宗室は西城に保ち、帝王の外戚を北城に保ち、各々兵隊二万人を配分した。およそ一般市民は、その逃避を聞いた。」「都の橋梁、瓦や石を尽く四つの城に運び入れ、通行に舟で渡し、運べないものは水に投げ入れた。城に近い民家は壊されて薪にされ、城中に納められた。凡そ城市に備蓄されたものは、そのまま子城内に運び込まれ、隠すことは許さなかった。」蒙古兵が城を攻撃し、城中では何度も市街戦が繰り広げられた。四つの子城は堅守され、内城と連携作戦が取られ、蒙古軍は侵攻を進めることができなかった。これに加え、各地で援軍が招集され、ジンギスカンは暫時北に撤退せざるを得なかった。戦争は中都に極めて深刻な破壊をもたらした。この一年、金に使いした南宋の使者、程卓の報告によれば、中都の南城一帯では「ちょうど破壊を受けたところが補修された。」真定以北は、道中ずっと燕城の修復に向かう壮丁や軍糧を運ぶ軍隊に出会った。金朝政府は通常の租税以外に、王朝による食糧買い付け制度を創設し、初めは借りる等の名目で百姓に対する収奪を重くした。「燕京の米の値は石当たり十貫した。軍兵が合わせて毎月支給された米糧は石当たり銭換算で一貫、時価の十分の一に過ぎなかった。」金人の困窮状況がおおよそ知ることができる。

 

 蒙古軍が勢いを盛り返し再度攻めてくるのに備え、衛紹王は告示を出して賢者を招へいし、名を王守信というペテン師の巫師を行軍都統に任命した。王守信は頭に黒い頭巾を被り、黄色の長衣を着て、手に腊牌と牛の角笛を持った「鬼兵」を一隊組織した。この「鬼兵」は当然敵を退ける役に立たず、毎日城を出ては人々を殺戮しては自分たちの手柄にしていた。

 

 1213年、ジンギスカンはまた大挙して金を攻め、宣徳を落とし、懐来を陥落させ、金の行省、完顔綱、元帥の術虎高琪の軍隊を破った。高琪は居庸関まで退却し、自然の要害に拠って敵の攻撃を防いだ。蒙古軍は北口外で堅く阻止され、侵入することができなかった。ジンギスカンはそれで兵を留めて対峙し、自ら大軍を率いて回り道をして涿鹿に出て、金の西京留守、胡沙虎を破り、紫金口から都の南に進入し、涿州、易州を攻撃して下し、別動隊が南側から居庸関を挟撃してこれを下し、北口の対峙軍と合流した。

 

 胡沙虎は中都に逃げ帰って後、軍隊は通玄門外に駐屯した。八月、胡沙虎が謀反を起こして挙兵し、通玄門を奪い、東華門を攻略して破り宮殿に入り、衛紹王を殺して豊王完顔珣を擁立して皇帝にした。宣宗である。貞祐に改元した。これと同時に、蒙古軍は三道に分かれて深く華北平原に入り、河北の郡県は、中都等十一城を除き尽く陥落した。1214年(貞祐二年)春、ジンギスカンと諸王は軍を返し、中都の北郊に集合した。宣宗の使者は講和を乞い、岐国公主、色とりどりの刺繍の衣装三千件、御馬三千匹とその他の金銀珠玉を献上した。ジンギスカンの大軍は尽く駆けて山東、両河の少壮数十万を捕虜にし北に去り、漁児濼(今の達爾泊)で避暑をした。この時の中都はひどく破壊されていた。城中は長らく食糧が欠乏し、餓死する者が十中四五、白銀三斤でも三升の米に換えることができなかった。

 

 貞祐の南遷と中都城の陥落 蒙古軍の威嚇を避けるため、気の弱い金の宣宗(「貞祐」は金の宣宗の元号)は百官、読書人、一般の人々の忠告や制止も聞かず、都を南の汴京に遷すことを決定した。1214年五月、宣宗は丞相に完顔承暉と抹撚尽忠を任命し、太子の守忠を補佐し、中都を留守(皇帝が都を離れる時に大臣に命じて都を守らせる)させ、自分は文書、珍宝を尽く発し、親王、宗族と共にあわただしく南巡に向かった。随行したのは契丹人ときゅう。遼、金、元の時代に征服された北方の諸族)で構成された乣軍(きゅうぐん)であった。良郷に至り、宣宗はこの軍隊が信用できないと恐れ、支給した鎧兜や軍馬を奪い返そうとした。乣軍はこのため突然反乱を起こし、統帥(司令官)を殺し、共に答、比渉児、刺児を長とし、隊伍を反転させ、北の方中都に引き返した。完顔承暉は事変を聞き、軍を派遣し盧溝橋に拠って守り、彼らを通過できないようにした。答は副将の塔塔児に軽騎千人を率いさせ、密かに出兵して渡河し、北岸から守橋軍を襲撃させ、盧溝橋を奪い北に向かった。反乱軍は北に向かって後、使者を派遣しジンギスカンに投降した。ジンギスカンは三木合拔都 、石抹明安らと乣軍を合わせ、中都を包囲した。7月、太子守忠も逃亡し、汴京に逃げた。

 

 中都を救うため、1215年二月、金は元帥で左監軍の完顔永錫を派遣し中山、真定の兵を率いさせ、烏古論慶寿が大名等の地方の軍三万余りを率い、御史中丞の李英を以て軍糧を輸送し、参知政事で大名行省の術魯徳に軍隊の調整をさせて相次いで軍を発し、進路を分けて北進し、中都の包囲を解くよう企図した。永錫軍は涿州に進んだが、蒙古軍に破れた。李英は行軍の途中で大酒を飲んで酔いつぶれ、軍隊は規律が無く、覇州に進んだが、蒙古軍に囲まれ殲滅され、軍糧は全て喪失した。慶寿はその知らせを聞くと、向きを変え、南に逃げた。これより、中都は援軍を絶たれ、孤立し堅守が困難になった。この年の五月、守忠は城を棄て南に逃げた。承暉は自殺し、中都は蒙古軍の手に落ちた。

 

 毎年繰り返される戦争により、中都は壊滅的な破壊を受けた。雄壮で豪華な宮殿は、敗走兵に火をつけられ、火は一カ月余り絶えず、一面が瓦礫の荒涼とした街に変わり果てた。荘厳で華麗な寺院も、破壊の余り、民家に変わってしまった。郊外では田園に雑草が生い茂り、荒野となり、家は廃墟となり、狐やウサギが出没した。当時の中央アジアのホラズム花刺子模シャーからジンギスカンのところに派遣された「布哈丁Puhadingの使節団の報告によれば、彼らが来た時、戦争は既に終結していたが、中都地方の恐ろしい破壊の痕跡は依然として至る所で見ることができた。白骨が山となり、疫病が流行した。中都の城門のあたりには大量の白骨が横たわっていた。彼らはまた、次のように聞いた。当城が陥落した時、六万(?)人の若い女性が、蒙古軍の手に落ちるのを免れるため、城壁より飛び降りて自尽した。なんと悲惨な一場面ではないか。


