中国語学習者のブログ

これって中国語でどう言うの?様々な中国語表現を紹介します。読者の皆さんと一緒に勉強しましょう。

焼乳猪

2024年08月31日 | 中国グルメ(美食)
shāo rǔ zhū
子豚のロースト

出典:沈宏非著『飲食男女』(2004年江蘇文芸出版社)

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 烤乳猪(子豚のロースト)のことを、広東人は焼乳猪、或いは焼猪と言う。この点については、ことばの規範のことであまり質問すべきではない。なぜなら、 烤乳猪であろうと焼乳猪であろうと、この料理は広東人が発明したものだからである。それはちょうど、コロンブスがアメリカ大陸を「発見」し、その後そこの土着民をずっと「インディアン」と呼び続けたのと同様、服従せざるを得ない。

 『礼記』の中で取り上げられた「炮豚」が現代の焼猪の調理法と比較的似ているけれども、「炮」páo、炙られたものがいったい乳猪であるかどうかは、言葉が簡単すぎて分からない。これに比べ、広州での考古学的発見はもっと説得力があり、南越王第2代、王趙胡(紀元前122年頃)の墓の中で、焼乳猪用のコンロ、フォーク(子豚の身体に突き刺し、火にかけ全体を炙るのに使う串)、子豚の残骨などが発見された。

 広東の焼乳猪が天下に抜きん出た技法であることを除き、乳猪(子豚)の広東の人々の風俗の中での様々な付加的用途も、たいへん明らかである。婚礼の祝宴には必ず出さねばならない他、清明節のお墓参りに、広東人は焼乳猪をお供えする。毎年この時期は、焼腊店(ローストした豚、鶏、ダックや燻製のベーコン、腸詰を商う店)では「祭祖金猪」(祖先にお供えする金の豚)を大量に販売し、大いに金儲けをするゴールデンタイムであった。この他、焼乳猪は珠江デルタ一帯の昔の風習では、貞節か否かの符丁と見做された。新婚初夜、女性の方に出血が見られれば、初めての里帰りの日に、男性方は必ず赤い紙に包んだ焼乳猪をお礼に贈り、それを持って行く道々鐘や楽器を打ち鳴らし、以て近隣にこのことを公示した。

 もし出血が見られなければ、やはり里帰りのセレモニーはするが、ただ焼乳猪が焼鵞(ガチョウのロースト。一説には生の豚の耳一対)に変わった。劉万章著『広州的旧婚俗』によれば、「新婦が貞節であったか否かは、焼乳猪が贈られたかどうかを見れば明白で、もし焼乳猪が贈られなければ、訴訟沙汰となり、たいへん悲しいことであった。」

 広東、香港一帯では、今日でも依然女性が結婚前に貞節を失うことをからかって「失猪」と言うけれども、焼乳猪がどういう訳で貞操と関連付けられるのかは、考えないといけない問題である。イギリスの作家、チャールズ・ラムは『烤猪技藝考原』(豚のローストのテクニックの研究)の一文の中でこう言っている。「それはまだ月足らず(月経の周期に達していない)のちっぽけなもので、未だ曾て汚されていない豚たちの世界の悪習に過ぎない。つまり色欲の観念で、それは彼らの遠祖から代々伝わって来た悪習である……」

 やはり少しこじつけの感がある。そうでなければ、誰か代わりに劉心武先生に聞いてみてくれないだろうか。

食べるのはつまり皮の部分である


 北京ダックを食べる時、皮に付いたやわらかい肉さえあれば、あんなに大きいアヒルの身体は捨ててしまって顧みないので、いささかもったいなく感じさせる。けれども、焼乳猪は、食べるのは一枚の皮だけで、北京ダックよりずっと高慢である。

 この黄金色でもろくてさくさくした皮について、チャールズ・ラムはこう書いている。「わたしは終始こう信じている。この世に、オーブンの担当のコックが極めてすばらしい火加減の超絶なテクニックで作り出した、あの一噛みすれば砕け、少し口に触れれば融けて無くなり、芳しくてサクサクし、歯触りが心地よい、茶褐色で脆(もろ)い子豚の皮に比べられる美味は存在しない。この「脆皮」ということばを、別のことばで置き換えることはできない。それは、あのサクサクし(「酥」)、しっとりした壊れやすい薄い外皮を噛んでみようと思わざるを得ず、そうして思う存分、その中の全てのすばらしい内容を楽しもう。あの凝固した脂肪(「凝脂」)のような糊状のねばねばしたもの、脂肪という言葉ではあまりに不十分で、言葉では表現し難い暖かみのあるもの、それはすなわち油脂の花、そのつぼみは初期であれば摘み取ることができ、芽をふく時は食べることができ、その無邪気で邪(よこしま)な思いが無い段階、つまり……脂身と赤身、脂と肉のめったにないすばらしい結合で、この時両者はとっくに融け合ってひとつになり、緊密で分かちがたく、このため玉露や玉から作った美酒(「玉露瓊漿」)のような非凡な逸品に変化した。」

 わたしが長々と『烤猪技藝考原』という一文を引用したことをお許しいただきたい。そうせざるを得なかった原因は、第1に、これが今までわたしが読んだことのある焼乳猪に関する最も美しく、最も満足のいく文章であったから。第2に、このような文章が結局イギリス人の手によって書かれたのは、常日頃焼乳猪を食べている中国語作家に恥ずかしさを感じさせるに足るからである。もちろん、高健先生の訳文は、更に原著に忠実であってしかも原著を越えており、しかも「凝脂」や「玉露瓊漿」とは言わず、単に「酥」の一文字だけを使って、どうやって原文のambrosian(神に値する)、adhesive oleaginous(ねばねばした油質の)、crackling(かりかりする上皮)、brittle(脆い)の類の表現の境地に及ぶことができるだろうか。

 『烤猪技藝考原』は18世紀の戯れに書かれた文章であるが、詩のような言葉、少しも出し惜しみしない詞藻(しそう)で、歯の浮くような(ロミオとジュリエットの)ロミオに迫るかのような愛情の独白なのである。ただし、チャールズ・ラム本人が正統な広東式の乳猪を本当に食べたことがあるかどうかは、これまでのところ考証した者を知らない。しかし、ラムが文中で紹介している友人のM(マンニング)は、17世紀初めに中国に住んだことがあり、広州で医師をしていた。

 乳猪のあの脆い皮をローストするのは、決して容易くできることではなく、誠にラムが言うように、極めて優秀なオーブン担当のコックと絶妙な火加減が必要である。

 10キロ以下で、まだ乳を断っていない子豚を殺し、内臓を取り出し、調味料に漬け込み、蜜を塗り、串を挿して炭火の上に置き、上下にひっくり返しながら90分ほどローストすれば出来上がる。ローストする時は、絶えず上下にひっくり返して、均等に加熱し、同時に小さな刷毛で絶えず豚の身に油を塗らなければならない。全体をサクサクした皮に焼き上げる秘訣は、やはり先ず乳猪の胴体の内側を炙り、それから外皮をローストすること。こうしてはじめて、肉の油がゆっくりと表皮に浸透し、遂には「肉の脂身と赤身、脂と肉のめったに見られない絶妙な結合」という、「玉露や玉から作った美酒(「玉露瓊漿」)のような非凡な逸品」が完成するのである。

 もっと研究された作り方は、聞くところによれば、耳やしっぽが焦げ付くのを防ぎ、乳猪が完全にきれいな体形を保つため、コックたちは正式にローストする以前に、菜っ葉の葉などでこれらの部分を包み込み、また豚の腹の中を水で満たした瓶で塞ぎ、腹腔が焦げ付かないようにするそうだ。

 広州では、皮の表面の違いにより、乳猪の流派には二通りがある。すなわち「麻皮」派と「光皮」派である。「麻皮乳猪」は、また「化皮乳猪」とも呼ばれ、特徴は強火でローストし、また絶えず油を塗り、同時に絶えず錐で皮の表面を突くことで、油がはじけて出る気泡で乳猪の表皮を柔らかくし、最後にゴマ粒のように均一に広がった気泡を形成させ、黄金色を呈し、食べてみると比較的もろくてさくさくとした歯触りで、「口に入れると融けてしまう」と称賛されている。

 「光皮乳猪」に至っては、工程上は上記のような技術的な含量を欠いているが、外見は赤や紫の、まばゆい色彩が溢れ、見かけを論じれば、「麻皮派」は全く相手ではなかった。「麻皮乳猪」と「光皮乳猪」は食べ方でも違いがある。前者は薄い皮の下の柔らかい肉も一緒に切り出し、千層餅(小麦粉を捏ね、表面に油を塗って何層にも折りたたんで焼いた、内部がパイ状になったビン)に挟み、海鮮醤(味噌、砂糖、酢、唐辛子などを混ぜて作った調味料)、砂糖や細切りのネギ、赤トウガラシの細切りなどを点けて食べ、後者はただその薄くもろい皮に、甜醤(テンメンジャン)を点ける。

