中国語学習者のブログ

これって中国語でどう言うの?様々な中国語表現を紹介します。読者の皆さんと一緒に勉強しましょう。

避暑山荘(その7)奇峰異石十大景

2024年01月13日 | 旅行ガイド

磬錘峰(けいすいほう)

 有名な承徳十大景は、避暑山荘と外八廟の周囲に広がり、あるものは近く武烈河のほとりにあり、あるものは遠く十数里外にあり、均しく天然に形成された奇峰異石であり、多種多様な姿をしている。人々はそれぞれ形状に基づき、様々なイメージの名前を付けた。例えば、磬錘峰、蛤蟆石、鶏冠山、僧冠山、羅漢山、元宝山、双塔山、月牙山、饅頭山などである。

 避暑山荘から東を望むと、先ず目に映るのが、 磬錘峰(けいすいほう)である。これは上部が太くて下部が尖っていて、形が棒槌(きぬた)のように倒立した奇峰で、俗に棒槌山と呼ばれる。この峰は崖のほとりにきわどく立ち、峰の頂には背の低い樹木が群生し、峰の腰部の岩の隙間には古い桑の樹が生えている。伝説ではこの桑の実(桑葚)はたいへん甘美で、食べると仙人になれる。この峰の最も古い記載は、北魏の地理学者、酈道元の『水経注』に見られる。「武烈水は東南に石挺を歴(へ)て下り、層巒の上に挺(ぬきん)で、孤石雲挙し、崖の危峻に臨み、高さ百余仞(ひろ。七尺、または八尺)になる可し。彼が言う「石挺」は磬錘峰のことである。峰の南に怪石があり、頭を昂げた鼓腹の青蛙にたいへん似ている。これが十大景中の 蛤蟆石である。

蛤蟆石

 東側の更に遠い群山峻嶺の中に、天橋山がある。山頂は南北に走る巨大な平台で、台の下は中空になっており、まるで雲の端に浮かぶアーチ橋のようである。牧童は雨に遇うと、いつも牛を追って「橋」の下で雨宿りをする。民間の伝説では、この橋は天に通じるとされ、それゆえ天橋山と呼ばれる。

天橋山

 避暑山荘東南の武烈河畔には、いくつもの峰が高く突き出ている(突兀而起)。その中の一峰は老僧が静かに座り、目を閉じ心を休めているようで、頭、胸、腹、臂がひとつひとつはっきりと見ることができる。これが羅漢山である。

羅漢山

ここから南を望むと、僧帽が頂を覆ったような形の高峰が見える。これが 僧冠山で、そこにはいつも雲霧がからみつき、山の峰が見え隠れする。

 鶏冠山は避暑山荘の東南数十里の外にある。山の頂は険しい峰が聳(そび)え立ち、高さがまちまちで、雄鶏の鶏冠によく似ている。満月が空に懸かる時、山の影を数十里外まで引きずり、「鶏冠掛月三千丈」、その景観は奇異で、たいへん見ものである。

山荘から西に行き、広仁嶺を越えると、滦河の水辺で流れがゆっくりになるところの丘の上に、二つの峰が抜きん出て突っ立っているのが見え、まるでふたつの塔が並立しているようだ。これが双塔山である。

双塔山

北側の峰の方が大きく、扇形をしている。南側の峰はやや小さく、丸い形をしていて、直径はわずか10メートル、高さは約40メートルである。ふたつの峰は共に上が大きく下が小さく、よじ登るのが困難である。南峰の頂上にはレンガ造りの建物が建ち、或いは廟、或いは塔であると言われている。清の紀昀の『閲微草堂筆記・滦陽続録』の記載によれば、乾隆の庚戌の年(1785年)、乾隆は人を遣って木を架けて梯子とし、山に上って実地調査をさせたところ、比較的大きな山の峰の頂の周囲は106歩、中に小屋があり、屋内のテーブルの上に香炉が置かれ、「中に石片が供えられ、「王仙生」の三文字が刻まれていた。」最近の調査によれば、峰の上の建物は遼代に建てられた墓塔で、塔の上の何層かは既に崩れているが、底層はまだ比較的完全に残っている。


避暑山荘(その6)外八廟(2)

2024年01月10日 | 旅行ガイド

普陀宗乗之廟

 

(三)普陀宗乗之廟と土爾扈特(トルグート)部の帰順

 普陀宗乗之廟は避暑山荘北側の獅子溝に位置し、土地は22万平方メートルを占め、外八廟の中で最大規模の寺院である。この寺院は乾隆が自分の60歳の誕生日と母親の80歳の誕生日を祝うため、命令を出してラサのポタラ宮に似せた様式に建造させたものである。乾隆は誕生祝いの際、モンゴル、青海、西北各地の少数民族の上層の人物が熱河にお祝いに来ることを考慮し、来訪者の大部分がラマ教の信徒であるので、ラマ教の聖地、ポタラ宮に似せてこの廟を建設した。普陀宗乗はすなわちチベット語のポタラ(布達拉)の漢訳である。乾隆の詩の中でいわゆる「普陀はもと遐(とお)きの人を撫(なぐさ)め、神道は誠にこれを相する有るを看る」(『普陀宗乗廟即事』)というのは、「神道教えを設く」を以て辺境地区の各民族を安撫するの意味である。

