中国語学習者のブログ

これって中国語でどう言うの?様々な中国語表現を紹介します。読者の皆さんと一緒に勉強しましょう。

四合院での年中行事、旧暦2月から旧暦6月まで

2020年02月26日 | 中国文化

■旧暦2月の行事

旧暦2月を古くは「仲春」と言い、この時の北京は春暖かで花開く季節の盛りに入っています。太陽真君が日々空高く上り、大地をくまなく照らし、万物を養育する恩沢を祈願し、旧暦2月1日に、北京人は太陽神を祭る行事を行いました。

この日の朝、天気はまだ寒くとも、四合院の中庭に祭壇を設け、上には太陽星君の神馬をお供えし、その前には三つの碗に太陽糕(もち米に砂糖を加えて蒸し、上に赤色の鶏星君法像を押印したもの)をお供えしました。

祭祀の儀式が始まると、家族の男性全員は男の主(あるじ)の号令の下、遥か東方をゆっくりと上ってくる太陽に向かい、香を焚きひざまずいてぬかずきます。儀式は単純ですが、見た感じ、たいへん厳かです。供物台の上のものは午後太陽が沈むと撤去し、年越しの時に門枠に貼った五色のお札といっしょに燃やしてしまいます。金持ちの家では更に頼んで一日『太陽経』を唱えに来てもらい、同時に斎戒(精進)します。

2月1日の太陽神を祭る儀式が終わると、続いて翌2月2日は民俗の節句、「春龍節」で、これは「龍抬頭節」とも呼ばれます。この日の主な行事は、「燻虫」、「引龍回」、「照房梁」、龍須麺や龍鱗(春餅)を食べる、などがあります。中国では昔、龍は聖なる動物で、害虫を駆除する力を持っていると信じられていました。そしてこの日、祭祀の時に用いた糕餅を油で焼いたり揚げたりし、その油の煙でベッドやオンドル、部屋の隅などの床を燻し、これを「燻虫」と言いました。これが終わると、四合院の内外で草や木の灰を撒き、これを「引龍回」と呼びました。最後に家の梁、壁などにろうそくの油を付け(「照房梁」)、サソリやムカデなどの害虫を駆除しました。要するに、これらすべては春分の日の害虫退治と家を清潔にするためのものでした。また、この日は人も、頭を剃る、或いは散髪して、頭をすっきりさせる日でした。この日に頭をきれいに剃ると、その年一年、頭の回転が良くなるとされました。

二月二剃龍頭,一年都有精神頭

引龍回

また2月2日には北京の人々にはもう一つ習慣があり、嫁に行った娘が里帰りするのを出迎える日で、俗に「接姑奶奶」(嫁いだ娘を迎える)と言い、気取って言う時は「帰寧」と言いました。しかし、結果としては「帰寧」、つまり実家に帰ってのんびりすることはできませんでした。嫁に行った娘がやっとのことで実家に帰っても、楽をすることはできず、あれこれ用事を言いつかることも少なくありませんでした。それに加え、兄嫁との間も気を使わないといけません。兄嫁は舅(しゅうと)、姑(しゅうとめ)との間であれこれ問題を抱えており、こうした「他人の家」に帰ってきても「安寧」を得ることはできなかったのです。

■旧暦3月、清明節(太陽暦では4月5日)

この月の主な行事は「清明節」。その前、1-2日は寒食節で、風習によれば火を使わず食事をします。古人は、春の青龍は東方に居り、火が盛んなのを恐れると考え、火を使ってはならないとしました。火を使わないもう一つの理由は、功成り身を退き、高官になろうとせず、最後は晋の文公に焼かれて死んだ介子推を哀悼するためです。飯を炊かずに、主に油で揚げた麻花(かりんとう)や馓子sǎnzi(小麦粉をこねて細く伸ばし、何本かより合わせて油で揚げたもの)を食べます。

馓子

先に揚げてあるので、十日や半月は保存できたのです。この時の四合院は、かまどから飯を炊く煙が上がらず、人の声さえあまり聞こえませんでした。というのも、皆外出してお墓参りに行くからです。金持ちの家の中には墓が郊外の風光明媚な地にあり、それに加え、この機会に「踏青」と言って、若草を踏んでハイキングをしました。

