中国語学習者のブログ

これって中国語でどう言うの?様々な中国語表現を紹介します。読者の皆さんと一緒に勉強しましょう。

法隆寺の建物を中国語で説明する その2(中門、回廊)

2020年05月17日 | 中国語でどう言うか?

法隆寺中門

 それでは、前回に引き続き、法隆寺の建物を、中国語でどのように説明するか、お話します。2回目は、中門と回廊です。中門は、入って先ず目にする建物ですから、本当は、こちらが先に説明すべき建物です。

【日】法隆寺中門は同寺西院伽藍の正門で、飛鳥時代の建造物であり、正面4間の二層の楼閣であり、これも柱と柱の間の数が偶数です。
【中】中门是法隆寺西院伽蓝的正门,飞鸟时代建筑,面阔四间的两层楼阁,也是偶数开间。

五重塔でも説明しましたが、中門でも、柱と柱の間の間(ま)、中国語で「开间」の数が偶数になっていて、これはたいへん珍しいものです。

上の写真は鎌倉時代建立の東大寺南大門ですが、正面5間と、奇数になっています。京都の南禅寺三門、知恩院三門なども正面5間です。中国の寺院や王府の大門も同様です。

それでは、中門の内側に回ります。

【日】柱は外観上、両端が削られ曲線を描いた胴張りの柱です。
【中】柱子可见是两头卷杀的梭柱。

「梭柱」suōzhù 胴張りの柱。エンタシスの柱。「梭」は織機の杼(ひ)のことです。
「卷杀」juǎnshā 古建築の用語で、柱、梁、貫、斗拱、垂木などの端部を削って、ゆるい曲線をつけ、柱の外観を豊満、柔和にすることです。「entasis」の中国語訳。「凸肚状」と訳しても分かります。
ちなみに、ギリシャのパルテノン神殿は、「希腊的帕提农神庙」です。

織機の杼(ひ)

【日】中国北方では、胴張りの柱を見ることは非常に少ないですが、南方ではよく見かけ、清代までずっと用いられていました。
【中】在中国北方,梭柱实物非常少见,而南方较多,且一直用到清代。

山西平顺南社玉皇庙

广东肇庆梅庵

■回廊

法隆寺伽藍配置図

法隆寺回廊(南側)

【日】法隆寺の現存の回廊は、南半分が飛鳥時代の建築で、北半分は平安時代のものです。全体に凸字形をしていて、中門の両側から大講堂にまで通じています。
【中】法隆寺现存的的回廊南半部分是飞鸟时代的建筑,北半部分是平安时代的,总体凸字形,从中门两侧延伸至大讲堂。

【日】回廊は二本の柱から成り、二本の垂木を支える梁が軒まで通じており、柱と梁をつなぐ組物(斗拱)はいくつかの斗(ます)で直接、軒の横木を支え、大斗の下には皿斗が置かれ、梁の上は三角に組まれた人の字形の扠首(さす)で肘木を介して棟を支えています。 
【中】回廊为两柱式,二椽栿通檐,把头绞项作,栌枓下有皿板,二椽栿上以人字叉手托捧节令栱

・二椽栿

上の写真は、間に桁を入れて計4本の垂木で支える屋根で、その下に横に渡す梁は、4本の垂木を支えるので「四椽栿」と言います。同様に、二本の垂木を支えるために横に渡す梁を「二椽栿」と言います。

・把头绞项作

上図のように、軒柱(「檐柱」)の頭と梁(「栿」)の間に置く組物で、肘木(令栱)といくつかの斗(ます)で軒の桁(「檐檩」を支える)を支えるものを、「把头绞项作」と言います。「项」xiàngはうなじや襟首のことで、宋代建築で、柱の首のところを縛るような組物なので、こう呼ばれました。

・皿斗(「栌枓下的皿板」)