 普陀宗乗之廟は山勢に依って建ち、前部と中部は河谷と緩い斜面に築かれ、後部は高き山の巅(いただき)に盤踞し、宏偉(雄大)巍峨(高く聳え立ち)、たいへん壮観である。廟の前部はかなり整った漢式(中国式)建築で、主に黄色の瑠璃瓦で屋根の頂を覆いた方形の重檐(ひさし)の碑亭である。碑亭を北に往くと、極めてチベット族の色彩の濃い五塔門で、門の上には五基のラマ塔がある。

更に北に往くと、光華艶麗(光り輝き色鮮やか)な瑠璃牌坊(アーチ状の門。牌楼)である。牌坊は北に延び、20基余りの白台が、間隔が異なっているが趣があり、まちまちの高さで徐々に昇って行く斜面に設置されている。

更に北には、廟の中心の建物の大紅台である。大紅台の高さは43メートルに達し、正面の赤い壁の上には、上から下に向け6つの交互に黄色と緑の瑠璃瓦の仏龕(ぶつがん)嵌め込んで装飾され、最も上端の女児墻(城壁の上にある凹凸形の小さな壁)の上には更に瑠璃瓦の宝塔が嵌め込まれていた。

大紅台の四方には慈航普渡殿、洛伽勝境殿、千佛閣等の建物があり、中心には楼閣群より一段高い万法帰一殿で、建物のてっぺんの金メッキをした銅瓦がきらきらと光を発し、左右を照り映えさせている。

 普陀宗乗之廟は1767年(乾隆32年)に着工した。1771年(乾隆36年)の竣工時、ちょうど乾隆の母親の80歳の誕生日で、ここで盛大な宗教儀式を挙行し、皇太后のため祝福した。この時、トルグート部(土尔扈特)の人々数万人を率い、半年余りの期間、1万里余りの行程を費やし、祖国に戻った渥巴锡(ウバシ・ハーン)も、ちょうど承徳に到着したので、このことは乾隆をとりわけ喜ばせ、彼は万樹園で歓迎宴を催した他、更に万法帰一殿でこのために経典を唱え祝福した。普陀宗乗之廟の碑亭内の巨大な石碑に、満州語、漢語、モンゴル語、チベット語の四種の文字で乾隆が著した『普陀宗乗之廟碑記』と『土爾扈特全部帰順記』。『優恤土爾扈特部衆記』を刻んだ。前方の一基の石碑には廟宇建設の経緯が記載され、後方の二基の石碑にはトルグート部が祖国に戻った壮挙と清政府がトルグート部に同情した情況が記述された。

 

(四)須弥福寿之廟と班禅(バンチェン)六世の乾隆との朝見(覲見)

 

須弥福寿之廟

 須弥福寿之廟はチベットの日喀則(シガチェ)の扎什倫布寺(タシルンポ寺)の形式を真似て建てたもので、避暑山荘北側の獅子溝の、普陀宗乗之廟の東側に位置する。「扎什」とは福寿の意味、「倫布」は須弥山を指し、須弥福寿とは即ち福寿が須弥山のようだという意味である。

 1780年(乾隆45年)乾隆帝70歳の誕生日の際、各民族の王公貴族が熱河行宮に集まり、彼の長寿を祝った。事前に、班禅(バンチェン)六世が自ら求めて都、北京に赴き、「以て中国が黄教(ラマ教)を振興させ、万物を撫育し、国内を安寧にし、万物が静まり安らかな光景を見」て、更に避暑山荘に至って乾隆の長寿を祝った。乾隆はこれに対してたいへん喜び、そして命令を出し、バンチェンが暮らしている タシルンポ寺の形式を真似て廟宇を建立させ、バンチェンが経典を唱え仏法を伝え、居住する場所とした。

 バンチェンはラマ教の重要な指導者であり、モンゴル、チベット地区でたいへん高い声望を享受していた。バンチェン六世は熱河に来て乾隆に謁見し、疑い無く重要な政治的影響をもたらし、中央の朝廷とチベット地方の関係を強化し、民族の団結を維持するのに有利であり、それゆえ乾隆の特別な重視を引き起こした。17807月に、バンチェン六世は熱河に到り、乾隆は直ちに避暑山荘の澹泊敬誠殿で接見し、自ら茶や点心を賜り、チベット語でバンチェンと談話し、並びに金冊金印を賜った。翌日、乾隆は自ら班禅行宮、すなわち須弥福寿之廟に来てバンチェンを尋ねたが、これは極めて特殊な待遇であった。

 須弥福寿之廟は華麗で堂々としている。バンチェン六世が経典を唱え仏法を伝えた大紅台主殿、妙高庄厳殿は、屋根が二重の檐(のき)を持つ(重檐)とんがり屋根(攢尖)で、頂には魚鱗状の金メッキ(鎏金)の銅瓦で覆われ、四方の仏殿の棟(屋脊)は各々二匹の金の龍で覆われ、一匹は上を向き、一匹は下を向き、姿かたちが活き活きとし、まるで飛び立たんばかりである。

殿内には今も乾隆当時、バンチェンが経典を講じた時のふたりの坐床(座席)と銅造と木造の仏像が残っている。大紅台の北西には吉祥法喜殿があり、これはバンチェンの居室であった。廟の一番後ろは山の斜面の高い所に建てた七層の瑠璃塔である。