また、春の新鮮な野菜を包んで食べる、春餅も、この時期の楽しみです。

春餅

■5月5日、端午節

端午節はまた女児節でもあり、嫁に行った娘がこの日に実家に帰って、1日休息しました。この時の四合院の中は、「姑奶奶」の里帰り前からにぎやかでした。この日の行事は、多くが夏の気候と関係していて、四合院の門と母屋の門の枠にヨモギと菖蒲を吊るし、女の子はお札を身に着けたり、髪にザクロの花を挿したりしました。男の子の鼻や耳の孔には強い黄酒を塗って、春の虫の侵入を防ぎました。というのも、この季節は蚊が繁殖する時期で、家人の健康のため、こうした方法で魔除けと伝染病駆逐をした訳です。

端午節、門に菖蒲、ヨモギを挿し、邪鬼を払う

この日、機嫌が良いのは女の子や男の子だけでなく、お屋敷の水汲み、糞尿の汲み取り、ごみ捨てを含めた召使たちもご機嫌でした。というのも、屋敷の主人からいくらか節句のボーナスが出たからです。

この日、四合院の中では、祭祀行事も行われました。ただし、それが行われる場所は必ず四合院内の仏堂や祠堂といった場所でした。祭祀の対象は仏神だけでなく、祖先も含まれました。お供えの机の上に並べられたものも、季節のもので、粽、五毒餅(マイカイの花の餡入りのパイ生地の菓子で、サソリ、カエル、クモ、ムカデ、蛇の五種類の害虫の焼き印を押したもの)、クルミ、黒と白のクワの実などが並べられました。これらのお供えは、5月6日の朝まで並べておいてから撤去されました。

五毒餅

■旧暦6月の行事

旧暦6月の三伏(署伏)の頃は、二十四節気の大暑の頃(太陽暦の7月23日頃)に当たり、「貼伏膘」(三伏の日にしっかり食べて太る)と言って、美味しいものをしっかり食べ、体力をつけました。一つには、酷暑の季節で、汗をかきやすくなり、体力の消耗が大きいこと。二つには、この時期はちょうど季節の新鮮な料理の材料が多くあり、飲食内容を改善するのに適していたからです。

三伏の日は蒸し暑いので、部屋の中で食事をするよりも、テーブルと椅子を四合院の中庭の日陰に並べました。金持ちの家なら、中庭に日除けを架け、日中でも涼しく食事ができるようにしました。

「貼伏膘」の食事は、普段よりやや贅沢なものでした。例えば、烙餅巻鶏蛋(卵焼きを烙餅で巻いたもの)、打鹵麺(餡掛け麺)、炸醤麺、羊肉麺などを食べました。

烙餅巻鶏蛋


四合院での年中行事、正月(春節)

2020年02月23日 | 中国文化

現在のように、核家族を中心とした生活が一般化する前の中国社会に於いて、社会生活は家族を中心に営まれてきました。ここで言う家族とは、親夫婦、息子夫婦、子供などが同じ四合院の中で暮らす、大家族のことでした。そして四合院建築の構造も、こうした大家族の生活の需要から設計されたものと言えると思います。また、中国の伝統的な季節の節句の行事も、家族の団結を強めることを目的にした祭祀活動でした。

おおみそかの夜、一家団欒の年越しの宴を開く際、最初に行うのは、祖先を祭ることです。盂蘭盆会では、蓮の花の燈明を点灯する形で、亡くなった人に家に帰る道を示し、家の中で祭祀を行います。清明節には、家族で祖先のお墓を掃除し、火を使わず冷たい食事を食べることなど。節句の祭祀活動を通じ、家族の団結力が強まり、個々人が家族を重んじ、若年者が年長者を敬うという気持ちが自然と強まっていきます。こうしたことが、ひとつの四合院で一緒に暮らすことで育まれてきたのではないかと思います。

「三綱五常」(儒教で言う「三綱」と「五常」。「三綱」は君臣、父子、夫婦の道。「五常」は人の常に守るべき五つの道徳で、「仁、義、礼、智、信」を指す)という言葉がありますが、伝統的な中国社会では、儒教思想の影響も受け、こうした年中行事が発達し、そうした行事を行う場所として、四合院という建築様式が形作られてきた面があると思います。

1.正月(春節)
北京の人々は代々、「腊八」を春節の開始のシグナルと見做してきました。なぜなら、この時は新しい一年の始まりが既に間近に迫っていて、「腊八粥」を作ることで、残った五穀雑糧を処分し、新年には新しい穀物が食べられるようにしたのです。また「腊八粥」を一族や隣近所に配ることは、家族内部や隣近所との間で連携、連絡を増やすのに重要な手段でもありました。

