永佑寺舎利塔
湖地区の北側には平原地区が広がる。東部平原は、熱河泉の北に位置し、元々春好軒、嘉樹軒、永佑寺など幾組かの建物があった。永佑寺内には御容楼があり、曾ては康熙と乾隆の肖像画が安置されていたが、とっくに破壊されてしまった。ただ永佑寺の後ろには舎利塔が尚存続し、この塔は南京の報恩寺塔を真似て作られ、十層の八角形で高さは60メートル余り、頗る壮観である。
中部平原は、万樹園と試馬埭(しまたい)から成り、土地の広さは数千畝ある。湖のほとりには甫田叢樾、濠濮間想、水流雲在、鶯囀喬木の四亭があり、亭の上では湖や山の景色を見渡すことができる。四亭以北は、すなわち万樹園と試馬埭である。ここには日差しを遮る木々の生い茂った森林、青々とした草が敷物のような草原がある。
試馬埭
曾ては万樹園の中は自由に遊びまわる鹿の群れがおり、園中の青草は鹿に食べられて短くなり、草原全体が極めて平らになり、遠くから望むと緑の絨毯のようになっていた。乾隆はこのため『緑毯八韻詩』を書き、万樹園南部の臥碑に刻み、今日まで保存されている。万樹園、試馬埭では、草が柔らかく土地が広く、良い樹木がきめ細かく植えられており、駿馬が勢いよく走り回っている。乾隆は毎年木蘭圍場で秋狝をする度に、その前に必ずここで校閲と武芸の試合を行い、時にはここにテントを張り、各少数民族の王公貴族の歓迎宴を行い、遠方より来た外国使節を接見した。ここで二つの事柄を特に言及する必要がある。それは乾隆が万樹園で「三策凌」(或いは「車凌」とも書く。ツェリン)に夜宴を催したことと、イギリス特使ジョージ・マカートニー(馬戈尔尼)を接見したことである。
乾隆帝の万寿園での夜宴図
万樹園で三策凌に夜宴を催したのは、1754年(乾隆19年)5月のことである。この時の行事は、乾隆が前年の冬に決定していた。実は、ガルダン・ハーン(噶尔丹)の死後、ジュンガル部(准噶尔)の首領たちは引き続き割拠する一方、オイラト・モンゴル(厄魯特蒙古)の統治権を争奪し、内部闘争が止まなかった。1753年、オイラト・モンゴルの統治権を奪ったジュンガル部首領、ダワチ(達瓦斉)が、エルティシ川(額尔斉斯河)流域で遊牧するドルボタ部(杜尔伯特部)に対して野蛮な襲撃と掠奪を行い、ドルボタ部の人々に重大な災難をもたらした。ダワチの圧迫と掠奪から逃れるため、ドルボタ部の首領、ツェリン(策凌)、ツェリンウブシ(策凌烏布)、ツェリンモンケ(策凌蒙克)(史書では彼らを「三策凌」と呼ぶ)は部族の人々を率いて東遷し、清朝に帰順することを決定した。この年10月、彼らは厳寒の風雪を衝いて、老人を扶助し幼子を携え、ダワチの追手を逃れ、11月に清兵が駐留する烏里雅蘇台(ウリヤスタイ。現在はモンゴル人民共和国の領内)に到達した。
ドルボタ部の東遷は、オイラト・モンゴルの人々の部族統一、群雄割拠反対の強い願望を反映していた。乾隆はこの重大な政治事件をたいへん重視し、ドルボタ部が困難を極めていた時に、彼は高級官僚を派遣し大量の牛や羊、食糧を送り、翌年夏に避暑山荘で 三策凌を接見することを決定した。
三策凌が引率する随従人員がウリヤスタイから出発する際、乾隆は特に申しつけを伝え、ウリヤスタイから熱河行宮に到る行路の途中に、24の兵站を設置し、各々の兵站には十分な数量の乗り換え用の馬と食物を準備し、三策凌一行の使用に供した。三策凌接見の重要性を突出させるため、彼は北京の朝廷内の王公大臣に命じ、少数人数を北京に駐留させる以外、皆避暑山荘に赴き、皇帝の接見、宴会に参加させた。1754年閏4月13日、三策凌は熱河に到着した。5月12日、乾隆は喀喇河屯から避暑山荘に来て、直ちにツェリンを親王に、 ツェリンウブシを郡王に、ツェリンモンケを貝勒(ベイレ。清朝の爵位名。)に封じた。翌日、乾隆は澹泊敬誠殿で初めて三策凌を接見した。5月16日、乾隆は万樹園にて盛大な宴会を挙行し、三策凌を歓迎し、北京から来た王公大臣、各地から来た少数民族の王公貴族たち全てを参加させた。引き続き四日間、毎晩園内にちょうちんを掲げ、色絹を飾り付け、宮廷音楽を演奏し、花火を上げ、雑技の出し物を催し、こうした賑やかな催しは、避暑山荘で空前のものとなった。
