中国語学習者のブログ

これって中国語でどう言うの?様々な中国語表現を紹介します。読者の皆さんと一緒に勉強しましょう。

雍和宮「打鬼」(鬼やらい)とチベット仏教の神舞

2024年06月26日 | 中国文化
法会の観衆

 毎年、首都北京の有名なラマ教寺院である雍和宮は伝統的な「祈願法会」が行われ、その間、1月の最終日と2月1日には、「打鬼」(鬼やらい)が行われる。昔、毎年鬼やらいの時期になると、雍和宮附近の通りは封鎖され、雍和宮内ではたくさんの人が動き回り、大通りや横丁には、物売りが雲集した。清の人、敦礼臣は『燕京歳時記』の中で次のように描写した。「毎年鬼やらいになると、……都の人々で見に行く者が甚だ多く、町の多くの家が留守になるような有様だった。」その賑やかさの一端が見えるかのようであった。

 「鬼やらい」は昔の北京の人の俗称で、民間ではまた「跳神」や「跳鬼」という呼び方もあった。北京に住むモンゴル族の人々は、鬼やらいを「跳布札」tiào bù zhá と呼んだ。「布札」はモンゴル語で「舞蹈」(ダンス)の音訳で、前に漢字の「跳」を加えると、よりイメージを形容しているだけでなく、中国とモンゴルの間の文化的交流を体現している。チベット語でこうした宗教内容を表す寺院の祭神舞を「羌姆」と言い、これは一般の民間舞踊のことを「卓」と言うのとは異なっている。このため、こうした専ら宗教を内包することを目的とする蔵伝仏教(チベット仏教)の祭神儀式の舞踊を「金剛駆魔神舞」と訳すのが、より適切である。

 こうした神舞の起源については、多くの伝説がある。その一、吐蕃(古代チベットの名称)に石の家があり、中に化け物が住み、昼夜人間を襲い、食物を掠奪していた。ラマ僧が諸神に変装し、この家に入って妖魔を痛打し、これを追い払ったので、これより吐蕃は太平になった。このため、ラマたちは必ず「鬼やらい」をしなければならなくなった。その二、古代チベットである王様が苯教(ボン教。チベットに仏教が伝来する以前の土着の宗教)を助け仏教を滅ぼし、仏教はチベットで伝播することができなかった。ひとりの勇士が「跳神」(鬼やらい)で王が観覧するよう誘い、この機に乗じてチベット王に接近して王を殺し、これより仏教がチベットで再び盛んになった。この勇士を記念し、毎年寺院では「跳神」の儀式を行うようになった。その三、チベット第一の寺、桑耶寺(サムイェー寺)が建設の最中、何度も当地の鬼神の破壊に遭った。このため、インド僧の蓮花生大師が神通力や法力を発揮し、「鎮鬼圧神之歌」を吟唱し、且つ「虚空の中で金剛舞」を舞った。これより鬼神は再び敢えて騒動を起こしたり破壊を行うことがなくなり、また寺の建設のため力を出した。この「金剛舞」とはすなわち神舞である。この他、まだたくさんの「牽強附会」(無理やりこじつけた)説があった。

 文字で神舞の起源を考察できるものとして、チベット文の古籍『蓮花生大師本生伝』があった。蓮花生は蔵伝仏教(チベット仏教)寧瑪派の始祖で、8世紀北インドの烏仗那(ウディアナ)国(今のパキスタン域内)の人であった。この地は仏教の密宗舞踊で有名であった。唐玄宗の天宝6年(747年)、蓮花生は吐蕃賛普(すなわちチベット王)赤松徳賛の招きに応じ、チベットに入り仏教を伝えた。賛普はこのためラサの東南方に桑耶寺(サムイェー寺)を建て、建設中に、蓮花生は金剛舞を作った。舞踊は本国で流行していた密教儀式化した演技を基に、インドの法器や道具を用いた。今日、わたしたちは神舞の中で相変わらずたくさんのインドの血統を持った役柄を見ることができる。たとえば、「瑪哈嘎拉」(大黒天)、「倉巴」(大梵天)、「雅瑪達嘎」(大威徳金剛)、班達拉娒(吉祥天母)などである。

 神舞のもうひとつの起源は、蔵伝仏教(チベット仏教)前期の宗教芸術からであった。蓮花生は、チベットでの伝教が完全にインド密宗をそのまま取り入れたなら、必ずチベットの原始宗教の苯教(ボン教)の反対や抵抗に遭うことがよく分かっていた。このため、蓮花生などインドの高僧大徳たちは、法術を振るって妖怪を鎮め悪魔を降参させると同時に、また大量のチベットの土着の神霊や祭祀儀礼を受け入れた。同様に、神舞の創作過程で多くのチベットの土着の踊りや祭祀舞を吸収した。

 仏教がチベットに伝わって後、当地の原始宗教である苯教(ボン教)と長期に亘り、互いに争い互いに受け入れる過程を経て、独特なチベット語系仏教を形成した。発展に従い、蔵伝仏教(チベット仏教)は次第に寧瑪(紅教)、噶挙(白教)、薩迦(花教)、格魯(黄教)などいくつかの大教派に分かれ、神舞もそれに応じて各種の流派を形成した。各流派の神舞の主題や内包するものは基本的には同じで、皆蔵伝仏教(チベット仏教)密宗の駆邪儀式のためのもので、ただ踊りのスタイル、音楽、役柄、表現形式に違いがある。

 寧瑪派(紅教)の神舞は、蓮花生の8つの化身を主役とし、多くの護法神を配役とし、舞踊により本派の教義を述べている。

  噶挙派(白教)の神舞は独特で、旧密乗の内容があるだけでなく新密乗の内容もあった。しかも多くの他の教派の神舞の人物や踊り方も吸収した。

  薩迦派(花教)の神舞は当初は別に公開されていなかった。薩迦派の教権は昆氏の家族から継承されたので、この派の神舞もこのため家廟の祭礼の色彩を帯ていた。密宗の教法を発展させるため、ようやく次第に多くの人々の面前で演技するようになった。

  格魯派(黄教)の神舞の形成が最も遅く、内容と踊り方も最も豊富であった。この派の神舞が伝播した地域は頗る広く、影響も最も大きかった。格魯派の神舞は内容が厳かで、ダンスのポーズが豊富で、動作は力強く、舞楽はリズミカルで、テンポは明快であった。

 北京の各ラマ寺院で神舞を踊るのは明代に始まり、清代に盛んになった。明代には劉若愚が『酌中志』の中で、万暦帝の時代の宮内で神舞を踊る情景を記載した。清代、北京の32のラマ廟では、雍和宮の神舞が最も名声が高かった。

 雍和宮の神舞は全部で13幕の内容から成っている。

 第1幕、白鬼の踊り。4名のラマ僧が白色の繻子のズボンと短い上着、足に刺繍を施した白い靴を履き、頭に白い髑髏のマスクを被り、白い鬼に扮する。手に長さ50センチの木の棍棒か革の鞭を握り、白粉(おしろい。俗に白土子と呼ぶ)を詰めた袋を斜めに背負い、手足を振って踊りながら、最初に会場に出る。もし観衆が多くて、演技をする場所を侵犯しているなら、4人の白鬼は袋から白粉を取り出し、土地を占領している観衆に向けそれを撒き、これを「灑煞気」(不吉な気をばら撒く)と言う。昔の北京の人々には迷信的な言い方があり、正月に誰かに白粉が付くと、その一年は運が悪いと言われた。この不吉な気を避けるため、観衆は急いで後退しなければならず、演技場所は自然と空けられた。この行動を「浄壇」(壇を清める)と呼ぶ。


白鬼の踊り
白い繻子(絹織物)の上着とズボンを身に着け、足には白い刺繍で模様を付けた靴を履き、頭には白い髑髏のマスクを被ったラマが、手に短い棍棒や皮の鞭を持ち、おしろいの入った袋を斜(はす)に背負い、飛び跳ねながら、おしろいを撒き、これを邪気を撒くと言ったり、壇を清めると言ったりした。

 「浄壇」後、楽隊が登場する。ラマ僧たちはラッパを吹き、法鼓を叩き、九音の銅鑼を揺り動かし、チャルメラを吹き、シンバルを叩きながら、会場の四方を取り囲んで座る。抑揚のある楽曲を奏で始めると、4名の白鬼はリズミカルに踊り始める。


楽器を奏でるラマ

 第2幕、黒鬼の踊り。4名が黒い緞子のズボンと短い上着、足に黒い緞子の刺繍をした靴を履き、頭に黒い髑髏のマスクを被り、手に木の棍棒を持ったラマ僧が黒鬼に扮し、会場内を乱舞し、白鬼はそれに従い舞台を降りる。黒鬼がしばらく踊ると、白鬼がまた入場し、8名の黒白の鬼が一緒に踊る。