腊八粥

毎年この時分になると、各家、各戸のかまどの周辺はいつも、子供たちに取り囲まれました。というのも、ナツメ、クルミ、栗を入れる「腊八粥」には、さらに黒砂糖を混ぜ入れるので、昔は甘いものをあまり食べられなかった子供たちにとって、これはたいへん魅力のある食べ物でした。もっとも、それぞれの家の経済状況、生活習慣、味の好みの違いから、「腊八粥」の作り方もそれぞれ特徴がありました。裕福な家は、隣近所に「腊八粥」を配り、自分の富を見せびらかしたいと思いました。あまり貯えの無い家も、隣近所の付き合いは欠かせません。それで、「故同」(フートン)内の隣近所のいくつかの四合院の間や、同じ四合院の南屋と北屋、東院と西院の隣家の間で、相互に「腊八粥」を送り合うという情景が形成されました。

これが終わると、年越しの様々な準備が、四合院の中で開始されました。先ずは大掃除で、家の中の掛布団、敷布団、かまどの窯やしゃもじ、置時計や壁に掛けられたものなどが、全て中庭に運び出され、空っぽの部屋の隅々を徹底的に掃除しました。抜け落ちた天井、窓は、新しい高麗紙に糊を付けて貼り替えました。

年越しの食べ物の準備も、四合院の中で人々が正月前にやらないといけない重要な仕事でした。大鍋一杯のマントウを蒸し、糖三角(中に砂糖餡を包んだ三角形の蒸しパン)、豆沙包(あんまん)、花巻などは、必ず作っておかなければなりませんでした。ひとつには、正月一日から五日までは刃物を使ってはいけないという習慣がありました。二つには、親戚の誰がいつ訪ねて来るか分かりませんでした。魚の揚げ物、肉の煮込み、豆味噌、からし和えなどは、事前に準備しておきました。一家の主婦の料理の腕前を見せるため、それぞれの家の特色のある揚げ物やスナック類を準備しました。完成したこれらの食べ物は、大部分を屋外の甕の中に保管しました。北京の冬の「天然の冷蔵庫」を利用した備蓄です。

門外の物売りの声にも注意していないといけません。そうすれば、大みそかにかまどの神様をお祭りする時に燃やす、松の枝や「芝麻秸」(ゴマがら。ゴマの種子を取り去って、茎に蒴果(さくか)の殻のついたもの)を買うことができました。

芝麻秸と松枝売り

大みそかの夜、四合院の母屋では、必ず祖先の位牌を並べ、両側には一対、ろうそくと干菓子やくだものなどのお供えを並べられます。年越しの食事が始まる前に、一家全員、主(あるじ)の号令の下、順番に祖先の位牌に叩頭します。この時、四合院の中は静まり返り、厳かな雰囲気になります。祖先のお祭りが終了すると、一家団欒の宴が開始されます。

この時から、四合院の中は笑い声や爆竹の音が絶えず巻き起こり、それが何日も続くことになります。

年越しの食事が終わると、餃子を包む作業が始まります。この時、年長者には、春聯を貼るという重要な仕事がありました。真夜中12時前に、あたかも事前に示し合わせたかのように、故同の大小の屋敷の門が相次いで開かれ、先ず提灯の明かりが一つ先導し、続いて赤い紙の春聯と糊を持った老人が出て来ます。に糊を塗り、直ちに門の枠に貼り付けます。そして隣人同士で互いに鑑賞していきます。これはそれぞれの四合院間の書、教養、家風の無言の競争でした。しかし表面的には皆、「好,好!」、「不错,不错!」、「多雅气」(とても上品だ)などと賛嘆のことばを発するわけです。

貼春聯

正月二日から、四合院の中では財神を祭り、「順星」(正月8日、明かりを並べ(散灯花)、星神馬を祭り、元宵を食べるなどの内容が含まれる)、正月15日の元宵節には、ランタンを吊るし、元宵を食べ、大小の穀倉に穀物を入れるなど、一連の行事があります。もちろん、この期間の親戚や隣近所への年始の挨拶も欠かせません。しばしば一組の来客を見送ったと思ったら、主人の尻が落ち着かぬうちに、また次の年始の挨拶を告げる声がすることもありました。笑い声や爆竹の音が、そこかしこで聞かれました。

富豪の家では、彼らの家の大門の外で、また別の情景が見られました。それは「塞帖子」(書き付けを挟み込む)と呼ばれるものです。昔、官界の慣わしで、関係が比較的緊密だったり、上司部下の間だったり、必要な人の間では自ら年始に来訪しますが、それ以外の、あまり親しくない間柄の場合、召使に言いつけて、相手の家に書き付けを送る(今日の年賀状に相当する)だけで済ませることがありました。書き付けを届ける人は、門を敲く必要もなく、門の隙間に書き付けを挟み込むだけで済ませる、これが「塞帖子」です。