 乾隆が著した『須弥福寿之廟碑記』の中で、次のように書かれている。百年余り前(1652年、順治9年)チベットのダライ・ラマ五世が清朝廷の「敦請」(切なる要請)により北京に赴いた。当時、辺境地域は尚朝廷に服していなかったが、この時はバンチェン五世が「自ら進んで」皇帝に拝謁(朝觐)し、オイラト部が「亦無不帰順」(また帰順せざること無く)、須弥福寿之廟が建立されたのは、「答列藩傾心向化之悃忱」(列藩が心から帰順したことの忠誠)を表すためだった。こうも言うことができる。この廟の建立は、ひとつの側面では乾隆時代に辺境地域の統一事業がより一層強固になったことを反映している。


避暑山荘(その5)外八廟(1)

2024年01月06日 | 旅行ガイド

承徳外八廟・普寧寺

 避暑山荘の建設が始まってから、康熙帝、乾隆帝は山荘の周囲に次々と多くの寺院を建立した。1713年(康熙52年) 康熙帝 玄燁(げんよう)が六十歳の誕生日を迎えた時、モンゴルの王公たちが熱河に来て朝見し、うやうやしく礼拝しやすいように、溥仁寺、溥善寺を建立した。これは山荘の周囲に最初に建てられた寺院で、規模が小さく、乾隆帝在位時に建てられた寺院には遠く及ばなかった。乾隆帝は費用と大量の人力物力を惜しまず、避暑山荘の東側と北側の山麓に、ひとつ、またひとつと寺院を造営した。1755年(乾隆20年)から始まり、およそ三から五年毎に一寺建立した。1755年に普寧寺を建立、1760年に普佑寺を建立、1764年に安遠廟を建立、1766年に普楽寺を建立した。17672月普陀宗乗之廟の建設に着手、17718月に完成、工期は4年半で、この寺院の建設時間が最も長く、規模も最大であった。1770年広安寺建立、1774年殊象寺と羅漢堂を建立、1780年(乾隆45年)須弥福寿之廟を建立した。

 以上、全部で11の寺院があった。そのうち10の寺がそれぞれ8つの「下処」(事務機構)により管理されたので、習慣上これら山荘の外側の寺院は外八廟と総称される。普佑寺、広安寺、溥善寺は既に廃棄され、羅漢堂は落雷で焼け、現存するのは七ヶ所である。

 外八廟の建造には、一定の政治的歴史的背景があった。清王朝前期、国内の政治は安定し、農業、手工業、商品経済が発展し、いわゆる「康乾盛世」の時代が出現した。当時の国勢は強く盛んで、対外的には帝政ロシアの黒竜江流域の侵略に対して対抗、撃破する力があり、対内では、辺境地域のいくつかの民族の分裂分子の反乱を粉砕し、中国は統一した多民族国家として極めて強固であった。清王朝は「宇内(国内)統一」のため、中央政府の少数民族に対する連携と統轄を強化し、いくつかの政策を採用したが、宗教による連携こそが、重要な政策のひとつであった。清朝皇帝はモンゴル、チベットの両民族が信奉するラマ教を尊重し、広く寺院を建立した目的はここにあった。次に、外八廟の主要寺院について紹介する。

(一)普寧寺と中国最大の木造の仏像

 普寧寺は別名大佛寺と言い、熱河行宮の北東の山の斜面に位置している。この寺の建立は、北西側の境界を安定させることが直接関係している。

普寧寺大乗之閣

 1755年(乾隆20年)清が出兵し、天山の麓のオイラト・モンゴル(厄魯特蒙古)のジュンガル部(准噶尔)の反逆者、ダワチ(達瓦斉)の反乱を討伐した。清軍が直接ダワチが防備するイリに攻め入ったので、ダワチは天山の南に逃げ、ウイグル族の首領、ホッジス(霍集斯)に捕えられ、清軍の大営に引き渡された。乾隆はこの度の反乱平定の勝利を記念するため、熱河にラマ廟を建立することを決定し、その名前を普寧寺とし、北西の辺境が「その居を安んじ、その業を楽しみ、永久に普寧が続く」という願いを込めた。この寺の山門の北の碑亭の中に、満州語、漢語、モンゴル語、チベット語の四つの言語で刻まれた、乾隆が著した『平定准噶尔勒铭伊犁之碑』には、この度の反乱平定の経緯が記されている。碑文の中に、こう書かれている。「衆く王公を建て、遊牧し各々安んじ」、「疆を分けて各々守り、相侵凌する毋れ」。各民族が仲良くし、辺境を安定させよという願望を表している。

 その後、ジュンガル部の別の反逆者、アムルサナ(阿睦尔撒納)が帝政ロシアとの密約の下、再び公然と反乱を起こした。1757年(乾隆22年)清が軍を派遣し討伐すると、アムルサナは人心を得られず孤立し、恥知らずにもロシアへ逃亡し、間もなく病死した。それて乾隆帝は普寧寺に更に『平定准噶尔勒铭伊犁之碑』を追加で立てた。碑文の中でこう言っている。「イリは既に(我が)版章(版図)に帰したからには、久しく安んじ善後策を執ろう。ここにもう定まっているものを、どうしてまた失うを宜しとできよう!」祖国が分裂するのを許さない決意をここに公表した。

