中国語学習者のブログ

これって中国語でどう言うの?様々な中国語表現を紹介します。読者の皆さんと一緒に勉強しましょう。

端午節の玩具・香包と布老虎

2021年07月24日 | 中国文化

布老虎

 

前回まで、粘土を焼いて作った中国各地の泥人形を紹介してきました。中国の伝統的なおもちゃにはもうひとつ、布で作ったおもちゃがあります。今回は、「香包」と「布老虎」を取り上げます。

 

香包

 

「香包」(におい袋)と「布老虎」(虎のぬいぐるみ)は何れも五月五日の端午節の季節の玩具であり、中国全土に存在します。端午節は中国語圏の伝統的な祝日です。端午節の起源にはいくつか説がありますが、その中でも、特に代表的なものは四つあります。ひとつは「屈原説」。端午節にちまきを食べ、ペーロン、或いはドラゴンボートの競争をするのは、戦国時代、楚の政治家で詩人であった屈原(紀元前4-3世紀)を哀悼して始まったものとされ、端午節は屈原の記念日とされています。ふたつめは「龍の祭り説」。ちまきを食べるのもボート競技も何れも龍が関係しており、五色の糸を腕に巻くのは、体を「龍に似せ」るための「入れ墨」の風習の名残であり、端午節は龍のお祭りであるとするものです。三つめは「悪日説」。端午節にヨモギや菖蒲を家の門に挿したり、入口に掛けたりするのは、夏の病を防ぐためで、昔の風習で旧暦五月を「悪月」と看做すのと呼応していて、端午節は「悪日」より来ているとするもの。四つめは「夏至説」。端午節の行事で、「闘百草」(グループで薬草採りをして、摘んだ種類の多さや内容を競う)、「薬草採り」、ちまきを食べるのは何れも古代の「夏至節」から来ており、端午節は別名を「中天節」と言い、その起源は夏至から来ているというもの。

 

闘百草

端午節は、季節の風俗として、古代からの長い歴史を通じ豊かな内容を持ち、人々の飲食、服装、住まいや生活環境、文化や体育活動など多方面に関わっています。

 

端午節になると、におい袋や虎のぬいぐるみを子供の胸元や袖口につけたりぶらさげたりするのは、中国全土で行われる風習です。その起源を見てみると、「五色の糸を腕に巻き付ける」古代の風習から来ていると思われます。

 

香包(におい袋)

『風俗通』という本の中で、こう記されています。

「五月五日に五色の糸を腕に巻くのは戦避けである。また病避けでもある。また屈原から来ているともいう。一名を「長命縷」(“縷”lǚは糸のこと)、また一名を「続命」、「避兵繒」(“繒”zèngはひもでくくること)、「五色絲」、「朱索」(“索”suǒは綱やロープのこと)などと言う。また腕飾りなど布で作ったアクセサリーもあり、皆互いに関係している。」

 

こうした風俗の記述は『抱朴子』、『荊楚歳時記』、『玉燭宝典』などの古書にも見られることから、漢代以降、人々は端午節に五色の糸を腕に巻いて邪鬼や戦を避けるのを習慣としてきたことがわかります。五色の糸は、青、赤、白、黒、黄の五種類の糸で、それぞれ東、南、西、北、中央の五つの方位を象徴しています。また、五色の糸を縫って四角の飾りを作り、胸元に付けることもありました。時代を経て受け継がれ、改良され変化してきました。北宋時代には端午の日に「百索」(端午節の縁起の良い飾りで、五色の糸を編んだもの)を売り、南宋時代には「百索を銅銭投げの賭けで販売し、子供は胸に掛けたり、髪の毛を縛るのに使ったりし、糸で結んだり、玉飾りを付け」たりし、宮廷の宰相以下の官僚たちは「百索」の色糸を結んで「経筒」(筒状の容器の中に経文を刷った紙を収めたもの)や「符袋」(御守り)を作って胸元に飾り、『抱朴子』に書かれた「赤い霊符を胸の前にぶらさげ」た故事に倣いました。

 

「百索」、五色の糸を腕に巻く

子供たちが手に巻いた「百索」

ここで言う「経筒」や「符袋」が今日の「香包」、つまりにおい袋のことです。宋代以降、五色の糸を腕に巻き、におい袋を身につける風習は益々一般的になり、今日に至るまで、におい袋の生産は盛んに生産され、全国各地で端午節の期間中は様々な香包、香袋、香嚢(何れもにおい袋の異なる言い方)が出回っています。