北京史(十一) 第四章 遼宋金時代の北京(3)

2023年05月06日 | 中国史

金の海陵王、完顔亮の北京(中都大興府)遷都

第二節 金代の中都

 

金初の南京

  金初の対南京統治 1127年(金太宗天会五年)、金軍北宋の滅亡後徽宗欽宗の二帝、后妃(皇后と妃)、皇子、公主、及び宗室の貴戚(皇帝の親族)三千人余りを捕虜とし、並びに汴京(開封)の宣和殿、太清楼、龍図閣の図書書籍、珍宝、文物を全て北に持ち去った。その中には、有名な天文儀、岐陽(岐山の南)石鼓、九経(儒家経典)石刻、宋仁宗の篆書の針灸経石刻、定武(今の河北省定県)蘭亭石刻(『蘭亭序』の真跡)など珍しい文物が含まれていた。これらの文物は少数が途中で散逸した以外は、後に燕京に保管された。この他、金人はまた多くの工匠(職人)、俳優や芸人を捕虜にし、彼らは大多数が燕京に置かれ、「各人で生計を立て、有力な者は店を出し、無力な者は売り物を脇に挟んで呼び売りし、老いた者は市で物乞いをした。南人(漢人)は身分に応じて互いに結婚した。」徽宗は捕虜にされて燕京に連れて来られ、延寿寺に監禁された。欽宗は憫忠寺に監禁された。しばらくして、何れも北方の五国城に移された。

 

 金が燕山府を占領して後、また名前を南京と改名し、元々平州に設けていた南京中書枢密院をここに移した。南京の中書枢密院、或いは行尚書省は、何れも当地の漢人の世家(名門)、例えば劉彦宗、時立愛、韓企先などを任命して相前後して宰相を担当させ、税糧を搾り取り、軍丁を徴発する責任を負わせた。およそ地区に属する一品以下の官吏は皆、制度を受け入れ、役職を拝命した。これは正に遅れた女真族の統治者が、急激な武力による領土拡張の中で、先進的な征服地域に対し、力をかけずに直接統治を行うやり方であった。『南遷録』の記載によれば、粘罕は曾て燕京建都を志し、また「遼人の宮殿は内外城が四城築かれ、それぞれが三里(1.5キロ)の長さがあり、前後に各一つ城門があった。城壁の櫓や堀は、尽く国境地帯の町のようであった。それぞれの城の中に食糧倉庫と武器庫を設置し、それぞれ通路を穿って内城と通じるようにした。」『南遷録』という書籍の真偽はずっと疑われていて、このためこの記載の信頼性は依然として考古資料による裏付けが待たれる。

 

 燕京、華北地区の人々の反抗 女真族が華北を占領して後、遅れた残虐な統治を行い、勝手気ままに金や絹、子女、田地の略奪を行い、壮丁を大量に徴発して軍に入れた。多くの人々を奴隷にし、甚だしきは彼らを韃靼や西夏に追って、戦馬に換えた。彼らはさらに民族の迫害や差別政策を進め、頭を剃って辮髪を強制し、漢服の着用を禁じた。こうした暴挙は華北の人々の断固とした反抗を引き起こした。河北では王彦が率いる「八字軍」、河東では紅巾を目印にする忠義民兵、沃州(今の河北省趙県)五馬山では信王の名を騙った趙恭と馬拡が率いる義軍がいた。京南の中山、劉里忙は境界を山に接し、数万の人々がいた。楊浩はまた自ら南京城中に到り、虚実を探り、仲間をかき集めた。これらの義軍は、大多数が南宋の愛国将校宗澤、岳飛らと連係を保っていた。1140年(南宋の紹興四年、金の天眷(けん)三年)、岳飛の大軍の先鋒は鄭州、洛陽等の地に及び、北方の義軍も敵の後方で歩調を合わせて出撃し、燕京以南では、金の号令は既に行えなくなった。金の華北地区の統治が不安定で、また当時の金政権が依然原始的な遅れた状態であったことから、金が華北を占拠した最初の十数年は、まだ会寧府(今のハルピン東南)を引き続き首都にしていた。

金の中都の建設

 海陵王の遷都 1149年(天徳元年)完顔亮熙宗を殺して即位し、歴史書では彼を通称して海陵王と言った。

 

 この時、金と南宋の対峙は、東を淮河に始まり、西は秦嶺山脈に至る線で落ち着いていた。金の太宗呉乞買の時、河南で勃興した劉豫の傀儡政権も、とっくに消滅していた。金の統治区域は、東北から華北、中原までの中国の北半分で、首都は依然として会寧に偏っていて、これは明らかに益々統治上の必要と符合しなくなっていた。

金と南宋の国境線

 早くも熙宗時代(西暦1136年から1148年)、先進的な漢文化を吸収して、女真族の遅れた古い習俗を改変する政治革新の事業を積極的に推し進め、たいへん大きな成果をあげた。しかし、政治改革は保守派貴族の猛烈な反抗を招いた。海陵王即位の後、継続した漢制による旧制度改革の路線は大いに前進した。効果的に華北中原地域の統治を強固にするため、遷都問題は明らかに極めて切迫していた。とりわけ、海陵王は妾腹の子で謀殺を通じて帝位を取得したので、宗室の中では、彼に対して不満や不服を持つ者が多かった。こうした状況から、海陵王にとって遷都を名目として、守旧派の貴族を徹底的に打撃を与え、彼らの妨害から抜け出し、政治革新を加速するという決意を深めた。

 

 1151年(天徳三年)海陵王が公布した『燕京に遷都するを議する詔』の中で言った。「先に鎮撫により南方が服し、行台を分置した。時に辺防は寧ならず、法令は未だ具わらず。本永計に非ず、只権に従うのみ。」行台が既に除かれて後、「京師の一隅、辺境四方の広さ千万里。北は民が清く事は簡便。南は地が遠く事は繁雑。州府を深慮して申せば、或いは半年に至り往復す。住民は困窮し、何ゆえ月を期して周知するか。供応では輸送に困り、使命は旅先の宿に苦しむ。」このため南京経営を決意し、遷都の計画をし、張浩、劉筈(かつ)、劉彦倫、梁漢臣、孔彦舟らを派遣し南京の建設工程の責任を取らせた。宮闕(宮殿)の制度は完全に汴京を模倣し、先ず画工を派遣し汴京の宮室制度を描かせた。幅が狭く長さが短く、曲がりくねっていた。

 

 全ての工程は、城市の拡張と宮殿の建造の二つに分かれていた。 張浩らは真定府潭園の材木を取り、宮室を造営した。工役は甚だしく粗暴な強制の下で進められた。三年の間、使役された住民は八十万、兵士は四十万に達した。涿州から南京まで、人夫や工匠を一列に並べ、かごで受け渡ししながら土や石を運搬した。重い労働に、猛暑の天気が重なり、疫病が流行し、多くの人夫や工匠がこのために死亡した。宮殿は黄金や五彩で飾られ、「御殿ひとつが合計億万の費用となった。」奢侈を極め、南宋人が見ても驚嘆する程だった。