 早くも779年(唐の代宗の大歴14年)、当時の吐蕃王、赤松徳賛(ティソン・デツェン)は三摩耶寺、またの名を桑鳶寺(今の貢嘎県桑鳶区に位置する)を建立したが、これはチベット最初の仏教寺院であった。普寧寺はチベットの仏教聖地である三摩耶寺に似せて建立された。この寺の中心となる建造物の中の大乗之閣は、中に重さが120トンの木造の千手千眼観世音菩薩像があり、巨大な蓮華座に立ち、仏像の高さは22メートル余り、胸部の幅は6メートルある。大仏の両側には、二体の高さ16メートルの善才と龍女像が立っている。大仏の頭のてっぺんには、更に高さ1.5メートル余りの無量光仏がある。観世音は仏教の中で、「仏法は無辺」で、また「苦を救い難を救い」、「普く衆生を渡る」を楽しむ仏であり、我が国古典文学作品の中でも、しばしば観世音の姿が出現する。観世音が千手千眼仏と言われる所以は、それが四十四本の手を持ち、各々の手のひらの中にひとつの眼があり、更に仏教経典の中でいわゆる「二十五有(う)」の成数を乗じると、「千手千眼」となるのである。

普寧寺千手千眼観世音菩薩像

頭上の無量光仏

 この千手千眼仏は、我が国の木造の仏像の中で最大のものである。伝説によると、この仏像は一本の古い楡の木から彫られたという。実際には、その内部は三層の楼式の構造となっていて、高く聳えるコノテガシワの大柱の周囲に、14本の支柱が立ち、且つ分厚い木の板が釘で打ちつけられ、この像の中心を組成し、更に麻布、膠(にかわ)、漆でしっかり覆って、その上から精緻な彫刻を施してある。大仏は高く大きく均整がとれ、造形が優美で、衣服、スカート、手に持った哈達(ハダ。チベット族が尊敬のしるしとして人に贈ったり仏に供える赤、白、黄、藍などの帯状の絹布)は何れも質感があり、この像は中国古代の木造彫刻芸術の傑作である。

(二)安遠廟とダシュダワ(達什達瓦)部の帰順(内遷)

 安遠廟は避暑山荘の東側、普楽寺の北側の山の斜面の上に位置し、深い藍色の瑠璃瓦で頂が覆われ、建物は独特の風格を有している。この廟はイリ川の北のクルチャ(固尔札)廟に似せて建設された。それゆえまたイリ(伊犁)廟とも呼ばれる。

安遠廟普度殿

 伝説では、乾隆帝がイリ地方で生まれた妃を娶り、彼女は山荘の暢遠楼に住んでいた。妃がホームシックにかかったので、乾隆は暢遠楼の向かいの丘の上に彼女のために故郷のクルチャ廟に似た廟宇を建てて郷愁を癒してやったという。しかしこれは伝説に過ぎず、実際には以下のような事情があった。

 オイラトモンゴル(厄魯特蒙古)の一部族、ダシュダワ(達什達瓦)部は、祖国の統一という方針を堅持し、分裂に反対し、前後して達瓦斉(ダワチ)、阿睦爾撤納(アムルサナ―)と不撓不屈の戦いを行った。1755年、ダシュダワ部は積極的に出兵し、ダワチの反乱を平定する戦いを行った。同年秋、アムルサナ―の反乱後、ダシュダワ部は人数が少なく、勢力が手薄であることから、イリ東南の元々居住していた地区から移転させられた。当時、ダシュダワ部の首領、ダシュダワは既に死亡しており、部族の人々はダシュダワの妻に率いられ、清軍の駐留地、巴里坤(バルクル)に移った。乾隆帝はダシュダワの妻が反乱勢力に反対し、清朝に投降しようとしているに鑑み、「誠悃可嘉」(誠実ですばらしい)とし、「車臣黙爾根哈屯」(賢く知恵のある王妃の意味)の名を封じた。彼女は1756年バルクルで病のため亡くなった。この年、清軍がアムルサナ―の反乱軍を討伐した時、敗れて潰走した反乱軍がイリ川北のクルチャ(固尔札)廟を焼き払った。その後、ダシュダワ部は何度か転々とところを変え、1759年(乾隆24年)熱河に移った。清政府はダシュダワ部の宗教習慣を考慮し、1764年(乾隆29年)、彼らの駐留地の丘の上に、クルチャ廟に似せた形状で安遠廟を建設し、この部族の人々が参詣しやすいようにした。安遠廟の中心の建物である普渡殿の前の臥牌には、乾隆が作った『安遠廟瞻礼書事』牌が刻まれ、碑文の中で廟建立の経緯と清国西北地区統一の意義が述べられている。


避暑山荘(その4)平原地区、山岳地区

2024年01月01日 | 旅行ガイド

永佑寺舎利塔

 湖地区の北側には平原地区が広がる。東部平原は、熱河泉の北に位置し、元々春好軒、嘉樹軒、永佑寺など幾組かの建物があった。永佑寺内には御容楼があり、曾ては康熙と乾隆の肖像画が安置されていたが、とっくに破壊されてしまった。ただ永佑寺の後ろには舎利塔が尚存続し、この塔は南京の報恩寺塔を真似て作られ、十層の八角形で高さは60メートル余り、頗る壮観である。