 白砂糖と甜醤(テンメンジャン)は、どこの広東料理のレストランでも、焼乳猪を食べる時のお決まりの調味料である。このふたつは極めてありきたりのもので、生のネギと甜醤が北京ダックに欠くべからざるものであるのとは異なるが、ある程度は乳猪の最終の味を決定する。

閃亮登場(スポットライトを浴びて登場する)

 乳猪は美味しいだけでなく、見栄えもする。

 乳猪の美味は幾多の文章に見ることができるが、それは既にチャールズ・ラムにとどめを刺し、焼乳猪の見栄えの良さに至っては、形(全身に南宋、哥窯(かよう)で焼かれた青磁のようにひび割れの紋様が入っている)、色(エビ茶色や黄金色を呈する)の他、更に正式な宴席で乳猪を出す時の体裁に見て取れる。

 『清稗類鈔』の記載によれば、「焼烤席は、俗に満漢大席と言い、宴席の中でもこれ以上ない上品である。ツバメの巣、フカヒレなど珍しい肴以外に、必ず焼猪(焼乳猪)を出し、それは必ず丸焼きでないといけない。酒が三巡すると、焼猪を出し、コックや召使は皆礼服を着て入場する。コックは料理を捧げると待機し、召使が手にした小刀で身を割き、器に盛り、膝を屈して、首座の客に献じる。」

 「満漢大席」はすなわち「満漢全席」で、中華料理の最高峰の料理である。許衡の『粤菜存真』が記載する広州、四川両版の 満漢全席メニューによると、そのどちらにも 焼乳猪が現れる。広州のメニューでは、焼乳猪は「二回目」の「熱葷」(肉、魚料理)として、フカヒレの姿煮、翡翠珊瑚、口蘑鶏腰といった料理のすぐ後に出され、この度の最後のメイン料理となる。比較的簡略な四川膳のメニューでは、焼乳猪は「叉焼奶猪」の名で、「四紅」(すなわち叉焼奶猪、叉焼宣腿、烤大田鶏、叉焼大魚)の首位に列せられる。

 もし例えば結婚式、同窓会、表彰式の類でその宴会を取り仕切ることになったら、乳猪を出しておけば、宴会の格式は他に勝りこそすれ決して劣らないものとなるだろう。楽器や太鼓が一斉に鳴り響き、数十頭の乳猪が数十台の色とりどりに飾り付けられた輿に乗せられ、古代の料理店の給仕に扮した服務員が1列縦隊で輿を担いで登場し、乳猪の両眼には赤色の電球が取り付けられ、会場の照明が暗くされると、子豚の両眼から絶えず点滅する赤い光が突出し、これは掛け値なしの「光り輝く登場」であり、主人の面子も賓客たちの気持ちも、この時に頂点に達する。

 もっとすごい演出の場合、会場を練り歩いた乳猪が厳かにテーブルの上に置かれても、依然会場の照明は落とされたままで、一筋のきらきら光るスポットライトが乳猪の上に当てられ、まるでその子豚がすぐにスピーチを始めるかのようだ。

乳猪全体(子豚の丸焼き)

 広東では、焼乳猪はレストランで食べることができるし、街の焼腊店(ローストした豚、鶏、ダックや燻製のベーコン、腸詰を商う店)で買うこともできるが、何れにせよ、乳猪を食べる時はその一部だけ買うのは良くなく、丸々一匹の丸焼きが良い。

 いわゆる乳猪の一部というのは、一匹の乳猪の身体から切り取られた十や二十の枚数の皮である。もちろん、子豚一頭全体のローストが素晴らしければ、その一部の焼け具合も決して遜色無いだろう。ただ、外観の印象は、一頭全体のあの満足感は感じられず、またそれ以外にも、並べて冷凍されるので、皮の歯ざわりやサクサクした脆さが多少差し引いて考えないといけなくなりがちである。一頭丸焼きの乳猪は、レストランのメニューを書いた看板では、「乳猪全体」と書かれ、メインディッシュの名称である。しかし、「乳猪全体」を食べようと思ったら、数人で行ってもだめで、おそらく「友達全員」とか「親密な友人全員」を集めなければならない。人数は十分に集めるのが難しいだけでなく、「全体」(一頭丸ごと)の乳猪は通常予約が必要である。

 不幸なことに、乳猪は会食や宴会でしばしば「雰囲気を作り出す」重要な役割を担っており、およそ「乳猪全体」が出される場合は、十中八九が皆「全体大会」の類で、その盛況さは空前で、にぎやかで混乱した現場では、実際に乳猪を子細に楽しむことが大いに妨げられる。今年のはじめ、香港で「万衆一心千禧耀東華」(大衆が心をひとつに長しえの幸福を祝い、東中国を照らす)という慈善公演に参加した芸人たちのグループは、主催団体の手配でレストランに行き、祝賀宴会を開催し、大衆と共に楽しんだが、最後は気まずい思いで別れた。その原因は、主に騒々し過ぎたからで、舞台の下で「参加者全員が飲み食い」するのはまあ良い。それ以外に大声で酒席のゲームをする者、更には大声でカラオケを歌う者までいた。しかし、宴会に多少関与した歌手の楊千嬅が事後に芸能ニュースの記者に語ったところでは、彼女はこうした「回りがたいへんにぎやか」なところで歌を歌うのは別段気に留めていない。というのも、これまで彼女は様々な経験をしたが、彼女がはっきり憶えているのは、こうした場所で歌を歌う時、お客の中にはテーブルの上の焼乳猪を食べることばかり考え、更に食べる時に音を立てる。楊千嬅が言うには、こういう情況は本当に受け入れ難く、自分が甜醤(テンメンジャン)になったように感じると。それで、彼女は誓いを立て、自分にこう言い聞かせた。「気を付けて歌を歌おう。決して乳猪の甜醤にはなるまい。」

 甜醤と言えば、わたしは実際、これはあるレストランの乳猪を試すひとつの重要なめやすだと思う。わたしは、大部分の乳猪を売るレストランは、焼き加減は皆悪くないのだが、ただ一般に誠意に欠けるということを発見した。豚と一緒に出される甜醤と白砂糖は、皆固まってしまっている。明らかに、これは厨房の中で長い間貯蔵されていたという悪い結果である。

腊味

2024年08月24日 | 中国グルメ(美食)
là wèi
写真は、煲仔飯

 本短編の題、「腊味」というのは、燻製にした肉や魚のことです。「腊」とは肉類の処理方法で、肉を塩や味噌に漬け込み、冬の寒風に晒して乾燥させたもの。「腊」は「腊月」のことでもあり、 旧暦12月を指します。腊肉は中国版ベーコン。これを使った料理も「腊味」で、広東省の「煲仔飯」は、米の上に腊肉などを載せて炊き上げた、広東風釜めしで、腊肉が調味料として料理全体に風味をつけています。沈宏非著『飲食男女』(2004年江蘇文芸出版社)より。

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 腊肉(燻製肉)はいつもわたしに降雪、綿入れの上着、ストーブや、冬の間の様々な行事を連想させる。もしひとつの食べ物で冬を形容するなら、「腊味」を先ず思い浮かべるだろう。

 「腊(臘)は乾し肉である」(『辞源』)。およそ塩漬けにしてから、 「腊尾」(旧暦の12月の終わり)から春のはじめに取り出して食べるものが、「腊肉」と見なせる。中国のベーコンの類、これも塩漬けを経て作った「乾し肉」である。欧州の「乾し肉」もたいへん美味しいが、食べようと思えばいつでも食べることができ、結局のところ「腊味」と呼ぶことはできない。更に西洋人たちの暦(こよみ)の中には曾て(フランス革命暦)、熱月(テルミドール。7月19日から8月17日)、霧月(ブリュメール。10月22日から11月20日)があったが、「腊月」(旧暦12月。師走)は無かった。

  腊肉は湖南、広東両省で産するものが最も良い。違いは、湖南のものは塩辛過ぎ、また塩漬けの過程で更に煙で燻すので、味が剛直で、且つ錯綜し複雑な煙で燻された感覚(稲のもみ、サトウキビの皮、みかんの皮、木屑を含む)がある。「腊味」を中心とする代表的なものに、「腊味合蒸」がある。一緒に蒸すのは、細長い腊肉を除いて、細長い 腊魚があり、料理酒、ラード、鶏のスープを調味料とし、蒸篭に入れて20分蒸すと、色つやは黄金色に輝き、塩味と共に香味があり味が濃厚で、実に天意が間に入ったかのようだ。