 第3幕、螺神(巻貝の神)の踊り。4名のラマ僧が五色の刺繍を施した緞子の長衣を着て、足に青い綿の薄底の布靴を履き、濃緑と赤色の巻貝の殻のマスクを被る。マスクの隈取りは、ぶざまに笑いさざめく表情を呈し、走って登場してくる。彼らは水中の巻貝、エビ、蟹、魚などの水生動物を代表し、手で木の棍棒を持ち上げ、ひらひらと踊り始める。この時、黒白の鬼は退場する。数分後に、黒白の鬼が再び登場し、螺神と共に踊る。


螺神の踊り
五色の刺繍模様の繻子の長衣を身に着け、足に青いビロードの薄底の靴を履き、頭に濃い緑や赤色の巻貝のマスクを被り、手に棍棒を持った螺神が舞台の黒と白の鬼と一緒に踊る。

 第4幕、蝶仙(蝶の仙人)の踊り。4名もしくは8名のラマ僧が蝶仙に扮する。彼らは上に色模様の緞子を見に着け、身体にぴったりの短い上着と赤い前掛けを身に着け、下に色模様のズボンと色模様の靴を履き、手には色模様の手袋を着ける。マスクの形は丸い目に大きな口、笑いさざめき、ぶざまな表情をしている。両側の耳はそれぞれ一枚の色模様の絹布が伸び、蝶の羽を表している。彼らは両手を上下にぱたぱたさせ、蝶々が飛ぶように「飛んで」舞台に入って来る。黒白の鬼と螺神は舞台を降りる。蝶仙たちは時に丸く取り囲み、時に一列になり、隊形を変え、感情豊かに楽しげに踊る。踊りが最高潮に達すると、幕下の黒鬼、白鬼、 螺神が共同で舞台に上がり、 蝶仙と群舞を舞う。

 以上の演技は、もののけ、水中の魚類、陸地の昆虫を表し、神仏がやがて世間のたたりを排除し、人類が平安な日々を送ることができるだろうと聞き知り、狂わんばかりに喜び、歌い踊って喜ぶ心情を表している。

 第5幕、金剛の踊り。四大金剛は身に五色の錦の緞子の上着を着、肩に五色の刺繍の花の肩掛けを着け、足に模様の付いた緞子の靴を履いている。付けているマスクは皆異なり、それぞれ象の頭、ライオンの頭、犼(こう。野獣の一種。一般的には狗(いぬ)あるいは獅(しし)のような姿の霊獣として描かれる)の頭、夜叉の頭であった。彼らは天王殿から出て来る。その意味は、お釈迦様が四大金剛を派遣し、もののけを駆逐し、魔王に戦いを挑むということである。

 第6幕、星神の踊り。演技者が4人の時は、四星神と言う。10人の時は、十天干と言う。12人の時は、十二地支と言う。最も多いのは28人の時で、二十八宿と言う。一般に四星神を採用している時が最も多く、その中で2人が色模様の緞子を着て、足に厚底の青い緞子の朝靴(朝廷に参内する時に履く靴)を履いているのは文曲星(北斗七星の第4星。文運(科挙の合格祈願など)の神)である。別の2人が五色の糸で刺繍した緞子の甲冑を着て、足に厚底の色模様の緞子の戦闘靴を履いたのは武曲星(文曲星と相対する。富や財産、武運の神。北斗七星の末尾。)マスクは全て髑髏に金の冠。眉を吊り上げ目を怒らし、目じりが垂れて三角形の目をしている。彼らはお釈迦様に派遣され、四大金剛を助けて戦う。


星神(文曲星)
繻子の長衣を身に着け、足に青い繻子の靴を履き、頭に五佛冠(五智如来を象徴する宝冠で、五体の小さな化佛が載っている)に似た古い天竺(インド)式のヘルメットを被り、舞う姿は健康的で力強く、威風堂々として、その意味はお釈迦様の命を奉じて金剛を助けて戦うということである。写真は跳躍して身体を回転させている 星神である。


星神に扮するラマ

 第7幕、天王の踊り。演技者4人は、頭に五佛の冠様の古い天竺式の兜の載ったマスクをし、身体には金の甲冑を着け、足に戦闘靴を履き、顔は雍和門殿内の四天王に似ている。彼らは威風凛凛(りんりん)として舞台に現れ、時にひとりで舞い、時に群舞を舞う。その意味は、お釈迦様の命を奉じて、四金剛、四星神が協力して戦いを行った。

 第8幕、護法神の踊り。演者は8人、12人、16人となることが可能で、護法神とは大威徳金剛である。彼らは身体に五色の緞子の長衣を着て、下部に「海水江崖」紋の図案が刺繍され、腰部に八宝図案が刺繍され、足に薄底の靴を履く。被るマスクは各々異なり、獅子、象、虎、豹などで、牛の頭が率いて隊列を組み、踊りながら登場し、金剛、星神、天王とそれぞれ一緒に一度踊って後、護法神がひとり踊る。このように重複することが何度か行われてから、突然天王殿の中から一頭の鹿のマスクを被った人が飛び出してくる。この鹿は魔王の化身である。鹿が出現するや、直ちに多くの神がぐるりと取り囲み、この時場内外の白鬼、黒鬼、螺神、蝶仙などが一緒に登場して一緒に踊り、これは仏神、人鬼、昆虫、魚類が一致団結し、共同で魔王を討伐することを表現している。しばらく踊ると、鹿がまた天王殿に走って戻ってくる。このことは魔王討伐の戦闘がまだ勝利を得られていないことを表している。

 第9幕、白救度の踊り。少なくとも13人が参与し演技する。白救度は観音菩薩の化身で、白度母とも言う。彼らは身体に白の緞子に五色の刺繍の模様のある長衣を着て、頭に「大竹枝」の形の、白の刺繍の花帽を被り、足に模様のついた繻子の靴を履いている。マスクを被らないので、必ず眉目秀麗なラマ僧を選んで演技する。先ずひとりの白度母が登場してひとりで踊り、しばらくすると鹿がまた出現する。ふと見ると白度母が何度か揺れ動き、その他の白度母がどっとなだれ込む。これは一人目の白度母に多くの化身があることを表し、鹿をぐるりと取り囲んだ。これ以前の場面の中の各種の配役もやって来て助太刀し、共同で激しく踊り、動作の中には殺陣の動作が混ぜられている。しばらくすると、鹿が再び天王殿に逃げ、魔王を包囲殲滅する激戦は依然終わらなかった。


白救度の踊り
白救度は観世音菩薩の化身で、名は白度母である。白の繻子に五彩の刺繍模様の長衣を身に着け、足に柄の付いた繻子の靴を履き、頭に大きな竹の枝の形の飾りに、白い刺繍を施した「花帽」を被った。白度母はお面を被らないので、容貌が端正で、眉目秀麗なラマがこの役に扮した。写真は白救度が身体を揺すぶって何人かの白救度に姿を変える場面である。


写真は白救度のソロの踊りで、右側に立つ鹿は魔王の化身である

 第10幕、緑救度の踊り。緑救度は文殊菩薩の化身で、緑度母とも言う。演者の人数と服装の洋式は白度母と同じで、ただ服装の色が緑色である。内容も前の場面の白救度と同じである。鹿が逃げてしまって後、楽隊が再度チャルメラ、法鼓、ラッパの合奏をする。

 第11幕、弥勒の踊り。俗に「捉鬼」(鬼を捕まえる)と称した。演者は7人、その中の1人は「大肚弥勒佛」(布袋)に扮し、6人は「小弥勒佛」に扮する。大弥勒の身体には黄色の緞子の模様の付いた僧衣を着て、足には青い緞子の靴を履き、頭には大笑いした弥勒のマスクを被る。6人の小弥勒の服装、マスクは大弥勒と同じだが、ただサイズが少し小さい。弥勒たちが舞台に上がってひとしきり踊ると、鹿が再び出現し、金剛、天王、度母、護法、螺神、蝶仙などが一緒に登場し、鹿をぐるりと取り囲む。最後に弥勒が縄で鹿を縛って捉える。これは魔王が捉えられたことを表し、鬼魂は既に生け捕りにされた。