 中部平原は、万樹園と試馬埭(しまたい)から成り、土地の広さは数千畝ある。湖のほとりには甫田叢樾、濠濮間想、水流雲在、鶯囀喬木の四亭があり、亭の上では湖や山の景色を見渡すことができる。四亭以北は、すなわち万樹園と試馬埭である。ここには日差しを遮る木々の生い茂った森林、青々とした草が敷物のような草原がある。

試馬埭

曾ては万樹園の中は自由に遊びまわる鹿の群れがおり、園中の青草は鹿に食べられて短くなり、草原全体が極めて平らになり、遠くから望むと緑の絨毯のようになっていた。乾隆はこのため『緑毯八韻詩』を書き、万樹園南部の臥碑に刻み、今日まで保存されている。万樹園、試馬埭では、草が柔らかく土地が広く、良い樹木がきめ細かく植えられており、駿馬が勢いよく走り回っている。乾隆は毎年木蘭圍場で秋狝をする度に、その前に必ずここで校閲と武芸の試合を行い、時にはここにテントを張り、各少数民族の王公貴族の歓迎宴を行い、遠方より来た外国使節を接見した。ここで二つの事柄を特に言及する必要がある。それは乾隆が万樹園で「三策凌」(或いは「車凌」とも書く。ツェリン)に夜宴を催したことと、イギリス特使ジョージ・マカートニー(馬戈尔尼)を接見したことである。

乾隆帝の万寿園での夜宴図

 万樹園で三策凌に夜宴を催したのは、1754年(乾隆19年)5月のことである。この時の行事は乾隆が前年の冬に決定していた。実は、ガルダン・ハーン(噶尔丹)の死後、ジュンガル部(准噶尔)の首領たちは引き続き割拠する一方、オイラト・モンゴル(厄魯特蒙古)の統治権を争奪し、内部闘争が止まなかった。1753年、オイラト・モンゴルの統治権を奪ったジュンガル部首領、ダワチ(達瓦斉)が、エルティシ川(額尔斉斯河)流域で遊牧するドルボタ部(杜尔伯特部)に対して野蛮な襲撃と掠奪を行い、ドルボタ部の人々に重大な災難をもたらした。ダワチの圧迫と掠奪から逃れるため、ドルボタ部の首領、ツェリン(策凌)、ツェリンウブシ(策凌烏布)、ツェリンモンケ(策凌蒙克)(史書では彼らを「三策凌」と呼ぶ)は部族の人々を率いて東遷し、清朝に帰順することを決定した。この年10月、彼らは厳寒の風雪を衝いて、老人を扶助し幼子を携え、ダワチの追手を逃れ、11月に清兵が駐留する烏里雅蘇台(ウリヤスタイ。現在はモンゴル人民共和国の領内)に到達した。

 ドルボタ部の東遷は、オイラト・モンゴルの人々の部族統一、群雄割拠反対の強い願望を反映していた。乾隆はこの重大な政治事件をたいへん重視し、ドルボタ部が困難を極めていた時に、彼は高級官僚を派遣し大量の牛や羊、食糧を送り、翌年夏に避暑山荘で 三策凌を接見することを決定した。

  三策凌が引率する随従人員がウリヤスタイから出発する際、乾隆は特に申しつけを伝え、ウリヤスタイから熱河行宮に到る行路の途中に、24の兵站を設置し、各々の兵站には十分な数量の乗り換え用の馬と食物を準備し、三策凌一行の使用に供した。三策凌接見の重要性を突出させるため、彼は北京の朝廷内の王公大臣に命じ、少数人数を北京に駐留させる以外、皆避暑山荘に赴き、皇帝の接見、宴会に参加させた。1754年閏413日、三策凌は熱河に到着した。512日、乾隆は喀喇河屯から避暑山荘に来て、直ちにツェリンを親王に、 ツェリンウブシを郡王に、ツェリンモンケを貝勒(ベイレ。清朝の爵位名。)に封じた。翌日、乾隆は澹泊敬誠殿で初めて三策凌を接見した。516日、乾隆は万樹園にて盛大な宴会を挙行し、三策凌を歓迎し、北京から来た王公大臣、各地から来た少数民族の王公貴族たち全てを参加させた。引き続き四日間、毎晩園内にちょうちんを掲げ、色絹を飾り付け、宮廷音楽を演奏し、花火を上げ、雑技の出し物を催し、こうした賑やかな催しは、避暑山荘で空前のものとなった。

 この期間、三策凌は乾隆に多くのダワチに関する情報を報告し、このことが乾隆に速やかにダワチ平定を決意させることを促した。乾隆は十分な準備をしたうえで、1755年(乾隆20年)春、叛徒平定の大軍のイリ出兵を命じ、三策凌も部隊を率いて参戦した。叛徒平定戦争に勝利後、三策凌は再び乾隆の恩賞を受けた。万樹園での三策凌への夜宴は、乾隆の民族関係の処理の一面を反映しており、このことは辺境地区を固め、分裂に反対し国家統一を守るうえで良い作用を果たした。