湖南煙燻腊肉

 広東式の 腊味の製造は煙を出さない加工で、それゆえ味は比較的淡白で、湖南人がそれを食べてみると「まだ半生で十分燻されていない」ように感じるかもしれない。正にこのことにより、広東式の腊味はこれだけをそのまま食べるのはよくないし、湖南の腊味のように他の材料と一緒に蒸すやり方の「全体会議」を行うのもよくない。広東式腊味が演じるのはしばしば味を整える役割であり、つまり、これが通常参与するのは、一場の「拡大会議」であり、しかも列席者の身分である。例えば秋、冬の季節にだけ市場に出る煲仔飯(広東式釜めし)は、広東式腊味の魅力を最も良く体現している。コンロの火が土鍋の底をゆっくりと、しかし着実に熱し、一方土鍋の中は、米の飯が主体で、腊肉 (燻製肉)が添えられている。表面を覆った腊肉 (燻製肉)、腊鴨(燻製にしたアヒルの肉)、腊腸(中国式の腸詰)の肉汁がやさしく、全面的に土鍋中の米に浸透し、鍋の蓋を開け、醤油をかけ回すと、炊けた米の香りと肉の香りが顔をなで、更に広東特有の暗くじめじめした寒風が手助けし、鍋を受け取る時は意気消沈していても、これを食べるや感動し涙をこぼす。それゆえ、広東人はあまり「腊肉」とは言わず、その代わりに「腊味」という言葉を使うのである。

 「腊肉」と言えば、必ず「希腊」(ギリシャ)を取り上げないといけない。なぜならこうした肉の保存方法は早くも2500年前の古代ギリシャの時代には存在したからであり、そして今言っているのはその中国版である。実際、冷蔵庫が発明される以前、乾し肉の製法は完全に食物を保存する目的から生まれた。塩蔵であれ、乾燥、燻製、炙りなど、その方法は多種多様だが、キーワードはただひとつ、水分を抜くことである。多様化したのは手段だけでなく、更に水分を抜く目標が含まれ、牛、羊、馬、鹿、獐子(しょうし。キバノロ。シカ科だが、雌雄とも角が無い)、クマは皆、その当時乾し肉にされる人気の獲物だった。どうせ保存するなら、何でも乾し肉にすることができた。人間は乾し肉にできないか。できますとも、とてもよくできる。遠い昔にはミイラ、最近のものは蝋人形館がある(「腊」(臘)と「蜡」(蝋)は何れもで同じ発音)。しかし、「腊人」の原則は、牛、羊、馬、鹿、キバノロに対する「区分なく乾し肉にする」のとは全く異なり、それはこれまでずっとひとつの規準に則り実行された。すなわち成功した人でなければミイラや蝋人形にされないのだ。

 歴史上最も有名な「腊肉」は孔子の話に出てくる。「束脩十条」shù xiū shí tiáoは、孔子先生が教育を行う時の定額の学費であった。「束脩」(そくしゅう)は、生肉に香料を加え、寒風で乾した「腊肉」の束のことである。文革末期の「批林批孔」運動の時、「束脩十条」はまたかたじけなくも孔老二(つまり孔子)の公開裁判のための証言に加えられ、72に10を掛け、少なくとも720本の 腊肉は、孔子を悪辣な「肉食者」階層とし、教師たちを徹底的に整理するのに十分なものであった。不思議なことに、わたしがこれまで食べたことのある様々な孔府菜(山東省で歴代帝王が孔子の祭礼にささげた料理から発展した宴会料理)の中では、均しく 腊肉を見かけたことがない。「晩春に、春服は既に準備でき、成人の冠を被った者5、6人、子供6、7人が沂水で沐浴(もくよく)し、風に吹かれて雨乞いの舞を踊り、歌を歌って帰った。」この清明節のピクニックの一団には、「成人5、6人、子供6、7人」以外に、「腊肉を7、8本」を携帯し、野外での食事に用いなかったのだろうか。「三月(みつき)肉の味を知らず」、いったいそれは「肉味」だったのか、それとも「腊味」だったのか。孔子は結局肉を食べる方が好きだったのか、それとも音楽を聞く方が好きだったのか。これらのことはあまり言い出しにくいが、けれども腊肉の質感から言えば、授業料の受領に使う「ハードカレンシー」としての適用を失ってはいない。

 やはり先ず古人に替わって心配するのはやめよう。泣きたくとも涙が出ないのは、世界的にも美味なる腊味が、ひょっとすると遂にある日、「健康」という名の下に徹底的に消滅させられるのではないか心配なのだ。更に気持ちが落ち着かないのは、冬になってもあまり寒くならず、一年で四季のうち春夏秋はあっても冬を欠き、終生冬の寒風に晒した「腊味」を知らないことになる。そうした情況では、本当に腊肉が、「蝋燭が燃え尽き、涙のように融けて流れた蝋のように干乾びて固ま」ってしまうのではないか心配だからだ。

条順

2024年08月17日 | 中国グルメ(美食)
条順 tiáo shùn
(体つきがしなやか)

 今回も沈宏非『飲食男女』(2004年江蘇文芸出版社)から、『条順』という文章をご紹介します。 「条順」の意味は、この文章を読んでいただくこととして、この文章で取り上げているのは麺料理についてです。その中で取り上げている『随園食単』、これは中国清代の人、袁枚が役人を辞してから南京近郊に随園という邸宅を営み、ここで彼が食した料理についてまとめたものです。浙江省出身の袁枚は、麺料理をどう位置づけているのか。そして沈宏非はどう考えているか。それでは『条順』を読んでいきましょう。

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 『随園食単』の中で、袁枚は麺類を「点心」(正餐の前に小腹を満たす軽食)類の中に入れている。これは明らかに麺類が主菜ではないだけでなく主食でもなく、正餐の間の腹の足しで、空腹感を鎮めるために供するという、一種の「且点心(正に気持ちに火をつける)」という着火剤となる美食である。
 
 しかし、「点」(火をつける)の字は別に「面条」(麺類)と「心」(気持ち)の間の関係を表すのに相応しいものではない。麺類の形状を論じるにせよ、麺類の美味しさを語るにせよ、それとわたしの気持ちの間には様々な思いがまとわりつき、あたかも「繞梁三日」(調子が高まり激しく揺れ動く)音楽のようで、たいへん心にまとわりつく。成都人は美女を「粉子」と呼び、美女の尻を追うことを「繞粉子」rào fěn ziと言う。この「繞」の字は、同様にわたしの麺類に対する気持ちを表現するのに相応しい。

 手を加えられた日常の食物の中で、見た目のしなやかさと美しさで言えば、麺類が一番である。麺の前身は、ふっくら太った小麦粉の団子であり、切り刻まれることで、小麦から細長い麺になり、驚くべき艶めかしい変身を実現していて、このため麺は小麦粉の最も美しく最も科学的な線状の延伸、展開である。

 70年代の北京の隠語で、美女に対する評価は、「盤正条順」という高度に濃縮された四つの文字であった。「盤」とは顔立ち(顔の輪郭)を指し、「条」とは体つきのことである。「盤正条順」は見た感じ、「名正言順」(名分が正当であれば道理も通る。名分も言葉も正当である)を焼き直したものだが、「正」は別に正確の正ではなく、端正の正でもなく、今日言うところの「正点」(定刻、定時)の「正」に近い。「順」に至っては、体つきのしなやかさ、流線型の曲線を指すに他ならない。麺も同様で、食べたいのがこの「順」であるなら、「順」は麺の見た目だけでなく、より重要なのは食感で、正にこの「順」だけが、わたしたちに、麺を食べる時に遠慮なく発することができ、食事の時に本来は発してはいけない、ズズッ、ズズッ と続く心地よい音を表すのであり、或いは魔物のようにしなやかな美女が、「順」であることで人に聞こえる「ズルッ」とすすり込む音なのである。

 もちろん、湯麺(タンメン)であるか撈麺(混ぜ蕎麦)であるか、箸を使うかフォークを使って食べるか、こうした要素も「順」に多大な影響をもたらし、場合によっては見た目が全く異なる。例えば、スープの無いスパゲティは元々湯麺 のような「美女が湯船に浸かる」色気が欠けており、更にフォークで巻いて食べても、少しも「順」の快感は感じられず、せいぜい口に頬張っても歯にまとわりつく柔らかい麻花(小麦粉をこねて細かく切り、ねじり合わせて油で揚げた揚げ菓子)のようなものだ。それに比べ、曾てイタリアの貧しい人が手で引っ張って伸ばした麺を高いところに「吊り下げ」口に入れた食べ方は、却ってより「条」の感覚を得ることができた。更に、広東人が作る麺類はたいへん不味い。それはまた広東語ではいつも「麺条」のことを「麺」とだけ言って「条」を付けないのと関係しているかもしれない。

面面観(麺についての様々な考察)

 『随園食単』「点心単」に列記された麺類は、全部で「鰻麺」、「温麺」、「鱔麺」、「素麺」、「裙帯麺」の五種であり、墨を惜しむこと金の如しか、麺を惜しむこと墨の如しか知らないが、少なすぎる気がする。