 第12幕、鬼を斬る。俗に「打鬼」(鬼やらい)と名付けた。続けて登場するのは、舞台の四方に囲んで座ったラマ僧と多くの演者が、主宰のラマ僧の引率の下でお経を唱え、二人のラマ僧が三角形の木の箱を持ち上げて天王殿から歩み出て、舞台の中央に進む。木の箱の中には一面の顔の俑(土人形)が置かれ、その頭、喉、胸、両腕、両膝、両足の9ヶ所を釘で箱の中に固定した。この顔の俑(土人形)は鹿(魔王)の魂が既に捕まえられ、釘付けにされたことを表した。この時、鼓の音楽が一斉に鳴らされ、諸神が一斉に踊り、護法が法器や月刀を振り上げて鬼俑の首を切り落とした。魔王は処刑された。


三角匣と月刀
写真は「跳布札」第12幕「斬鬼」の三角木匣(三角形の木の箱)と月刀(三日月形の刀)である。三角匣の中に魔王の霊魂(面俑(陶器の仏像))が置かれている。

 第13幕、送祟(厄払いをする)。魔王が処刑され、仏心は快哉を叫んだ。ふたりのラマ僧が法輪殿内からコウリャンの茎を縛って作った三角形の「垛」(上に突き出た部分)台を持ち上げて出てくる。台の上に紫がかった濃紅色の色紙を切って作った短い穂を斜めに巻き付け、先端に紙を貼って作った赤い竿、黒い鳥の羽、女真族の金の矢柄の弓矢を突き刺し、これを矢を捕えた「巴苓」(モンゴル語のbaling。仏前のお供えのこと)と称した。これは魔王が斬殺されて後、霊魂が弥勒佛に捉えられてお釈迦様のところに送られ、お釈迦様は金の矢柄の弓矢で魔王の霊魂を「垛」内に釘付けにした。ふたりのラマ僧が僧たちがお経を唱え鼓楽の演奏をする中、「垛」を昭泰門から担ぎ出し、牌楼院内で火を点け燃やす。これにより魔王が徹底的に消滅させられ、これより天下が太平となることを表す。


厄払いをする
魔王が滅ぼされ、仏の慈悲の心が勝利した。ふたりのラマが法輪殿内から黒い鳥の羽、金の弓矢で飾った三角の棚を担ぎ出し、魔王が斬殺された後、魂が弥勒佛に捉えられ、お釈迦様が金の弓矢で魔王の魂を三角の棚の中に釘付けにした。ふたりのラマが、多くのラマがお経を唱え、太鼓の音の中で、三角の棚を昭泰門から担ぎ出し、焼却地まで運んで焼き払い、ここから天下泰平を表した。写真はふたりのラマが魔物を積み込んだ三角の棚を担ぎながら厄払いし、焼き払う準備をしている。


写真はラマが三角の棚を昭泰門から担ぎ出し、焼き払う準備をしているところである。


魔物を焼き払うのに使うコウリャンの茎の薪を積み上げたもの

 翌日、太陽が昇る前に、ラマ僧全員が寺を廻る活動をする、すなわちラマ僧たちが隊列で儀仗し、ふたりのラマ僧が銅鑼を鳴らし道を開け、その他のラマ僧たちは手に幡幢、旌旗(いずれも色とりどりの旗のこと)や大黄(ダイオウ)で染めた緞蓋(緞子の傘)を執り、肩に乾隆皇帝から賜った金色の屋根で黄色の緞子の駕籠を担ぎ、駕籠内には未来の弥勒佛が座る。駕籠のすぐ後ろには楽隊と「跳布札」で登場した順番に並んだ演者全員が続く。隊伍の最後はラマ僧のリーダーが率いるラマ儀仗隊である。寺を廻る隊伍は南院の東の牌楼門を出て、北に向け寺を一周し、最後に西の牌楼門を入る。寺を廻る意味は、清郷(あたりの村々を清査、粛正する)し民を安んじ、魔王の残党が民間に潜んでいないようにするためである。これにて、「跳布札」の儀式は全て終了する。


寺の周りを廻る儀式
「跳布札」の厄払いが終わると、翌日(農暦の2月1日)の早朝、太陽が上る前に、ラマ全員が隊列を組んで寺の周りを廻る。これが鬼やらいの活動全体の最後の儀式である。ふたりのラマが銅鑼を鳴らしながら先導し、ふたりのラマが銅製の長いホルンを吹き、その後ろから各種の旗、傘、幟(のぼり)を掲げたラマの儀仗隊、手に四対の香炉と一基の黄色い傘を提げ、乾隆皇帝から賜った金の頂上の黄色い緞子の駕籠を担いだラマの隊列が続き、最後が主宰のラマが率いるラマ僧たちで、隊列は南院の東牌楼門を出て、北に向け寺を一周廻り、西牌楼門を入る。ここに至り、鬼やらいの活動は全部終了する。写真は寺の周囲を廻るラマの儀仗隊である。

雍和宮廟会

2024年06月22日 | 中国文化
雍和宮殿扁額
雍和宮正殿の前面の庇の下の扁額は、乾隆皇帝の親筆である。扁額の上の文字は、右から左に満州語、漢語、チベット語、モンゴル語の四種の文字で書かれている。この扁額は乾隆9年(1744年)に作られた。

 雍和宮は北京安定門内以東の雍和宮大街に位置し、孔子廟、国子監と街路をはさんで相対していた。土地は6.6万㎡を占め、殿宇は雄壮壮麗で、北京に32ヶ所あるラマ教寺院の中で最も壮大なもので、今日に到るまで既に300年の歴史を有している。

 雍和宮は元々清代皇帝康熙帝の第4子胤禛(いんしん)が建てた府邸(屋敷)で、康熙33年(1694年)に建設され、最初は「禛貝勒府」(「貝勒」は清朝の爵位名で、親王・郡王の下に位した)と名付けられた。康熙48年(1709年)胤禛は爵位が上がり和碩雍親王に封じられ、その府邸も「雍親王府」に改称された。清代の規制に基づき、皇帝の即位前の住所や出生地は、何れも「龍潜禁地」で、寺院に改める以外は、その他の用途に用いることができなかった。それで雍正が皇位を継いで後、元の王府の過半は章嘉呼図克図(「呼図克図」はモンゴル語で「聖者」のこと)に賜り、黄教(ラマ教の一派)の上院にし、残りの半分を留めて行宮にした。後に行宮は火災で破壊され、雍正3年(1725年)にはまた上院を行宮に改め、「雍和」の名を賜り、遂に「雍和宮」と称して今日に至った。1735年雍正が死ぬとここに柩が停め置かれ、遂に主要な殿宇の緑色の瑠璃瓦が黄色の瓦に改められた。乾隆9年(1744年)、雍和宮は正式に寺院に改築され、北京最大の藏伝仏教(チベット伝来仏教。ラマ教のこと)皇家寺院となった。


雍和宮殿
康熙33年(1694年)建立。正殿の幅は七間(柱と柱の間が7つ)、前に廊下が出ていて、後ろに建物があり、入母屋造りの屋根、棟木や梁に模様を彫り彩色され、緑の横木、屋根の頂は金色に輝き、荘厳で雄壮である。この建物は元々雍王府銀安殿で、雍正が親王の時に客と会見する場所であった。雍正3年(1725年)雍王府は行宮になり、この建物は雍和宮に改名された。乾隆9年(1744年)寺院に改められ、正殿は引き続き雍和宮として用いられ、内部に銅製で金でメッキされた「三世佛」が供えられた。これはすなわち過去の世界を主宰する燃灯佛、現在の世界を主宰する釈迦牟尼佛、未来の世界を主宰する弥勒佛である。

 雍和宮は毎年農暦12月8日に「臘八粥」(旧暦12月を臘月と呼び,その8日を釈迦成道の日(臘八会)とし,これにちなんで作る粥で、「八宝粥」ともいう。米・雑穀・豆類のほかナツメ・栗・ハスの実など各種の果実をまぜ,砂糖で甘味をつけて煮る)を煮るが、これは曾て北京ではたいへん有名だった。臘八節は漢族の民間の伝統的祭日で、中国全土で流行した。「臘」は中国古代の祭礼のひとつで、一般に冬が終わろうとする時に、昔の人々は狩りで得た禽獣で祖先や神様を祭り、それにより災害を避け吉祥を求めようとした。『史記正義』によれば、「12月は臘月である。……禽獣を狩り、以て歳の終わりに先祖を祀った」。南北朝時代、始めは農暦12月8日を「臘八節」とした。寺院は 臘八節を過ごすのに仏教の伝説の話と結びつけ、「臘八粥」を食べる習俗を形成した。伝説によれば、12月8日は仏教の始祖釈迦牟尼が修行し悟りを得た日であった。釈迦牟尼は修行時飢えて地面に倒れ、ひとりの牧童の娘から一碗のもち米を煮て作った粥をもらい、釈迦牟尼はそれを食べ、川の中で沐浴し、静かに菩提樹の下に座って沈思し、12月8日に悟りを得て成仏した。これを記念し、仏教徒は毎年臘八、すなわち12月8日に必ず「臘八粥」を煮て仏に供えた。『夢粱録』によれば、「臘月八日、寺院ではこの日を臘八と言い、大刹などの寺院では、皆五味の粥を設け、これを名付けて臘八粥と言った」。雍和宮の臘八粥が有名である所以は、ひとつには粥を煮る鍋が特別に大きかったからで、『燕京歳時記』によれば、「雍和宮のラマ(ラマ僧)は、8日の夜のうちに、粥を煮て仏に供えた……その粥鍋の大きいことと言ったら、数石(1石は百升)の米が入るほどであった。」ふたつには皇室の恩寵で、清朝廷は特に大臣を派遣して監視し、以て心からの敬意を明らかにした。『光緒順天府志』によれば、「雍和宮が粥を煮るのは、制度として決まっていて、大臣を派遣して監視し、蓋し上膳に供した」。これから分かるのは、満清皇帝までも雍和宮の臘八粥を食べたということで、故にその名が京城(都北京)に轟いたのである。