 

 1153年(天徳五年)、宮城が竣工し、海陵王が正式に遷都を詔し、南京を改めて中都とし、析津府を改め大興府とした。その他の上京会寧府)、東京遼陽府)、西京大同府)は旧来とおりで、別に汴京開封府)を南京とし、中京(大定府)を北京とした。海陵王はそして上京宮殿、邸宅を破壊し尽くし、土地を平らにして耕地にし、皇室の一族も皆、中都に引っ越しさせた。

金の六都城

金大興府行政管轄区略図

 海陵王の遷都は単に金朝の発展史上新たな段階に至ったことを示すだけでなく、北京の歴史上も意義が大きい新たな段階に至ったことを示している。これより、北京は一代の王朝の正式な首都となり、これより元、明、清と続いていった。海陵王本人は、歴史上彼が果たした役割は、全体を導いたということでは積極的で、この点は間違いない。彼は南方侵略中に殺害され、世宗完顔雍が位を継いだ。「大定三十余年、禁中の近習は海陵の隠ぺいした悪行は、直ちに美しい仕事とされた。ゆえに当時の史官は実録を修正し、多くこじつけをした。」当時の人々は、すべてのそうした侮辱された攻撃の言葉は、百のうち信用できるのは一つだけだと考えていた。元朝の人、蘇天爵もこう言っている。「海陵が殺され、諸侯は歓迎し、極力彼を誹(そし)り、多く醜悪な事を書いた。」こうした歴史上の事件は、今後紐解かれてくるだろう。

 

 中都の宮殿制度 中都南京の基礎の上に、東、南、西の三方面に開拓してできている。有名な漢の両燕王墓は、遼の時代は東城の外にあったが、拡張後、東城の中に含まれた。城の周囲は三十七里余り(実測では18.69キロ)で、城門を十三設けられた。東に施仁、宣曜、陽春。南に景風、豊宜、端礼。西に麗澤、顥華、彰義。北に会城、通玄、崇智、光泰の各門があった。宮城は城の中央の南部にあり、周囲は九里三十歩であった。南が宣陽門、北が拱辰門、東西両側にはそれぞれ宣華門、玉華門があった。主要な宮殿建築は、城南門、豊宜門から北は宣陽門、拱辰門に通じる直線を中軸として展開された。

金中都城

柳の木陰が覆う大通りに沿って 豊宜門を入ると、前面が龍津橋である。橋の下は河水が東に流れ、水は清く深かった。橋は燕石で作られ、色は真っ白で、上面には精巧な図案が刻まれた。橋は三本の道に分かれ、中間が御道であった。御道に沿って内城に入る南門が宣陽門で、道の脇には水路があり、水路に沿って柳が植えられ、道の傍らは東西に千歩廊があった。文楼、来賓館、太廟は千歩廊の東に分布していた。武楼、会同館、尚書省は千歩廊の西に置かれた。更に北に行くと内城の正南門が応天門で、四隅には何れも(と)(城壁の上に突き出た櫓)があり、瑠璃瓦で覆われ、朱色の門に金色の釘で飾られていた。内城の御殿は九重になっていて、三十六に分かれ、楼閣の数はその倍あった。前殿は大安殿、後殿は仁政殿で、皇帝が通常朝政を行う所であった。その東の東宮は、太子の居住する所で、寿康宮は母后の居所であった。西側は十六涼位で、妃嬪の居所であった。1162年(大定二年)、世宗が中都に入り拠点とし、「仁政」を行っていることを示すために、何人かの宮女を解放するよう命令した。満足して待っていた何人かの宮女は放免されなかったので、恨み憤り、十六涼位に火を着け、太和、神龍、厚徳の諸殿まで延焼した。世宗はまた再建を進めた。同楽園は玉華門外にあり、その中には瑶池、蓬 、柳庄、杏村などの景勝があった。中都の宮殿は完全に北宋の汴京の皇宮の制度に基づき建築され、ひいては屏風や窓、並べられた玉器や骨董は、多くは宣和時代のものだった。建物の風格も、北宋末年に尊ばれた華麗で繊細な気風を踏襲し、贅沢が溢れていた。「その宮殿は規模が壮麗であった。あぜ道が延々と続き、上は大空に接し、秦の阿房宮や漢建章宮もこのようである。」技巧は余す所がなく、誠に贅沢が極められていた。形式と装飾が追及されたあまり、建物の品質が粗悪になり、このため常に補修や粉飾をしていなければならなかった。世宗はこのため、遼代の仁政殿が、装飾が全く施されておらず、長い年月を経ても破損しなかったことに感心してため息をついた。このことは、金の宮殿の品質が遼に比べずっと劣っていたことを示している。

社会経済

 人口、工商業 大興府に属する十県、一鎮は、合わせて人戸が225592あった。中都城の民族構成はたいへん複雑だった。漢、契丹、奚は金代には既に全て漢人と見做されていた。この他にも、女真、渤海、北方辺境の諸部族がいた。若干の西域から来た(かいこつ、回鹘 。唐代北方のトルコ系部族。ウイグル族の祖先と言われる) 商人も、ここに定住していた。女真族の奴隷制の影響下、華北地区の奴隷の人数は大幅に増加した。奴隷の来源は主に戦争の捕虜であった。「燕山には人を売る市があった。凡そ軍兵は南人を捕虜にすると、値段をつけて之を売った。」少し後には、たくさんの土地を失ったり、債務を抱えて破産した農民も、没落して奴隷になった。当時は在京の貴族や官僚は皆奴隷を所有し、多い者は奴隷の人数が万に達した。1183年(大定二十三年)の統計によれば、都の宗室の将軍司の戸数は170、人口は28,790だった。そのうち正口はやっと982、奴婢の人数が27,808人であった。大量の奴婢の出現は、女真族の遅れた統治が華北地区の社会生産にもたらした退化と破壊の有力な証拠である。

 

 中都の手工業は、遼の時代の基礎の上に、捕虜として連れて来られた汴京の職人により、一層発展した。政府はいくつかの匠作局を設立した。例えば、少府監が所属する裁造署、文繍署、修内習司などである。これらは皆、役所を設けて管轄、統率させた。職人は政府が銭や粟、衣類や日用品を供給した。民間の手工業者は日当が180文だった。彼らは皆、宮廷の生活のためサービスをした。

 

 中都の商業もたいへん繁栄した。政府は中都都商税務司を設立し、「事実を掌握して課税した。」金制:商業税は、金銀は1%、その他の物品は3%徴税した。大定年間、中都の商業税は164440余りであった。承安元年には214579貫まで増加した。明昌三年、中都路のその年の穀物は不作で、「行商人の輸送販売するものが次々とやって来て」、穀物の価格が多少下がった。このことから、商業活動がたいへん活発であったことが分かる。

 

 運河、交通 京東地区の税糧を転送するため、遼は曾て香河と宝坻の間に運河を開削し、俗に蒼頭河(窩頭河)と呼ばれ、また肖后運糧河とも呼ばれ、上は牛欄山水、窩頭庄水に通じ、下は三路堤口に通じ、北は薊州城南十里の紫金洴(しきんへい)と互いに通じていた。