四合院と風水の関係

2020年02月13日 | 中国文化

今回は、陰陽五行説から導かれる風水理論が、四合院の建築にどのような影響をもたらしたか、見ていきたいと思います。ただし、この内容、難しくて十分理解できないところもあります。自己流の解釈になっていますので、間違いがありましたらご指摘いただけるとありがたいです。

1.四合院の建物はどうして北側に南向きに建てるのが良いのか

中国の建物は、王宮である故宮からはじまって、多くの建物が北側に南を向いて建てられています。

これは中国の地理環境に由来します。中国は北半球にあり、太陽の光は大部分の時間、南側から地面を照らします。これより人々は家の採光の向きを決定しました。

また中国国内の大部分の地域は、冬に北寄りの風が多く吹き、夏は東南の風が多く吹きます。したがって、家を建てる時、「北側に南向き」に建てるというのが最良の方位の選択となったのです。

このような家屋は、冬至の時には、正午の太陽の位置が低いので、陽光が多く室内に入るようになり、室内温度を高める手助けになります。夏は太陽の位置が高く、家屋の軒が遮ってくれるので、灼熱の太陽光が直接部屋の中に刺し込むことはありません。このため、北側の南向きの家屋は冬暖かく夏涼しい効果を得ることができるのです。

2.門はどうして東南の角に設けるのか

北側にあり南向きなのが、正位置の四合院であり、その門は、敷地の東南角に開けられています。『周易』ではこう記されています。「巽は風の門であり、また地の戸口である。(中間略)風が吹く時は地から出発するので、地戸という。戸は窓や戸のことで、天地に通じる活力である。」つまり、八卦の中の巽、つまり東南の方位は、風の通じるところであり、それは家屋の窓のように、天地に通じることのできる活力の源とされたのです。


 
北から見た巽の方向(東南)

また、中国の伝統建造物は排水の滞りがないかどうかをとりわけ重視しました。四合院は四面を家屋で取り囲んでいて、中間が中庭です。それでは、雨が降ると、雨水はどのように排出されるのでしょう。北京の地形は、全体として通常西北が高く、東南が低くなっていて、水は西北から東南に流れます。こうして、東南角の排水能力が最も高くなります。つまり、排水に有利な点から言うと、屋敷の門を東南角に開ける必要がありました。それだけでなく、北京城の排水システムもこれと同じ考え方に基づき設計されていました。明、清時代の北京城内の水系は、西北の積水潭(現在の什刹海の前身)の水門より入り、東南、巽の方向の通恵河より出るようになっていました。明、清時代の北京紫禁城内の金水河は、神武門西側の地下道より水が入り、鑾駕庫(皇帝の乗り物の車庫が置かれた場所)の東南、巽の方向より出るようになっていました。


 
侯仁之『歴史上の北京城』より

3.トイレはどうして西南角に置くのか

トイレは敷地の西南角に設置する、これはこれまで四合院での普遍的なやり方でした。或いは「外院」(「里院」に対して言い、二の門の外の庭、及び庭の周りの建物)の西の「小跨院」(主だった建物の横の庭)、或いは「里院」(母屋の南の中庭)の西南角、廊下が折れ曲がる角の所にある「盝頂」(ルーディン。「耳房」のような小さな建屋)に設置しました。

中国の伝統的な風水の理論では、トイレの設置場所は重要な内容と見做されました。一般には家屋の中の重要でない場所に置かれ、部屋の門の真向かいに置いてはならず、風の通り道に置いてはならず、また裏口に面したところに置いてもいけません。このため、八卦の中の「煞位」(西南角。この方角には「白虎星」があるといわれる)が最も良い選択でした。ひとつにはこの方角は影に隠れるので、一般にここに足を踏み入れる人は少なく、二番目に八卦の体系の中で、「煞位」は一般に不吉な運勢をもたらす可能性のある場所と見做されました。ここにトイレを設ければ、人々の排出した汚物や汚い空気が不吉な運勢を抑えつけ、悪を以て悪を治める良い方法でした。しかもこのようにすれば、悪運を去り幸福をもたらすことができるとされました。昔の人は、トイレの位置の選択を間違うと、様々な問題をもたらす可能性があると考えました。例えば、八卦の中で「生」の方角にトイレを置くと、吉星を破る可能性があり、たいへん不吉です。また前後の門に面するのもよくありません。トイレが吉星を破ると、病気を運んでくるとされたのでした。