 

におい袋には様々な様式のものがありますが、概ね三つに分類することができます。ひとつは、十二支、獅子、双子(双魚)、盤腸(吉祥模様)、草花、珍禽、瑞獣、野菜、瓜などの形に似せたものです。

 

「盤腸」(吉祥模様)

 

ひとつはひし形、円形、方形、六角形、八角形、桝形、三日月形、扇形など幾何学図形。もうひとつは総合型で、いくつかのちいさなにおい袋を串状につなげたり結んだりして一組にしたもので、全国各地で内容は異なり、例えば北京では織物、麦わら、色紙、色糸で布老虎(虎のぬいぐるみ)、蓋簾(蠅帳)、ニンニクの茎と葉、箒、粽、クワの実、瓢箪などの形に作った小さなにおい袋を一列につなげました。陝西省北部では布老虎と、サソリ、ムカデ、蛇、蝎里虎子(鰐)、クモを一列につなぎました。西北地方では、カエル、十二支を使うのが喜ばれ、南方では大小大きさの違う粽が用いられました。どの地域のにおい袋にもそれぞれ異なった寓意があり、例えば北京のにおい袋のうちの「蓋簾」(蠅帳。はいちょう)は、夏に五穀を干して乾かすことを象徴し、箒は端午節の後、掃除に勤しむこと、瓢箪は毒気を抑圧することを象徴し、クワの実、粽は季節の野菜や果物を、ニンニクの茎と葉は毒を去って体を強くすることを象徴しています。

箒のにおい袋

陝西省北部のにおい袋のムカデ、サソリなどは五毒を象徴し、それに布老虎を加えることで「虎鎮五毒」、つまり虎が五毒を抑えるという意味になります。西北地方の十二支は、還暦を迎えてもまだまだ元気で、百歳まで長生きすることを象徴しています。

 

「虎鎮五毒」のにおい袋

十二支のにおい袋

におい袋は多くが木綿、絹、麻布などの織物を材料とし、裁断、刺繍、切り貼り、貼り付け、巻き付け、縄掛け、穴埋めなど様々な加工手段を用いて作られています。におい袋の中にはヨモギ、龍脳香、樟脳を入れ、中にはビャクダンや麝香など芳香を発する薬剤を入れたものもあり、子供の胸元や腕に掛けたり、枕元に掛けたりしました。古い習慣では、端午節が過ぎたら首に掛けていたにおい袋は捨てることで、疫病を除こうとしました。他人が捨てたにおい袋を見つけても、決して拾ってはならないとされました。さもないと不幸を招くことになるからです。現在、におい袋は子供のおもちゃや地方の旅行みやげとして盛んに作られていますが、におい袋を捨てることで災害を除く風習は今ではあまり見られません。

 

「布老虎」(虎のぬいぐるみ)は端午節の期間に盛んに売られる代表的な季節玩具です。「布老虎」の起源もたいへん古く、既に秦の時代には虎は神話に取り入れられ、『山海経』によれば、東海の度朔山dùshuòshānに二人の仙人が住んでいて、ひとりは神荼shénshū(しんと)、もうひとりは郁儡yùlǜ(うつるい)と言い、彼らは多くの鬼が出入りする門(「鬼門」)を守っていました。悪い鬼に出逢うと、アシの縄で鬼を縛り、虎に食べさせました。これより虎は神話の中で重要な地位を占めるようになりました。漢の時代、新年を迎える際に神荼と郁儡を家の門に描き、同時に虎も描きました。古代の人々は、虎は陰陽の陽で、「性、鬼魅(妖怪)を食す」ことから、虎を明るい所に描けば、鬼が驚いて逃げると考えました。民間の木版年画、切り紙細工、刺繍などの工芸美術品では、虎は重要な題材でした。例えば、山東省楊家埠(山東半島北部、濰坊市に属する)の木版年画(旧正月などに部屋に掛ける吉祥やめでたい気分を描いた絵)には「鎮宅神虎」、「威震山林」などがあり、その中には次のような詩句を題したものがありました。「虎は山を下りるとあちこち歩き回り、百獣たちの中でその力は諸侯に覇を称えた。良民や一般庶民の邪魔をせず、ただ悪党の手足や頭を食べた。」楊家埠の年画や福建省泉州の木版年画では、虎が「聚宝盆」(打ち出の小づちのように、取っても取っても尽きることなく宝物が出てくる鉢)を守る画題がよく見られます。絵の中に次のような詩句を題したものがあります。「猛虎は雄々しく威厳を持って山林に宿り、その咆哮は雷のようで鬼神を驚かせた。秦の始皇帝は山王獣に封じ、広く聚宝盆を守った。」また次のように書かれています。「鎮宅の神虎は多く清静、当朝の一品獣王に封じ、深山に立たず松林に合し、金銀聚宝盆を持守する。」民間の伝統的な観念では、虎は鬼を駆逐し家を鎮めるだけでなく、家財や富を守ることができました。このような寓意に基づき、「布老虎」が誕生したのだと思われます。