 

 金朝ははじめて中都から東の通州に到る(食糧漕運用の)運河を開削した。この運河は高梁河、白蓮潭などいくつかの河川を利用し、途中に水門を八基設置し、水流を調節し、山東と河北省粟帠が通じた。しかし川沿いの地勢の高低差がはなはだ大きく、また水量も限られており、船舶の運航は水深が浅く停滞し、通州から中都までしばしば十日以上かけてようやく到着でき、運輸需要を遠く満足できなかったので、当時の運輸は主に陸上輸送に依存することとなった。運河は時を経て土砂が堆積して塞がれ、1171年(世宗の大定11年)、朝臣は盧溝河を金口で開削し、盧溝河(今の永定河)の水を中都城北まで引くよう要請した。これにより堀に入った水を東流させ、運河の水量を増大させようとした。金口水路は完成したものの、「地勢が高く険しく、水質が濁り、険しくて激流がうずまき、岸を崩した。濁流で泥がふさぎ、泥が堆積して水深が浅くなり、船運に耐えることができず、」放棄するしかなかった。金口堰が都城より140尺余り(約42メートル)高く、万一洪水で決壊すると、京師が直接脅威にさらされることを特に考慮し、このため金口水路は再度土で埋めて塞ぐしかなかった。泰和年間、韓玉がまた一畝泉の水を引いて、通州に通じる潞河 の水路を開き、船運を都に到らせるよう建議したが、水量が少なく、効果を上げることができなかった。

 

 都の南方の陸上交通を改善するため、1192年(章宗の明昌三年)、盧溝河を跨ぐ大石橋を建造し、「広利」と名付けた。盧溝橋建造の約百年後、イタリアの著名な旅行家、マルコポーロが自らこの橋を渡った経験を、人々を感動させる記録に残した。彼はこの橋を「Pul-i-Sangin」と呼んだ。ペルシャ語の「Pul」は橋の意味で、「Sangin」は石の意味、すなわち石橋である。彼は橋梁の美しく珍しい各部分を次のように称賛して言った。「橋の長さは300歩、幅は八歩を越え、十騎の馬が橋の上を並走することができた。下には橋のアーチが二十四、橋脚が二十四あり、建造がたいへんすばらしく、極めて美しい大理石のみで作られていた。橋の両側には大理石の欄干があり、また柱があり、獅子の腰がこれを支えていた。柱のてっぺんには別に一頭の獅子が置かれた。こうした獅子はたいへん美しく、彫刻はきわめて精緻であった。一歩ごとに石の柱があり、その形状は皆同じであった。二本の柱の間には、灰色の大理石の欄干が建てられ、歩行者が川に落ちないようにさせた。橋の両側は全てこのようになっていて、たいへん壮観であった。」(『東方見聞録』馮承鈞訳、中冊P418)盧溝橋は明の正統年間に修理をされたことがあり、今日まで橋身は依然として屹立(きつりつ)し、私たちの勤勉で知恵のある先人の土木事業の科学上の卓越した成果を十分に証明した。

盧溝橋

 


北京史(十) 第四章 遼宋金時代の北京(2)

2023年05月04日 | 中国史

薊県独楽寺観音閣

第一節 遼代の南京と北宋の燕山府

 

遼代の南京(続き)

寺院の建築 遼の南京の建築物は、有名で考証できるものとして、南城に于越王廨(かい)、また永平館、旧称碣石館(けっせきかん)があり、何れも官僚や使者が宴会や集会をした場所であった。西城の上には、涼殿(りょうでん)が建てられていた。仏教が盛んであったので、城の内外には廟宇が方々に望めた。金初の洪皓は、城内で規模の比較的大きな廟宇が三十六ヶ所あった、と言った。憫忠寺(びんちゅうじ。今の法源寺)の高閣は、天に届き空に入るほど高く、俗に「憫忠の高閣、天を去ること一握(の距離)」と称した。開泰寺は魏王耶律韓寧が建立し、銀で鋳造した仏像で著名であった。「殿宇楼観は雄壮、全燕に冠する。」この他、更に延寿寺、延洪寺、三学寺、仙露寺、昊天寺などがあった。当時、の域内では律宗が盛んで、これらの大きな寺院は皆律宗寺院であった。後に南方の仏僧が禅宗を伝え、別に大覚、招提、竹林、瑞像の四つの禅宗寺院が創建され、これより禅宗が隆盛した。これらの寺院の建築状況について、私たちは既に窺い知ることはできないが、今日まで保存されている薊県独楽寺観音閣から見て、それらが勇壮で重厚、華麗でりっぱであったことが分かる。今の城西区阜成門内の白塔寺白塔は、代々、道宗の寿昌二年(1096年)の創建と伝えられ、釈迦の仏舎利を蔵するため建立され、形は幢(はた)の如く色は白く、ゆえに白塔と称した。(白塔寺は元代に大聖寿万安寺と称し、明代に妙応寺と改称した。)

北京妙応寺、即ち白塔寺

塔の高さは50.9メートル、塔内にはもともと舎利二十粒、青泥の小塔が二千、『無垢淨光陀羅尼経』五部が蓄えられていた。元の世祖の時、また白塔に対して装飾を加え、銅網と石の欄干を付け加え、より荘厳で華麗に見えるようになった。劉侗の『帝京景物略』の記載によれば、遼主は燕京の五方をそれぞれ塔で鎮め、塔は五色に分かつと伝えらたが、白塔のみ保存された。「今四色中、黒塔、青塔は廃されるも、その寺は在り、人は黒塔寺、青塔寺と呼ぶ云々。」(すなわち大天源延聖寺と永福寺)専門家の考証によれば、現在北京城内広安門付近の天寧寺磚塔は、遼代に旧塔の遺跡の上に建てられた。この塔は北京の現存の古建築中の最古のもののひとつで、また中国に現存する式磚塔(みつえんしきせんとう。中国でよく見られる、軒と軒の間を狭くして何層にも連ねた磚塔。例えば、西安の小雁塔がその例の典型的なものだ。

天寧寺磚塔

この古塔の平面は八角形で、全部で十三層の庇があり、全高57.8メートルである。ここは、元々は北魏の光林寺で、隋では弘業寺、唐の開元年間に天王寺に改められた。明朝に到り、朱棣(しゅてい。第3代永楽帝)がまだ皇帝になる前、「特に高さを高くされ」、宣徳年間に天寧寺と改名されたが、清朝ではそのまま改名されなかった。この古塔は明清時代に再建された。

 