 雍和宮の年に一度の「打鬼」は更に有名で賑やかであった。観衆は雲の如く方々から雲集したので、年に一度の雍和宮廟会が形作られた。


法会の観衆
雍和宮で一年に一度の祈願法会は、多くの人を惹きつけて見に来させ、この日の北京は「どの家も横丁も留守になり」、皆争って見に来る有様であった。写真は、雍和宮の境内で、人々が海の潮のように押し寄せ、人波でごった返す盛況の様子である。

 毎年農暦正月の末、北京の大人も子供も雍和宮に集まり、廟内を見物し、ラマが演じる打鬼 (鬼やらい)を我先に見て、子供たちは大串の糖葫芦やお面を買うのが、新年の年越しと同じくらい愉快であった。北京のラマ廟の 打鬼の行事について、『燕京歳時記』によれば、「打鬼(鬼やらい)は元々西域の仏法で、決して怪異なものではなく、昔の九門観儺(都の各城門で追儺の行事を見る)の遺風で、また不吉を排除する所以である。毎年打鬼の時節になると、各ラマ僧は諸天神将に扮し妖怪変化を駆逐した。都人の観衆は甚だ多く、万家空巷(全ての家々が留守になる)の風であった。朝廷は仏法を重んじ、特に散秩大臣(皇宮の警備担当)を一人派遣してこれを見、また聖人(ラマ寺の高僧)は朝服を着て東側の階にいるよう命じられた。打鬼の日時は、黄寺は(1月の)15日、黒寺は23日、雍和宮は30日であった。」


廟会でのお面の屋台
雍和宮廟会で売られたお面は他の廟会とは異なっていた。他の廟会のおもちゃ屋台で売られたお面の大多数が、玄奘三蔵、孫悟空、猪八戒、関羽、張飛など、伝統的な芝居の登場人物の顔のくま取りであったが、雍和宮廟会で売られたお面は、廟の中でラマが鬼やらいの時に被ったお面とよく似ていた。写真では、お面屋台の前にお面を被った子供がいて、屋台の主人は商売を招き寄せ、その傍らには多くのそれを見物する子供たちが映っている。

 チベット仏教の寺院の宗教的な鬼やらいの儀式は、中国古代の「追儺」の作用と同じで、ラマ教を信じるモンゴルやチベットの民族が行う鬼を追い払う行事であった。チベット族は「莫朗木多」と言い、意味は「伝召送鬼」(仏法を伝授し、僧たちを召集し、鬼を祭送する)、モンゴル語で「跳布札」tiào bù zhá、意味は「悪魔を追い払い、祟りを散じる」。その儀式の過程で、一般にお面を付けたり化粧をしたラマと扮装した魔物が争い、最終的に魔物を打ち負かし、駆逐、或いは焼き殺す。これを「送祟」と言う。

 チベット語の仏教経典によれば、仏教の始祖釈迦牟尼が「邪道」を降伏させ、吐蕃僧の拉隆巴勒多尔吉が悪王の朗達尔瑪を刺殺したことを記念し、チベット、青海、モンゴル等のラマ廟では、毎年「善願日」法会を行い、同時に黒衣で踊りを舞い、お祝いの意を示した。こうしたチベット伝来の黄教の仏事行事は乾隆59年(1794年)北京の黄寺に伝わり、その後、雍和宮やその他のラマ教寺院でも毎年「跳布札」の宗教儀式が行われるようになった。


東配殿内部の景観
写真は雍和宮東路東配殿内部の様子である。ちょうど真ん中に供えられているのがチベット伝来仏教の密教仏像である大威徳金剛像である。チベット仏教では、大威徳金剛は文殊菩薩の化身である。これには悪を屈服させる勢いがあるので、これを大威と言う。また善を護る功労をし、大徳を備える資質を持つことから、大威徳金剛の名を得たのである。金剛は元々仏門の中で鋭利で硬い兵器を指し、ここでは特に修行により不朽の身体を獲得したことを指す。仏像の前のお供えの台には「五供」が供えられた。これは香炉がひとつ、燭台がふたつ、花瓶がふたつで、全て銅製である。お供えの台の前には一基のお供え台が置かれ、海灯が置かれた。両側はラマ僧たちがお経を学ぶための経卓である。

 雍和宮は毎年農暦1月30日(小の月の場合は29日)に法輪殿の宗喀巴(ツァンカパ)像の前で、幅広くお供えをし、三面「コ」の字型にテーブルを並べ、灯を数百個燃やし、両側のお供えを置く長椅子には「八令」の小麦粉で作った「満札」が一杯に並べられた。


法輪殿内壇城
写真は法輪殿の内部の様子で、中央にあるのが壇城、両側がお供えのテーブルである。仏教では、壇城とは仏たちが集まって居られるところである。「壇」は梵語で曼荼羅のことである。

 午後1時、角笛を鳴らしてラマ達が神殿に上がり、行事を主宰するラマが仏の対面に設けられた「替僧宝座」に上がり、盛大な「善願日」法会を挙行した。お経を唱え奏楽の後、天王殿の前で「跳布札」が開始された。これは全部で13幕に分かれていた。


「跳布札」を観覧するラマたち

 鬼やらいの儀式が終わると、翌日の明け方(2月1日)、ラマ僧達の隊列全体が廟を出て、寺院の外壁の周りを一周する。これを「繞寺」と言った。

 清代、雍和宮の鬼やらい儀式は皇帝が主宰し、当時は歩兵統領衙門がそれを受けて実施し、「跳布札」用の衣服や飾りまでも宮廷で刺繍をした。鬼やらいの前夜、天王殿の前には観覧台が設置され、時には皇帝自ら臨席して祭礼を見た。王侯や大臣も補服(身分を表す刺繍の付いた上着)を身に着け、胸には朝珠を吊るし、頭には花翎の飾りを付けて駆けつけ、行事を見物し、その有様はたいへん厳かであった。民国初年、鬼やらいの行事は蒙蔵院が受け継いで行ったが、儀式は次第に簡略化されたが、基本は相変わらず清の制度に沿って行われた。雍和宮の年に一度の鬼やらいの行事は、宗教意識が後退するに従い、北京の民間の新春の風俗となり、廟会の行事の内容のひとつになった。

 雍和宮の鬼やらいの二日間、排楼院から山門前までが廟会で、地方の特色のある軽食が売られ、おもちゃやお面を売る屋台が出店し、その間に輪投げや射的など、賞品のあるゲームの屋台が入り混じった。


輪投げ
昔の北京の廟会では、たくさんの大衆的な娯楽が楽しめた。輪投げは競技的要素もある、露店の遊びである。店主は地面に区画を区切って、煙草、石鹸、歯磨き粉などの日用品や子供のおもちゃなどを並べ、輪投げを投げる客の足元から、近くから遠くへ、並べる景品の価格を次第に高いものにし、輪投げの難易度も上げていった。廟会見物の人は皆、店主に金を払って籐の輪を買って投げ、地面の上に置かれた景品の上に輪が被されば、景品をただで持って行くことができるが、輪が被らなければ、何ももらうことができない。この遊びは誰でも気安くできるし、競技的な要素も備えていたから、輪投げをやってみる客も、それを周りで見る客もたいへん多かった。写真はひとりの男が手に籐の輪を持ち、足で境界線を踏んでちょうど輪を投げるところで、横で見ている子供の首には、それぞれサンザシの首飾りを掛けている。