 袁枚は82歳まで生き、行ったことがある場所は少ないとは言えず、食べたことのある麺は思うに上記の五つに止まらないにちがいない。ところがこれら五つの麺だけ選んで食単に入れたのは、郷土の習俗や個人の好みの問題以外に、これら選ばれた麺に各々その独特な点があったからに違いない。しかしわたしはそれ以外に、五つの麺にはひとつの共通点があることを発見した。それは、その調理過程で、スープ、餡かけの効果をとても強調していることである。「鰻麺……鶏のスープはこれを澄ませ、鶏のスープ、ハムのスープ、干しキノコのスープを沸騰させる」、「素麺は、前日に干しキノコを水でふくらませ煮出したスープを澄ましておく。翌日そのスープに麺を加えて沸騰させる」。最後まで書いて、自分でも幾分不注意が過ぎると思ったのか、一筆を加えた。「およそ麺を調理するには、必ずスープを多くするのが良い。碗の中に麺が見えなくするのが良いのである。食べ終わっても麺をまた加えると、人をうっとりさせることができる。このやり方は揚州で流行っているが、正に甚だ道理がある。」

 もうひとりの清代の美食家、李漁は、袁枚より百年あまり早く生まれている。原籍は浙江省。江蘇に生まれ、これらふたりの終生の「麺類飲食生活区域」はほぼ完全に重複し、人生に対する態度も非常に似通っているが、彼らの麺に対する態度は大きな隔たりがあり、甚だしくは轅(ながえ)を南に向けながら、車を北に走らせるかのように、行動と目的が全く一致していない。李漁は『閑情偶寄』の中でこう批判している。「北人は小麦を食べるのに多くは餅(ビン)にするが、わたしは細長く切り分けて一本一本はっきりさせるのが好きだ。南人のいわゆる「切麺」がこれである。南人が麺を食べるのに、その油塩醤醋などの調味料は、皆麺のスープの中に入れ、スープは味があるが麺は味が無い。これは人の重視するのが麺にあらずスープにあり、未だ曾て麺を食せずというのはこのことである。」

 李漁は雄弁であるだけでなく、言だけでなく行動もでき、彼はふたつの上記の理論に基づく麺を打ち立てた。名を「五香」、号を「八珍」と言い、重点は麺を切る前に「醤(味噌)や、酢、山椒の粉、すりゴマ、茹でたタケノコ或いはキノコを煮、エビを煮た汁」、及び「鶏、魚、エビの三つの肉……と生のタケノコ、シイタケ、ゴマ、花椒の四つの物を細かく挽いた粉末を」尽く数えて麺の中に入れる。その目的は「諸物を調和させることで尽く麺に帰し、麺は五味を備え独りスープが澄み、こうしてようやく麺を食べるのはスープを飲むのとは異なることとなる。」

梨花帯雨(梨の花がしっとり雨に濡れる)

 湯麺(タンメン)についての忠実な擁護者として、わたしは袁枚は李漁よりずっと優れていると信じざるを得ない。

 麺について言えば、麺自身の味も固よりたいへん重要である。しかし、小麦粉自身を除いて、すなわち小麦自身の品種と品質以外に、麺の重要なセールスポイントはすなわち噛み応えであり、上記の要素を除き、噛み応えは小麦粉を捏ね、切り、茹でる技術により決まる。麺の味は、主にスープから汲み取られる。それと同時に、スープにも麺固有の芳香が溶け込む。こうして、スープも麺も、柔らかくもあり強靭でもあり、スープしたたる麺は、梨の花が雨がしっとり雨に濡れるように艶めかしい。

 それゆえ、「人の重んじるのは麺に在らずしてスープに在り」というのはもとより片方に偏してしまっており、逆にもし「人の重んじるのはスープに在らずして麺に在り」とし、「麺が五味を具え、スープは独り澄む」ようにするのも、専ら一方の味を好むものとなる。わたしたちが一碗の美味しい麺に対する要求は、一碗一碗どの麺も皆到達すべきだ。麺を食べないといけないし、スープも飲まねばならない。こうしてはじめてスープも麺も共にすばらしくなり、功徳円満となる。科学的にも市場の角度からも、スープと麺が「一体化」する有利な形勢が勝ち取れる。

 もちろん、上海冷麺のような干麺、拌麺(混ぜ蕎麦)、或いは新疆の「大盤鶏」の中の「幅広」の麺も美味しい。わたしが嫌いなのは、ただ人為的に各種の外の物を麺の中に混ぜることだ。広東人は 湯麺 であれ 干麺であれ、うまく作れない。ただ李漁の教義を継承し、その伝統を発展させ、技量を皆小麦粉を捏ねる点にかけ、蝦子麺、鮑魚麺といった俗悪な麺や餅(ビン)をでっち上げた。

 湯麺(タンメン)に対する態度の上で、李漁はひとつの極端な例で、張愛玲はまた別の極端な例である。すなわち、彼女はただそのスープを好み、麺は食べなかった。「わたしはあいにく湯麺が最も嫌いで、「スープがたっぷりで麺が少ない」、思うに一番いいのはいっそ無いことで、ただ少し麺の味が残り、スープが澄んで濃厚なこと……杭州のガイドは皆を楼外楼に連れて行き、螃蟹麺(上海蟹入りの麺)を食べる手配をしてくれた。当時、この老舗レストランはまだ上海のレストランのように「大衆向け」に、料理の値段を低く抑え、仕事の手を抜き材料をごまかし、品質を低下させてはいなかった。この店の螃蟹麺は確かに美味しかったが、わたしは麺の上にかかった具を食べてしまうと、スープがほぼ無くなったので、箸を置いた。自分でも、今の中国の情勢下でこのように気ままに食べ物を無駄にするのは、いささか罰当たりなことだと思った。」

 わたしの自宅に客を招待し、 湯麺を召しあがっていただく時は、必ず特大のどんぶりを用う。どんぶりのサイズはできれば自分の顔より大きいものを使い、人の五官をスープの湯気の熱さで燻せば、ひとしきり、またひとしきりと感動が人々の顔をなでながらやって来る。

南人北相(南方の人が北方の人の容貌を兼備する)

 袁枚が記録した麺料理は、皆南派(南方)のもの、いや基本的には江蘇、浙江の二省を出ることさえなかった。麺料理は畢竟北方に由来する食品であり、ちょうど李漁が『閑情偶寄』の中でこう言っている。「南人は米を食し、北人は麺を食すのが常である。」

 袁枚は浙江の人だが、もし彼が北方の満州族出身で、関(居庸関)を越え、北京の役人になっていたら、おそらく彼は、麺という北方人の主食を「点心」の中に入れることはあり得ないし、そうする勇気も無かっただろう。北方人の日常の飲食生活の中で、麺は 点心と見做すことができないだけでなく、貧しい人々にとっては、麺は更にある種、精緻な小麦を使った食品と称するに足るものであった。これと同時に、北方の麺は日常の食べ物として普及しているだけでなく、その様式種類もすこぶる多く、山西省一省だけでも、麺の食べ方は百種類以上あり、当地の家庭の主婦は、更に「360日、毎食麺料理にしても、料理が重複しない」という腕前を持っている。もし袁枚が33歳で「官を辞して故郷に帰」っていなければ、『随園食単』の麺類メニューもきっと5種だけに止まることはなかっただろう。

 それゆえ、江蘇、浙江一帯で中国で最も美味な麺料理が盛んに作られた所以は、第1、ここは広義の南方であり、江蘇、浙江は曾て戦乱の禍と大運河による漕運の便により、中国北方の精緻な文化の最も深遠且つ最も長期間に亘る影響を受けたため。第2、北方の麺が初めて南に渡ったばかりの時、江南の精緻な飲食もまた初めて「北方の麺」の薫陶を受けたため。それゆえ呉越の麺料理は確かに「南人北相」、南方の人が北方の人の容貌を持つことで、双方の長所を兼備することとなった。

 翻って、北方に引き続き残った麺料理、その中でもわりと代表的な北京の炸醤麺(ジャージャンメン)を例にすると、たとえ文人たちが「雪のように白く柔らかくしなやか、平らで整った手延べ麺、四月の柳の葉に似たキュウリの細切り、卵、さいの目に切った豚肉、きくらげ、キノコ、黄ニラを油で揚げて作った味噌」というような言葉の修辞でそれを賛美していたとしても、わたし個人の経験では、北京旧市街、南城に住む「老北京」、昔から北京に住む人のお宅で御馳走になろうと、東城の五つ星ホテルのレストランで食べようと、炸醤麺はどこのものも美味しくない。そして最も不味いのは、他でもなく炸醤、油で炒めて作った肉味噌の塊りである。

 ネット上で広く流布した長編読み物、「包子麺条大戦」の一節で、炸醤麺が主人公になっている。ここで再度紹介しよう。なに、北京人に怨まれたって構わない。「さて、小籠包は殴られて後極めて不愉快になり、肉包(肉まん)、豆沙包(餡まん)、近い親戚の餃子、遠い親戚の月餅といっしょになって、かたき討ちをしようとした。ちょうど路上で炸醤麺に出逢ったので、皆は炸醤麺を取り囲むとそれをぺしゃんこにして虫の息にした。帰路の途中、皆は小籠包に言った。「君は本当にそんなに麺を怨んでいるのか。こんなに殴ったら死ななくても障害が残るだろう。」小籠包は言った。「元々、わたしもただ適当に何発か殴ればいいと思っていたのだが、奴がなんと全身に大便を塗りたくっていようとは誰が知ろう。こんなだとわたしは奴を殴る勇気が無くなる。本当によく考えたものだ。こんな意気地なしのチビがわたしの気持ちに火を点けた。殴り出したら節制が効かなくなって……」」

