法隆寺中門
それでは、前回に引き続き、法隆寺の建物を、中国語でどのように説明するか、お話します。2回目は、中門と回廊です。中門は、入って先ず目にする建物ですから、本当は、こちらが先に説明すべき建物です。
【日】法隆寺中門は同寺西院伽藍の正門で、飛鳥時代の建造物であり、正面4間の二層の楼閣であり、これも柱と柱の間の数が偶数です。
【中】中门是法隆寺西院伽蓝的正门,飞鸟时代建筑,面阔四间的两层楼阁,也是偶数开间。
五重塔でも説明しましたが、中門でも、柱と柱の間の間(ま)、中国語で「开间」の数が偶数になっていて、これはたいへん珍しいものです。
上の写真は鎌倉時代建立の東大寺南大門ですが、正面5間と、奇数になっています。京都の南禅寺三門、知恩院三門なども正面5間です。中国の寺院や王府の大門も同様です。
それでは、中門の内側に回ります。
【日】柱は外観上、両端が削られ曲線を描いた胴張りの柱です。
【中】柱子可见是两头卷杀的梭柱。
「梭柱」suōzhù 胴張りの柱。エンタシスの柱。「梭」は織機の杼(ひ)のことです。
「卷杀」juǎnshā 古建築の用語で、柱、梁、貫、斗拱、垂木などの端部を削って、ゆるい曲線をつけ、柱の外観を豊満、柔和にすることです。「entasis」の中国語訳。「凸肚状」と訳しても分かります。
ちなみに、ギリシャのパルテノン神殿は、「希腊的帕提农神庙」です。
織機の杼(ひ)
【日】中国北方では、胴張りの柱を見ることは非常に少ないですが、南方ではよく見かけ、清代までずっと用いられていました。
【中】在中国北方,梭柱实物非常少见,而南方较多,且一直用到清代。
山西平顺南社玉皇庙
广东肇庆梅庵
■回廊
法隆寺伽藍配置図
法隆寺回廊(南側)
【日】法隆寺の現存の回廊は、南半分が飛鳥時代の建築で、北半分は平安時代のものです。全体に凸字形をしていて、中門の両側から大講堂にまで通じています。
【中】法隆寺现存的的回廊南半部分是飞鸟时代的建筑,北半部分是平安时代的,总体凸字形,从中门两侧延伸至大讲堂。
【日】回廊は二本の柱から成り、二本の垂木を支える梁が軒まで通じており、柱と梁をつなぐ組物(斗拱)はいくつかの斗(ます)で直接、軒の横木を支え、大斗の下には皿斗が置かれ、梁の上は三角に組まれた人の字形の扠首(さす)で肘木を介して棟を支えています。
【中】回廊为两柱式,二椽栿通檐,把头绞项作,栌枓下有皿板,二椽栿上以人字叉手托捧节令栱
・二椽栿
上の写真は、間に桁を入れて計4本の垂木で支える屋根で、その下に横に渡す梁は、4本の垂木を支えるので「四椽栿」と言います。同様に、二本の垂木を支えるために横に渡す梁を「二椽栿」と言います。
・把头绞项作
上図のように、軒柱(「檐柱」)の頭と梁(「栿」)の間に置く組物で、肘木(令栱)といくつかの斗(ます)で軒の桁(「檐檩」を支える)を支えるものを、「把头绞项作」と言います。「项」xiàngはうなじや襟首のことで、宋代建築で、柱の首のところを縛るような組物なので、こう呼ばれました。
・皿斗(「栌枓下的皿板」)
大斗(坐斗)の下に皿状の板を噛ませたもので、たいへん珍しい形状です。中国でも、山西省五台山南禅寺などでわずかに同様の事例が見られるそうです。
さて、西院伽藍の回廊は、当初は金堂と五重塔だけ囲う長方形でしたが、平安時代の延長3年(925)の大講堂の火災後、講堂も伽藍の中に取り込む、現在の形になりました。回廊も北半分が新たに作られましたが、講堂の部分だけを囲うように作られたので、凸字形になりました。新たに作られた回廊北側は、構造も当初とは多少異なっています。
梁の上の扠首の間に、束柱という短い柱(中国語で「蜀柱」と言います)が立てられています。実はこれ、この部分が建てられた北宋時代の中国から入ってきた建築様式なのです。
【日】法隆寺の大講堂は火災で焼失し、その時に回廊北側も焼失し、平安時代に再建されました。再建されたのがちょうど中国の北宋初期に当たり、そのため、回廊南側は飛鳥時代の様式ですが、北側は平安時代の様式で、両者の構造は異なり、北側の平安時代再建された回廊には、扠首の間に束柱が立っています。
【中】法隆寺大讲堂曾失火烧毁,也烧毁北部的回廊,在平安时代重建,重建时间相当于中国的北宋早期,所以回廊南部是飞鸟时代的,北部是平安时代的,两部分结构不一样,北部平安时代重建的回廊叉手间有了蜀柱。
もちろん、実際のガイドでは、ここまで細かい説明は必要ないですが、興味のある方は、雑学として聞き流していただければ幸いです。