 1950年代初頭、雍和宮は内部の修繕が行われ、鬼やらいの行事は一旦停止された。1957年に再び行事が復活した際、宗教舞踊芸術の見学会として実施され、参加したのは全て招待された宗教や芸術の研究機関の関係者であった。行事に合わせて、おもちゃを売ったり食事を提供する商店は、一律雍和宮大街と国子監街東口一帯で営業した。1960年代の「文化大革命」、「破四旧」で、宗教は「叩き潰す」ものに属したが、雍和宮は幸い周恩来総理により保護され、破壊を免れた。1981年に雍和宮が宗教の場として対外開放され、近年はまた年に一度の伝統的な鬼やらいの宗教行事も復活したが、廟会は復活していない。

昔の北京の社寺の縁日の話(2)

2024年06月01日 | 中国文化
白塔寺白塔

白塔寺廟会

 昔、阜成門を入り、東北の方向を見ると、巨大な白塔が人々の目に入って来る。白塔のある寺院なので、人々は俗に白塔寺と呼ぶ。曾て遼代、ここには仏塔が建てられていたが、後に戦火で壊された。元の世祖の時、遼塔の遺跡の場所に大聖寿万安寺が建立され、ネパールの建築家アニカが中心となりこの巨大な白色のラマ塔を建築した。元末の戦乱で、寺は破壊されてしまったが、塔は残った。明の英宗の時、仏寺が再建され、「妙応寺」の名を賜った。寺内の庭園は広々としていて、山門から塔院の間に、仏殿が分布していた。塔院のちょうど真ん中に白塔がそびえ立ち、塀で囲まれた四隅には一亭が建てられた。

 白塔寺の廟会は東西両廟の廟会と形式がよく似ていた。いつも廟会の日になると、廟の内外はたいへん賑やかであった。廟内の屋台は東西の両路と塔院の中に分けて設けられていた。廟外は山門の外の街路上と廟の東側西側に屋台が設けられていた。白塔寺と護国寺はその間の距離が遠くなかったので、多くの屋台業者は、よく白塔寺の廟会が終わると、また護国寺の廟会にも駆けつけた。廟見物の人は山門の内外と天王殿前で、「年糕張」の色々の年糕(もち菓子)や、「回回李」の茶湯(炒ったキビ粉やコウリャンの粉に熱湯をさして食べる、麦焦がしのような食品)と油茶(「油茶麺儿」(小麦粉を炒って少量のヘットやバター、ごま油などと、ゴマ、クルミなどを混ぜたもの)に熱湯をかけて糊状にした、葛湯に似た飲み物)、格別な風味の棗巻果(ナツメと山芋、小麦粉を混ぜて蒸して作った、回族のお菓子)を味わうことができた。天王殿前の東側を北に行くのが東路、西側を北に行くのが西路であった。東路の屋台は荒物を売るものが中心で、屋台で売る木碗は北京で最も有名であった。というのも、これは丈夫で落としても壊れにくく、多くの父兄が廟見物の際にいくつか買って帰り、子供用に使った。西路では寄席演芸や大道芸の出し物があり、その中で拉洋片(のぞきめがね)や拉大弓(射的)、打弾儿(ビー玉当て)が最も人気があった。塔院はあまり広くなかったが、多くの子供たちがおもちゃ屋台に群がり、価格の安い泥餑餑(粘土を型押しし焼いて色付けした人形)や木陀螺(木製のこま)を買った。1945年日本降伏後、しばらくの間、北京の通りや路地では、子供たちの間でこま遊びのブームが巻き起こり、子供たちはこまを「漢奸」(売国奴)と呼び、こまをひっぱたく時にこう口ずさんだ。「漢奸を引っ張り出せ、漢奸をひっぱたけ、棒子麺儿(トウモロコシ粉)一毛三(0.13元)。引っ張り出せない、叩けないなら、棒子麺儿を二毛(0.2元)で売るよ。」この時のこまはいつも売り切れて買えなかった。

 寺の外の廟市では、時には四方の農村の農民が家禽や家畜を売る屋台を見ることができた。その他、鮮花、菱の実を売る季節の屋台、鳥やハトを売るもの、コオロギを飼う壺、鳥籠、キリギリスを飼う瓢箪売りもここの廟会に駆けつけた。精緻な鳥籠、キリギリスの瓢箪は、ここでは売れ行きの良い商品であった。寺廟の西側の宮門の傍らでは小さな茶館や飯屋が店を開き、多くの廟見物の人がいつもここの客になった。

白雲観廟会


白雲観遠望

 西便門の西2里(1キロ)のところに、道教の宮観があり、ここは平素「天下第一観」と呼ばれた白雲観であった。その前身は唐の開元年間に建立された天長観で、元の太祖の時に長春宮と名を改め、道人の丘処机がここで北方道教を主宰し、丘処机がこの世を去ったのを待って、その弟子がまた宮の東側に道観を建て、名を白雲と言い、観の中に丘氏の遺骨をお供えした。後に長春宮は廃墟となり、この観だけが残った。白雲観は占める土地の面積がたいへん広く、宮観が高く聳え、観の前に牌楼があり、山門を入ると左に鐘楼、右に鼓楼、境内の殿宇は五層になっている。

 毎年農暦正月1日から19日までは、白雲観で最も賑やかな廟会の日であった。白雲観を見物する人は、多くが宣武門を出て護城河(北京城城壁の外堀)に従い西に向け西便門に到り、ここで毛驢(背の低いロバ)を雇うことができ、ロバに乗って進むと格別な情趣があった。人々は1月8日にここで星神を拝み、灯節(元宵節)の時、殿外の壁に古代の物語を描いた紗灯(紗(しゃ)を張った灯籠)を高く掲げた。1月18日の夜、多くの男女が観の中で寝泊まりし、この日は「神仙に会える」日と言われているので、敬虔(けいけん)でご縁のある人が神仙に出会うことができた。19日は丘処机の誕生日で、この日を「宴丘」、或いは「宴九」と呼んだ。観内で線香をあげる人々は千里を遠しとせずやって来た。曾ては何人かの権勢を持った高官がここで銭を散じて布施し、長生不老を求めた。観内の屋台の商人は食品やおもちゃを売る者が多かった。観の北門の外には車や馬を走らせる場所があった。1日から18日まで、ここでは毎日午後に車や馬を走らせる活動が行われた。この他、廟会の期間中は「捨大饅頭」、「打金銭眼」(銅銭を大型の銅銭の形の的の中央の四角の口に向けて投げ、入ったらその年の運勢が良くなる)、扭秧歌(ヤンコ踊り)などといった催しが行われた。廟会の賑やかな情景は真に「重々しい真っ黒な鬢髪は香霧を凝らし,馬を駐める郊西の人は鶩(アヒル)に似たり。画鼓(色とりどりの鼓)秧歌の声は絶えず,金釵(金の簪)を落とし帰路に迷う」様な状態であった。

蟠桃宮廟会


蟠桃宮正門

 毎年農暦3月初めの蟠桃宮廟会は一層情趣に富んでいた。蟠桃宮廟会と白雲観正月廟会は何れも仏の名を借りた新春の行楽の形に属していた。北京人もこれを娘娘宮廟会と呼んだ。これは宮の中が主にふたりの娘娘(女神)を祀っているからである。毎年農暦3月1日から3日を廟会の期間で、3日が最も賑やかであった。この日は王母娘娘が蟠桃会を設けた日と言われ、また「上巳」の日でもある。この日は東便門の南にある蟠桃宮は黒山の人だかりで、お参りが極めて盛んであった。清代、宮女たちは多くが東便門内の堤の柳の木陰で、馬を走らせ弓を射た。民国初年には更に廟会に競馬場を建設した。廟会の時期がちょうど晩春の時期に当っていて、気候が心地よいので、ここでは各種の寄席演芸を見ることができ、季節の各種の小吃(軽食)を味わうことができた。

財神廟廟会


財神廟内の香炉

 広安門外の財神廟廟会は、農暦で毎月2日と16日に行われた。廟会は線香をあげて神様にお祈りする形式に属していた。1月2日の廟会はとりわけ賑やかであった。多くの人々がやって来て線香を燃やしてお金が儲かるようお祈りをし、「集まる者蟻の如し」と言うことができた。人々は皆先を争って最初に線香を燃やそうとし、先を制した者には吉星が高く照らし、その年はいち早く金儲けをすることができると言われた。