大斗(坐斗)の下に皿状の板を噛ませたもので、たいへん珍しい形状です。中国でも、山西省五台山南禅寺などでわずかに同様の事例が見られるそうです。

さて、西院伽藍の回廊は、当初は金堂と五重塔だけ囲う長方形でしたが、平安時代の延長3年(925)の大講堂の火災後、講堂も伽藍の中に取り込む、現在の形になりました。回廊も北半分が新たに作られましたが、講堂の部分だけを囲うように作られたので、凸字形になりました。新たに作られた回廊北側は、構造も当初とは多少異なっています。

 

梁の上の扠首の間に、束柱という短い柱(中国語で「蜀柱」と言います)が立てられています。実はこれ、この部分が建てられた北宋時代の中国から入ってきた建築様式なのです。

【日】法隆寺の大講堂は火災で焼失し、その時に回廊北側も焼失し、平安時代に再建されました。再建されたのがちょうど中国の北宋初期に当たり、そのため、回廊南側は飛鳥時代の様式ですが、北側は平安時代の様式で、両者の構造は異なり、北側の平安時代再建された回廊には、扠首の間に束柱が立っています。
【中】法隆寺大讲堂曾失火烧毁,也烧毁北部的回廊,在平安时代重建,重建时间相当于中国的北宋早期,所以回廊南部是飞鸟时代的,北部是平安时代的,两部分结构不一样,北部平安时代重建的回廊叉手间有了蜀柱。

もちろん、実際のガイドでは、ここまで細かい説明は必要ないですが、興味のある方は、雑学として聞き流していただければ幸いです。


法隆寺の建物を中国語で説明する(金堂、五重塔)

2020年05月15日 | 中国語でどう言うか?

法隆寺金堂

  前回、斗拱など、寺院の屋根の構造物をどのように中国語に訳すと良いかをまとめました。その中でも紹介しましたが、法隆寺の建造物はたいへん貴重な飛鳥時代の建物で、中国から伝わった南北朝時代から隋、唐の建築様式が、どのように日本で取り入れられたか、その実物を見ることのできる場となっています。
 今回は、法隆寺の金堂と五重塔について、中国語で説明する時の訳し方について、見ていきたいと思います。

■金堂

【日】法隆寺金堂は、飛鳥時代の建造物で、二層屋根の入母屋造り、後世に下層の周囲に裳階(もこし)が取り付けられたので、見かけ上、三層の屋根になっています。
【中】法隆寺金堂是在7世纪,飞鸟时代建筑,重檐九脊顶,后代在下面又加了一圈抱厦,所以看起来有三层檐。

ここの部分を少し解説します。

・重檐九脊顶
「重檐」は「屋顶重叠下檐」で、屋根の軒が二層(或いは何層か)に重なっていること。
入母屋造りは、通常は「歇山顶」xiēshāndǐngと言いますが、別称として、「九脊顶」
jiǔjǐdǐngと言います。宋代にこう呼ばれました。

下の絵は、入母屋造の屋根を表したものです。

この図の如く、「屋脊」、屋根の棟が、「正脊」(大棟)が1本、「垂脊」(降り棟)が4本、 「戗脊」qiāngjǐ(隅棟)が4本あります。棟が合計9本あるので、「九脊顶」と言います。
ちなみに、降り棟が「垂脊」から「戗脊」に下りる時、その間で一旦傾きが止まり、あたかもそこで一休みするような形状であるので「歇山顶」(「歇」は一休みするとの意味)という呼び名があります。

・抱厦
裳階。裳階(もこし)は、仏教寺院のお堂、塔などで、軒下壁面に付いた庇(ひ)状構造物。別名:雨打(ゆた)。本来の屋根の下にもう一重屋根をかけるかたちで付けられます。
尚、蛇足ですが、中世以降、盛んに使用される唐破風も、「抱厦」と訳します。「龟头屋」という言い方もあります。唐破風は見た目、亀が首を出したように見えることから、こういうのでしょう。

法隆寺金堂の組物

【日】金堂の屋根には尾垂木が用いられていますが、尾垂木の下を支えるのは通常の肘木ではなく、雲肘木を用いています。
【中】金堂屋顶采用了昂,但昂的下面并不是使用常见的华栱,而是使用云形栱。