 実は炸醤麺が最も不味いわけではない。広東人の麺料理、とりわけあのワンタン麺というものを食べてはじめて、本当にこれは「惨たんたる人生を目の当たりにした」と叫びたくなるのだ。

拉麺(ラーメン)


 蘭州ラーメンは既に一碗の麺料理からひとつの神話に変化しており、流行の言い方を真似ると、ラーメンとは蘭州という「都市の名刺」である。

 ほとんど蘭州ラーメンと同期に神話になったものに、更に日本のラーメンがある。蘭州と日本は地理の上では遠く離れていて、双方の飲食文化はまた高度に異質であるけれども、これら二種類のラーメンとその土地で形成されたラーメン文化の間には、ある微妙な類似点が存在する。

 蘭州ラーメンと日本のラーメンは何れも湯麺(タンメン)で、「重湯」、スープが重要な麺類であり、どちらもスープが勝負のカギを握る。前者は牛や羊の肉をスープの主要な材料とし、後者は醤油、味噌、豚骨とコンソメスープを4つの基本的なスープの基本部分としている。もちろん、牛肉、ネギ、ニンニクの芽、香菜、唐辛子を除いて、蘭州ラーメンの原料の配合と名目は、日本のラーメンの原料やそれらの使用目的が極めて多いことに遠く及ばない。それには次のようなたとえをすることができる。蘭州ラーメンをWindowsとするなら、日本のラーメンはLinuxのようなものだ。後者は基本プログラムが完全に開放されたプラットフォームであり、およそ思いつき得る材料であれば、何でも意気揚々とスープの中に注ぎ込むことができる。こうした意味において、日本のラーメンは実際、集団での創作の成果であるかのようだ。

 日本のドラマやソニーを除いて、日本人のものの大部分が聞くところによると中国から伝わったものだそうで、ラーメンも例外ではない。ある人の説では、中国のラーメンは早くも三百年あまり以前に日本に上陸したそうである。当時、一心に「反清復明」を主張していた中国人、朱舜水(字は魯璵、舜水と号す。明の浙江紹興府余姚県の人。南京松江府の儒学生)は七度海を渡り長崎に到り資金を準備したが、やむを得ない事情で実現できず、やむを得ず1659年長崎に落ち着くこととなった。水戸藩第二代藩主で、徳川家康の孫、水戸黄門が儒学をたいへん好んだため、一年の時間を費やして家臣を長崎に派遣し、三顧の礼を尽くし、遂に 朱舜水を招聘して江戸水戸藩邸に居留してもらうこととなった。朱老師は水戸黄門に儒学を講義しただけでなく、彼に中国の麺料理をふるまった。『朱文恭遺事』の記載によれば、朱舜水は自ら厨房に立ち、水戸黄門のために作ったのは、レンコンの粉で作った平麵で、スープは豚肉のハムを煮つめて作った。

 もうひとつの説では、現代の日本のラーメンは、日本在留の浙江出身の華僑、潘欽星が大正年間(1920年代初め)に創始したと言われている。

 いずれにせよ、わたしは蘭州ラーメン、日本のラーメン、呉越の湯麺(タンメン)、及び李漁、袁枚、朱舜水、潘欽星といった既に亡くなった江蘇、浙江の人々の間には、麺類でつながった関係が、歴史と美味の霞みの中にたたずんでいるように感じる。


瓜子( クアズ )の音を聞く

2024年08月01日 | 中国グルメ(美食)
 瓜子( クアズ )はヒマワリやスイカやかぼちゃの種をを殻ごと煎って、塩や調味料で味をつけ、お茶請けのスナックとして食べるもの。「殻ごと」というのがポイントで、その食べ方は、殻を手で剥いたりせず、殻を前歯で噛んで割って、舌の先で器用に中身だけ口の中に入れ、殻はぷっとはき出すというもの。ここで、 「殻を前歯で噛んで割る」という動作のことを「嗑」といい、この時の音がこの話のテーマです。作家、テレビプロデューサーの 沈宏非著、『飲食男女』(2004年江蘇文芸出版社)収録の作品です。


聴瓜子


 様々なものを食べる音の中で、水を飲む音の他、最も好ましい音は、クアズ(瓜子。ひまわりやスイカ、かぼちゃの種を炒ったもの)を前歯で噛み割る(嗑)音である。

 瓜子 ( クアズ )を噛み割る音は、主に以下の三つの動作が途切れず行われることでできている。 瓜子の殻は歯先でパキパキと破裂し、吐き出される時に唇と舌の間でパラパラと音を発して下に落ちる時に聞こえるのは空洞のこだまである。66年前、豊子愷先生は女性が瓜子 を噛み割る音を、澄んで耳に心地よい「チッ、チッ」という音で表したが、ひょっとすると66年前は 瓜子がとりわけ歯触り好く炒られていたのかもしれず、或いは66年前の女性の歯はとりわけ鋭かったのかもしれず、「チッ、チッ 」という音は今日ではもはや人に瓜子 を噛み割る音とは連想させられず、むしろ多少留守番電話機の信号の音に似ている。

 でも実は、瓜子 を噛み割るリズムが、その音よりもっと人々をうっとりさせるのだ。自分や他人が瓜子 を噛み割るのを連続して2分以上聞かされると、その絶えることなく続くリズムは、まるで楽器の旋律と肉声の歌声が同時に発せられた中国式のジャズのメロディのようである。

 もちろん、こうした音やリズムの多くは静かな部屋でひとり瓜子 を噛み割った時にはじめて気にかけられるもので、一般的な情況では、しばしばがやがやとした無駄話やあれこれと話す声の中に埋没してしまう。雨が芭蕉の葉を打ち、腹を空かした馬が鈴を揺する音が聞こえるのは、その前提として雨があまりじゃじゃぶりではなく、芭蕉の葉も馬もあまり多くないことで、もし暴雨が芭蕉の林に降り注ぎ、馬も空腹の余り発狂しそうになっていると、その有様は、大厨房の中で肉や野菜を炒めているのと変わらない。

 瓜子 を噛み割るのは中国人の生活に根付いた風習であり、瓜子 を噛み割る音も、如何にも中国的な音である。春節は一年の中で「中国の音」が最も強い月で、同時に瓜子 の販売の最盛期である。商品分類上、 瓜子は通常「炒貨」chǎo huò(スイカの種、落花生、ソラマメなど炒ったものの総称)に分類されるが、音の面では、 瓜子、マージャン、花火、爆竹は年越しの賑やかな雰囲気を作り出すために存在する正月用品で、何れも「吵貨」chǎo huò(騒々しい商品。発音は「炒貨」と同じ)と読まれるべきものである。

 瓜子 は別段美味しいものではなく、その主な属性はそれが唇や歯と一緒に動いた時に発する音声効果の上にあり、こうした音声は美学上の意義はもとより取るに足らないものではあるが、実際の効果から言うと、少なくともレイヴ・パーティー(ダンス音楽を一晩中流す大規模なパーティー)での薬物使用の乱用の問題の解決に建設的な意見を提供する可能性がある。レイヴ・パーティーの会場には瓜子 の自動販売機が設置され、瓜子 を噛み割ることで薬(やく)を噛むのに取って代えるよう提唱され、また地面を 瓜子の殻だらけにして、これ以上すごいDJも演奏できないような人々を魅了する音楽を提供することができるのである。


瓜子臉(うりざね顔)

 スーパー・ボールの勝者が、なすべきことは何でも行い、誰にも譲らない「世界チャンピオン」とするなら、世界で一切の瓜子 に関係した歴史は、全て漢字で書かれたものである。

 馬王堆漢墓の女性の遺体の腹の中から消化されていない 瓜子が発見されたことがあるけれども、瓜子を食べる歴史は最大宋(960-1279年)から遼代(916-1125年)までしか遡ることができない。なぜならひまわりやスイカから作る瓜子の「親元」は、何れも五代の時期(五代十国時代。907年 -960年)になってようやく中国にもたらされたからである。それはともかく、わたしは世界で最初に 瓜子の殻を剥いて口に入れたのは、きっと女性に違いないと考えている。女性であるからこそこのように自然と注意深く繊細な観察力と我慢強さを備えていたのであり、もちろん小さく敏捷な口と指も、欠くことのできない道具である。