 房山石経山雲居寺に所蔵の石経は貴重な仏教文化の宝物である。隋代の幽州僧、静琬(じょうおん)が石を削って碑としたものに経典を刻み始めた。唐初にその弟子が継承し、引き続いて刊刻した。石経は石室の中に収蔵され、石に鉄を溶かしたものを注ぎ込んで門とし、資料を保存した。遼の聖宗の時、韓延徽の孫の紹芳が石室を開けて、中を確認し、聖宗に上奏し、僧人の可玄に命じて引き続き刊刻し、欠損したものを補い新しいものを継続して刻ませた。この仕事は遼の滅亡までずっと継続され、大小の石経板を五千個近く完成させた。これは仏教経典の保存に有利であるだけでなく、同時に仏教経典に対する比較的大規模の校勘(こうかん。古典の刊本、写本を比較し、できるだけ原本を再現しようとすること)整理となった。遼代に印刷された『大蔵経』は、通称を『丹蔵』(『契丹蔵経』)と言った。興宗は燕京の僧人、覚苑に命じて仏教経典を収集、校正、刊行させた。道宗の時、覚苑と玉河県の人、鄧従貴は『大蔵経』五百七十九(ちつ。書画を保護するため包む覆いで、「帙」に入れた書物の数)を印刷し、陽台山清水院(今の大覚寺)に収蔵した。その後、易州水県金山演教寺がまた五百 帙余り印刷し、収蔵した。『丹蔵』は「帙簡部軽」、「紙薄字密」と褒め称えられ、印刷や装丁などの技術は、たいへん高いレベルを備えていた。

 民族矛盾と反抗闘争 遼は南北分割統治を実行し、燕雲地区の社会経済の保護に積極的な役割を果たしたが、同時に民族差別と民族圧迫のひとつの現れであった。遼代の漢人は、納税、刑法、仕官などの面の待遇にも、契丹人と比べて不利であった。当然、民族圧迫政策の下で迫害を受けたのは、主に下層の人々で、北宋の蘇轍はこう言っている。「北朝の政は、契丹に寛大で、漢人を虐げるは、蓋し已に旧きか。然るに臣ら山前の諸州の祇候、公人を訪ねて聞くに、小民争斗し殺傷する獄に限れば、この弊あり。燕人の強家富族に至れば、此の如く至らずに似たり。」ここに明確に民族矛盾の階級の実質を見ることができる。

 

 石敬瑭によって売られた燕雲の人々は、深く故国を懐かしむ思いを抱き、国の恢復を望んだ。周の世宗の北伐勝利は、漢人の将軍の投降に関わっていた。宋の太宗は燕京を包囲し、「脅しを招くこと甚だ急にして、人は二心を抱き」、「謀りて劫守を欲する将、城を出て降る」。宋師敗退の知らせを伝え聞き、城中の父老はその子を撫で、嘆息して言った。「爾は漢民に為るを得ず、命なり。」辺境の民の中で捕虜となる者は逃亡して燕に至り、人々は彼らのために旅費を集め、ガイドを提供し、彼らを宋との境に送った。北宋が派遣した使節の契丹人は、燕京の驛舎の中に、壁にカラスの絵を描き、その横にこう書いた。「星が稀で月が明るい夜、皆南に飛ばんと欲す。」正に人心が漢を思う気持ちの現れである。

 

 遼代の中期以降、過酷な搾取と天災の襲来を受けた燕京の人々は、立て続けに蜂起し反抗した。聖宗の太平七年(西暦1027年)、「幽薊の民は飢え、強盗がおびただしく増加した。」興宗の重熙十三年(1044年)、「香河県民の李宜児は左道を以て人々を惑わし、死刑に処せられた。」遼の末年に至り、女真族が東北で決起した。女真に対し兵を用いるため、天祚帝は燕京地区の人々に対する搾取を一層強化した。当時の南京の正額課税は五百四十九万貫の巨額に達し、その他の過酷な取り立てはこの中に含まれていない。多くの民丁は東北の辺境防備に徴兵された。水県の農民、董才、あだ名を董龐児は、徴発されて兵隊となり、その後、彼はこっそり逃げ帰り、1107年(乾統七年)千人以上の農夫を集め、むしろ旗を掲げて蜂起した。 董才は「扶宋破虜大将軍」と自称し、反民族圧迫の旗印を掲げ、幅広い漢人を動員して闘争した。遼は大軍を派遣して鎮圧し、董才は倒れる度に立ち上がり、双方の人数の差が極めて大きい困難な状況下、粘り強い闘争を行った。最後に圧迫されて南に走り、北宋に投降した。

北宋統治下の燕山府

 宋金両軍の連携と北遼の滅亡 女真の遼に対する厳しい威嚇により、腐敗した北宋の統治者は乗じるべきチャンスと考えた。徽宗1120年(宣和二年)趙良嗣(元の名を馬植)を派遣し、山東から海に浮かび女真と連携し、「海上の盟」を締結し、両国軍を連携させて遼を攻め、金人は中京大定府を攻撃し、宋は燕京析津府を取り、長城を界とし、互いに軍隊が関を越えないようにした。成功すれば、燕雲十六州の地は宋朝に還し、宋は引き続き毎年遼に送っていた歳幣の絹五十万匹を金に与えることとした。金人は兵を挙げて遼を攻め、破竹の勢いで、1122年(宣和四年)春に中京を陥落させ、天祚帝(てんそてい)は西に雲中に走った。宋朝はその知らせを聞くと、急いで宦官の童貫に命じて軍を率いて北辺を巡回させ、金の軍隊に応じた。

 

 遼の天祚帝が西に逃亡して後、南京の大臣の耶律大石、肖干、李処温らが耶律淳(やりつじゅん)を擁立して帝とし、天錫皇帝を号し、建福(1122年)と改元し、歴史上、北遼と称した。耶律淳は間もなく病死し、香山の永安陵に葬られた。遺命で秦王定を擁立して帝とし、徳妃肖氏を以て聴政を制すると称し、徳興と改元した。五月に宋軍は白溝に進出したが、一戦して潰れ、保雄州に退いた。7月、再び童貫、蔡に命じて兵を進め、郭薬師の「常勝軍」が涿、易の二州を降伏させたことにより、宋軍はようやく良郷に迫った。郭薬師は渤海鉄州(今の営口の東南)の人であった。耶律淳は遼東の飢えた民を募って兵とし、これをして女真に恨みを晴らそうとさせ、ゆえに「怨軍」と称し、後に「常勝軍」と改称した。宋、遼の両軍は盧溝河(今の永定河)を隔てて対峙し、郭薬師は奇兵を出し、軽騎を率いて虚をついて固安、安次を迂回し、早朝に入城する草車の行列の中に紛れ、春門を奪って南京城に攻め入り、陣を憫忠寺の前に並べた。郭薬師は命令して燕人を投降させ、契丹、雑虜を尽く殺し、使節を遣わして肖妃に投降を促した。この軍隊は大酒をむさぼり略奪をはたらき、少しも規律が無く、加えて連日の戦闘で、疲労困憊していた。然るに劉延慶率いる大軍が盧溝河の南に駐屯しており、援軍を送る予定は無かった。午後、肖干の「四軍」が城に戻り支援に入り、三市で戦闘となると、郭薬師はただ少数の人と馬を捨て城壁から降りて脱出した。気の弱い宋軍は、郭薬師敗戦の知らせを聞くと、大いに恐れ、軍営を放火して焼き、次々と退却した。熙寧以来、長期に備蓄した軍需器械は、これにより尽く失われた。童貫は軍事が一たび負けると、燕京を回復できなかったことで罪に問われるのを恐れ、秘密裏に使者を派遣し、金人に助けを求めた。12月、金人は居庸関、得勝口から2ルートで南下し、肖后、耶律大石らが古北から西に天徳へ向かった。金兵は南門から南京城に入った。遼の宰相の左企弓、枢密使の劉彦宗らが出陣した。