上の写真が、通常の「华栱」huágǒngです。「昂」ángは尾垂木。「华栱」は「抄」chāoとも言います。一手先斗拱は「出一跳斗栱」、簡単に言う時は「单抄」、二手先斗拱は「出两跳斗栱」、「双抄」という言い方になります。

軒を支える丸桁(がぎょう)の下の雲肘木

【日】斗拱の一番上側の肘木も、通常見られる肘木ではなく、雲肘木を使用しています。
【中】斗栱的跳头上也不是常见的令栱,使用云形栱。

「令栱」lìnggǒngはこのように、丸桁(がぎょう。「檐檩」yánlǐn)をすぐ下で支える肘木です。
「跳头」tiàotóuというのは、一手先、二手先と斗拱を何層か重ねる時、「华栱」や「昂」が外に飛び出ることを言います。

尾垂木の下を頭に桝(「斗」)を載せて踏ん張っている獅子もユーモラスです。この獅子は、屋根の補強に後世に取り付けられたそうです。

龍の彫り物のある柱

【日】第二層の龍が巻き付いた柱は、後世の修理時に取り付けられたものです。
【中】第二层的缠龙柱是后代修理时追加的。

この龍の柱は2層目の屋根の四隅に建っていて、柱に彫られた龍は、登り龍が2本、降り龍が2本です。江戸時代に大屋根の軒が垂れ下がってこないよう、補強材として建てられたようです。

龍の柱と高欄

【日】第二層の高欄には人字形割束(にんじけいわりづか)が使用されています。中国では、敦煌壁画や古い時代の磚や石の建造物で、人字形割束が広く使われていましたが、木造建築の実物は残っていません。
【中】第二层勾栏上还保存有人字栱。在中国,虽然敦煌壁画及早期砖石建筑中,人字栱应用广泛,然而木造建筑已没有存在。

敦煌莫高窟275窟壁画(北凉)

大同雲崗石窟(北魏)

【日】大同雲崗石窟の北魏時代の建物の形態の中に、既に人字形割束が現れています。
【中】大同云冈石窟北魏时期的建筑形象中就已经出现了人字栱

雲崗石窟高欄

【日】金堂の高欄の様式は、雲崗石窟の中に同様のものを見つけることができます。
【中】金堂勾栏的样式在云冈石窟也能找到相同的

ここで、高欄の模様は、「卍崩しの高欄(まんじくずしのこうらん)」、中国語で言うと、「卍wàn字搞乱花样的勾栏」です。

■五重塔

 

【日】法隆寺五重塔は金堂同様、飛鳥時代の建築で、金堂と東西に並び、高さ32メートル余り、五層で、後代に一番下層の周囲に裳階が取り付けられたので、六層の屋根となっています。
【中】法隆寺五重塔也与金堂一样,飞鸟时代的建筑,与金堂东西并列,高32米余,五级(层),后代在最下面加了一圈副阶(「抱厦」),有六层(级)檐。

「副阶」fùjiēは裳階のことですが、金堂では「抱厦」と言ったので、合わせても良いような気がしますが、「抱厦」はメインの建物から突き出た部屋。「副阶」は建物のぐるりを覆う回廊のイメージです。

上の写真のような塔の一番下層の周りに回廊が付けられるデザインが、中国の塔ではよく見られます。これが「副阶」です。しかし、法隆寺の場合、裳階の構造は金堂も五重塔も同じ形状に見えますので、「抱厦」と言っても良いと思います。

「级」jíは階段や階層を数える量詞で、「七级宝塔」(七重の塔)などという言い方ができますが、「层」や「重」を使っても差し支えないと思います。

【日】五重塔の斗拱の構造は金堂と同じく、尾垂木と雲肘木が使われています。
【中】五重塔的枓栱结构与金堂相同,都使用昂和云形栱。

【日】五重塔の屋根は、垂木を平行に配置しています。
【中】五重塔屋顶采用平行布椽。

「椽」chuánは垂木です。このように平行に垂木を配置してしまうと、隅の方の垂木は、軒の重みを十分支えることができないので、垂木の上に桔木(はねき)という補強材を入れ、軒が垂れ下がらないようにしていました。桔木は跳木とも書き、梃子(てこ)の原理で軒先をはね上げて支える木材です。