 たとえ今後考古学上の資料で 瓜子は男性が発明したものであると証明されたとしても、瓜子が女性の食べ物であるという広く一般に認められた事柄、つまり女性だけが瓜子 をこんなり優雅に、美しく噛み割ることができるという現実を改めることはできない。もちろん、女性が瓜子 を噛み割るのは彼女たち自身のためであり、男性の気を引くのとは無関係であるが、一粒の取るに足らない瓜子にとって、このように優雅に食べられれば、たとえ種が瓜になる輪廻に失敗したとしても、死んでも心残りの無い幸福と見做すことができる。どんなに粗野な女性でも、ひとたび瓜子を手に取れば、動作も自然と美しくなる。20年余り前、わたしは広州の東郊で学校に通ったが、市内に向かうバスの中は、毎日化学工場と製鉄工場の女工で一杯で、座っている者も立っている者も、女工たちは皆手にひと掴みの紅瓜子(赤く着色された瓜子)を持ち、ちょうど『カルメン』で煙草工場の女工が皆巻煙草をくわえているのと同じである。わたしはいつも彼女たちが瓜子 を噛み割る美しい姿に見惚れて、同時にまた「広州カルメン」で紅瓜子の殻と一緒に彼女たちの口から飛び出す人を驚かす汚い話の中から、徐々に早期の性教育を終えたのである。

 成都の茶館は茶館の中での瓜子の消費量が中国でトップである。他所と異なるのは、成都の茶館は男性が茶を淹れるのを好むだけでなく、女性も茶を淹れるのを好む。わたしは成都の女性の「うりざね顔」の比率が高いことを発見したが、それはひょっとすると中国第一かもしれない。広東人はこれが「形でもって形を補う」理論のひとつの確証であるとおそらく信じているだろう。実際のところ、生まれつきどのような顔の形をしていても、口を尖らせて瓜子 を噛み割った瞬間、誰しも皆 うりざね顔になるのである。

 中国の女性は何種類か代表的な「中国語で言う顔型」があり、瓜以外にも、ガチョウの卵、シャオピン(焼餅。小麦粉を薄く延ばして焼いたもの)、苦瓜などがあり、皆食べ物である。言うまでもなく、うりざね顔は公認の美女の顔型であり、鄭秀文(サミー・チェン)の人気が出たのも、聞くところによると、心を鬼にして自分の シャオピン顔をうりざね顔に整形した所以(ゆえん)であるそうだ。「瓜子」がひまわりの種であろうと、やや丸く太ったかぼちゃの種であろうと、「美白」の意義を参考にすれば、やはり後者が基本となる。

 中国至上主義者として、瓜子を欧米に輸出するには、今のところ難易度がたいへん高い。最も可能性があるのは、わたしはやはり日本だろうと思う。これは決してわたしたちが皆米を主食にし、同文同「種」であるからではなく、日本の漫画の中の男女の主人公が、うりざね顔なのが多数を占めるからである。

「嗑」(前歯で噛み割る)の芸術

 わたしが瓜子は専ら女性の食べ物に属すると信じる所以は、女性の「嗑姿」(瓜子を前歯で噛み割る姿)に対する偏愛と言うよりはむしろ、男性の瓜子を噛み割ることへの嫌悪のためである。

 男性が瓜子を噛み割る、とりわけ一群の男が瓜子を噛み割っているのを見るのは見苦しく、オスが第二の性を超越した存在として、「瓜子を噛み割る姿」は下品で見るに堪えず、一粒の女子の指先につままれたダイヤのような瓜子も、太い腕に大きな口の男の手にかかると、まるで蚤をつまんでいるようだ。同じように直接口に触れるものとして、葉巻は尚男女で寸法の違いがあるが、残念なことに瓜子はもともとLady sizeしか無く、寸法上の美的感覚の問題は別として、男性が瓜子を噛み割る音は、濁っていて聞き苦しい。だから、わたしは次のふたつの場合を除いて、男性は瓜子でこれ以上関わり合いを持つべきではない。

 第一:瓜子を売ることで商売に成功し、それによって更に個人の身分や地位が向上する。
 第二:腹痛や頻尿を患い、場合によっては排尿が困難な男性は、薬を飲む以外に、適度に瓜子を食べると良い。聞くところによるとかぼちゃの種は脂肪酸を豊富に含み、前立腺でホルモンを分泌するのを助ける働きがある。毎日だいたい50グラムずつ、生でもよく炒ったものでも良い。3ヶ月以上食べ続けないといけない。

 馮鞏(フォン・ゴン)と牛群(ふたりは何れも、中国漫才、「相声」の芸人)はこれまでずっとわたしが好きな芸人であったが、新聞によれば、春節晩会(大晦日夜のテレビのバラエティ番組)の準備で、ふたりは毎回70斤(35キロ)にもなる瓜子をひたすら食べ、わたしは本当に笑うことができなかった。ふたりのりっぱな師匠が瓜子なんかを口に入れるくらいなら、煙草を吸った方がましだ。

 しかし言ってみればわたし自身も信じられないのだが、男が十人いれば、九人まで瓜子を噛み割る様子は見苦しい。けれども、瓜子を噛み割るスピードとテクニックについて言えば、わたしが見聞きしたところでは、女九人寄ってもひとりの男性にかなわない。SNSで「小三」というペンネームのすばらしい「嗑文」が見られる。「手に虱くらいの大きさのスイカの種を持ち、機関銃のように右の口もとから続けざまに投入すると、前歯が一本しか見えないのに、左の口もとから直ちに殻が噴出され、噴水のようだ。しかも殻は真っ二つに割られ、全部揃っていて、よだれが少しも付いていない。それでも尚、口の中で噛み砕くのが滞るようなことはない。そうこうするうち山盛りの瓜子がみるみる小さくなり、殻の山が瞬く間に大きくなり、しばらくすると瓜子の大きな袋が空っぽになってしまった。」

 悪くない。文中の「嗑主」は間違いなく男性だ。男でなければ、こんなに高い効率はあり得ない。

葵花宝典(ヒマワリ宝典)


黒瓜子

 黒瓜子はスイカの種、紅瓜子は蘭州白ウリの種、白瓜子はかぼちゃの種。これらの白、黒、赤が一色で来るのに比べ、ただヒマワリだけは黒、白半々である。なぜならヒマワリの種は「花」から生まれたもので、「瓜子」でなく「花子」である。

  瓜子の値段はウリの価格に従って高くなり、大いにオヤジ、英雄、好漢の意味がある。しかしかぼちゃの種やスイカの種はヒマワリの種ほど美味しくない。ヒマワリの種はよくヒマワリの種子だと誤解されるが、実際には、これは一粒の種子であるだけでなく、一個のれっきとした果実である。ヒマワリの果実は典型的な痩果(そうか)で、形が小さく、皮が薄く、やや紙質を呈し、内に一粒の種子を含んでいる。このため瓜子と比べ、ヒマワリの種はもともと果肉に近い成熟した深みのある味わいを備えている。スイカの種をもう少し炒ると、見た感じ少し黒っぽくなり、ヒマワリはもう少し乾すと、食べると口の中がぽかぽか暖かくなる。実際、ヒマワリの種はまだ炒る必要があるのだろうか。ヒマワリの種は、ヒマワリが太陽の方向を向いている間に、日光に晒され、十分に乾される。

 スイカの種や紅瓜子の振り払っても取れない渋みを取り去るため、炒る時にしばしば大量の調味料を投入する。スパイスには、ウイキョウ、花椒、桂皮、八角などが含まれ、発がん作用のあるサフロールが含まれている。食塩、香料、サッカリンなどの調味料は、あまり多く摂取し過ぎると、健康に良くない。最近また研究報告がなされた。瓜子に含まれる油分は、大部分が不飽和脂肪酸で、過剰に摂取すると、大量のコリンを消耗し、体内のリン脂質の合成と脂肪の摂取や燃焼に障害を引き起こす。大量の脂肪が肝臓に堆積すると、肝細胞の機能に重大な影響を及ぼし、肝細胞の破壊をもたらし、酷い場合には肝硬変を引き起こす。

 実際のところ、食べられるものには皆害になるところがあり、瓜子もまたその例に漏れず、適量が望ましい。ただ瓜子の問題はどこにあるかと言うと、食べないでいるならいいが、ひとたび口に入れると、しばしばコントロールが効かなくなってしまうことだ。ヒマワリの種は、比較的噛み割り易く、しかも味があっさりしているので、口に入れると狂ったように手が止まらなくなり、しばしば知らず知らずのうちに、家族や仲間と談笑し、興が乗ってくるうち、目の前の瓜子の殻は山のように堆積し、恐ろしい造山運動が展開される。

 ゴッホ以後、ヒマワリの種の母体のヒマワリは、西洋の精神病研究の上でずっと精神錯乱のしるしと見做されてきた。中国では、ヒマワリは文革当時、「忠誠」のしるしであった。ヒマワリは永遠に太陽の方向を向き、たいへん直観的で、中国式の認識論に符合した。しかし今考えてみると、このしるしは狂気じみているだけでなく愚かである。瓜子であれ花子であれ、これが太陽の方を向いていようといまいと、最後には食べられてしまう。これが中国式の実践論である。

長個屎尖頭(大便の先端が伸びる)