4.台所はどこに置くのがよいのか

風水の理論によれば、台所の設置は、「「煞」に坐して「生」を向く」の方位を満足させる必要がありました。すなわち、「かまどの土台は「煞」の方角にあるのが良く、炊き出し口は家の主人の運命の「生」、「天」、「延」の三つの吉の方向を向いているのがよい」とされました。他にも多くの方位にかまどを置いてはならないと専門の規定があり、さもないと、人や家畜が、これが原因で病気になるとされました。

上記の理論によれば、四合院の中で台所は、常に東側の家屋の南側の部屋、もしくは北側の部屋に置くか、或いは敷地の東北角に置く必要がありました。これに呼応して、四合院の中の食堂も、一般に東側の家屋に置かれました。

5.門はどんな寸法が適当か

中国古代の風水観では、建物の門は天や地、自然とつながる面で、神秘的な力、「通気(「気」を通じる)」を持っていると考えられました。もし四合院を一人の人に譬えると、門はその人の喉に当たります。そこからも、如何に門を作るか、どんな大きさの門を作るか、どのように門を取り付けるかは、その一挙手一投足が、全てに影響する一大事でした。門が分相応であれば、天地、自然に順応できました。それゆえ、家族が同じ家で共に暮らせる「気」が調和し、家内安全が実現できると考えられました。そうでないと、様々な悪運がもたらされかねません。昔の人々は「魯班尺」(魯班は古代の魯国の大工で、大工の始祖として崇められています)という物差しを作り、門の大きさを決定しました。この物差しは「門光尺」、「八字尺」とも呼ばれ、物差しは八寸(1寸は3.3センチ)あり、財、病、離、義、官、劫(ごう)、害、吉の八文字が記され、財、義、官、吉の4つが吉で、病、離、劫、害の四つが凶とされました。この神尺の吉の寸法で門を作れば、吉祥は思いのままで、一族の繁栄を実現し、祖先の名を高めることができると考えられました。門の寸法を決めるには、魯班尺を用いる以外に、「一白」「八白」などがありました。後者は大工が通常使うかね尺であり、一尺は十寸で、門を開ける高さ、長さの度量は、何れも「魯班尺」の裁定で解決できました。「魯班尺の八寸が唱える吉凶の分析は、吉が多く凶が少ないものを佳しとしなければならない」。したがって、門の高さ、幅は吉祥の数字を取るので、「魯班尺」に合わないといけないだけでなく、ちょうどかね尺の「一白」、「八白」の上に近づかないといけないとされました。


 
魯班尺

6.建物の全体の配置への要求

 風水の理論では、屋敷内の配置についても要求がありました。その中心の考え方は、部屋の向き、庭や池、通路が、「気」の活動の規律に合っているかどうかでした。「凡そ(四方を家に囲まれた)中庭が「財禄」(发财俸禄。役人になって俸給を得る、金が儲かること)の源になるには、母屋の向かいの家屋は「案山」の役割、つまり母屋ほど高くないが、程よい高さがあり、気の流れを妨げないのが良い。中庭が水で潤され狭ければ、財産が貯まる。前方の家屋の高さが高くも低くもなく、主客のつりあいがとれていれば、福を得る。」(『陽宅撮要』)


 
理想的な気の流れ

この思想では、全体から割り振りすべきで、後ろの家屋が前の家屋より背が高ければ、主従の関係となり、採光に有利で、また後ろの部屋の視線が妨げられません。同時に、左右両方の「廂房」(母屋の前方の両側の棟)が守護となり、中央に中庭を設けると、高さの違いにより秩序ができます。

 風水の理論は、室内の配置にも用いられました。ベッドを例にすると、風水の書物ではベッドを置く具体的な要求は、「凡そ床を安んずは生方に当たるべし、巽門坎宅の如し。」つまり、一棟の家屋の中で、寝室は「生気」(しょうげ。風水の吉の方角)の方角に配置すべきで、それはちょうど北側南向きの母屋(坎宅)で、東南の方向(巽の方向)が「生気の方」であるのと同様です。『陽宅撮要』でも、「床を安んず法は房門(部屋の入口)を主とする。「坐煞向生」(三煞(さんさつ)、つまり凶の方角に置き、吉の方角を向く)にすれば、自然と「発財生子」(金が貯まり、子宝に恵まれる)。」「床は房門と衝突するを恐れ、屏風で之を抵すれば佳なり。」その意味は、ベッドは「生気」の方角の部屋の中に置くべきで、ベッド自体の設置は「坐煞向生」、凶の方位の側に置いて吉の方位に向かなければなりません。もしベッドの向かいに入口があるなら、屏風を置いて目隠しをすると良いとされています。この他、鏡台やタンスの姿見の鏡がベッドに向かい合うのは避けなければなりません。鏡の機能は反射であるので、必然的に人体中の気を分散してしまい、体の健康に影響します。とりわけ夜間は陽気が弱いので、鏡がベッドに向かい合うのは避けなければなりません。