上の図が、屋根を支える構造です。桔木は放射状に取り付けられました。尚、唐の元祖の中国では、屋根の隅の垂木は扇上に並べられる形であったそうです。日本では、これ以降、後世になっても、垂木の傾き方向へ平行な配置が続きます。

五重塔最上階

【日】五重塔の二層~四層は何れも柱と柱の間が3間ですが、第五層は2間で、偶数の間を使っています。一般に寺院の建物の間は奇数を使い、偶数は大変珍しいです。
【中】五重塔二~四层都是三开间, 第五层是两开间。一般寺院的建筑采用单数开建,偶数开间是很少见的。

「开间」kāijiānとは、柱と柱のあいだ、間(ま)のことです。
中国では、建物の柱と柱のあいだ、間は、奇数にするのが一般的です。法隆寺の五重塔は、2~4層は3間ですが、一番上の5層目は2間となっています。最下層は、入り口の扉を入れて5間です。

上の写真は興福寺の五重塔(室町時代)ですが、上から下まで全て3間です。
また、後世の塔は、上から下まで、屋根の大きさがほぼ画一になってきます。

法隆寺の近くの法起寺の三重塔も、このように最上階のみ2間にしています。古い時代の塔は、上層から下層へ屋根を大きくしているので、外観上のバランスもあるのでしょうが、間を敢えて偶数にしたのは、何か特別な意思が働いたのかもしれません。

五重塔相輪

【日】五重塔の相輪、下には四本の鎌が取り付けられています。
【中】五重塔的塔刹,下面安装四把镰刀。

「塔刹」tǎshāは相輪です。「镰刀」liándāoは鎌。

鎌は、雷を威嚇し、塔に雷が落ちないようにとの呪いの意味が込められているそうです。元々、鎌倉時代に五重塔が落雷の被害に遭った時、4本の鎌を取り付けられ、1947年に堺の刀工が制作した鎌に取り換えられたそうです。

以上、法隆寺の金堂、五重塔の特徴と、それを中国語でどう言うかについて、見てきました。おそらく、ガイドの時にここまで細かく紹介することは、時間的にもできないでしょうが、質問を受けた時のために、知識として持っておくと良いと思います。

今回は、金堂と五重塔を見てきましたが、法隆寺については、あと、同じ西院伽藍の中門と回廊について、次回に紹介をしたいと思います。


日本の寺社を中国語で説明する~斗拱

2020年05月04日 | 中国語でどう言うか?

兵庫県浄土寺、大仏様組物

 寺社の建物の説明をする時、屋根の軒を支える斗拱(ときょう)という木製の組物が建物の大きな特徴となっています。それでは斗拱などの建物のパーツを、中国語でどう訳したらよいか、というのが今回のテーマです。百度の記事などを参考にしながらまとめてみましたが、まだまだ不十分。詳しい方がいらっしゃいましたら、ご指導いただければうれしいです。ちなみに、斗拱は、中国語でも「斗栱」dòugǒng、或いは「铺作」pūzuòと言います。

 元々、斗拱は中国から直接、もしくは朝鮮を経由して日本に入ってきたもので、基本は共通ですが、時代と共に、それぞれ独自に進化した部分があります。また、曾ては中国にあったが、中国では既に実物が失われ、日本でのみ残っているものもあります。

(1)斗拱

斗拱は大屋根の前に張り出した軒を支える木の組み物です。上の写真で言うと、
・斗:これは四角い桝の形をしていて、「ます」と読むこともあります。中国語でも「斗」dòuです。日本同様、「升」shēngと言うこともあります。
・肘木:梁や桁、斗の下の荷重を支える横木です。中国語は「栱」gǒngです。