 中国を除き、世界各地の人々は瓜子を食べない。面倒を厭い、美味しくないものを嫌うと言うより、彼らは終生一粒の瓜子に含まれる広くて深い学識に触れることもないと言うべきである。

 瓜子が奇異であるのは、それが形態として食べ物と認められるかどうか、また食べてから満腹と感じられるかどうかによる。

 瓜子も口腔、食道、胃腸といった伝統的な路線に沿って進むものではあるが、瓜子を食べる快感は、その大半が「嗑」(前歯で噛み割る)にあり、ことばを換えて言うと、「殻無しの瓜子」はきっと市場が無くて売れないだろう。次いで、くるみやピーナツ、ピスタチオなどを食べる時も「殻をはずす」という工程があるが、こういったものはたくさん食べると満腹で腹が張る感覚が生じるのを免れない。瓜子はそれとは異なり、正に豊子愷先生が言うように「俗語では瓜子は食べても腹が膨れない(不飽)と形容され、「三日三晩食べると、大便の先端が伸びる」(吃三日三夜,‌長個屎尖頭)と言う。」

[注] 豊子愷(ほう しがい)1898-1975年。中国の画家、随筆家、翻訳家、教育家。「漫画」と呼ばれる題つきの絵で知られる。また、『源氏物語』を最初に中国語に完訳した人物。浙江省崇徳県石門鎮(現在の嘉興市桐郷の石門鎮)で生まれた。1914年に杭州にある浙江省第一師範学校に入学し、中国における西洋絵画・西洋音楽の草分けであった李叔同に音楽と絵画を、夏丏尊に国文を学んだ。1921年に日本に私費留学して西洋美術や音楽を学んだが、資金不足のためわずか10か月で帰国した。しかしこの留学は竹久夢二を知るなど豊子愷に重要な影響をもたらした。

 豊子愷先生がこのように瓜子文化に関心を持つのは、当時進歩的な知識分子の考え方では、瓜子を噛み割ることは中国の貧困、衰弱、野蛮の原因を形作るもので、アヘンを吸ったり痰を吐くのと同罪であった。魯迅はこうした食べ物を嫌っただけでなく、一切の形式のおやつにも反対した。もちろん、西洋や日本の近代医学の影響を受けた魯迅や豊子愷たちは、瓜子が「食べても腹が膨れない(不飽)」から健康に無益だと信じ、否定的な態度を取ったのではなく、心を痛めたのは、瓜子を噛み割ることでの時間の浪費であった。豊子愷先生は1934年4月20日にこう書いている。「時間の浪費を利するのは、……世間の一切の食べ物の中で、いろいろ考えてみると、瓜子だけである。だからわたしは、瓜子を食べることを発明した人は、すごい天才だと思う。そしてできるだけ瓜子を楽しむことができる中国人は、暇つぶしのやり方の上で、本当にすごい、積極的な実行家である。中国人は、「ゲップ、ペッ」、「チッ、チッ」という音の中で無駄に使われた時間は、毎年統計を取ってみると、きっと驚くべき数字になるだろう。将来このままの状態が続くと、ひょっとすると中国全土が「ゲップ、ペッ」、「チッ、チッ」という音の中で消滅してしまうかもしれない。わたしは元々瓜子を見る度に恐ろしく感じていた。ここまで書いて、わたしは今まで以上に恐ろしくなった。」

 確かに、「嗑」と「不飽」は何れも途中経過で、時間の消耗こそが最終である。時間の経過により、中国が最終的に瓜子のために滅ぼされたのではないと証明されて初めて、わたしたちはこれまで以上に、瓜子のため滅ぼされたのは、「チッ、チッ」として過ぎ去った時間だけであり、効率や金銭に置き換えられ、瓜子 を噛み割る音の中で消耗されたのは、時間により特定された品質である、と知るのである。

白塔寺廟会

2024年07月09日 | 中国文化
白塔寺白塔

 白塔寺、すなわち妙応寺は、北京阜成門内大街路北に位置し、寺の中に有名な全体が真っ白の巨大なチベット式仏塔があることで有名で、それゆえ俗に白塔寺と呼ばれる。

 遼の道宗寿昌2年(1096年)ここに仏舎利塔が建てられた。塔内には、お釈迦様の仏舎利と戒珠(かいしゅ。戒を保つことによって、その身が清らかに飾られることから、戒を珠玉(真珠)にたとえた)が20粒、香泥小塔(素焼きの小塔)2千個、離垢、浄光など陀羅尼(だらに)経5部が納められた。後に、塔は火災で焼失した。元代になり、この一帯の地区は新たに作られた元大都の内城になった。元の世祖フビライは文武両道の頗る政治的な頭脳を持った封建君主で、彼は「儒を以て国を治め、佛を以て心を治める」という国策を採用し、各民族の求心力を強化し、その統治を確固たるものにした。彼はラマ教を国教に定め、且つ都城内に大型のチベット式仏塔を造営し「以て都邑を鎮め」、「王城を壮観に」することを発願した。このため、彼は更に自ら塔の場所を定め、且つチベットで貢金塔を建設したネパールの著名な建築家、アニカ(阿尼哥)に委託し大塔の設計と建設を行った。至元8年(1271年)から着工し、至元16年(1279年)竣工。工期は8年であった。白塔が完成すると、お釈迦様の仏舎利を塔の中に収めた。同年、フビライがまた塔を中心に、四方へ向けて弓矢を射て届いた地点までを寺域に区画するよう命じ、塔を中心に寺を建立した。建築規模は広大、華麗で、「まるで内廷(宮廷内で皇帝が私生活を営む所)のような作り」の寺院であり、占有地は約16万平米、「大聖寿万安寺」の名を賜った。寺は至元25年(1288年)に完成し、その後ここは元代の皇室の仏事活動の中心となり、朝廷の百官が儀礼を演習する場所であり、中国で最初にモンゴル語の仏典を翻訳、印刷した場所であった。万安寺は元の大都の宗教、政治、文化史上、均しく重要な地位にあった。

 寺内の白塔全体の高さは50.9メートル、塔の台座、塔身、相輪、華蓋、塔刹(とうさつ。塔の一番てっぺんの刹頂)から成る。レンガを積み上げ、中に空洞が無い構造で、外部は白く塗られ、端っこは方形、円形、円錐体など、いくつもの幾何学形状で構成されている。塔の形状は優美で調和がとれ、造形は穏やかだが雄壮で、統一された中で変化に富み、中国で現存する中で年代が最も古く、規模が最大のチベット式のラマ教の鉢を伏せた形状の仏塔である。


白塔の構造

 塔の台座の高さは9メートル、面積は810平方メートルで、三層に分かれている。下層は方形の保護壁で、中層は折れ曲がった須弥座である。平面は「亜」字の形で、四隅は次第に収束してふたつに折れ、上層には鉄の灯籠が置かれている。その上は装飾性に富む過渡的な構造となっていて、一周が華麗なレリーフの覆蓮座、塔身を支える五本の輪っかである金剛圏があり、塔の下の方形で折れ曲がった基壇を、穏やかで自然に円形の塔身につなげている。

 塔身は直径18.4メートルの巨大な伏せ鉢で、上方には七本の鉄のたがが嵌っていて、塔身を十分に堅固にしている。塔身の上には折れ曲がった須弥座が加えられ、これにより塔身と上層の13層の相輪(十三天とも言った)を接続し、相輪の外形は円錐形を呈し、下から上へ各層が収斂してゆき、急峻な形をしていた。頂端で直径9.9メートル、上を40枚の放射状に銅板の瓦で覆った円形の華蓋を支え、周辺には高さ1.8メートル、梵語の文字を浮き彫りにした瓔珞(ようらく。玉の首飾り)と流蘇(りゅうそ。房状の装飾)36片と銅製の風鐸(ふうたく)36個が吊り下げられた。華蓋の上は高さ5メートル、重さ4トンの銅製金メッキの覆鉢型の小塔の形をした 塔刹であった。小塔の頂上にはまた精美な相輪が鋳込まれていて、まるで大きな真珠が青空の中で金色の光を発しているかのようであった。

 元末の至正28年(1368年)、寺内の堂宇は全て特大の雷火で焼失し、ただ白塔だけが幸い難を免れた。この後寺院は90年近く荒れ果てていたが、明代の天順元年(1457年)になり、宛平県民の郭福清が皇帝の勅命を奉じて修復、寺の名を「妙応寺」に改め今日に至る。寺院は北側に坐し南に面し、四重の堂宇と塔院で構成されていた。土地の占有面積は1.3万平方メートルあったが、それでもなお元の万安寺の10分の1にも及ばなかった。主要な建物は山門、天王殿、意珠心境殿、七佛宝殿、具六神通殿、白塔で、東西両側に配殿(正殿の両脇の殿宇)があり、山門と天王殿の間に対称に鼓楼と鐘楼が建てられていた。