 乾隆が万樹園でイギリス特使ジョージ・マカートニー(馬戈尔尼)を接見したことは、清朝前期の対外関係上の重大事件であった。1792年(乾隆59年)、イギリス政府はマカートニー特使、スタントン(司当東)副使が率いる200人余りの大型代表団を中国に訪問させた。彼らはイギリス国王ジョージ三世から乾隆皇帝への信書と贈り物を携え、海路天津に上陸し、先ず北京に到り、古北口を出て、17939月に避暑山荘に到着した。914日(旧暦810日)乾隆帝は万樹園の大テント内でマカートニー、スタントンらを接見し、イギリス国王の贈礼に謝意を表し、並びに礼物を贈った。当時、ちょうど乾隆の83歳の誕生日に当っており、お祝いに来た外国使節、少数民族の上層の人物などが山荘に多く集まっており、イギリス使節団も祝典行事に参加した。乾隆は万樹園で宴席を設え、使節団を招待し、彼らに花火や芝居、踊りなどの出し物を鑑賞させ、また慣例を破って彼らに避暑山荘を遊覧させた。

 乾隆はこの度の初めて外交ルートで中国に来たイギリス使節団に対し、優待し礼遇したが、併せて彼らへの警戒を緩めることはなかった。実際、このイギリス使節団は確かにその対外拡張の目的を有していた。当時、イギリスは正に産業革命後の資本主義勃興時期に当り、イギリス資産階級の政府は、長年外交に従事してきたマカートニー卿を特使に任命し、使節団を中国に派遣したが、その目的は清王朝の扉を開かせ、イギリス資本主義勢力が中国に侵入する道筋を開くためであった。マカートニーは乾隆帝に、イギリスの使節が北京に常駐し、イギリス商人が中国沿海都市の寧波、天津などで「泊貨貿易」(販売前の商品を在庫して必要な時期に相手と取引きする)を行うこと、及び北京で洋行(貿易商社)を設立することを認めるよう要求したが、全て乾隆に拒絶された。乾隆が外国勢力の侵入を警戒していたというのはその通りだが、彼は清朝を「天朝」と自認する尊大な心理を持ち、門戸を閉ざす鎖国政策の実施は行わなかった。

 西部平原は、万樹園の西に延びる西嶺の山麓に位置し、文津閣、寧静斎、玉琴軒などの建物がある。 文津閣は17741775年(乾隆3940年)に建てられたが、その目的は『四庫全書』を収めるためで、浙江寧波の有名な蔵書楼である範氏天一閣を真似て建造された。この蔵書楼は、外観は二層だが、内部は実際は三層で、中間の一層は陽光が蔵書庫に差し込まないようにするためである。建物の東の古松の下に、乾隆が自ら題した『文津閣記』碑が立っている。乾隆年間に作られた『四庫全書』は全部で七部作られ、 文津閣の一部は辛亥革命後の1915年に北京に移され、その後は京師図書館、つまり現在の北京図書館に保存されている。北京図書館の所在地の文津街は、このことにより名付けられた。 文津閣には元々、これ以外に『古今図書集成』一部が蔵せられていたが、後に軍閥の湯玉麟により奪い去られた。

文津閣

 文津閣には元々院墻が築かれ、院内は蔵書楼の他、各種の景観がその間を引き立てた。文津閣の前には泉の水が合流する小さな湖があり、晴れた日の日中には水中に新月が映り、見る者に奇観と称えられた。これについては、実は文津閣の向かいに築山を造営する時、山洞の前の壁に三日月形の小さな穴が残り、光が漏れて池の中に逆さに映り、昼間に静観すると、初めて昇る月のように見えたのだった。ここの築山は他にも別の見どころがあり、高さのまちまちの石が立ち並び、不思議な形の峰が重なり合う中、趣亭と月台が建てられ、詩意に富んでいる。乾隆は曾てこう詩に詠んだ。「閣外假山堆碧螺,山亭名趣意如何。泉声樹態則権置,静対詩書趣更多。」(『趣亭』)

 熱河行宮の山岳地区は、山荘の西部と北部にあり、山荘の総面積の五分の四を占める。ここでは山々が重なり合い、木々が生い茂り、谷や渓谷はひっそり静かで、山並に沿って44か所の亭台楼閣、寺院などが建てられていた。そのうち山近軒、梨花伴月、食蔗居、秀起堂、広元宮、珠源寺、鷲雲寺など大多数の建物は全てもう破壊され、今も残るのはただ南山積雪、錘峰落照、四面雲山など数か所だけである。

 南山積雪はひとつのあずまやで、山荘の真北の山頂に聳え立ち、山区の建物の中で最も容易に遊覧者に見える場所である。文津閣から北に行くと、松雲峡に進み、曲がりくねった山道を登り、北枕双峰の跡を過ぎてしばらく行ったところが南山積雪である。ここからは東にゆったりと東に流れる武烈河が望め、北には高くそびえる壮観な普寧寺を眺めることができる。

  錘峰落照もひとつのあずまやで、西嶺の平らな丘の上に建てられている。このあずまやは山荘の東側の群山の中の磬錘峰を鑑賞するために建てられた。磬錘峰は上が太く下が細い、ひとつだけまっすぐ突っ立った奇峰である。夕陽が西に沈む時、落照亭から東を望むと、磬錘峰は「迥出孤標、揚暉天際」、この景色は見る者を感動させる。