この期間、三策凌は乾隆に多くのダワチに関する情報を報告し、このことが乾隆に速やかにダワチ平定を決意させることを促した。乾隆は十分な準備をしたうえで、1755年(乾隆20年)春、叛徒平定の大軍のイリ出兵を命じ、三策凌も部隊を率いて参戦した。叛徒平定戦争に勝利後、三策凌は再び乾隆の恩賞を受けた。万樹園での三策凌への夜宴は、乾隆の民族関係の処理の一面を反映しており、このことは辺境地区を固め、分裂に反対し国家統一を守るうえで良い作用を果たした。
乾隆が万樹園でイギリス特使ジョージ・マカートニー(馬戈尔尼)を接見したことは、清朝前期の対外関係上の重大事件であった。1792年(乾隆59年)、イギリス政府はマカートニー特使、スタントン(司当東)副使が率いる200人余りの大型代表団を中国に訪問させた。彼らはイギリス国王ジョージ三世から乾隆皇帝への信書と贈り物を携え、海路天津に上陸し、先ず北京に到り、古北口を出て、1793年9月に避暑山荘に到着した。9月14日(旧暦8月10日)乾隆帝は万樹園の大テント内でマカートニー、スタントンらを接見し、イギリス国王の贈礼に謝意を表し、並びに礼物を贈った。当時、ちょうど乾隆の83歳の誕生日に当っており、お祝いに来た外国使節、少数民族の上層の人物などが山荘に多く集まっており、イギリス使節団も祝典行事に参加した。乾隆は万樹園で宴席を設え、使節団を招待し、彼らに花火や芝居、踊りなどの出し物を鑑賞させ、また慣例を破って彼らに避暑山荘を遊覧させた。
乾隆はこの度の初めて外交ルートで中国に来たイギリス使節団に対し、優待し礼遇したが、併せて彼らへの警戒を緩めることはなかった。実際、このイギリス使節団は確かにその対外拡張の目的を有していた。当時、イギリスは正に産業革命後の資本主義勃興時期に当り、イギリス資産階級の政府は、長年外交に従事してきたマカートニー卿を特使に任命し、使節団を中国に派遣したが、その目的は清王朝の扉を開かせ、イギリス資本主義勢力が中国に侵入する道筋を開くためであった。マカートニーは乾隆帝に、イギリスの使節が北京に常駐し、イギリス商人が中国沿海都市の寧波、天津などで「泊貨貿易」(販売前の商品を在庫して必要な時期に相手と取引きする)を行うこと、及び北京で洋行(貿易商社)を設立することを認めるよう要求したが、全て乾隆に拒絶された。乾隆が外国勢力の侵入を警戒していたというのはその通りだが、彼は清朝を「天朝」と自認する尊大な心理を持ち、門戸を閉ざす鎖国政策の実施は行わなかった。
西部平原は、万樹園の西に延びる西嶺の山麓に位置し、文津閣、寧静斎、玉琴軒などの建物がある。 文津閣は1774ー1775年(乾隆39ー40年)に建てられたが、その目的は『四庫全書』を収めるためで、浙江寧波の有名な蔵書楼である範氏天一閣を真似て建造された。この蔵書楼は、外観は二層だが、内部は実際は三層で、中間の一層は陽光が蔵書庫に差し込まないようにするためである。建物の東の古松の下に、乾隆が自ら題した『文津閣記』碑が立っている。乾隆年間に作られた『四庫全書』は全部で七部作られ、 文津閣の一部は辛亥革命後の1915年に北京に移され、その後は京師図書館、つまり現在の北京図書館に保存されている。北京図書館の所在地の文津街は、このことにより名付けられた。 文津閣には元々、これ以外に『古今図書集成』一部が蔵せられていたが、後に軍閥の湯玉麟により奪い去られた。
文津閣