今度は、上の斗拱の分解図で見ていきましょう。下→上に見ていきます。
・柱:柱子 zhùzi
・貫:横方向に軒を支える材木。「额枋」 éfāng 或いは「阑额」 lán é。
・斗(ます):斗 dòu
・梁:「栿」fú。但し、建屋の中の仏像を安置する身舎(もや。「正堂」)を支える梁では、「梁」liángも使います。
・肘木:栱 gong
・丸桁(がぎょう):垂木を支える桁 (けた) で、最も軒先近くにあるものです。「檐檩」
yánlǐnと言います。

上の図は、中国での斗拱の絵です。一番下の「做斗」は、「栌斗」lúdòuとも言い、日本では大斗(坐斗)と言います。
「小斗」は、日本では巻斗と言います。

これは宋代の建築様式の軒柱(「檐柱」)とその上の組み物の図です。
ここで、「昂」ángとあるのは、尾垂木で、斗拱から斜め下に突き出したものは、「下昂」と言います。日本の社寺では、下の写真のようになります。

中国の建築では、「昂」の上に「耍头」shuǎtóuという木材を噛ませており、これにより、「昂」、「斗栱」と共に軒を支える力を強化し、時には軒屋根の傾きを持ち上げる機能を持たせています。

これらを含め、軒を支える柱や組み物の構造図面(中国)が下の図面です。
日本の寺社建築とは多少違いもありますが、中国の方に説明する時は、ここに記されている言葉を使うと、理解してもらいやすいと思います。

この図で、柱が2本ありますが、内柱から右側が建物の中で、仏像を安置する身舎(もや。「正堂」zhèngtáng)となり、それより左側が外側の廂(ひさし)の部分、軒(「屋檐」wūyán)になります。屋根瓦を載せる垂木(化粧垂木)は、「椽木」chuánmùです。
「令栱」lìnggǒngというのは、肘木でも一番上の「檐檩」(丸桁、がぎょう)を支えます。「跳头」tiàotóuという言い方もあります。
その下にある肘木で、外に突き出たものを「华栱」huágǒngと言い、宋代からこう呼ばれました。清代は、「翘」qiáoとも言いました。これと90度、壁の方向の肘木は「泥道栱」nídàogǒngです。中国では、大斗(坐斗)の上に「华栱」と「泥道栱」を交差させて「栌斗」(「坐斗」)の上に置かれます。「泥道栱」は清代には「正心栱」とも言いました。
軒を支える梁を「乳栿 」rǔfúと言うのは宋代からの言い方で、清代は「双步梁」とも言いました。
「下昂」(尾垂木)が2本、上下に重なり、「阑额」(「额枋」。貫)も何本も重ねられていますね。また、「屋檐」(軒)側だけでなく、内部の「正堂」(身舎)側にも斗拱が使われていますね。

これは、梁の上に大斗(坐斗)が載り、その上に肘木、一番上は小斗3個で桁を支えているので、「一斗三升」という言い方をします。

この写真は、法隆寺の金堂です。突き出ている角材は尾垂木で、中国語では「昂」。その下を支える、法隆寺独特の雲肘木ですが、これは中国語で「云形栱」。

これは、丸桁(檐檩)を支える肘木で、しかも雲肘木ですから、中国語では、「跳头云形栱」と言います。

これは、法隆寺金堂高欄(「勾栏」gōulán)の人字形割束(にんじけいわりづか)ですが、中国語では「勾栏人字栱」と言います。尚、こうした人字形割束は、中国でも南北朝から唐くらいまでは幅広く使われたようですが、現在は木造の建物は残っておらず、わずかに壁画や石窟寺院の中などに残っています。
尚、人字形割束の上の「卍崩しの高欄(まんじくずしのこうらん)」も大変有名ですが、これを中国語で言うと、「卍wàn字搞乱花样的勾栏」となると思います。