 廟会当日、廟から遠く離れた道の傍らには、線香や蝋燭、黄表紙(祭祀の時に燃やす紙銭)の屋台がところ狭しと並んでいた。廟の門を潜る以前に、抑揚のある低く沈んだ鐘の音がもう耳に届き、廟の中に入ることができると、殿内殿外は参拝客で溢れ、まとわりつく線香の煙は霧のようで、廟は小さいが人が多く、ひどく混み合い、殿内に入って線香をあげようと思うと、たいへん力を使わないといけなかった。線香をあげ神様にお祈りをして後、敬虔な参拝客は必ず金箔や銀箔を糊付けした元宝や聚宝盆、金馬駒、赤いシルクで作った蝙蝠形の造花、赤い紙で作った金の鱗の鯉などを買い、こうしたもので、この一年、金銭財物を求める上での精神的な慰めとした。これ以外に、他の廟会と同じく風車、糖葫芦(サンザシ飴)、空竹(中国伝統のコマの一種で、回すと独特の音がする)、琉璃喇叭(ビードロ)、噗噗噔儿(ぽっぺん)など正月や節句のおもちゃと屋台もあった。

 財神廟廟会は昔の北京の神頼み、迷信の色彩の濃い廟会であった。

東岳廟廟会


東岳廟牌楼

 朝暘門外に位置する道教の廟宇、東岳廟は、通常は朔望(陰暦の1日と15日)に廟会が開かれ、廟会の形式は財神廟廟会とよく似ていた。ただ正月の廟会は1月1日から15日まで半月連続で行われた。

 東岳廟は元代に建立された。廟の中にお祭りされた東岳大帝像は高さ1.2丈(約4メートル)、伝説によれば、これは泰山の神で、人の世の生死、善悪、富貴、貧賤、病苦を司り、全部で七十二の「司」(部門)を管理する。廟内に建てられた七十二司は頗る有名である。各司には皆神像があり、善悪の二種類に分けられ、その中の多くの塑像は、見る者をぞっとさせた。

 東岳廟の廟会にも物売りの屋台があったが、1937年の七・七事変(盧溝橋事件)前の統計によれば、東岳廟廟会の屋台の数は白塔寺と護国寺の廟会での屋台の数の六分の一に過ぎず、隆福寺廟会での屋台と比べると、もっと少なかった。

雍和宮廟会


雍和宮の銅獅子

 「跳布札」tiào bù zhá(俗に打鬼(鬼やらい)と呼ばれる)で有名な雍和宮廟会は、神様を楽しませる形の廟会である。雍和宮は、元々雍親王胤禛yìn zhēnの府邸であった。乾隆9年(1744年)正式にラマ廟に改められた。雍和宮は極めて大きな廟宇が鎮座し、万福閣の中には、ビャクダンの木を彫った弥勒像が立ち、その全身の高さは26メートル、世にも稀な仏像である。「跳布札」は黄教特有の宗教行事である。その意味するところは、「悪魔を追い払い、祟りを散じる」ことである。雍和宮の1月30日の廟会の主な内容は「跳布札」である。この時は見に来る参拝者が頗る多く、物を売る屋台もこの期に合わせて物を売るが、商業活動は決して主要な内容ではない。「跳布札」は「跳白鬼」、「跳黒鬼」、「跳螺神」、「跳蝶仙」、「跳金剛」、「跳星神」、「跳天王」、「跳護法神」、「跳白救度」、「跳緑度母」、「跳弥勒」、「斬鬼」、「送祟」の全13幕に分かれて進行した。最後にラマ(ラマ教の僧侶)が雍和宮を踊りながら一周廻り、これが「跳布札」終了の合図になった。

終わりに

 昔の北京の廟会は、一年、或いはひと月の中でも、実際には少なからず行われた。これらの廟会は、善男信女が線香をあげ仏を崇拝し、宗教活動に行く場所であるだけでなく、昔の北京の民間の商業活動を行うマーケットであり、大衆の娯楽の場所でもあり、北京の重要な民間活動の場となっていた。その後、いくつかの寺院は既に壊され現存せず、線香の火は途絶えてしまっているが、商人たちは古い習慣に従い、依然として廟会の時期になるとやって来て、廟の無い廟会を行い、商業活動と文化的、娯楽的性格の民俗活動を兼ねた活動に変化したのである。

昔の北京の社寺の縁日の話(1)

2024年05月29日 | 中国文化
老北京的廟会
(雍和宮廟会、白塔寺廟会)
姜尚礼著
文物出版社2004年12月出版

 いつも廟会(寺社の縁日)に話が及ぶ度に、必ず寺社の廟のことが思い浮かんだ。中国で最も古い廟は先祖を祀る場所であり、神のために廟を立てるということに至っては、周代以後のことであった。古代の文献から知られることは、周代の宗廟の傍らには廟会があった。『考工記』はこう言う。「匠は国の左に祖、右に社を建てた。朝に面して後ろは市であった。」祖とは宗廟、社とは社稷であり、市はすなわち交易をする場所であった。交易の地と宗廟、社稷は既に関係があった。六朝以後、仏教寺院、道教宮観が日増しに増加し、そして仏寺、道観に付随する廟会が次第に盛んになった。

 北京は古い都市であり、三千年余りの歴史があり、また元、明、清の三大統一封建王朝の都で、政治、経済、文化の中心であった。その寺廟、宮観の建設は自ずと見ものであった。許道齢が編纂した『北平廟宇通検』の不完全な統計によれば、北京には千座に近い寺廟があり、寺廟の多さは実に中国全国のトップであった。

 北京に現存する最も古い寺廟は、西晋時代に建てられた潭拓寺である。昔の北京の人々の、久しく伝えられた民間の諺に、「先に潭拓寺があり、その後北京城ができた」というものがある。北京は寺廟が甚だ多いとは言うものの、然るに決して全ての寺廟で廟会が行われているわけではない。1930年までの統計によれば、城内には尚20ヶ所の廟会があり、郊外には16ヶ所、合計36ヶ所あった。これらの廟会に所在する廟宇は明代に建てられたものが多くを占め、清代がこれに次いだ。


北京の廟会について

 北京の廟会は、古くは遼代にまで遡ることができると言われており、それというのも『遼史・礼俗志』にこう記載されている。「3月3日は上巳である。国の習俗では木を刻んで兎とし、朋を分けて馬を走らせ之を射、先に中てた者を勝ちとした。負けた朋は馬を下り、列んで跪き酒を進め、勝った朋は馬上で之を飲んだ。」この「上巳」の春遊と後世の仏に借りて春を遊ぶ廟会はよく似ていた。明代になると、北京の廟会の記述はたいへん明確であった。明人が著した『燕都遊覧志』の中でこう言っている。「廟市は、市が城西の都城隍廟にあるものが有名で、西は廟に到り、東は刑部街に到り、その間三里ほど、おおよそ灯市と同じで、毎月1日、15日、25日に市が開かれたが、ランタンが多く灯されるのは1日だけである。」西城の成方街の都城隍廟は、その廟会で、各種各様の商品が販売され、漢族の小商人だけでなく、「碧眼の西域商人、はるばる大海を渡って来た異民族の人々」も招き入れた。彼らはいつも「腰に金百万を巻き、居並ぶ商人と高談した」。この記述から、廟会の規模と盛況さを知ることができる。

 北京の廟会にはまたその盛況と衰退の変化があった。都城隍廟廟会は、明朝期は確かに空前の盛況を迎えたが、清代乾隆帝の時に変化が生じた。『帝京歳時紀勝』の記述によれば、この廟は「以前の明朝では朔望の25日に市が立ったが」、「國朝は国の興隆を重んじ典礼を行い、歳時の時期には、人を遣って祭礼を行い、雨や台風を祈り、また恭しく祭祀を行い、ただ5月1日から8日の間だけ廟会が設けられた。」ここから分かるのは、この廟の廟会は毎月3回から1年1回に変化した。また例えば広安門内の報國寺廟会は、清代の繁栄期には、毎月3日、5日が廟会で、多くの文人墨客がいつもここで遊びふけっていたけれども、清末になると、言うべき廟会は行われなかった。

 昔、北京の廟会は、まとめるとおよそ以下のような数種類の形式であった。

 一つ目は、線香を上げ神や仏を敬うことを主要な内容とする廟会である。これは祭日になる度、廟中の主催者が廟を開け、仏教や道教を信仰する信徒を廟に入らせ、線香を上げさせた。こうした廟会は線香を上げて神、仏を敬う宗教儀式を主としており、個別に娯楽や商業活動もあるが、付属的な性質のものである。こうした廟会は、多くが毎月1日、15日に行われた。

 二つ目は、毎年一度か二、三度の祭日、仏教や道教の人が鬼を祭る日に、人々が線香を上げ神を敬う。廟会の時は、気持ちを楽しませ、娯楽や商業活動が行われた。

 三つめは、仏の名を借り春を遊ぶ形式の廟会である。こうした廟会は遊んで楽しむことが中心で、宗教や商業活動は二の次の内容であった。

 四つ目は、廟の中や廟の外の通りや路地に定期的な市を設け、交易を行う廟会である。商業取引きが廟会の中心の内容で、宗教活動は痕跡だけが残っているか、痕跡すら存在しなかった。