 

 北宋の燕山府 宋は金に元々の約束の通り、燕雲十六州の地を返還するよう要求し、元々石敬瑭の割譲の列に入っていない営、平、溧(りつ)の三州の回復を提案した。金は宋人の出兵が時期を逸したことを責め、元々の約束はもはや失効したと見做し、ただ燕京と山前(太行山脈東南の7州)の薊、景、檀、順、涿(たく)、易の六州だけ宋に与えるのを認めるとした。そして威嚇して言った。もし宋が平、 溧などの州をどうしても要ると言うなら、燕京も与えないと。同時にまた燕京を金兵が取ったことを理由に、毎年燕京の租税六百万のうちの百万貫(穴明き銭を緡(さし)という紐に通し、銭1000枚を1貫と言った )を借款料に代えて金人に贈り、報酬とするよう要求した。交渉を経て、宋人は金人の条件を全て受け入れるしかなかった。金人が遼の投降者、郭薬師率いる常勝軍を追及しないで済むよう、宋人は自発的に、およそ幽燕域内の家財百五十万貫以上の富裕層は、ことごとく金が捕虜にして関外(山海関より東)に連れ去ることを認めると提案した。1123年(宣和五年)、金人は燕京の城壁や櫓(やぐら)、要塞を徹底的に破壊して後、あらゆる財貨を席巻し、富裕者三万戸余りを北に連れ去った。このため「庶民や寺院は、きれいさっぱり無くなり」、「都市は廃墟となり、狐や狸の住まいとなった」という景観が生まれた。宋人が得たのは、空の城に過ぎなかった。

 

 宋朝は南京を燕山府と改称し、郡は広陽であり、王安中により燕山府が知られる。当時、燕山府地区は、金人による略奪の余り、「桑を植える農具すら、何一つ残っていなかった。」宋朝がここを回復して後、政府は少しばかりの食糧や絹織物の収入さえも得られなかっただけでなく、常勝軍と戌軍の軍糧だけでも毎月十万石あまり必要で、その他の各軍と諸州の官吏の食糧はそれには含まれなかった。これらの食糧は河朔、山東、河東からの運搬に頼っており、しばしば一石運ぶのに十石から二十石の費用がかかった。それゆえ一年もしないうちに、内外の倉庫は空っぽになり、斉、趙、晋、代の民力も同時に尽きてしまった。宰相の王黼(おうふ)はそれで免夫之令(徭役に代えて銭を納める命令)を出し、燕山での賦役は、全国で賦役を起こさないといけないことから、その発動を停止し、「賦役の日数の多寡を計算し、できるだけ免夫の銭を出し、期限を守らない者は斬首する。」全国で全部で徴収した免夫の銭は六千二百万貫余りに達したが、そのうち三千万は燕山に払わないといけない費用で、残り三千万は予備の備蓄としたが、実際は朝廷により他に流用され、浪費され、湯水のように使われた。このようにして、1124年年末に王黼が職を辞す時には、燕山の費用は「日夜欠乏を告げ」、山東、河北でも人々の不満が沸騰し、あちこちで反抗勢力の蜂起が起き、少ないものでも数千人、多いものは数万人にもなり、政府はもはや正規の租税徴収の割り当てさえできなくなっていた。

 

 燕山府の陥落 1123年(宣和五年)、金人が燕山府の富裕層の北方への移転を強制し、平州(今の蘆龍)を通過した時、これらの捕虜となった人々と当時平州留守の任にあった張覚が連合し、金人に反抗した。張覚は元々平州地方の土豪であったが、乱に乗じ平州に拠って金に降伏し、金人は平州を昇格させて南京とし、張覚を同中書門下平章事とした。張覚らは金に背いて後、宋朝に帰順しようと決意した。金人はその知らせを聞き、直ちに兵を派遣し攻撃させたので、張覚らは燕山府に逃げ込んだ。しかし、これら捕虜にされて北に移され、金に背いて南に帰ってきた富裕層の人々は、ふるさとに戻って来てみると、元の家屋や田地が既に尽く常勝軍の将校たちが占拠しているのを見て、失望し、恨みに思った。この時、金人はまた使節を送り王安中を脅して張覚を引き渡すよう迫った。弱腰の宋朝は金人を怒らすのを恐れ、王安中を責めて張覚を縊り殺し、その首と彼の二人の子供を金人に送り届けるよう命じた。このことは燕の地の人々を一層恨みに思わすこととなり、宋からの離反の気持ちを生じさせた。1125年(宣和七年)、金は山後(太行山脈西北の9州)の天祚帝(てんそてい)の残存勢力を消滅させて後、盟約に背いた反乱分子を収容することを口実に、二路に分かれて大挙して北宋を南伐した。西路は粘罕が率いて、雲中に出た。東路は斡離不が率いて燕山府を攻撃した。宋朝は郭薬師に命じて兵七万で (今の通県)で敵を止めさせたが、大敗し、燕山に逃げ帰った。郭薬師はそれでまた宋朝に背き、燕山府が蔡靖を捕らえたことを知るに及び、斡離不に投降した。幽燕地区はこれにより、金人の手の中に落ちた。


北京史(九) 第四章 遼宋金時代の北京(1)

2023年05月01日 | 中国史

燕雲十六州の契丹(遼)への割譲

第一節 遼代の南京と北宋の燕山府

 

遼代の南京

 

燕雲十六州の割譲 西暦936年、後晋石敬瑭が身売りし契丹を頼り、契丹の支持を頼みに、後唐に代わり帝を称した。媚びを売り謝礼をし、彼は恥知らずにも契丹の主を父皇帝と称し、歳幣を貢納し、今日の河北、山西両省北部の燕、雲等十六州の地を契丹に割譲した平州等の地は先に手放していた。)これより、契丹は、華北大平原に勢力を伸ばした。中原地区は直接、契丹の軍事の脅威の下にあることが露見した。

 

 幽州の背後は燕山を枕に、西は太行山脈に依り、東は渤海に臨み、地勢的にたいへん重要な場所であり、歴史的に中原王朝の東北方面の要衝であった。ここは北側を古長城と楡関(山海関)、松亭関、古北口、居庸関、紫禁関など五関の天険に依り、沃野千里の華北大平原を力強く守り、北方の遊牧民族の騎兵が南下するのを阻止した。