鎮宅神虎

威震山林

古い風習では、端午節のあいだ、人々は子供たちのために布老虎を作ったり、雄黄(鶏冠石ともいい、橙黄色で光沢のある塗料)を用いて子供の額に虎の顔を描き、それに「王」の字を書き入れたりすることが盛んに行われました。それは子供たちが虎のように勇敢で強く、健康に育つことを願ってのことでした。

子供の額に「王」の字を書く

端午節の「布老虎」種類は様々で、単頭虎、双頭虎(胴の両側に頭がついたもの)、さらに母虎、枕頭虎(胴が枕になったもの)、套虎(二頭、或いは何頭か、大小大きさの異なる虎がセットになったもの)などがありました。「布老虎」を作る材料、色彩、飾り模様、作り方には様々なバリエーションがあります。よく見かけるのは、綿布や絹の布を縫って作り、中には材木ののこぎり屑や穀物の糠を詰め、表面は上絵を描いたり、刺繍を施したり、切り紙を貼り付けたり、接ぎを施したりして、虎の目鼻、口耳や、体の模様を表現しました。

単頭虎

 

双頭虎

「布老虎」の造形は、頭が大きく、眼が大きく、口が大きく、銅は小さくして、虎の勇猛で威厳に富む様子を強調しました。同時に、大きく作られた頭や目鼻や口が、虎の天真爛漫であどけない様子を表現し、子供のように無邪気な様子を表しました。「布老虎」の作者は多くが農村の女性で、とりわけ老年の婦人が多く、作者は自分の子供が虎のように勇敢で丈夫であってほしいと願い、また虎が子供の友達になり、子供の健康や安全を守ってくれることを願いました。作者の創作の動機が虎の形や精神、性格の特徴を決定しました。「布老虎」一頭一頭に親の子供への期待や祈りが凝縮されており、そのため「布老虎」はこれほど人の心を動かし、人を惹きつけ、愛されてきたのだと思います。

 

河南省淮陽県では太吴陵廟会の期間、山東省莒南県では春節の期間、河北省新城県では元宵節(旧暦の1月15日)の期間、河南省浚県では「正月会」の期間、たくさんの「布老虎」が市場に出回り、人々の需要に応えました。こうした商品としての「布老虎」は、地域によってデザインや造り方で濃厚な地域性を見出すことができます。例えば北京地区の伝統的な「布虎」は多くが黄色い布を下地に用い、模様や目鼻、口、耳には黒、白、赤の緞子の生地を切って貼り付けています。山東省莒南県の「布老虎」は、赤、緑、茶色の染料で虎の紋を花の紋様に描いています。陝西省や山西省では、様々な縫い方を駆使して、刺繍で紋様を描きます。こうした「布老虎」は、邪鬼を追い払い、病や祟りを避け、幸福を祈るという寓意を持っています。

 

「老虎枕頭」(虎の形をした枕)は「布老虎」と同様、実用と玩具の性格を併せ持ち、虎枕には胴の一方だけが虎の頭の単頭虎枕、胴の両側に虎の頭が付いた双頭虎枕、枕に耳を保護する穴の開いた「耳枕」の区分があり、子供の寝具であるとともにおもちゃでもあります。

老虎枕頭

 

虎枕は、高承の『事物紀原』での考証によれば、西漢(前漢)の将軍、李広が虎を射た故事に起源を発するとされます。

 

