中国語学習者のブログ

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介詞“把”、“被”を使った文の特徴

2010年10月19日 | 中国語
 これまで、動詞性述語文として、動詞述語文、動賓述語文、動補述語文、連動式、兼語式、と見てきましたが、今回は、介詞“把”、“被”を使った文を取り上げます。これらは独立した文型ではなく、動賓述語文、動補述語文などのバリエーションの一つであり、強調や受け身の意味を持ちます。

                     四 “把”を使った文と“被”を使った文

 “把”を使った文と“被”を使った文は、動詞性述語文の二種類の特殊な“句式”(文の形式)である。①

[注①]“句型”(文型)は、言語の中で全ての文を対象に帰納した結果であり、出現する如何なる文も、必ずある文型に属する。“句式”(文の形式)は、言語の中の一部の文を対象に、説明を加えた結果である。“把”を使った文は、あるものは動補述語文に属し、あるものは動賓述語文に属し、あるものは一般の動詞述語文に属する。

(一)“把”を使った文

 介詞“把”の機能は、動詞が支配する対象を動詞の前に持って行き、動作の結果を強調することである。例えば“我們打敗了敵人”は、“把”を用いて“我們把敵人打敗了”と言う。一般的に、“把”を使った文の中の動詞は、受動賓語(“受事賓語”、受事:動作の対象。動作の支配を受ける人や物)を伴うことができ、この動詞は“把”の後ろの語句を管理することができる。“把敵人”は介詞構造であり、“打敗”を修飾するが、意味の上では、動詞“打敗”は依然“敵人”を支配の対象にしている。“把”を使った文には動作の結果を強調する機能があるので、動詞の前後には通常必ず別の語句を伴い、この詞が結果の意味を持つ場合を除き、単独の一つの詞であることはできない。

 強調する機能のある“把”を使った文は、一般に“把”を使わない相対する形式が存在しなければならない。“打敗了敵人”と“把敵人打敗了”で、後者は明らかに強調の感覚を与える。いくつかの“把”を使った文は、動詞のすぐ後ろに補語が付き、賓語がそれと動詞の間を隔てることを許さない、或いは二つの賓語が何れも比較的長く、いっしょに置くとくどい感じになるので、習慣上“把”を使う。こうした文には、強調の意味は無い。例えば:
   (1)半天的工夫,我就把那本書看了両遍。
   (2)他把剛才的話又説了一遍。
   (3)他把衣服洗得干干浄浄。
   (4)会后,我把学生熱愛祖国的感情告訴了他們。

 “把”を用いる時に注意しなければならないことは:
1.一般的に、“把”を使った文の中の動詞は、受動賓語を伴うことができなければならず、この動詞は、意味の上では“把”の後ろの語句を管理できなければならない。①
 [注①]いくつかの“把”を使った文は情況が特殊で、例えば“把這個問題加以研究”で、“加以”は“把”の後ろの“這個問題”を管理することはできない。これは、“加以”、“進行”、“予于”などは特殊な動詞であるからである。“我把書放在桌子上”のような文では、“放在”が動詞に相当するが、“書”は意味の上では依然として“放”に管理される。

 2.“把”を使った文で、動詞の前後には通常必ず別の語句が存在する。例えば、“我把信読了一遍”、“我把信仔細地読了”と言うことができるが、“我把信読”と言うことはできない。②
 [注②]“把楼上”、“把話拉”といった言い方は、通常戯曲や詩歌の中でしか用いない。少数の対処した結果の意味を含む二音節以上の動詞の前後では、別の語句を伴わないことがある。例えば、“堅決把它克服”、“一定把這個問題解決”がそうである。

3.“把”の後ろの語句は、その関係する動詞とできるだけ近い位置に置かなければならない。とりわけ、否定副詞や助動詞でそれらの間を離すのは良くない。例えば、“大家不応該把這個経験看作一成不変的東西”と言うことはできるが、“大家把這個経験不応該看作一成不変的東西”と言うのは良くない。

  以上は、“把”の一般的な用法で、通常見かける“把”を使った文である。“把”はまた別の“句式”(文の形式)を構成することができる。それは、“把甲当(当作、作為、説成、看作……)乙”という形式である。例えば:
   (5)他們在草原上把天当作被,把地当作床。
   (6)我們応該把獲得的成績作為新的起点。

 このような句式では、“把”の後ろの語句(甲)と“当作”の類の後ろの語句(乙)は、意味の上では同一の性質、同一の範疇に属しなければならない。

  “把”と機能が同じものに“将”があるが、これは初期の“白話”(口語体)の語句の名残りで、書面語の中で、なお用いられることがある。

(二)“被”を使った文

 “被……”を“状語”(状況語)とする文は、介詞“被”を用いて“施事”(主体者)を取り上げ、同時に主語が“受事”(受動者)であることを明示する。例えば、“陣地被我們攻占了”という文の中で、“陣地”は“攻占”、つまり、攻め落として占領する対象、すなわち受動者である。“我們”は“攻占”という動作を行う者、すなわち主体者である。これは、“被”を使った文の典型的な形式である。

 口語では、通常、“被……”の代わりに“叫(教)……”、或いは“譲……”を用いる。例えば:
   (7)可惜他不在村里了,叫人家撵nian3跑了。
・撵跑 nian3pao3 追い払う。追い出す
   (8)什麼事譲他知道了,還不跟上了広播一様。

  注意すべきは、“叫”、“譲”は受動を表さないことがあることで、例えば、“我不能叫(譲)他欺負你”のようなケースである。文中の“欺負”には主語“我”とは別の対象があり、主語とは無関係で、この文は兼語式である。受動を表す時、“叫”と“譲”は同じ意味であり、兼語式を構成する時は、“叫”は“使”に相当し、“譲”は“任凭”に相当する。

 “為……所”は文章語の中で常用される形式である。例えば、“衛太子為江充所敗”のように、この形式は今日の書面語の中でも用いられている。また、“為”を“被”に代えることで、“被……所”の形式が構成される。例えば:
   (9)我們不能被表面現象所迷惑。

 現代漢語では、“被”を用いて、更に“所”を用いなければならないのは、しばしば音節上の必要からである。古代漢語では“為天下笑”という言い方があるが、現代漢語では“為人所笑”、“被人所敗”としか言うことができず、“為人笑”、“被人敗”と言うことはできない。

 “被……”が修飾する中心語は、動賓構造である場合がある。例えば:
   (10)在那次戦斗中,他被敵人打断了一条腿。
   (11)這些人被事実打開了眼界。

 これらの文には共通の特徴がある:文の主語と動詞の賓語は意味の上では従属関係にある。

 “被”が施事、つまり主体者を提起せず、直接、述語動詞の前に用いられ、動詞と結合し、動作の方向を表すことがある。例えば:
   (12)老教授的眼鏡,已経被打砕,他那肥大的棉袍已経被扯爛。

 機能が“被”と同一の“叫”、“譲”には、直接動詞の前に置かれる用法は無い。


 【出典】胡裕樹主編《現代漢語》重訂版・上海教育出版社1995年


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