 この他、四面雲山と呼ばれるあずまやがあり、西山の最も高いところにある。あずまやの中に立って四方を望むと、承徳市の全景が見れるだけでなく、有名な「承徳十大景」のうちの八大景を見ることができる。すなわち、僧冠山、羅漢山、磬錘峰、蛤蟆石、天橋山、鶏冠山、月牙山、饅頭山である。四面雲山のあずまやは西山の頂に高く聳え、その足元には、諸峰が並び、或いはお辞儀し、或いは拱手し、あずまやの中は遠くから風が流れてきて、暑さに伏せる季節でも秋のように爽快である。

 避暑山荘の設計や造営は、独自の風采を備え、中国内の著名な園林とは一線を画する。ここでは自然の地勢を十分に利用し、山岳、平原、湖泊の変化に富んだ地形の上に、それぞれ宮殿や苑景を造営し、人工の建築を自然の風光と調和をとり一体にしている。建物の風格は、北方の四合院形式の整った対称性だけでなく、南方の園林の弾力的な不揃いさ、精緻な設(しつら)えも併せ持っている。景観の特色は、雄壮で荒々しい北国の風光だけでなく、明媚で秀麗な南国の情緒も取り入れている。つまり、南北の造園芸術の集大成と言うことができる。そのうち宮殿区の建物は、北京故宮のように高大雄壮、華麗で堂々としたものではなく、厳かでしめやか(荘厳肅穆)な中に、簡素で上品で、古色蒼然(古色古香)とし、見る人に新たな風格を感じさせた(別開生面)。

 避暑山荘の建物は、離宮外の風景も借景として利用している。山荘の東側の 磬錘峰は、これを重要な借景として利用されている。南側の 僧冠山、羅漢山、及びもっと遠くの 鶏冠山も、自然と山荘の遠くの眺望風景の中の組成部分になっている。後に北東の斜面に建てられた普楽寺、安遠廟など外八廟は、極彩色の美に輝き(金碧輝煌)、且つ濃厚な地方色に富んでいて、避暑山荘と入り乱れて輝き(交相輝映)、武烈河河谷に、非常に美しく(瑰麗)、様々な表情を見せる(多姿)膨大な芸術性に富む建築群を形成している。


避暑山荘(その3)秀麗な苑景区

2023年12月26日 | 旅行ガイド

 避暑山荘の苑景区(園林地区)は面積がたいへん広く、宮殿区を除いて山荘の全ての面積を占めている。「山庄山水佳,天然去雕飾」(山荘は山水が佳く、自然に装飾を加えている)(乾隆詩)。青い波が波打つ湖地区、山の峰や尾根が折り重なる山岳区、美しい樹木が生い茂る平原地区に分かれている。

 湖地区は避暑山荘の南東部に位置し、宮殿地区の北側で、上湖、下湖、澄湖、東湖、鏡湖、如意湖の6つの湖から成り、総称を塞湖と言う。水面面積は60万平方メートル余りに達する。湖の水は輝き波打ち、長堤がくねくねと続き、中州や島が交錯している。島の上にはあずまや壇、楼閣や高殿 があり、或いは山の斜面の上に聳えていたり、或いは濃い緑の茂みの木陰の中に深く隠れていた。静かな水面にはアーチを描く屋根の庇や彩絵された棟木が逆さに映し出され、湖水はさざ波を立て、小船が揺れ動き魚が戯れ、極めて江南の風光に似ている。

 水心榭は東湖と下湖の間に位置し、東宮の巻阿勝境から湖区に入る時に必ず通る所で、これは横に並んだ三棟の二重の檐(のき)式の亭榭(高殿)で、飛桷(飛檐垂木)が高くつりあがり、建物の影が水中に映り、絵のように秀麗である。正に乾隆が詩の中で描いた情景と同じである。「一縷堤分内外湖、上頭軒榭水中図。因心秋意蕭而淡、入目煙光有若無。」

水心榭

 有名な文園獅子林は、東側は避暑山荘の虎皮石宮墻に隣接し、西側は湖を隔てて水心榭と相望んでいる。これは1786年(乾隆51年)蘇州獅子林(元代の大画家、倪瓚が設計、築造)に似せて修築した、極めて精巧で幽美(静かで美しい)な園林であり、熱河行宮内の園中の園であると言うことができる。文園獅子林内には全部で十六景がある。獅子林、虹橋、假山、納景堂、清閟閣、藤架、磴道、占峰亭、清淑斎、小香幢、探真書屋、延景楼、画舫、雲林石室、横碧軒、水門である。この多彩多姿(姿や色彩が様々な)南方式園林は、残念ながら軍閥統治時代に破壊されてしまい、現在は崩された築山や残された基礎の跡は遊覧客が往時をしのぶのに任されている。

 金山は 澄湖の東の隅に位置するひとつの小島で、湖を隔てて西を望めば、如意洲と青蓮島が見える。これは康熙年間に鎮江金山の景勝を真似て設計、構築された。巨石を積み上げた築山は、切り立ち険しく、築山の下にはほの暗く奥深い法海洞があり、容易く人々に水漫金山(大水が金山を水没させる)の物語を連想させる。山の上には三方が湖に臨む鏡水雲岑殿があり、周りを望むと、水の波がきらきら輝き、もやが影をつくり、佳い景色は際限がない。また有名な天宇咸暢の西向きの殿堂楼閣は、回廊が外を廻り、半月形に取り囲んでいる。金山の一番高い所は上帝閣で、いわゆる「制仿金山聳翠螺、三層楼閣建巍峨」、すなわちこの三層の高閣である。ここで大空を仰ぎ見、うつむけば青い水に臨み、山に登り眺望すれば、様々な美しい景観が、尽きることなく眼の中に収まる。