 五つ目は、廟会という名前は使っているが、実際にはもはや廟の範囲を逸脱し、完全に商業活動を主とするもので、宗教活動、更に娯楽活動さえもはや存在しなかった。

 北京の廟会は、このように様々な形式があったが、どのような廟会にせよ、必ず商業活動があり、違いは商業活動が占める地位が主か従かと、規模の大小だけであり、このことも人々の経済活動が社会活動の重要な構成部分であるという事実を反映していた。廟会での商業活動の多くは屋台の上で行われた。屋台の種類は頗る多く、例えば綿布や織物の屋台、飲食の屋台、雑貨の屋台、古い金属類の屋台、木器の屋台、骨董や玉器の屋台、古本の屋台、おもちゃの屋台、花や木の屋台、虫や小鳥の屋台などがあった。その中で比較的大きな屋台は、とりわけ織物類の屋台で、必ず日除けや雨除けのテントが張られていた。

 北京の廟会は必ず決まった時間があった。『京華春夢録』の記述。「都門廟の市は時期が決まっていて、10日毎に3のつく日は土地廟、4は花儿市、5、6は白塔寺、7、8は護国寺、9、10は隆福寺であった。」本の中で書かれた北京市の廟会は全部を網羅しておらず、その後個々の廟会が開かれる時間は増加したものもあったが、これにより相変わらず北京の廟会が開かれるのは決まった日時であることを説明することができた。本の中で言う廟会が行われる月や日は全て農暦(旧暦)であった。中華民国建国以後、いくつかの廟会、例えば護国寺、隆福寺、白塔寺は太陽暦を採用した。しかし相変わらず農暦をそのまま用いていたのが、白雲観、東岳廟、財神廟、雍和宫、蟠桃宮であった。


隆福寺廟会



隆福寺扁額

 隆福寺廟会は、隆福寺から名付けられた。この寺は東四牌楼以西に位置しており、明代景泰年間に建立された。『景宗実録』によれば、「景泰3年(1452年)6月、大隆福寺建立を命じ、労役夫は1万人に及び、太監(宦官)の尚義、陳祥、陳謹、工部左侍郎の趙栄がこれを監督した。閏6月追加で僧房を建立した。4年3月に工事は完成した。」寺の境内は前後5層の仏殿があり、三世仏、三大士が祀られた。この寺は国の高級官僚が監督して建造し、1万人以上の大工を使ったので、寺の勢いは頗る盛んであった。明代、ここは北京で唯一青衣僧(仏教の僧侶)と黄衣僧(ラマ教の僧侶)が一緒にいる寺廟で、且つずっと朝廷の香火院(お経を上げ安寧を祈ってもらう寺院)であった。清代になると、完全にラマ教の寺院になった。

 隆福寺廟会が具体的に形成されたのがいつかは、なおより一歩考証を待たねばならないが、遅くとも清の雍正年間より遅くはないだろう。というのも、乾隆年間に出版された『日下旧聞考』にこう書かれているからだ。「隆福寺は東城大市街の北西にあり、明の景泰4年に建立された。本朝の雍正元年(1723年)、毎月の9、10日に廟市が開かれ、各種の商品が並べられ、諸市の中で第一であった。」

 光緒27年(1901年)隆福寺で大火が発生し、廟内の第一層の大殿が燃え、これより廟内では線香の火が途絶え、隆福寺は「百貨が具わり、物見遊山に来る客が甚だ多く、決して仏を祀ることのない」所であった。

 隆福寺廟会はその規模から言えば比較的大きく、それには廟内の各種の屋台も含まれていた。廟の前にはちょうど山門に対して隆福寺前街があり、廟門の左右には東西の隆福寺街、隆福寺前街南口には猪市大街があった。廟内の屋台は三路に分かれていた。正門から入って行った中路には、綿布や絹織物を売る屋台、骨董を売る屋台と、各種の寄席演芸や大道芸をする場所があった。比較的大きな場所は布の幕で四面が覆われ、一ヶ所入口だけが残された。有名な二人羽織を演じる喜劇役者の雲里飛、相撲の名手、宝三、北京の琴書(揚琴で伴奏する歌物語)の演者、関学増は曾てここで出演したことがあった。この他、扒糕(そば粉を糊状に煮て切ってタレをかけた夏場の軽食)、灌腸(豚の腸に澱粉を詰めて蒸したものを薄く切って油で炒め、ニンニク醤油をかけたもの)、茶湯(炒ったキビ粉やコウリャンの粉に熱湯をさして食べる、麦焦がしのような食品)、麺茶(キビの粉を糊状に煮たものに、ごま油の粕、塩などを振り掛けて食べる)、ワンタンといった小吃(軽食類)の屋台があった。中路の最後の部分は運命判断、人相見の占い屋台であった。西路は雑貨を売る屋台が主で、その中で最も芸術的な特徴を備えていたのは芝居衣装を着た人物の彫像を売る屋台であった。

 廟の外の街路にも屋台が雲集していた。隆福寺前街の西側、及び南口を出て右折した猪市大街は、基本的に鳥を売る人の地盤であった。左折した猪市大街には、多くの清代の遺物を専門に売る古物商の屋台があった。隆福寺街は、東側が鮮花と古書を売る店が多かった。西側には茶を売る茶館があった。民国19年(1930年)から、隆福寺廟会は元々の毎月2回から増加し、毎月1、2、9、10の付く日に必ず廟会があった。このように、ここは北京市内の廟会で回数が最も多く、影響の最も大きい廟会となった。


護国寺廟会


護国寺山門

 西四牌楼の北の護国寺廟会は、隆福寺廟会と同様、商業活動を中心とする内容の廟会であった。その賑やかさの程度は、隆福寺に匹敵し、それゆえ「東西二廟」と称された。「東西二廟の貨は真に全うし、一日に能く百万銭を消す。」これは清代中期の隆福寺と護国寺廟会の商業の繁栄の描写であった。護国寺廟会は護国寺から名付けられた。この寺は元の名を崇国寺と言い、元は元代の丞相托克托(トクト)の屋敷があり、その後、彼が屋敷を喜捨して寺を建てた。明の成果年間(1464-1487年)に改名し、大隆善護国寺となった。この寺は境内が前後5層になっていて、院落(塀で囲った子院)が頗る多かった。寺の中には元代の大書道家、趙孟頫(ちょう もうふ)が書いた碑刻があった。清代の北京の住民の構成の傾向は「西に貴い」という言い方をし、つまり多くの旗人の屋敷は西城にあった。それゆえ彼らの「日用に必要なものは多くが廟会で得」て、このことは護国寺廟会の繁栄を促した。清末から民国初年になり、旗人の没落に従い、護国寺廟会は徐々に隆福寺廟会より劣るようになった。そうではあっても、民国初年まではここでは依然賑やかな光景を呈していた。

 護国寺廟会は山門から話を始めると、山門外の東西両側には荒物や日用雑貨用品の屋台がぎっしり並んでいた。山門を入ると、中の各子院にも各種の屋台が並び、綿布や繻子、緞子、磁器、骨董、書画、玉器、扇子、目薬、紙、文具、キセル、はさみなどを販売していた。その中で最も有名なのが「百本張」の唱本(芝居や歌謡の歌詞を印刷した小冊子)の屋台で、屋台で売っている唱本は京劇が主で、その他に鼓詞、単弦などがあった。金を儲けるため、店主は芝居の全体の歌を何冊にも分けて印刷して販売し、一冊一冊はとても薄く、お客は芝居全体の歌詞を理解しようと思うと、全部のセットで買わなければならなかった。文字占いや八卦見、大道芸、寄席演芸をする屋台も少なからずあった。「鴨蛋劉」の宝剣呑み、倉儿と王麻子の漫才の演技はいつも観客に、中で三重、外でも三重に囲まれていた。この他、落子lào zǐ(河北省の代表的な民間の演芸で、竹板を鳴らしながら唄う)を唄う者、跑旱船(民間舞踊で、女性に扮した役者が竹や布で作った模型の船の船べりを腰に結びつけ、歌いながら練り歩く)、棍棒を振り回す者、猿回し、ネズミの芸があった。寺の前の街路にも様々な商品屋台が並んでいた。廟会の度、廟内も廟外も人でごった返し、真に「物見遊山の人々は五都の市に入ったかの如く」であった。

昔の北京の商店の看板(3)