これは、山西省大同の雲崗石窟に残る、人字形割束、「人字栱」です。このように、石窟寺院などには残っていますが、木造の建造物としては、残っていません。

三手先(みてさき)は、中国語で「出三跳斗栱」となります。

これは、東大寺大仏殿正面の六手先(むてさき)の組物で、軒柱から挿肘木が出ています。これを中国語で「出六跳插栱」と言います。挿肘木は「插栱」chāgǒngです。

(2)蟇股(かえるまた)

蟇股は、頭貫(かしらぬき)や梁(はり)の上 、桁との間に置かれる山形の部材。本来は上部構造の重みを支えるもの。日本で独自に発展し、後には単に装飾として、さまざまに彫刻して破風(「抱厦」bàoxià)などにつけられたものです。蟇が脚を広げてふんばった姿勢と似ているところから蟇股と名付けられました。中国では、日本のような装飾用の蟇股は存在しないようです。
中国では「驼峰」tuófēngが蟇股に近いです。「驼峰」の本来の意味は、梁の上の当て木です。ラクダの瘤のような形をしているので、こう呼ばれます。

上の写真は唐代の木造建築の内部ですが、「四椽栿」の上で、「平梁」を支えているのが「驼峰」です。

これは、斗拱と斗拱の間を補強する組物のデザインの変化を示したものです。正に蟇股に相当します。「铺作」pūzuòというのは組物、或いは斗拱のことです。蟇股は斗拱と斗拱の間の補強材ですから、「补间铺作」bǔjiānpūzuòは正に蟇股のことです。尚、中国では、「补间铺作」に蟇股を使わず、斗拱を置くことが多いです。日本で言うと、禅宗様の建築様式です。

「正堂」の内部には、こうした「驼峰」も見られるようです。

(3) 木鼻

木鼻とは「木の先端」という意味の「木端(きばな)」が転じて「木鼻」に書き換えられたものです。頭貫などの水平材(横木)が柱から突き出した部分に施された彫刻などの装飾をいいます。

一方中国でも、貫(「额枋」或いは「阑额」)、尾垂木(「昂」)の上の「耍头」に装飾を加えることが行われました。それを示したのが上の資料です。ですから、木鼻を「耍头」shuǎtóuと言うか、例えば貫の木鼻であれば、「阑额出头」と言えば分かると思います。
尚、中国では、梁と貫の間の補強材(「承托」chéngtuō)に装飾がされることが多いようです。次の写真がその例です。

次は、梁や貫の木鼻の例です。これは「梁头」か「耍头」の何れかだと思います。

次に、「耍头」の装飾。

 以上、長々と説明してきましたが、中国と日本の寺院建築は、元々中国から日本へ伝来したので、元は同じですが、その後、和様、「日本化」というか「日本式」の建築様式が生まれ、発展してきたので、異なる部分が見られます。或いは、中国では既に失われ、壁画の中などでしか見られないものもあります。それゆえ、中国から日本に観光に来た方が、日本の寺院建築を見て、感じることのできる懐かしさ、おもしろさがあるのではないかと思います。今回、整理した語句を用い、より的確に通訳、翻訳ができれば良いなと思います。

 

 


京町屋を中国語で説明する [改訂版]

2013年09月16日 | 中国語でどう言うか?

  以前、京町屋を中国語でどう説明したらよいか、述べたことがありますが、内容が不十分であったので、改めて説明内容を整理しました。

  町屋については、風情があって京都らしさを体験できるということで、近年はリフォームして、住居としてのみならず、お店やレストラン、ホテルとして活用されるケースが増えてきています。
  中国でも、北京の四合院や上海の石庫門が同じように活用されていますが、京都に於いて、“能体験濃厚的民族気雰”のスポットとして、京町屋は外せないと思います。



  [訳] 京町屋の様式
  京都の庶民の伝統的な家屋で、江戸時代の中期に形式として出来上がった建築様式である。木造二階建てで、入口が通りに面している。屋根の棟は、道路と並行の向きである。外観の特徴は、通りに面した窓に、濃い赤色に塗られた格子が付けられ、二階は背が低く、二階の窓は虫籠の様な形状になっている。軒下には、竹で出来たアーチ状の柵が付けられている。一般には、通りに面した方が店舗になっていて、奥が住居になっている。玄関から奥へ、土間の廊下が通じていて、台所は廊下の途中に設けられている。