四合院の様々な種類の門

2020年02月05日 | 中国文化

王府大門

前回、四合院の門を構成する部品について、紹介しましたが、その門も、屋敷の主人の身分、また屋敷の規模により、様々な種類の門が存在しました。

北京の四合院のたくさんの院門の中で、大部分が「屋宇式門」(家屋形の門)と「随墻式門」(壁続きの門)の二つに分けることができます。前者は「門洞」、つまり建物の奥行きがあり、門自体が一軒の家のようになっていて、中に守衛室や面会室があるもの。後者は門洞が無く、単に壁の上に門を開けただけです。家屋形の門は、王府大門、広亮大門、如意門などに分けられます。壁続きの門には、小門楼、車門などがあります。

(1)王府大門

清の時代、住宅の呼称は、『大清会典』の中で明確な規定がありました。「凡そ親王、郡王、世子、貝勒、貝子、鎮国公、輔国公の住まいは、皆「府」と称す。」中でも、親王と郡王は「王府」と言いました。一方、科挙に合格し、高位高官に上り詰めた人は、たとえ爵位を封じられ、尚書、大学士、軍機大臣の肩書きがあっても、その住まいは「府」と言うことができず、「宅」、「第」と言いました。財産権から言うと、「府」と「王府」は皇室の財産であり、一旦爵位を剥奪されると、府を引き払わなければならず、その後、別の人に分配されたそうです。「宅第」は私有財産として認めらました。

王府の大門(正門)は、親王府は五間、郡王府は三間であり(「間」とは、二本の柱と柱の間の数です)、何れも北側にあって南を向き、門前には「門罩」(門窓と壁のある部屋)があり、通路は地面より高くなっていました。府門の東西にはそれぞれ一間の角門があり、どちらも「阿斯門」と呼ばれ、人々の普段の出入りに使われました。

雍和宮の阿斯門

角門(阿斯門)の設置により、正門は普段は閉ざし、儀礼など時と事情を見て開けることができました。府門の外には獅子の石像、灯柱、馬繋ぎ杭、馬止めなどがありました。正門と向かい合って「影壁」(目隠しの壁)がありました。ふたつの「阿斯門」が東西に並び、その内側には方形の広い中庭があり、正門の前には獅子の石像が一対あるので、この一角を「獅子院」と呼びます。

王府の大門の柱の数、装飾、色彩等は皆制度、規定に基づき建てられました。「親王府は緑色の瑠璃瓦、どの門も金釘63本(9行7列)を使う。世子府は親王府の七分の二に減らす」、貝勒府は正門が三間、開け閉めする門は一間。王府の大門の屋根は筒瓦、大棟(屋根の最高部が水平な棟)を用い、鴟尾(動物が口を開けた形の鴟尾)を置き、上下垂直方向の棟には仙人や獣の陶器の像を並べ、山墻(左右の山形の壁)には排水のため樋を付け、大門は赤色に塗り、梁の木材には彩色で図絵を描きました。

金釘

(2)広亮大門

「広亮」とは、文字通り、広々として明るいという意味で、背の低い狭い門と比べてこう言われました。「広亮」の原音は「広梁」で、屋根のてっぺんの大梁(棟木)の面積が広いことです。こういうりっぱな門は、官位や爵位の高い人物か、民国以降の軍閥や商人たちだけが建てることができました。人目を引くために、大門の一間が両側の家屋よりも大きく、門自身が「山墻」(切り妻屋根の左右両側の山形の壁)を持ち、「戧檐」(支柱と軒)には磚に模様の彫り物を施し、屋根のてっぺんを高くし、石段の上の壁が突き出ています。「広亮」というのは、規模のうえだけでなく、装飾面でも当てはまります。戸の上には数本の門簪があり、下には精緻な石鼓や門枕があり、壁面の磚の彫り物、木材の上の彩色した絵も凝っています。大門の内外には目隠し壁、屏風門があり、石段が設けられ、一般に地面より30~50センチ高くなっています。

広亮大門の屋根には一般に天井を吊りませんが、後に付け加えられたものもあります。棟は、両側が斜めに伸びた「清水脊」があり、「元宝脊」(馬蹄銀形の屋根)もあります。広亮大門の門扉は、建物の奥行きの半分のところ(大棟の下)に立っており、1/2、さらにはもっと多くの空間を門の外に残しています。民国以降は治安面の配慮から、門外に鉄の柵を付け加えたものもありました。広亮大門は王府大門と同様、門外に上馬石(乗馬石)、拴馬樁(馬繋ぎ杭)や拴馬石等がありました。