この事件は晋代の葛洪『西京雑記』に見られます。

「李広と彼の兄弟たちはいっしょに冥山の北で狩をし、虎が横になっているのを見つけた。これを射て、一矢で仕留めた。その頭蓋骨を切って枕にし、猛獣をも屈服させたことを示威した。」

 

李広が虎を射殺して後、虎の頭を切り取って枕にした目的は、自分が猛獣を征服した功績を顕示するためで、この事件はやがて「虎枕の始まり」と言ってもてはやされるようになりました布製の虎枕の造形は、「布老虎」に比べるとより大雑把で簡単になり、虎の四本の足や尻尾は省略され、腰や背中はくぼませられ、横になって寝やすくされました。「耳枕」は腹ばいになって平たくなった虎の形に作られ、虎の背中の中央には穴が穿たれ、頭を横にして寝そべった時に耳が入るようにし、子供の耳が押されて圧迫されないようになっています。

耳枕

注目すべきは、「布老虎」は季節の節句の行事以外の人々の行事の中でも重要な役割を果たしていることです。華北地方や東北地方などでは昔から赤ん坊が生まれると「洗三」(赤ん坊が生まれて3日目に産湯を使わせること)の風習があり、昔はこれを「洗児会」と言い、赤ん坊が生まれて3日目に母方の親族が黒砂糖、卵、コメ、餅、母鶏などのお祝いを持って赤ん坊を見舞い、体を洗ってやりました。お祝いの品の中に必ず「布老虎」が含まれなければならず、この「布老虎」は子供の一生の中で初めてのおもちゃであり、貴重な誕生日の贈り物でした。子供が生まれて百日目、満一歳、或いは二歳の誕生日には、祖母、母方の祖母からも通常「布老虎」が贈られました。「布老虎」を贈ったり作ったりする習慣は、今日でもなお各地の農村で行われています。

洗三

 

 


中国の泥人形(8)季節の泥人形、「兎児爺」

2021年07月10日 | 中国文化

兎児爺

 

中国の泥人形について、その歴史や各地の泥人形を紹介してきましたが、もうひとつ、季節の行事で使われる泥人形として、「兎児爺」を紹介したいと思います。

 

「兎児爺」tùéryéというのは、中秋節、お月見の時に使われる、粘土で作られた、首から下は人、首から上はウサギの人形のことです。毎年中秋節前に北京の街中で販売されました。

 

清代の富察敦崇は『燕京歳時記』の中でこう言っています。

「毎年中秋節になると、市井の手先の器用な人が黄土を捏ねてヒキガエルやウサギの像を作って販売し、これを「兎児爺」と言う。服を着て冠を被り傘を差したのや、甲冑を纏い旗を帯びたの、虎に乗ったもの、黙って座っているものがある。大きいのは三尺(1メートル)、小さいのは一尺余り(30センチ強)、職人たちが技巧の限りを尽くして飾りたてる。」

 

潘栄陛は『帝京歳時紀勝』でこうも言っています。

「都では黄砂を使って白い玉兎(月に住むという白ウサギ)を作り、色とりどりに飾り立て、様々な姿かたちのものが集まり、市が立ちこれを商う。」

 

ここで言う「黄砂で白い玉兎を作る」が指すのが「兎児爺」です。

 

各種の兎児爺

 

「兎児爺」は月の神への崇拝や月に関する神話、伝説に起源を発するものです。玉兎が月に住むという神話の起源はたいへん古く、屈原(紀元前4~3世紀、戦国時代・楚の政治家、詩人)は『楚辞・天問』の中で、「夜光は何の徳ぞ、死してまた育む。厥(そ)の利それ何ぞ、菟を顧みれば腹に在り」と書きました。東漢(後漢)の王逸の『楚辞』の注より、ここでの「菟」はウサギのことであるとされ、歴代そう解釈され、多くの研究者も認めています。ウサギが月に住むという神話は春秋戦国時代より前に生まれました。清代の林雲銘はこれに異議を唱えました。聞一多も「それはヒキガエルのことを言っており、ウサギではない」と断言しました。1970年代末に四川師範学院の湯炳正も「菟」は虎のこととする見解を出しました。しかしこう考える人もいます。月に最も古くは虎が住むとされ、後に虎がウサギに変化し、更にウサギがガマガエルに変化した、と。まとめると、月に関する神話は何れも三つの動物に関係しています。出土した画像磚や画像石を資料とし、イメージの考察を進めると、次のことが分かります。晋以降、ガマガエルと虎は次第に姿を消し、「玉兎」が独り月の図案の主流を占めるようになりました。例えば江蘇省丹陽県で1960年に南朝(5~6世紀、南北朝時代の南朝)の被葬者不明の陵墓で出土した「日月輪」画像磚で、「月輪」磚には一匹の薬草を搗く「玉兎」だけが描かれています。類似する図案は晋以降歴代の彫刻、絵画の中に見られます。それよりこう推察できます。ウサギが月に住むという神話はおおよそ晋以降になって流行したと。