燕雲十六州の地勢図

 地形から見て、幽州以北は、軍都山が聳え、漠北草原に通じる階段の第一段目を形作った。居庸関は固より天険と称されたが、北口から南口まで、地勢は急峻に下り、北方の侵略者は見晴らしの利く有利な地勢を占め、守りの面から見るとたいへん不利であった。このため、居庸関の天険は山後の諸州をその障壁とし、その中でも宣化(張家口)、大同の地位はとりわけ重要であった。ここから更に北に向けて、陰山が横たわり、地形的には階段の第二段目に相当した。このため、陰山の防衛線は、またその北側の大ゴビを垣根としなければならなかった。我が国の歴史の上で、中原王朝と北方の遊牧民族の統治者との長期にわたる付き合いの中で、統一があれば、紛争もあった。漢唐の全盛時代には、漠南、漠北全てがその直接管理の下にあり、国家は統一されていた。統一された情況下、幽州は漢族と北方少数民族間の経済文化交流の要となり、積極的な役割を果たした。ひとたび漠北で少数民族政権が割拠すると、幽州は中原王朝の東北方面の最前線の軍事的要衝となった。一般的に、こうした情況下では、当時の中原王朝がゴビの南縁を守ることができれば、垣根を固め、北方の辺境の災禍は効果的に抑えることができた。もし陰山を失うと、消極的な受け身の体制となり、防備には骨が折れた。更にそれを下回って、双方が燕山で争うと、あちこちで戦いが起き、歯止めが効かなくなる。ひとたび幽燕を尽く失うと、中原王朝は大平原でこれと対峙することになり、騎馬での戦いが得意な北方民族は彼らの優位性を十分に発揮することができ、長躯し縦横に動き、都を汴梁(開封)に建てた中原王朝(北宋)は、彼らの鉄騎の脅威を目の当たりにし、形勢は極めて不利となった。

 

 後周と北宋の統治者は一度ならず努力し、燕雲を収復しようとした。西暦959年(顕徳六年)、周の世宗は北伐を行い、三関の地を収復したが、不幸にも陣中で疫病で死去した。北宋の統治者は南方を統一し、長期の準備の後、西暦979年(太平興国四年)、宋の太宗が太原に盤踞する北漢を滅ぼし、勝利に乗じて幽燕を回復しようとした。文臣の趙昌言は追随して言った。「これより幽州を取るは、鉄板を熱して餅をひっくり返すようなものだ。」将軍の呼延賛はこれに反駁した。「書生の言は信じるに足りない。この餅はひっくり返すのが困難だ。」宋軍は鎮州に集結後、北進して燕京城に到り、諸将を監督し城を攻めた。城を包囲すること三週間、穴を掘って進入した。城中の漢人は多くが二心を抱き、遼の将軍、耶律隆運は全力で守った。宋軍は太原の戦役の後、既に兵士たちは疲れ、士気が落ち、それに加えて孤軍で敵陣に深く入り、援軍も続かず、このため、遼の将軍、耶律斜軫が大軍を率いて南下し救援に入ると、両軍は高梁河(現在の北京西郊)で交戦し、宋軍は全軍が潰走した。西暦985年(雍熙二年)、宋の太宗は再び曹彬らにルートを分けて北伐させたが、同様に失敗に帰した。これより、双方は白溝を境界とし、南北対峙の局面を維持した。契丹の騎兵の南への侵攻を阻止するため、宋は燕南一帯でいわゆる溏泺(とうらく)政策を推進し、滹沱(こだが) 、易水、白溝河などの川や湖沼を利用し、堤防を築いて貯水し、西は順安軍(今の河北省高陽の東)を起点とし、東は海に達する、東西三百里あまり、南北五、七十里の土地を、煙霧のかかっているところは水田や湖沼とし、寨(とりで)を設置して兵に守らせ、船舶を備え、防備を進めた。北宋が毎年大量の歳幣を輸送し納める状況下、宋、遼の間で、おおむね平和共存の状態が保たれた。

 

遼の南京建設 契丹燕雲十六州を得て後、幽州契丹)の五京の一つの南京に昇格し、また燕京とも称した。府名は幽都(開泰元年(1012)に析津府(せきしんふ)と改称した)、軍号は盧龍(ろりゅう)で、檀、順、涿(たく)、易など六州と析津、宛平など十一県を統括した。

契丹(遼)の五京

遼析津府行政管轄区略図

  幽州地区は古来より中原と北方や東北の少数民族との経済連携と文化交流の架け橋であった。契丹と東北のその他の少数民族はここで漢族の先進文化を吸収し、これにより自分の社会の経済発展を加速させた。阿保機は毎回南侵時に幽州地区の漢人を東北に移り住ませ、幽州の制度のように、城郭、邑屋(ゆうおく)、廛市(てんし)を管理させた。上京臨璜府(りんこうふ)の中に、社区や商店を組織させ、綾織や錦織など諸工業に従事する漢人は多数が幽州人であった。彼らは東北の各少数民族と一緒に、懸命に働き、東北地区をより一層開発していった。

 

 契丹が燕雲十六州の土地を得てから、国内の政治体制と経済状況には何れも重大な変化が起こった。当時、契丹人はまだ漁撈、狩猟、牧畜を主とする遅れた生産社会にあったが、燕雲地区は定住し農業を行っており、高度に発展した社会であった。契丹の統治者は、直ちに先進的な漢文化を受け入れて、自分たちの遅れた生産方式を改めることができず、また自分たち民族の独自の方式を強化して燕雲地区を管理し改変することもできなかった。そのため、国家の行政組織の上で、いわゆる「胡漢分治」の方式を採り、「国制を以て契丹を遇し、漢制を以て漢人を遇す」こととした。中央では北、南のふたつの枢密院を設置し、北院は契丹と北方の遊牧民族を統治し、南院は漢人を統治した。燕雲地区の地方の統治機構について言えば、おおむね唐以来の旧制度を踏襲した。大部分の南面の官僚と燕雲の地方官僚も漢人が担当した。燕京の韓、劉ふたつの姓の人々は、皆遼代の有名な有力宗族であった。阿保機補佐の韓延徽は、城郭を建て、市里をふり分け、以て漢人の投降者を居住せしめた。また配偶者を定め、開墾技術を教えることにより、生計が立つようにしたので、逃亡する者が少なく、阿保機の燕京繁栄政策に対して決定的な役割を果たした。彼の孫の韓徳譲は聖宗の朝廷で大臣を拝命し、大丞相、蕃漢枢密使、南、北面行営に何れも配置され、耶律の姓を賜り、名を隆運とした。韓氏の一族の中で、相前後して中央では、執政に七人、大官に九人、一般の官吏に二百人余り任命された。幽燕地区の社会経済構造も、基本的には変更されなかった。地主が大量の土地を占有し、小作地を農民に分配して耕作させ、小作料の徴収を行っていた。胡漢分治政策の推進により、幽燕地区の契丹への繰り入れ後も社会経済の破壊や後退は引き起こされなかった。しかも、長期にわたり、辺境の侵略により引き起こされた戦禍が停止されたことにより、人々に安定がもたらされた。幽燕地区の漢人と契丹人の間の関係は基本的に良好であった。毎年冬には、契丹の遊牧民が燕の土地に入って避寒を行い、彼らは放牧、居住をしたが、荒地に入るだけで、漢人の農地には侵入しなかった。経済の連携と、両民族の人々の文化交流の強化に従い、両民族間の格差は次第に縮小した。聖宗時代(西暦983年より1030年まで)、契丹は封建社会に入り、漢化の程度も大いに強まった。