2024年05月14日 | 中国文化

小旅館幌子
柳の枝で編んだ 笊籬(そうり。ゆでた麺やワンタンを鍋からすくい上げる網じゃくし、揚げざる)の模型をつるして幌にした。昔、北方で旅行し外出する者は皆馬に乗って出かけた。民間の風習で人が出発する時に、餃子を作って見送り、到着すると麺を作って歓迎した。月日が経つうちに、「上馬餃子、下馬麺」の俗語ができた。餃子も麺も、茹で上がると、「笊籬」を使って鍋からすくい上げた。したがって小店が「笊籬」を幌にするのは、寓意(他の事物に託してほのめかす意味)が深遠で、旅人に我が家に帰って来たかのような暖かみを感じさせたのである。

看板の効果

 招幌(看板)は、物象広告(客観的な事物の広告)として、設置や制作の精緻さ、奇抜さは、ただ店の入口を飾るだけでなく、流通の領域でも、かなり重要な役割を果たした。商人たちは巨額の投資を惜しまず、奇を争い勝利を目指したが、その目的はただ一つ、人々の視線を惹きつけ、顧客を繋ぎ止めることであった。元曲の『后庭花』に二句の唱詞がある。「酒店の門前に三尺の布、過ぎ来たり過ぎ往き主顧を尋ねる。」言っているのは酒旗の役割である。『宋朝事実類鈔』におもしろい話が載っている。福州にひとりの酒売りの老婦人がいて、酒旗の上に太守、王逵(おうき)の酒望子(幌子)詩「下に臨む広陌(こうはく。広小路)は三条の闊(ひろ)さ,斜めに倚(よ)る危楼は百尺の高さ」と書いたところ、これにより大量の食客を惹きつけ、「これより酒の販売が数倍」になったという。

 これだけでなく、多くの名牌(ブランド品)の看板は、商家に対しても良いサービスを促す効果があった。看板を台無しにせぬよう、商品は質と量を保たねばならなかった。昔の北京の「金驢儿」の石鹸、「銅老倭瓜」の白蕎麦麺、「黒猴儿」の帽子、「王麻子」のハサミは、顧客の中で名声を博していた。商品の品質を重視し、ブランドが有名な店も、それによって財を為した。陸元輔『菊隠紀聞』の記載によれば、北京の「勾欄胡同の何闉門家の布、前門橋陳内官家の首飾、双塔寺李家の冠帽、東江米巷党家の鞋、大柵欄宋家の靴、双塔寺趙家の薏酒(ハト麦酒)、順城門大街劉家の冷淘麺、本司院劉家の香、帝王廟街刁家の丸薬は、皆一時期有名で、巨万の富を築いた。」

 店舗の招幌(看板)は、多数が民間の芸術家、職人が設計、制作したもので、採用された模様や図案は大衆が好むもので、よく使われる蟠龍紋、蝙蝠紋、寿字紋、蓮花紋など、皆吉祥、富貴を祈る題材であった。多くの招牌は、またその多くが著名人の自筆であった。例えば、清代南京で保存された明代の著名人が起草した扁額の中で、牛市口の石鹸、粉おしろい店の縦型の扁額の「古之敬家」の四字は、劉青田が書いたものだ。三仙街の毛氈店の横型の扁額の「伍少西家」は、顧起元が書いたものである。行口大街南貨店(中国南方の食品店)には長方形の扁額があり、「楊君達家海味果品」の八字は、学士(文人)の余孟麟の傑作である。北京の「六必居」は、厳嵩が書いたと伝えられている。「都一処」は乾隆皇帝の親筆である。これらの招牌(看板)の筆跡は、上品なものもあれば、飾り気がなく実直なものもあった。

 昔の北京の多くの店舗の店名は含蓄があり、味わい深かった。例えば、地安門外の茶葉舗は、「金山」と言った。安定門外の茶肆は、「鶏鳴館」と言った。ある茶社の名は「半畝園」、「水楽庄」、「柳蓮居」、「緑意軒」、「怡性斎」、「萃園別墅」などと言った。また本書中の「知楽魚庄」は、おそらく魚と熊の掌は同時に得られない(望みが2つあれば、その1つを捨てざるを得ない)の意から取り、有魚知楽(魚が有れば楽を知る)としたのである。


知楽魚庄(金魚池にあった魚屋)

一方「瑞蚨祥」を名付ける時は、多くの文人墨客を招き、細かく推敲して決められた。蚨(ふ)が指すのは青蚨で、古人の銭への別称であった。『捜神記』の記載によれば、「(蚨の血を)塗った銭各八十一文、市の物毎に、或いは先に母銭を用い、或いは先に子銭を用い、皆復た飛帰す、(車)輪は転じて已まず。」蚨を名に使ったのは、銭を使っても、またすぐ(銭が)戻って来て、お金がどんどん増えるという意味が含まれた。


瑞蚨祥
北京前門大柵欄に位置し、清の光緒21年(1895年)に開業し、北京で有名な絹織物の店で、当時の「八大祥」のひとつであった。店の門の上方には「瑞蚨祥」の三文字が刻まれた横型の看板で、「瑞」は良い前兆を指し、「蚨」は「青蚨」(古代の伝説上の虫で、銅銭の上に蚨の血を塗ると、銭を使った後、あっという間に元の持ち主のところに戻って来るとされ、このため「銭」のことをまた「青蚨」と言う)、「祥」は吉祥を指す。「瑞蚨祥」の三文字で、縁起が良いという意味が含まれている。

 こうした民間の精神で設けられた招幌(看板)は、標識と装飾が一体になったものであった。豪華で美しい入口の装飾に、濃厚な民間の色彩を配した招幌は、より一層商店の魅力を付け加えた。

まとめ

 1930年代末から1940年代初頭、北京の招牌、幌子は、相変わらず明清時代の北京の店舗の招幌の様式を踏襲していた。例えば清慎斎裱画店(表具店)が用いた縦型の看板は、明清時代の看板と何ら違いが無かった。看板は白地で、上部に書店名が書かれ、下部の一方に「蘇裱名人字画冊頁手巻法帖」と書かれ、もう一方には一巻の掛け軸が描かれ、請け負う仕事の内容と技術レベルを示していた。


清慎斎裱画店
中国の書画の装幀は、特殊な伝統手工芸で、蘇州の表装工が最も精緻であった。清慎斎裱画店の長方形の木製看板は、白色の地に、店名と「蘇裱名人字画冊頁手捲法帖」などの文字が書かれ、その横に一巻の掛け軸の絵が描かれていた。これによって請け負う仕事の内容と、その技術レベルを表していた。

また例えば「稲香村」、「南味店」であれば、二枚の横型の看板を使い、何文字かの簡単な文字で商店の名前とどのような種類の店かを明示した。


稲香村
稲香村は南方の特産品や自家製の南方の菓子類、蘇州や揚州の醬油煮の惣菜を売る店であった。店の入口の上に「新記稲香村」の横型の看板がある。写真はちょうど中秋節が近く、季節の商品が店に並べられている。店の外には「中秋月餅」と書かれた布幌(布に書かれた幟)が高く掲げられている。店内には、金華ハム、南京板鴨の実物幌が掛けられ、文字と実物招幌で客を招き寄せ、賑やかな雰囲気を引き立たせている。

本書で紹介した幌子で、例えば小麦粉を加工する工房は形をイメージした看板(形象幌)を使い、店の外に対称に白い小麦粉を捏ねた団子(マントウの模型)を吊り下げて看板とした。


粉坊幌子
小麦粉を加工する工房。つるされた幌子はマントウの模型で、形象幌に属する。昔、北京の粉坊の門前の幌をつるす柱の龍頭(柱から突き出た枝先の部分)の下には、通常白い小麦粉を捏ねた団子の模型を対になるようぶら下げることで、店の扱う商品の標識がより鮮明になった。

粗飯舗が掲げた看板は、籐で作った輪っかの外に金銀の紙を糊付けし、下端に間隔を空けて赤い紙の房をぶら下げた、典型的な 形象幌である。銅鉄舗が使ったのは実物幌で、店の外に銅壺や鉄桶を並べた。馬鞍舗の外には刺繍した馬の腹につけるベルトと細かく作り込んだ馬の鞍を使って看板にし、馬の腹のベルトの上の模様はモンゴル族が一般に好む図案や色使いに合わせてあり、たいへん気がきいていて、斬新であった。これも実物幌のひとつである。


馬鞍舗
店の外の背の高い腰かけの上に刺繍をした馬の腹に付ける革ベルト(すなわち鞓(てい))と加工の優れた馬の鞍が置かれ、実物幌に属する。

本書に収録した写真は、1930-40年代に撮影された。ここで紹介する看板は、北京の店舗看板の一部に過ぎないが、歴史的にも北京城の商業の実際の写真であり、北京の民俗学、商業史、文化史の愛好者、研究者にとって、正に貴重で価値ある資料と言えるだろう。