 

「玉兎」が月に住むという神話は広範囲に伝播し、人々の心に深く入り込み、ウサギを月の象徴とするまでになりました。北周(6世紀南北朝時代の北朝の国)の庾信は『斉王進白兎表』でウサギは「月の徳」であると称え、唐の権徳輿はウサギは「月の精」であると称えました。それと同時に、ウサギで以て月に代えるようになり、例えば唐の廬照隣は『江中望月詩』の中に、「鈎(釣り針)を沈めれば兎影が揺れ、桂(金木犀)を浮かべれば丹芳動く(丹薬を搗く香りが広がる)」の句があり、「兎影」はすなわち月のことを言っています。この他、「兎輪」、「兎魄」などの言葉を用いて月のことを言う詩文がありました。ウサギと月が互いに双方を比喩する現象は、月にウサギが住むという神話が既に誰もがよく知る常識になっていたことを表しています。こうしたことが、おもちゃの「兎児爺」誕生の文化的な基礎となりました。

 

古い民間の風習では中秋節に月を祭る際に、太陰星君(道教神話の中の月の神)の位牌をお供えしますが、これがすなわち「月光碼儿」或いは「月亮碼儿」と呼ばれる一枚の絵で、太陰星君が描かれ、その下には必ず一匹の薬を搗く玉兎が描かれました。富察敦崇『燕京歳時記』によれば、「月光馬は紙に描かれたもので、上には太陰星君が菩薩像のように描かれ、下には月宮と薬を搗く玉兎が描かれ、二本足で立って杵を動かし、極彩色でたいへん美しく、市井では多くの人々がこれを買い求めた。長いもので7、8尺(2―2.5メートル)、短いもので2、3尺(1メートル弱)で、てっぺんには赤と緑、或いは黄色の旗が2本掲げられ、月に向かって供えられ、線香を炊いて拝礼をした。祭礼が終わると、千張、元宝(紙で作った馬蹄銀の形の張りぼて)などと一緒に火にくべて燃やした。」

 

月光碼儿(月亮碼儿)を掲げたお供えの机

 

月を祭る時、「月亮碼儿」は「月神」として尊ばれ、屋敷の中庭の母屋の前に掲げられ、お供えを飾る長机が置かれて拝礼が行われ、長机の前には枝豆の枝(飼葉を象徴する)、ケイトウの花(霊芝を象徴する)が供えられ、更に西瓜、桃、月餅、ダイコン、レンコンなどが並べられました。月の神は陰に属し、古い風習では男子は月を拝むのは良くないと言われ、民間では「男は月を祭らず、女は竈を祭らず」という言い方があり、それで月を祭るのは必ず婦女子が行いました。子供たちは、多くの場合女性が面倒を見たので、月を祭る儀式は子供への影響がたいへん強く、そのため子供たちが月を拝む習慣が形成されるようになり、「兎児爺」は子供たちにとって、月の神様の象徴となったのです。「兎児爺」が生まれた背景には、中国の神話、風俗、宗教といったものが、子供のおもちゃに強く影響したことを表しています。

 

昔の北京、家の中庭で月を祭る(1)

 

昔の北京、家の中庭で月を祭る(2)

 

「兎児爺」の古い記述は、明末、紀坤が著した『花王閣剰稿』に見られます。

「京師(都)では中秋節に多く粘土を捏ねてウサギの形にし、衣冠は人のようにして、子供や女がこれを拝む。」

 

最も古い「兎児爺」は、おおよそ明代に誕生し、清代に最も盛んに作られました。中秋節の前には、北京城内の街や横丁には数多く「兎児爺」を専門に販売する屋台が設けられました。