※ 「うなぎの寝床」は、ぴったりくる中国語がありません。説明するしかありませんが、「うなぎの棲息場所のように細長い家屋」と訳しました。

[訳] うなぎの寝床
  建てられている土地は幅が狭く奥行きが長く、「うなぎの寝床」と呼ばれている。家屋の二本の柱の間の長さを「間」と言い、「一間」は1.8メートルで、当時は家の正面の長さが一般に三間、5.4メートルだった。近世の京都の都市設計をした豊臣秀吉は三間の家を一軒として、租税を徴収した。一説には、京都の商人は豊臣秀吉の租税政策に反発し、家の正面の三間の幅はそのままとして、拡げず、その代り敷地の奥に部屋を追加し、そうして納税額を低く抑えたと言われる。けれども、別の説では、このような街路と民家の洋式は、京都に限らず、多くの都市で共通で見られたことだという。




[訳] 格子窓
  格子窓は京都の町屋に独特の風格を添えている。格子は、外から光を取り入れ、家の中から外は見えるが、外から中は覗きにくく、プライバシーを保つ働きをする。格子の木には、ベンガラが塗られている。これは鉄さびの粉にエゴマ油を混ぜたもので、濃い赤色をしている。この塗料には防腐、防虫の効果がある。インド東北部、ベンガル地方から輸入されたものである。







[訳] 通り庭、坪庭、裏庭
  伝統的な町屋の一番奥には裏庭がある。玄関から裏庭まで、通り庭が通じている。正面に店舗があり、奥が住居になっている規模の大きな町屋では、中間に坪庭が設けられている。こうした通り庭、坪庭、裏庭には、採光と風の通り道としての機能がある。

※ 通り庭、坪庭とも、ぴったりの訳はありません。通り庭は、「玄関から奥へ通じる土間の廊下」、坪庭は「建屋の途中の小庭」と訳しました。







[訳] 犬矢来(いぬやらい)
  町屋の通りに面した外壁の下には、アーチ型の竹製の柵が取り付けられ、軒下が犬の尿や雨天に飛び散った泥で汚れるのを防いでいる。柵は古くなって汚れたり壊れた時は、新しいものに交換することができる。

※ 矢来(やらい)というのは、竹や木を組んで作った囲いのこと。ここでは、「軒下の竹の柵」と意訳しました。







[訳] 虫籠窓
  虫籠窓は町屋の通りに面した二階の格子窓で、外観が虫籠に似ていることから名づけられた。格子は木の上からわら縄を巻き付け、その上から土や漆喰(しっくい)を塗ったものである。虫籠窓には、明かり取りと通風の機能がある。
 



[訳] バッタリ床几
  商家の入口の脇に取り付けられた折り畳み式の腰掛け。使わない時は、畳んで壁に収納しておく。昼間に引き出して、この上に商品を並べておく。夜は仕舞ってしまうか、夏の夕方にはここに座って夕涼みをすることができる。

 




 

[訳] 鐘馗(しょうき)さん
  伝説上の厄除けの神様である。中国・唐の時代、玄宗皇帝がある時病気になって熱を出した。玄宗は枕元に鐘馗が出て来て、悪霊を退治してくれる夢を見た。翌朝目が醒めると、病気は直っていた。後に、鐘馗は悪霊を退治してくれると信じられるようになり、厄除けの神様となった。日本の京都にも伝説があり、昔、京都の三条通りで一軒の薬屋が家を新築し、屋根の上に鬼がわらを取り付けた。その後、どうしたことか、薬屋の向かいの家の奥さんが病気になった。原因を調べてみると、悪霊がいて、薬屋の屋根の鬼がわらに跳ね飛ばされたものが、跳ね返って向かいの家に入って、そのため病気になったことが分かった。その家の主人はこのため、京都伏見の瓦店に頼んで、鬼がわらより強い鐘馗さんの像を作ってもらい、自分の家の小屋根に取り付けたところ、奥さんの病気が直った。それからというもの、京都の町屋の小屋根には、鐘馗さんの像を取り付けるようになった。