(3)金柱大門

「金柱」というは、軒柱(「檐柱」)より内側の柱のことを言います。金柱大門というのは、門扉のかまち(「框」)を金柱に取り付けた門のことです。規模のうえでは、金柱大門は広亮大門より小さく、戸も狭く、半分の間口しかないものもあります。その他の門の構造、屋根の形、飾りなどは、広亮大門と同じです。約1歩(5尺に相当。約1.5メートル)の奥行きしかなく、大門の出入り口の軒柱には多少の装飾があり、全体的に見て広亮大門より軽快な感じがします。

(4)蛮子門 

最大の特徴は、門が金柱大門よりも更に外へ突き出ていて、ほぼ軒柱の位置にあることです。その他は金柱大門、広亮大門とほぼ同じです。蛮子門ができたのは、家の主の官位が低く、広亮大門を建てることができないので、思い切って門の外を屋根の軒下まで前に押し出し、南方から北京に来た人々が好む様式にしたものです。「蛮子」というのは当時の北京の人の、広東、広西や南方出身の人々への蔑称です。

(5)如意門

如意門は最も数が多く、一般の人々の住居用の門です。形式も多くて、凝った作りにも簡素にもできました。身分や地位の厳格な封建社会で、金はあるが無官の家では、小さな門を建てるのでは満足できず、門自体は小さくして、凝った飾りを付けるようにしました。例えば、「門楣」(戸のかまち(框)の上の横木)には大いに彫り物や飾りを付け、屋根のてっぺんを張り出させ、山墻(切り妻屋根の左右両側の山形の壁)には模様を彫った装飾をしたものもありました。

 

壁に沿った門(「随墻門」)は「墻垣門」とも呼び、その特徴は門洞が無く、壁にそのまま門を付けたもので、半間あまりの幅しかありません。

(6)小門楼

これは「随墻門」の中で最もよく見る形式です。スタイルの上では、上で見てきた家屋形門と同様の効果を狙っています。小さいながら、屋根にはちゃんと「山墻」(切り妻屋根の山形の壁)があり、屋根があり、屋根の上には大棟があり、両端は反り上がり、軒は草花模様の磚で装飾されています。門の等級としては低いけれども、普通の人々でも、ここまでの装飾をすることができました。

 


四合院、その門を構成する各部分について

2020年02月03日 | 中国文化

今回は、四合院の門を構成する各部分について、ご紹介したいと思います。

(1)門板(戸板)
先ずは戸板です。戸板の材料は、門の形状と同様、富貴尊卑を表わす手段になりました。木の門が一般的ですが、木材は吟味して選ばれました。しかし、たとえばエンジュの木は、「槐」の字の片側が「鬼」であるので、使うのは避けられました。四合院の表門に使う門の扉は、通常「実榻門」と「棋盤(ごばん)門」の二種類があります。前者は戸板の芯材と扉が同じ厚みであり、後者は戸の枠に木の板をはめ、横木を架け渡したもので、それによってできる格子縞(じま)が碁盤に似ているのでこう呼ばれます。

実榻門

棋盤門

門の色については、「人の主たるは黄が宜しく、人の臣たるは朱が宜しい」とされ、漢や唐の時代の黄色の門は大変高貴なものでした。朱塗りの大門もかつては至尊至貴のしるしとされました。朱色の扉の家は「九錫」に列せられました。「九錫」というのは、天子の諸侯、大臣に対する最高の礼遇を指し、朝廷から九種の器物を賜ったことによります。朱色の扉を賜るというのは、朝廷から極めて高い待遇を受けたことを意味しました。黒色の大門はどこにでもあり、官吏以外の家の門の色でした。こういう黒色は「黒煞神」(道教の守護神)と呼ばれ、これを門にすると、邪気が入ってきにくく、門の色そのものが門神でした。5世紀から6世紀にかけての南北朝時代には彩色上絵をした門が現れ、あるものは草花、あるものは龍や鳳が描かれました。これと相反するのが「白板扉」で、色を塗らず、木の地のままで、これは農家の素朴な生活を反映していました。

門の戸板にも装飾が施されました。故宮の大門上の銅の「門釘」は中でももっとも凝ったものです。これはもともと木の板の門の製作上の必要から始まったものですが、後になって、「門釘」の装飾効果がより重要になってきます。更に、一般の家の門扉は、門環、門鈸、鋪首、鉄包葉などで飾られています。