文津閣には元々院墻が築かれ、院内は蔵書楼の他、各種の景観がその間を引き立てた。文津閣の前には泉の水が合流する小さな湖があり、晴れた日の日中には水中に新月が映り、見る者に奇観と称えられた。これについては、実は文津閣の向かいに築山を造営する時、山洞の前の壁に三日月形の小さな穴が残り、光が漏れて池の中に逆さに映り、昼間に静観すると、初めて昇る月のように見えたのだった。ここの築山は他にも別の見どころがあり、高さのまちまちの石が立ち並び、不思議な形の峰が重なり合う中、趣亭と月台が建てられ、詩意に富んでいる。乾隆は曾てこう詩に詠んだ。「閣外假山堆碧螺,山亭名趣意如何。泉声樹態則権置,静対詩書趣更多。」(『趣亭』)
熱河行宮の山岳地区は、山荘の西部と北部にあり、山荘の総面積の五分の四を占める。ここでは山々が重なり合い、木々が生い茂り、谷や渓谷はひっそり静かで、山並に沿って44か所の亭台楼閣、寺院などが建てられていた。そのうち山近軒、梨花伴月、食蔗居、秀起堂、広元宮、珠源寺、鷲雲寺など大多数の建物は全てもう破壊され、今も残るのはただ南山積雪、錘峰落照、四面雲山など数か所だけである。
南山積雪はひとつのあずまやで、山荘の真北の山頂に聳え立ち、山区の建物の中で最も容易に遊覧者に見える場所である。文津閣から北に行くと、松雲峡に進み、曲がりくねった山道を登り、北枕双峰の跡を過ぎてしばらく行ったところが南山積雪である。ここからは東にゆったりと東に流れる武烈河が望め、北には高くそびえる壮観な普寧寺を眺めることができる。
錘峰落照もひとつのあずまやで、西嶺の平らな丘の上に建てられている。このあずまやは山荘の東側の群山の中の磬錘峰を鑑賞するために建てられた。磬錘峰は上が太く下が細い、ひとつだけまっすぐ突っ立った奇峰である。夕陽が西に沈む時、落照亭から東を望むと、磬錘峰は「迥出孤標、揚暉天際」、この景色は見る者を感動させる。
この他、四面雲山と呼ばれるあずまやがあり、西山の最も高いところにある。あずまやの中に立って四方を望むと、承徳市の全景が見れるだけでなく、有名な「承徳十大景」のうちの八大景を見ることができる。すなわち、僧冠山、羅漢山、磬錘峰、蛤蟆石、天橋山、鶏冠山、月牙山、饅頭山である。四面雲山のあずまやは西山の頂に高く聳え、その足元には、諸峰が並び、或いはお辞儀し、或いは拱手し、あずまやの中は遠くから風が流れてきて、暑さに伏せる季節でも秋のように爽快である。
避暑山荘の設計や造営は、独自の風采を備え、中国内の著名な園林とは一線を画する。ここでは自然の地勢を十分に利用し、山岳、平原、湖泊の変化に富んだ地形の上に、それぞれ宮殿や苑景を造営し、人工の建築を自然の風光と調和をとり一体にしている。建物の風格は、北方の四合院形式の整った対称性だけでなく、南方の園林の弾力的な不揃いさ、精緻な設(しつら)えも併せ持っている。景観の特色は、雄壮で荒々しい北国の風光だけでなく、明媚で秀麗な南国の情緒も取り入れている。つまり、南北の造園芸術の集大成と言うことができる。そのうち宮殿区の建物は、北京故宮のように高大雄壮、華麗で堂々としたものではなく、厳かでしめやか(荘厳肅穆)な中に、簡素で上品で、古色蒼然(古色古香)とし、見る人に新たな風格を感じさせた(別開生面)。
避暑山荘の建物は、離宮外の風景も借景として利用している。山荘の東側の 磬錘峰は、これを重要な借景として利用されている。南側の 僧冠山、羅漢山、及びもっと遠くの 鶏冠山も、自然と山荘の遠くの眺望風景の中の組成部分になっている。後に北東の斜面に建てられた普楽寺、安遠廟など外八廟は、極彩色の美に輝き(金碧輝煌)、且つ濃厚な地方色に富んでいて、避暑山荘と入り乱れて輝き(交相輝映)、武烈河河谷に、非常に美しく(瑰麗)、様々な表情を見せる(多姿)膨大な芸術性に富む建築群を形成している。