 

 南京地区は、遼王朝の財政収入上極めて重要な地位を占めていた。南京の官吏の多くは財賦官(財政官)であり、政府の毎年の収入の半分はこの地区で取得された。田賦(地租)の面では、「囲桑税畝」(桑を植えた面積に依って最終製品の絹で税金を徴収する)、この他にも義倉粟(非常時に備え、一定額の粟を納めさせ、備蓄する)、三司塩鉄銭、農器銭、商税、房税、酒税、諸雑税、院務課程銭などの徴税項目があった。徭役には、驛運、馬牛、旗鼓、郷正、庁隷、倉司などの項目があった。契丹の統治者はまたいくつかの地域を馬の放牧地としたり、狩猟場とした。毎年更に大量の戦馬を雄州、覇州一帯で放牧した。幽燕地区の農民の経済負担は少なくとも北宋統治下の人々と同様に甚だしく重いものだった。遼代後期、歴史文書に幾度か見られる南京流民の記載があった。大安四年(西暦1088年)南京を凶作が襲い、一般人民が自らを売って奴隷となることが許可された。耶律、肖、韓の三姓の貴族は、また毎年燕の地の良家の女子を強請って妻妾にし、民は安らぐ所が無かった。人民の生活が困窮したことは、想像に難くない。

 

南京の規模 遼の南京はおおよそ相変わらず唐代の藩鎮の城の旧来の規模を踏襲していたが、遼の五京のうち、南京は最大且つ最も繁栄した都市であった。城の周囲は二十里(約10キロ)あまり、城壁の高さは三丈(約10メートル)、幅は一丈五尺(約4メートル)。堅牢な敵楼や戦櫓(何れもやぐら)を910基配置し、地塹(ざん。)は三重になっていた。城門は八つ設けられた。東に安東、迎春。南に開陽、丹鳳。西に顕西、清晋。北に通天、拱辰の各門である。内裏(皇居。宮殿)は城の西南角にあり、周りを城壁で囲み、周囲五里(2.5キロ)あった。南側正面に啓夏門、東に宣和門があった。その中には元和、仁政、洪政(武)の諸殿があり、建物はすこぶる壮麗であった。遼の皇帝はしょっちゅう城外に狩猟に行き、いわゆる「春水秋山」、「四時捺鉢」(いつもゲル(テント)で暮らす。「捺鉢」は契丹語で「帳」の意味)で、たいてい春と秋にのみ、南京に来て短期間滞在した。通常は重臣が南京留守兼府尹(府知事)に充てられ、軍民を統轄した。また、南京統軍司を設置して軍事を統轄し、転運使などが租税を管理した。

遼南京城

 城中には二十六坊があり、各坊にそれぞれ門楼があり、その上には大きな字で坊名が書かれていた。例えば、賓、粛慎、盧龍、棠陰、永平などの名前である。これらの名前は大多数が唐代の旧称である。城内は、「居民が密集し、路地の入口は直列し、商店は百室」にもなった。市街地は城の北部にあり、「陸海の百貨が、その中に集ま」った。居民の風俗は皆漢服を着て、また多くが胡服を着た契丹人、渤海人等であった。

 

経済概況 南京の手工業と商業は何れも頗る高いレベルにあった。許亢宗が南京地区の富の実態を描写した時に言った。「錦や刺繍が綺麗に織られ、天下に比べるものが無い」、「水は甘く土は肥沃で、人々は技巧が豊かである」。西暦1005年(宋景徳二年)、宋真宗は遼から贈られた美しい絹織物を近臣たちに分け与え、同時に前朝の時に献上された贈り物と比較し、過去の製品は明らかに品質が粗雑で、今はずっと精巧になっていると指摘した。その原因はもちろん幽州の織物の職工の技術レベルのおかげであった。遼朝廷は南京で政府御用の色鮮やかな緞子を密造するのを禁じ、また三司の塩、鉄、銭を絹に換算して納めさせ、より多くの絹織物を得ようとした。磁器の品質もかなり高かった。南京西郊の龍泉務には磁器の窯があり、その製品は主に白磁で、釉薬の色がぴかぴか透き通った白色、ややしみ通った青色など、半透明状を呈していた。遼政府は磁窯官を設置して管理を行った。順州(今の順義)の北側には銀冶山があった。書籍の印刷もたいへん発達していた。このことは『大蔵経』の印刷から説明することができる。有名な金瀾酒は、金瀾水を用いて醸成したもので、味はたいへんコクがあり、遼の南京の名産であった。

 南京はまた松漠(「平地松林」とも言う。内蒙古克什克騰旗一帯。族、契丹族が活動した場所)、ないしは蒙古草原と内地の間で商業取引を行う際の中枢であった。ここは南側を宋、遼間の交易場を通じて、有限の通商を保持していた。北側は楡関路、松亭関路、古北口路、石門関路など驛道(古代、朝廷の文書を伝達するための街道で、途中に驛站(えきたん)が設けられた)を通じて、塞外と互いに行き来していた。高麗、西夏ないしは西域とも商業取引があった。南京の市場では銅銭で交易が行われ、こうした銭は少量が遼自身で鋳造されたのを除き、大部分が五代、北宋で鋳造されたものだった。遼の聖宗の時、更に大安山(房山と門頭溝)を掘ってみると、劉仁恭が埋蔵した銅銭が見つかったので、それが用いられた。

 

 農業製品では、「野菜や瓜、果実、稲、高粱の類は、産しないものは無い。桑や柘(ヤマグワ)、麻や麦、羊や豚、雉やウサギは需要を問わない。」水稲は南京近郊の主要な農作物であった。道宗の清寧中期(西暦1055年から1064年)、高勲は南京近郊に空き地が多いので、空いた田畑に稲を植えるよう言った。耶律昆は反駁して言った。高勲は異心があるに違いない。彼の建議に基づき稲を植え、水を畔に引いて、もし南京を占拠して謀反を起こす者がいれば、官軍は入ることができない。朝廷は彼の意見を受け入れ、南京の人々が水門を開けて水を放水し、うるち米を植えるのを禁ずる命令を出した。咸雍中期(西暦1065年から1074年)になって、ようやく軍隊が行軍する地域を除き、その他の地域では稲を植えられるようになった。栗も昔からの名産で、朝廷はここに栗園を設けた。有名な契丹文学家、肖韓家奴(しょうかんかど)は曾て栗園管理の命令を受けた。ある時、聖宗が彼に外地で何か珍しい出来事は無かったか尋ねた。彼は焼き栗を譬えに、皮肉めかして皇帝を諫めて言った。私の知るところでは、栗を焼く時、小さいのに火が通っても、大きいのはまだ生である。大きいのに火が通ると、小さいのはもう焦げてしまっている。大きいのも小さいのも均等に火が通ってこそ、全てが美味しくなる、と。焼き栗の歴史から、既に少なくとも千年近い歴史があることが分かる。