白塔寺伽藍図

明代の成化元年(1465年)に塔の台座の周囲に鉄製の灯籠108基が追加で建設され、以後明清両時代に何度も補修され、その伽藍は基本的に今日まで保たれている。1978年夏、北京市の文物部門が白塔に対し修理をしていた期間に、塔の頂上で清の乾隆18年(1753年)に塔の修復が完了後に供えられたいくつかの「塔を鎮める」仏教文物(文化財)が発見された。その中で、724帙(ちつ)の龍蔵新版『大蔵経』、乾隆手書きの『般若心経』、チベット文の『尊勝咒』、銅製の三世仏像、十粒の舎利子が最も貴重なものであった。

 清の中期以後、妙応寺は北京のチベット仏教寺院の中でもはや重要な地位から外れ、昔の赫々(かくかく)とした隆盛はもはや再現されることがなかった。寺内の僧たちは生計を維持するため、大部分の寺の資産を貸出し、妙応寺は次第に北京城内の定期廟会(定期的に開かれる寺社の縁日)の会場のひとつになり、北京で名の知られた白塔寺廟会になった。毎年祝日になると、寺内の両側は商品を満載した店舗や屋台で溢れ、寺の敷地内に芝居のテントが掛けられ、各種の民間の衣類や道具、季節の食べ物、北京の特色ある軽食、娯楽や技芸など、何でも揃い、多くの人々が集まり、その賑やかさは並外れていた。


廟会で日用雑貨を売る屋台のテント
写真は日用雑貨の屋台の一角で、腰かけ、拔火罐儿bá huǒ guànr(こんろに火を起こす時に使う先が細くなった短い煙突)、やかんなどが積み重ねて置かれている。向こうに多くの参拝の女性や子供がいる。大木の下の屋台には布やアンペラ(葦で編んだ蓆(むしろ))のテントが吊るされ、日差しや雨を遮っている。こうした廟会の光景は、昔は至る所で見られた。

 昔の北京の廟会は、会期から区分すると、毎年決まった時期に開かれる廟会と毎月定期的に開かれる廟会の二種類があった。白塔寺廟会は毎月定期的に開かれる廟会であった。最初、廟会の時期は陰暦の毎月5と6の付く日に開かれていたが、1922年にこれが陽歴の毎月5と6の付く日に開かれるよう改められた。1949年以後、市民や廟会の屋台の主人の必要から、白塔寺の廟会はもう二日増やされ、陽歴で毎月3、4、5、6の付く日に連続して開かれ、毎月全部で12日廟会が開かれるようになった。


白塔寺山門と開光法会
写真は1938年5月13日から15日までの白塔寺開光法会(開眼供養)の期間、山門の前に建てられた牌楼である。当日、開光法会に参加しに来る各界の信徒や観光客はたいへん多く、門前には自動車が走っているだけでなく、自転車、リヤカー、人力車が通り、更に水売りの車が1輌、牌楼の前に停まっている。

 白塔寺は廟会の時期になると、東は馬市橋から、西は宮門口西岔(「岔」は分岐のこと)まで、道路の両側は地方風味の軽食、食品雑貨、おもちゃなどの屋台や天秤棒を担いだ行商人たちで、宮門口から西向きの道の北側には十数軒の古着屋があり、その店先にも屋台を設けて商品を売った。寺の後門の元宝胡同は鳥市で、ハト、鶉(うずら)、鷹(たか)、鳥、ウサギ、犬などの禽獣を売っている他、鳥籠、ハト笛、鳥の餌入れ、コオロギを飼う小壺、鳥の餌、魚釣りの道具なども売っていた。秋になると、鳥市ではこの他、「油葫芦」(コオロギ)、キリギリスなどの秋の虫を売り、春の鳥市では金魚を売った。寺の前門には糖葫芦(サンザシ飴)売り、衛青(青ダイコン)、心里美ダイコン(水ダイコン)売り、大串の山里紅(サンザシ)売りや花籠売りがいた。


鳥の餌を売る屋台
廟会の期間、白塔寺の後門の元宝胡同では、ハト、鷹、小鳥が売られた他、更に鳥籠、鳥の餌、コオロギを飼う小壺、魚釣りの道具などが売られた。写真は地面の上に雑穀の鳥の餌が広げられ、ひとりの男の子がこれを買おうとしている。盛んな人の流れにより、廟会のにぎやかな雰囲気を増している。

 寺内の前院(意珠心境殿院)東側には日用雑貨を売る屋台があり、西側には年糕(もち米のしん粉を蒸したもちやもち菓子)、切糕(もち米やアワ粉を蒸して作ったもちを切って売った)、豆面糕(豆粉を蒸して作ったもち)など食べ物の屋台やテントがあり、テントの下には簡単なテーブルや腰かけが置かれ、食事する者に供用した。寺内の後院(七佛宝殿院)はずっと民間の芝居の上演場所で、その前後には相声(漫才)、評書(講談)、大鼓書(カスタネットを叩きながら語り物を歌う)、変戯法(手品)のテントがあった。


塔院内のテント
白塔寺廟会では、塔院内で主に講談や芝居の一節が歌われ、のぞきめがね、映画の小篇が演じられた。この当時の有名芸人には、「小蜜蜂」、「大妖怪」、楊樹林、常蔭泉などがいた。

1930年代、大殿の門前の石造りの台の上では、付士亭の楽亭大鼓、侯五徳の梨花大鼓が演じられ、台の下には豆汁(緑豆で春雨を作った残り汁で作った飲み物)、豆腐脳(豆乳を煮たて、にがりを入れ半ば固めたもの)、炸丸子(肉団子を油で揚げたもの)、炸豆腐(揚げ豆腐)を売る屋台があった。院内の東側の屋台やテントはひとつに繋がっていて、衣服や靴、帽子を売る者、靴下や髪をすくすき櫛を売る者、更に化粧品、かつら、刺繍の見本を並べた店、絹で作った造花などを売る者などがいて、こうした屋台がずらりと並んでいた。おもちゃを売る屋台には、関羽、張飛、猪八戒、孫悟空など芝居のくま取りのお面が一杯に並べられ、更に大頭和尚、起き上がりこぼし、木刀、張り子の虎、竹とんぼ、木のコマ、でんでん太鼓などが売られていた。白塔寺二門の西の塀に囲まれた道では、四季折々の生花が売られていた。二門の階(きざはし)の上では、銅の磨き粉、焊磁薬、胡塩などを売る屋台が出ていた。北京の主要な廟会の中で、白塔寺の草花や木碗がもっとも有名で、寺に来た者はそれらを喜んで買って帰った。


廟会の屋台の一瞥
写真は後院で古本や靴下、手袋などの日用雑貨を売る屋台である。屋台の間には狭い通路があった。

 寺内の西の回廊の北側には茶館がふたつあり、廟会の間、参拝者にお湯を出して茶を飲んで休憩してもらい、併せて出店者に飲み水を出したり物品を保管してあげたりした。廟会をしていない時も通常通り営業し、普段の主な客は不動産の仲介業者であった。

 塔院の西側の空き地では、1930年代から1950年代まで、相前後して多くの民間の芸人が講談を語ったり芝居の一節を歌ったりした。昔、「小蜜蜂」(ミツバチ。張秀峰のこと)はここで西路平戯(西路評劇。華北や東北地方で行われた地方劇で、最初華北西部で盛んであった)を歌い、後に滑稽大鼓を歌うようになり、『劉公案』の演目が特に名高かった。ここではまた阿闊群の評書『小五義』、楊樹林の楽亭大鼓『楊家将』、『呼家将』。「全家福」一家の演じる文明戯、「大妖怪」夫婦の滑稽二簧(「二簧」は京劇で歌う節の一種で、ゆっくりとしたテンポで、叙情的な内容や悲しい心情を表現するもの)、馬宝貴の相撲などが行われた。1949年以降は、常蔭泉が評書『三侠剣』をやり、藍剣舒が芸をしながら薬を売り整骨をした。何広珍は人体の各種の寄生虫を展示するやり方で、虫下しの薬を売った。また何人かの名も知らぬ芸人がここでのぞきめがねや日光を利用し演じ手が機械を揺り動かして映画の小片を上映し、子供たちが争って鑑賞した。塔院の北側の空き地は、ほとんど皆、星座や人相見の占い師で、字を見たり、人相を見たり、圓光(壁に貼った白い紙にできた影の形で、吉凶禍福を占う)を行う占いの屋台であった。


拉洋片(のぞきめがね)
北京の主な廟会や天橋地区には「拉洋片」(のぞきめがね。「拉大画」とも言う)の芸人がいて、彼らはひとりで銅鑼を鳴らしてきれいに描かれたスライドをゆっくりと動かし、同時に画面に基づき内容を語ったり歌ったりした。観客は木箱ののぞき穴から拡大鏡を通じて画面を見た。写真は廟会に訪れた客がのぞきめがねを見る情景である。

 白塔寺廟会は北京のその他の廟会と同様、1950年代中期以降、次第に衰退した。1960年代前後には、白塔寺廟会は既にもう存在しなかった。昔日の北京廟会の盛況は、既に昔の北京の歴史上の事柄となった。