 

「兎児爺」を売る屋台

 

人形の絵柄や品種はたいへん豊富で、大きなものは高さが1メートルほどもあり、小さなものは3センチ足らずで、首から上はウサギ、体は人間で、衣冠をきちんと身に着け、多くは薬草を搗く杵を持ち、鎧を羽織るもの、赤い長衣の中国服を身に着けたものがありました。また虎や鹿、馬、麒麟にまたがるもの、蓮の花を手に持ち座るもの、流れる雲、花を持ち座るもの、更に背中に旗を挿したもの、頭に兜をかぶったものなど、各種各様で枚挙にいとまがありませんでした。

 

薬草を搗く杵を持ち、背中に旗を挿した兎児爺

 

「兎児爺」は、多くの場合、型で押して作られ、下地を塗った上に上絵を施し、着衣の華麗さと顔つき、目鼻立ちの表情を重視しました。

 

型押しで作り、下地を塗った上に絵付けをする

 

よく見られる表情は、両目をまっすぐ見つめ、上唇が縦に裂けたみつくちの唇を固く閉じ、頬にうっすら紅が施され、みめうるわしい中にも威厳があり、端正な中にあどけなさが残り、活発で生き生きとして見る者を惹きつけたました。

 

清代の兎児爺

 

「兎児爺」は実際には子供たちが月を祭る行事の中での神様とされ、子供たちの尊敬を受けました。買って帰ると、大人が月を祭るのと同様に、お供えして礼拝しました。清の乾隆年間に楊柳青(天津市西部、北京との境に近い鎮)で作られた木版年画、『桂序昇平』は、当時の子供たちが「兎児爺」を礼拝した様子を描いたものです。

 

木版年画『桂序昇平』

 

絵の中で、「兎児爺」はお供えを並べる机の上座の位置に置かれ、その前には西瓜、ザクロ、桃、月餅が供えられています。ふたりの子供がひざまずいて地に頭をつけるお辞儀を行い、もうひとりのやや年長の子供が馨(けい。古代の打楽器)を打ち鳴らして興を添えていて、絵の情景は見る者の心を動かします。こうした情景は中秋節の夜には随所で見ることができ、庶民の家々がそうであっただけでなく、宮廷内の皇族たちの間でもこうした風習が行われ、「禁中もまた然り」(徐珂『清稗類鈔』)とあり、故宮博物院には今でも清代の皇族の家庭の子供たちが月を祭った遺物が収蔵されています。

 

「兎児爺」は子供たちが使うものである以上、神様として扱われる以外におもちゃとしての機能も併せ持つ必要がありました。「兎児爺」は元々太陰星君(道教神話の中の月の神)の家来の侍従であり、且つ星君のような尊厳は持っていませんでした。つまり「兎児爺」は必ずしも子供が手を触れてはならないものではなく、「兎児爺」の実際の役割はよりおもちゃに近いものでした。拝んだ後は好き勝手に手に取って鑑賞し、遊び戯れてよく、たとえ不注意で壊してしまっても、あまり咎められることはありませんでした。こうしたことから、手足を動かしたり音が鳴ったりする「兎児爺」が出現し、例えば「口の動く兎児爺」は、中が空洞で、唇が動くようになっていて、糸でつながれ、糸が体の中から引き出されていて、糸を引っ張ると、兎の唇が激しく動き、カタカタと音がしました。また、「腕の動く兎児爺」は、糸を引っ張ると、両方の腕を振り回し、薬草を搗くような動作をしました。こうした「兎児爺」は神様の身分を完全に失い、完全におもちゃとして扱われました。

 

北京以外では、天津、山東省済南にも「兎児爺」や「兎子王」がありました。

 

済南「兎子王」

 

「兎児爺」が民間の季節の玩具であることは1950年代初めまでずっと続きました。1980年代初頭より、北京で「民間玩具研究委員会」が創設され、「兎児爺」の復活が提唱され、民間の作家に生産の復活が要請され、北京っ子たちに喜ばれました。今日、少数の工芸美術品メーカーが「兎児爺」の生産を続けていますが、製品の意味合いは大きく変化し、室内に飾る置物や旅行の土産として販売されており、人々の生活に潤いを与え、中秋節の雰囲気を盛り上げる役割を果たしています。