金山

 金山の北には、著名な熱河河源から発する熱河泉である。ここは澄湖の北東の隅に位置し、既に湖区のへりであり、更に北に往くと平原区の万樹園である。熱河泉は当時清皇帝が舟を浮かべて湖を遊覧し、ドラゴンボートの試合の起点であり、現在も当時のドックの跡を見ることができる。熱河泉の広い水面の上には、数えきれない泉が湧き出る穴から水の泡が吹き出し、水温が高いので、冬も凍結せず、早朝には蒸気が沸き起こり、暖かさが人を喜ばせる。

熱河泉

 有名な月色江声は、ひとつの小島で、長い堤と小橋が宮殿区と東路の金山に通じている。島上の南部は静寄山房で、山房の門殿には、元々康熙の「月色江声」の四文字の題額が掛かっていた。静寄山房と北側の瑩心堂で、更に北側は題名を「湖山罨画」という殿宇で、清帝が読書、休養した場所である。これらの建物の間には回廊があって、全体が連なっている。島の南西の湖に臨むところには、冷香亭が建てられ、これはハスの花を鑑賞するところである。「月色江声」の境地は、宋代の文豪、蘇東坡の前、後『赤壁賦』から取られている。ここには雄渾な大河の絶壁は存在しないが、ひっそり静まった夜になると、真っ白い月がゆっくりと東の山から昇り、さざ波がリズミカルにそっと岸辺を打ち、その時その時の月の色、水の音が、確かに人を陶酔させる。

 如意洲はその形が玉の如意のようであることから名付けられ、湖地区の中の大洲である。その南は芝径雲堤(杭州の蘇堤に似せたもの)に接し、環碧半島に通じている。1711年(康熙50年)以前に、山荘の宮殿区は如意洲にあり、その後正宮が落成し、如意洲は苑景区になった。そのうち洲の北西に位置する滄浪嶼は、部屋が三間あり、室外の築山は趣があり、絶壁を成し、流水が流れ落ち、それが絶壁の下で小さな池となり、池の水は澄んで底が見え、魚がすばしこく行き来する。ここは面積は大きくないが、別天地である。滄浪嶼は解放前に破壊されてしまったが、1978年以降に再建された。洲の北西には更に「金蓮映日」と命名された殿室五間があり、中庭には五台山から移植された金蓮花が植えられていた。朝日が射すと、旱金蓮(キンレンカ)が色鮮やかに輝き、まるで黄金が地面に敷かれたかのようである。現在来訪者が見る金蓮花は、もはや五台山の原種ではないが、囲場県から移植されたものである。 金蓮映日の南側の観蓮所は、水辺のあずまやで、清の皇帝が蓮を鑑賞する場所であった。当時、敖漢(敖漢旗。内蒙古自治区赤峰市管轄)や関内(居庸関の内側。長城以南)から移植された赤蓮、白蓮が、湖面一杯に咲いていた。塞湖の水源は熱河泉から来て、水温が比較的高く、それでここのハスの花の開花期間は比較的長く、耐寒で名高く、時には霜が降る季節になっても、尚赤いハスの花がほころび開き、ほっそりと立つのを見ることができた。乾隆の『九月初三日見荷花』の詩はこう詠んだ。「霞衣猶耐九秋寒,翠蓋敲風緑未残。応是香紅久寂寞,故留冷艶待人看。」

 如意洲の北側の澄湖の中の青蓮島には、有名な煙雨楼がある。乾隆の南巡の時、浙江嘉興の南湖で五代銭元璙(呉越王銭鏐の子)が創建した煙雨楼を見て喜び、避暑山荘の中にこれに似せて同名の建物を建てた。煙雨楼は二階建の建物で、周囲は水で、遍(あまね)く蓮や葦が植えられた。毎年細雨が澄湖に降る季節になると、水面をしとしととした煙霧が巻き上がり、煙雨楼を霧の中に閉じ込める。この時、湖水も上空も同じ色で茫漠とし、何もはっきり見えない。ただハスの花から絶えず清い香りが伝わって来るばかりである。こうしたうるわしい雨の景色は、南湖の煙雨楼で見える景色に比べても、あたかも一層勝っているかのようである。

煙雨楼

 康熙、とりわけ乾隆は、精一杯に熱河の行宮の中を江南の景色で飾り付けた。前記で紹介した芝径雲堤、文園獅子林、上帝閣、煙雨楼などの地点を除いて、環碧半島北端に位置する採菱渡も、その一例である。採菱渡は乾隆と彼の后妃(嬪妃)たちが湖で遊ぶ時に舟に乗る場所だった。渡口には草亭が建てられ、亭は瓦が無く、黄草で屋根が葺かれ、遠くから望むと、形が笠のようで、これは山荘内で最も質素で飾り気のない建物である。夏になると、ここは完全に江南の風景である。