門釘

(2)門環
門の扉の把手(とって)を「門環」と言い、門を開け閉めするのに用いられました。門の上の銅の輪(わっか)の把手を「鋪首」と言います。門の上の金属の器物を俗に「響器」と言い、正式には「門鈸(はつ)」と言います。最もよく見かける門鈸は六角形をしており、形状は銅製の「鈸」(はつ。民族楽器の一種で、銅製のシンバルのようなもので、中央が半円形に盛り上がっている)の様な形をしています。四方は約七寸と言いますから、20-25センチ。真ん中に突起があり、六つの角には穴が空いていて釘を通すようになっており、門板の上に釘付けされます。門鈸には獣頭の形のものがあり、獣面と呼ばれます。一般の門鈸は鉄製で、突起の出た中央部には木の葉のように鉄片が垂れ下がっており、来客が門鈸を軽くたたき、屋敷の中の人を呼んで門を開けてもらうことになります。よく知っている人は、たたく回数、たたく強さが決まっていたそうです。

門鈸

門鈸から更にその家の主人の地位もわかります。宮殿や王府は銅製のもので、龍の頭か獅子の頭の形で、半楕円形の輪が付いています。官吏や商人の邸宅は銅製の六角形で、縁飾りや円に沿って木の葉模様が付いています。一般庶民の家は鉄製でした。

上の写真の門鈸は、元々この上に銅の輪が付いていて、ちょうど下の銅のボタンに当たるようになっていました。客が訪ねて来ると、輪を軽く打ち叩き、屋敷の中の人を呼ぶことができました。

(3)門簪
「門簪」(もんさん)は門の扉の上軸の連結柱を鴨居に固定する部品です。その位置が門の上の鴨居にあり、先が突き出ており、形が婦人の頭に挿す簪(かんざし)のようであるので、「門簪」と言います。一般には二つか三つ、多いものは四つか六つ用い、上に彩色の図柄を描いたり字を書いたり(彫ったり)します。

門簪

門簪は四角形、長方形、菱形、六角形、八角形等多くの形があり、図柄は四季の花が比較的多く、それ以外に春蘭、蓮、菊、梅の花を刻んだもの、文字は「吉祥如意」、「福禄寿禧」、「天下太平」等の字句が書かれました。

(4)門檻(敷居)と框(かまち)
「門檻」(敷居)は門の下の一本の横木です。門は一般に内側に開くので、敷居は一般に門の外にあります。門を閉めた時、門の前に敷居があり、門の内側には門閂(かんぬき)があり、門はしっかりと閉じられます。ちなみに門閂(かんぬき)は、門の内側に通す一本の横木です。

門檻(敷居)

敷居の高さと門の大きさは関係があります。およそ門の大きいものは、敷居が高くなければならず、必然的に身分の高い人の家となります。したがって人々はよく、「お宅は敷居が高くて、誰も行く勇気がない」と言う訳です。

家猫が敷居に寝そべっているのは、吉祥の兆候と見做されます。なぜなら猫は主人を助ける動物であり、敷居に寝そべっているのは、主人の為に持ち場にいてくれており、見知らぬ人が入ってくるのを防いでくれているからです。各地の風俗習慣でも、敷居の象徴的な意味が見られます。人を座らせてよい、人を座らせてはいけない。足を踏み入れてよい、足を踏み入れてはならない、等々。魯迅の小説、『祝福』の中で、祥林嫂は、死後、閻魔様に身をのこぎりでふたつに切られ、亡きふたりの夫に分けられることのないよう、その土地の廟(道教の寺院)に敷居をひとつ寄進し、自分の身代わりにして、人が足を踏み入れるに任せ、これによって「罪」をあがなおうとしました。

門を構成する部品には、戸板の他、敷居をはじめ、「檻」という横向きの部品があります。門檻(敷居)は「下檻」、門簪を取り付けるのは「中檻」、更にその上には「上檻」があります。一方、「框」(門の枠。かまち)というのは縦向きの部品です。「抱框」、「門框」があります。

門の各部分の名称

門簪は門扉の上軸を固定し、門の枕石の中心に据付けられた鉄の鋳物の「海窩」で門扉の下軸を固定します。門の外の「抱鼓石」と門の内側の門枕はいっしょにつながり、上面には鳥獣や草花の模様が彫られ、実用的で、且つ美しいものです。石鼓には獅子の彫り物をしたものがあり、吉祥を得るという意味があります。門の回転をなめらかにする為、下軸の海窩の中には常に多少の油を差す必要があります。そうすると、門の開け閉めが軽くなり、音もしなくなります。

門枕石(下の土台部分)と
抱鼓石(上の円筒部分)

抱鼓石