※ 今は、屋根に鐘馗さんを載せている家も少なくなっていますが、注意して町屋の屋根を捜してください。屋根瓦と同じ材質、色で、大きさも小さいので、見落としがちですが、鐘馗さんの像を見つけることができると思います。




[訳] 火袋(ひぶくろ)
  京都の町屋は玄関から奥までずっと取り庭が通じている。表の通りに面して店舗があり、奥が住居になっている。住居エリアに来ると、通り庭には台所が設けられ、かまどと流しが取り付けられている。台所の部分の屋根には天井が設けられておらず、屋根には天窓が付けられ、風通しが良く、日光を取り入れることができる。このような台所上の空間を「火袋(ひぶくろ)」と呼ぶ。

  細かく言うと、他にも取り上げるべきポイントがあるでしょうが、京町屋の主だった特徴を説明してみました。

尚、全文中国語のプログも公開していますので、そちらもご覧ください。
http://inghosono.blogspot.jp/

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京土産、八つ橋を中国語で説明する

2013年09月08日 | 中国語でどう言うか?

  京土産も、最近は京ばあむ、阿闍梨餅など種類が増えてきましたが、それでもやっぱり八つ橋は外せないでしょう。けれども、外国人の方に、八つ橋の特徴や歴史など、どう説明しますか?あんまり考えたこともないですよね。そこで、今日は八つ橋を中国語で説明してみたいと思います。

  今は生八つ橋が幅を利かせていますが、先ずはその名前の由来でもある、オリジナルの堅焼きの八つ橋煎餅の説明から。

(1)「八つ橋」煎餅の製法と来歴



[訳] うるち米の粉に砂糖、シナモンを加えて捏ね、一定時間蒸したら薄く伸ばし、長方形に切り、断面が弧を描くように焼き上げた煎餅。「八つ橋」の名前は、17世紀の音楽家で、近代の筝曲を創始した八橋検校から取られた。その形状は、楽器の琴を模したものである。八橋検校は死後、京都の、金戒光明寺に埋葬された。それからは、彼の弟子や琴を学ぶ者が、ここをお参りするようになった。寺への参道の傍らの、聖護院付近の茶店が、参拝者へ八つ橋煎餅を販売するようになった。現在も、聖護院の近く、熊野神社の交差点の傍らで、聖護院八つ橋、西尾八つ橋の二軒の八つ橋店が営業を続けている。




(2) 販路の拡大




[訳] 明治時代になって、八つ橋の社長は販路の拡大を考えるようになった。明治末期の20世紀初頭、聖護院の北方ほど近く、現在の京都大学キャンパスの南側にある吉田神社、ここは立春の2月2日から4日までの節分の鬼やらいの豆まき神事が有名で、この時には多くの人がお参りに訪れる。そこでこの機会を利用し、臨時で吉田神社で八つ橋の販売をした。更に、1904年に京都駅が開業したので、駅のホームでの八つ橋販売を開始した。このような努力を経て、八つ橋の名声は次第に拡大し、やがて京都の代表的なお土産となった。

 (3) 生八つ橋の誕生





[訳] 1960年、祇園祭の山鉾巡行の前日、すなわち7月16日の夜、茶道の表千家の茶会が、祇園町の「一力」茶屋で行われた。その時の茶会で、抹茶と共に出されたお菓子は、八つ橋の焼かずに蒸しただけの皮で、小豆餡を包んだものだった。このお菓子は茶会参加者から格別な好評を博したので、商品化が決定した。こうして「生八つ橋」が誕生した。



  お客様が京都のお土産を買われる際に、このような説明をしてあげると、お菓子に添える土産話になるのではないでしょうか。

今回はこれで終わりです。

尚、全文中国語のプログも公開していますので、そちらもご覧ください。
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